午後5時を過ぎ、肌寒さと歩き疲れたこともあり、少々夕食の予約時間よりも早かったが、夕食に向かうことにした。お店は事前にイチロウが予約を入れてくれていた大通寺そばの郷土料理屋「住茂登」さん。
「この時期にこの地方に来たならば、やはり鴨鍋と鮒ずしを喰わずしてどうするの!」とイチロウは強く言ったのだけれど、その割には彼自身も多少の躊躇いがあるようで、通された座敷に座っても、私に「さあどうする?どうする?」などと聴いてくる。イチロウはなんでも食える奴で、普段より私に対して「お口の王子様」と私の“食域”の狭さを嗤うのだから、例え私が途中でドロップアウトをしても、彼がカバーするだろうに。
「どうしたんだ、何時もならこういうところに来たら、とてつもなく食欲が出てなんでも食べるはずなのに、今日はどうしたんだ?」と私が茶化すと、イチロウ、少し真顔になって「俺だって年なんだ」などと弱気なことをいう。
私自身、鴨鍋はさておき、小泉武夫先生なぞのエッセイを読むと、発酵食品の代表格として近江地方の鮒ずしが何度か登場していて、一度は挑戦してみたかった。問題はどのくらいの量が供されるかであって、一切れ二切れならイケそうな気がしていた。
結局のところ、二人とも料理は、「湖魚尽くしコース」と「鴨鍋ひとり様用」を注文した。ふたりで夫々にビールの中ジョッキを頼み、それとは別にイチロウはウーロン茶、私は地元の銘酒「七本槍」2合を飲み物として選んだ。
料理の合間に、翌日のびわイチの打合せを簡単にする。私としては、夫々のペースで走行した方が良いと彼に言った。イチロウにとっても私を気にして走るのはストレスであろうし、私も自分の脚力に合わせて走行した方が途中で脚のトラブルを起こさずに完走できるだろう。イチロウは意外にも「オレは分からん。膝の調子が今ひとつだからな。途中で棄権するかもしれんよ」などと弱気なことを言っている。
「俺も年なんだよな」。今回、事前合宿の時もそうだったのだが、イチロウのテンションが全く上がっていなかった。本来であれば、私が「そんな弱気でどーするの!」などと発破をかけなければいけないのだが、彼と私の間では実力差が有り過ぎて、そんなセリフも吐けなかった。ここにジロウが居てくれたら、イチロウの自転車に対するスポーツ的モチベーションを高めてくれる筈なのだが。やはりこの度のイチロウの気分が盛り上がりに欠けるのは、ジロウ不在が大きな要素なのだろうなと勝手に察した。
そんなことを話したり、独りで勝手にこちらで推察している間に、注文した料理が運ばれてきた。鮒の子まぶしに始まり、イサザの茶と醤油で炊いたもの、小鮎の甘露煮、ホンモロコのやはり茶と醤油で炊いたもの、そしてホンモロコの塩焼きが運ばれてきた。
どれも本当に美味しい。淡水魚の臭みはないどころか絶妙な味付け、ホンモロコの塩焼きではこの魚の独特の香りが鼻腔に広がって感動した。そして、湖魚尽くしのハイライトが、びわマスの刺身(軽く塩漬けしたもの)と鮒ずし。
びわマスの刺身は、ねっとりとして絶妙な塩加減で絶品だった。鮒ずしは、仲居をして下さった女性が「お米と一緒に一年間付け込んで作りました、骨も解けて食べられます」と説明してくださった。イチロウが少し驚くのを横目に、私が躊躇わずにその薄く切ったものを一切れ口に入れてみた。当初懸念してた臭みはほとんど感じられず、しょっぱく柔らかい肉片と続いて飯(いい)のヨーグルトのような酸味と食感が口の中に広がった。ああ、これは美味だわ。ゴートチーズよりも食べやすい。慌てて、これを味わうために注文していた銘酒「七本槍」を口に入れると、さらに先ほどの風味を優しくアシストしてくれた。この感動は幸せと呼ぶ外なし。
時間にしてほんの数秒のことだけれど、その私の様子を観ていたイチロウに、「良いからやってみろ」と合図を送ると、イチロウも続いて鮒ずしをその口にした。私がすかさず、七本槍を彼の御猪口に注いでやり、イチロウがそれを口にして咀嚼嚥下すると、目を潤ませながらも輝かせて「これは、納得だわ。物凄く納得。美味い!」と宣言したw。
