2017年9月22日金曜日

乗りバカ日誌~イチ・マサ・タカの心の旅編②~


私たち3人は、南大隅町根占港へ上陸し佐多街道を辿って桜島を目指し北上している。しばらく行くと錦江町の市街地に入る。ここからいくつかの町を通りに抜けていくことになるのだが、それぞれの町並みは日本の何処にありそうでいて、どこか異なる南国の風情が感じられるのだった。強い光のせいか?辺りの植生のせいか? イチロウの印象によると、時々見られる古い家屋が南西諸島で見られるような造りをしていて、他の地方には見られない風情を特徴づけているとのことだった。また、学校の校庭には芝生が植えられており、火山灰で出来た土壌が風で巻き上げられないように工夫しているのかもしれないとイチロウやタカヒロが話をしていた。




錦江町の市街地を抜けると、佐多街道は海岸縁を走るようになった。左には、綺麗な砂浜の海岸、そしてその向こうには対岸の薩摩半島が見渡せる。大隅半島から見ると薩摩半島側は、開聞岳以外は低い稜線となってい、広い青空にぽっかりと雲が浮かび、伸びやかな景色が広がっていた。




時刻は午後12時に近づきそろそろ空腹になってきたので、どこかで昼飯を食べようかということになった。

しばらく走ると、右手に道の駅「錦江にしきの里」があり、そこで昼食を摂ることになった。建物中に入り、3人思い思いに地元で作られたお惣菜を選んだ。カンパチの刺身、ピーナッツの煮物、炊き込みご飯、天丼、チキン南蛮、焼きそば、ピーナツ豆腐、マカロニサラダ、サツマイモ餅。これらの食べ物を買って、建物の横にあるバルコニー風のスペースのテーブルに広げて3人で食べた。どれも美味しい。フェリーで話題に上がったカンパチは新鮮、ピーナツの煮物は独特の風味、プリンプリンのピーナツ豆腐、そして甘さ抑え目でモチモチとしたサツマイモ餅。




3人とも腹10分目以上に喰って大満足だった。落ち着いたところで、タカヒロがしみじみと「鹿児島って本当に良いところだなあ。今までこの辺り来たことなかったんだよな。何だか鹿児島を再発見した感じだよ。来て良かったよ」言っていた。“そうそう。自転車に乗ると身近なところにも再発見することが多いでゴワスよ。これからも一緒にバイクツーリングしようぜ”とタカヒロの顔を見ながら思った。



ここで30分以上の休憩を取り少し、感じて来た疲れをとることにした。寝不足で走っているタカヒロは全身大汗をかいており、イチロウと私に比べたら疲労度も高かろうと思えた。イチロウとタカヒロは、ベンチにゴロっと横になり短い仮眠を、私は海の景色が見たくて海岸縁に向かった。




真っ青で広い空と対岸の穏やかな稜線を示す大地と誠にこの風景は雄大である。古より、薩摩人はこの風景を眺めながら育ってきたんだろうな。タカヒロはこれまで来たことがなかったと言っているけれど、桜島の風景にしても、大隅半島の高々とした稜線にしても、薩摩半島側の伸びやかな風景にしても、広い錦江湾の青さも、その土地の有り様がそこで代々暮らしてきた人々の気性に多かれ少なかれ影響を及ぼしているに違いない。タカヒロや昨日再会したフルハタの気性の中にも、この風土を受けて生きて来た先祖の血が確実に流れているのだろうな。


私は全く異邦人なのだけれど、何だかこの土地が段々と好きになってきた。


30分の休息を取った後、再びバイクに跨り出発した。ここからは、ほぼ海岸線に沿って走るだが、砂浜を持つ入江と入江間を遮る崎があり、なだらかな上り下りの勾配が連続した。私がペースメーカー、タカヒロを挟んでイチロウがしんがりという隊形で走行。1時間おきに休息を取るようにした。


このアップダウンを繰り返していくうちに、上り勾配でタカヒロのペースが落ちるようになった。タカヒロは、「上り勾配が苦手なんだ」とは前から言っていたが、この度が初めての遠距離走行であり、しかも最悪のコンディションで走行しているだから、体力的も随分辛くなってきたのだろうと思う。時々振り返りながら、弱音を吐かず黙々とギアを下げながらもペダルを漕いでいる彼の姿を観ていると、胸が熱くなる想いがした。


その後も午前中のペースとまでは行かなかったが、我々は順調に佐多街道に沿って北上を続けた。綺麗な海岸が至る処にあり、海水浴場やリゾート地のような綺麗な砂浜が認められた。後方で、イチロウが「海に入れてえ~」と笑っている。


鹿屋市付近に入ると、小さい岬に赤い鳥居のあるお宮が見えた。タカヒロによると鹿児島でも有名な天神(菅原神社)で荒平神社というらしい。ちょっと珍しいので、立ち寄ることにした。砂浜に鳥居があり、その坂に小高い岬があり、急勾配の階段を上ると小さなお社があった。そろそろ両脚に疲労が来ていたので、急勾配の階段を上り下りで転び落ちそうで冷や冷やしたが、なんとかお社にて参拝しこの先の安全走行祈願が出来た。あれ?学問の神だから交通安全祈願は受け入れて貰えたかw?


その後もアップダウンを繰り返しながら、北上を続ける。前方に桜島の山塊が大きく見え始め、その左側に鹿児島市街地が見えるようになってきた。低い丘陵地を背景とした鹿児島市街地を眺めていると、なるほど「東洋のナポリ」に例えられるのも十分に納得がいくような気がした。何故か懐かしいような安堵感が強まっていた。



先にも書いたように、私は全くの異邦人なのに、これまで見知らぬ土地であった鹿児島という街が懐かしく感じられ愛着を覚えるようになっている。海側から眺めると、後方の丘陵地帯と街並の外観が調和してどこか優しさを感じられるのである。これまでにも古より様々な異邦人が、外海から錦江湾に入りそして鹿児島に入港してきたと思うのだが、ひょっとしてそれらの異邦人の中にも似たような感覚を抱いた者が数多くいたのではないかと思われる。

例えば、幕末から明治初期にかけて薩摩を訪れた異邦人の中に、アーネスト・サトウなる英国の外交官がいた。彼は、その頃の日本の国内情勢を詳細に調べているうちに、完全に薩摩藩びいきになり、薩摩藩による討幕運動に陰で加担した。そこには、当時の国際情勢を踏まえた冷徹な判断があったのだろうけれど、幾度か蒸気船でこの街に上陸し、そして多くの薩摩人と交わるうちに、この土地や薩摩人に大いなる好感を持ったのではなかろうか?この地方を旅してそしてこの土地の人間であるタカヒロと交わると、実感として理解が出来るような気がした。

な訳で私もこれからは鹿児島偏愛主義者となろうと思うw。

アーネスト・サトウを想い出したら、幕末明治維新期に活躍した薩摩人に連想が及んだ。

私の知る範囲の英雄たちの中に、タカヒロやフルハタそれぞれの気性に類似するヒト達がいたなあと。ああ、彼ら二人もやっぱり薩摩人の一典型なんだな。そう思うとなんだか嬉しくなってきて、益々好ましく思えるのだった。


そんな連想をひとりで楽しみながら、ちらちらと後方にいるタカヒロを振り返った。

やがて私たち3人は垂水市街地に入ってきた。桜島は手の届きそうなところにあり、モクモクと火口から噴煙を上げている。この辺りから時折、眼が痛くなることがあった。


しばらく休息取れず、コンビニを発見次第休息を取ろうという事にしていたのだが、垂水市内で左手に発見。そこで、コンビニで最後の休息を取る。



水分補給とゼリー状の栄養補給食を摂る。タカヒロが云うには、このところは鹿児島市とは反対側の火口から噴煙を上げることが多いので、鹿児島市内よりもこちら側で粉塵が流れてきやすいとのこと。“そうかなるほどね”



ゴールが近づいてきたせいか、これまでのコースに対する感想が3人からそれぞれに漏れる。いずれの者も、このコースが大変素晴らしく気持ちの良いコースであったとの感想であった。そんな雑談をしていると、幾人かのサイクリストが私たちの前を通り過ぎて行った。地元のサイクリストの恰好のトレーニングコースになっているのかもしれなかった。



ここから桜島の周回道路に向かって進んで行く。バイパスを経て、桜島が陸続きになっている箇所に差し掛かる。ちょうど鹿児島側の真裏になり、私が写真などで知る姿とは違う風景が目の前に現れた。左手には、静かな入江、そこには生け簀が何基か設置されて、海は明るい緑。桜島は海岸から山頂までの1/3程度は雑木が映えていて、それから上は灰色の地肌むき出しの斜面が続いている。


“美しい……”





思わず停車して、3人で記念写真を撮る。一息入れて再び自転車に乗ろうとしたところ、火口から小規模な爆発があり、黒煙が立ち上るのが見えた。凄い、生きている!その後、私は小噴火を桜島を走行する間に3回ほど目撃した。スゲー!



桜島の周回道路を私たちは反時計周りに半周したのであるが、今回のコースで一番アップダウンがきつかった。最後の最後で両脚にきた。



港に入る手前で、タカヒロがコースを少し離れて「長渕剛野外コンサート記念碑」を見せてくれた。ファンの間では、彼らの聖地なのだそうである。後で気が付いたのであるが、私とイチロウの反応は如何にも乏しかったなw。よくよく思い出してみると、タカヒロは学生時代長渕剛のファンだったし、鹿児島人にとっては英雄なのだろう。