イチロウ「ここの鮒ずしはホントに旨いね。恐らく各所で色々な味わいがあるんだろうけれど、ここのは旨い。」と。時間的には、これらの料理と前後して、鴨鍋も運ばれていた。お店の方が云うには、「ここで扱っているのは、自然の鴨(野生の?)だけなのだ」と言われた。鍋の中にはだし汁とネギなどの野菜と、鴨のレバーとつみれが入っていて、沸騰したら鴨のロース肉をしゃぶしゃぶにして召し上がって下さいとの事であった。云われた通りにして食べると、これまた大変に旨い。これまた事前に懸念していた獣の臭みがしない。ジビエが苦手な私でも何の抵抗もなく食べれる。だし汁も上品な味付けであった。店のヒトによると「自然の鴨の肉だから、灰汁がでないでしょう」と。言われてみれば、確かに鍋の中に灰汁は全く浮いて来なかった。
これらの料理をアシストしてくれた銘酒「七本槍」もここに記しておこう。温燗にすると軽やかな味わいで、料理を引き立ててくれて大変素晴らしかった。
うーん、本当に素晴らしいお店でした、住茂登さん。そして、ここの店を発見したイチロウの嗅覚には改めて脱帽。おかげでなんの苦労をすることもなく、早春の琵琶湖料理を堪能させていただきました。両者に心から多謝。
当初期待していた以上の料理を堪能出来て二人とも大満足であった。店を引き上げる時に、夫々にお店のヒト達に素直に感動したことを伝えて、そしてレジ横に置いてあった「鮒ずしケーキ」なるお菓子をお土産に買って辞したのであった。
時刻はまだ午後8時前だった。ホテルへの帰り道、駅の方に向かって大半のお店が閉まり静かになった商店街をブラブラと歩いた。風はほとんどなかったが身を切るような冷気が辺りを包んできたのであったが、先ほどの料理で温まった身体には心地よかった。
商店街のあちこちに「ユネスコ無形文化財登録 曳山祭り」というポスターが貼ってあった。思わず私がこの辺りに「曳山という山があるのかな?」とイチロウに尋ねると、彼はおかしそうに「曳山ってさ、山車のことだろう」と教えてくれた。ああ、なるほどよくポスターを観てみると、白化粧をした子どもの背景に山車らしきものが写っていた。この事なんだな。自分の無知ぶりをイチロウに何時ものごとく指摘されてすこし気恥ずかしくなった。
イチロウとはずっとこんな感じ。どこに出かけても毎度毎度のことなのだが、二人の関係は落語で登場する「ご隠居と町内のハチ公」みたいなものなのだ。
ただ改めて感じるのだが、私は少々歴史に興味がありそこから文化や風土に関心が広がり、イチロウは生物学や博学に興味がありそこから文化人類学や民俗学に関心が広がっている。
だから、興味の重なり合うところがあるからこうして肩を並べて歩くように付き合ってきたのだけれど、不思議といえば不思議だし貴重と言えば貴重な存在である。しかし、何処かに一緒に出掛ける時は、ほとんど彼がプラニングとコーディネイトの一切の仕切ってくれて、私はそれに乗っかっているだけから彼に負担ばかりかけて申し訳なく思うのだけれど、ではイチロウにとってその対価はなんぞや…..?
しばらく二人の会話が途切れて、黙って歩いていると、どこからか太鼓と横笛の音がかすかに聞こえてきた。その音のする方へ惹かれるように或る角を曲がり数歩進むと、ある民家の中からその音色がしているのだった。
「ああ、曳山祭りのお囃子の稽古中のようだね」とイチロウが呟いた。
湖北地方の早春の静かな夜だった。
(びわ湖一周ロングライド2017~前夜編~ おわり)
(あとがき)
この項を書きながら、小腹が空いたので、自身用のお土産として持ち帰った「サラダパン」を食べてみた。刻んだたくあん、マヨネーズ、マーガリン、そして少し甘みのあるパンを咀嚼ていると、まろやかで優しい味が口の中に広がった。「つるや」さん、ゴメンナサイ。今までこのパンの美味しさをちゃんと理解出来てなかった。このパンの良さは、その味が少しも尖がってなくて、丸いことなのだと。近江人が創意工夫して作り上げたこの味わいは、この地方の風土にも通じているようで、そう思うと春の近江地方の自然やお店や街角で出会った人々が醸し出す人情が脳裏に浮かび、また再訪してみたいと思わせるのだった。
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