今思うと、タカヒロがわざわざ私たちに見せてくれたのに、二人とも“長渕知らず”にせよ、いくらなんでもあの反応は悪かったw



1530頃に桜島港に到着し、そのまま鹿児島行きフェリーに乗船。最上階の客室デッキに上がり、客室内でタカヒロとイチロウは名物のうどんを注文、私は甘味が欲しくソフトクリームを食す。15分の短い船旅。私がタカヒロにこの2日間のホスト役に徹して我々を歓待してくれたことに大変感謝していることを伝え、「本当に楽しかったなあ。明日からの現実に戻るのが辛いわあ」などというと、タカヒロは優しい笑顔で「がんばりましょw」応じてくれた。

本当に名残惜しい。またタカヒロとツーリングが出来ることを祈った。



やがて鹿児島港に接岸の時が来て、私たちは客室を出た。タカヒロが、「この辺りはねえ、イルカが港湾近くまで入ってくることが有るんだよ」などと話していると、近くの客が小さい歓声を上げていた。海を見ると、数頭のイルカが埠頭の傍までやって来て、そのうちの一頭が背面ジャンプを披露していた。それらの姿は、誠に伸びやで心が癒される光景で、タカヒロと顔を見合わせ穏やかに微笑む。


鹿児島港に上陸し少し3人で走った後、いよいよ解散。タカヒロ「ここの大通りをまっすぐ行くと中央駅だから」。「本当にありがとな」とお互いに言い、ハイタッチをして別れた。


信号が青信号になり、イチロウが、やや陽が傾いて優しい陰影を持つ街路をクルマやバスを縫うように小気味よく駆け抜けていく。私は、先ほど埠頭で見たイルカの群れを想い出しながら“こんにゃろw”と、その後を追ったのであった。

(鹿児島中央駅 16;00頃帰着、全走行距離 110㎞)



(おわり)

2017年9月21日木曜日

乗りバカ日誌~イチ・マサ・タカの心の旅編①~


高校同窓会が開かれた翌朝、ふと気が付くと午前550分だった。

“しまった!寝坊したわい。”慌てて起きて、洗面しサイクルジャージに着替える。

急いで出立準備を始めたが、頭はぼやけ、両こめかみが痛む。サイクリング前日はアルコールを控えるように心がけていたが、昨晩はつい飲み過ぎた・二日酔いのようである。

それでも何とか出発準備が整い、当初予定していた通りに午前630分頃、イチロウと共にGiant MR4に跨り、鹿児島中央駅を出立できた。

しばらく鹿児島市街地の道路を走行する。鹿児島地方は台風一過の快晴で吹く風はひんやりとして誠に心地良かった。

ペダルを漕ぎながら、イチロウに「タカヒロ電話をくれと昨晩言ってたけど、大丈夫かな?遅くまで付き合っていたのだろうから睡眠あまり取れていないだろうし。バイクに乗るのは体力的にきついだろう。カシワギとの予定もあるだろうから、そっとしておいてあげた方が良くはないか?」と語りかけてみた。

イチロウ「それはね、電話連絡した挙げた方がタカヒロにとって良いんだよ。しない方が奴は悲しむと思うよ。起きれなかったらそれはそれで良いのだから」と応じた。

素直にイチロウの意見を取り入れて、午前7時過ぎにタカヒロに連絡入れようとスマホを取り出すと、タカヒロから入電歴があったw「もう出発したか?」と。奴は起きているw!急いで電話してみると、彼が云うには「帰宅したのは午前430分、2時間しか寝ていないけど、大丈夫だ。一緒に走れる。」とのこと。

これには驚いたw。タフネス・タカヒロ!事前に連絡を取り合った時に、「オレ、イチロウやマサキと走りたいんだよ」とは言ってくれてはいたが、本気でそう思っているんだ。“体調は大丈夫か?”と思いつつもやはり嬉しい。

待ち合わせ場所については、ナビゲーター役のイチロウ-タカヒロ間で調整してもらう事にして、タカヒロとのランデブーポイントを目指す。




鹿児島市街地から指宿方面に向かう産業道路を走り、とある自動車販売店前でタカヒロと合流。彼は、CORNAGOを携え、黒を基調としたサイクルジャージに身を包み我々を待っていてくれた。以前よりマラソン、最近ではトライアスロンに参加するなどトレーニングに余念のないタカヒロは、20代と変わらない引き締まった体型をしていた。彼は、これまでにバイクで長距離を走行した経験がないと言っていたが、その体形を見ると大丈夫だと思えた。懸念材料は寝不足による万全とは言えないコンディションか。

彼自慢のバイクを見せて貰った後、3人で出発。最初は、私とイチロウが交互にペースメーカーとなりながら、一路指宿山川港を目指した。

やがて道路は産業道路を過ぎて、指宿に向かう2車線の国道226号線に入る。次第に3人の脚が温まり走行ペースは安定してきた。道路は海岸沿いを走り左側の視界が開ける。穏やかな緑色の水面を映す錦江湾、その先に大隅半島の高い尾根、そして左斜め後方に噴煙を吐き続ける桜島が青く澄み切った空気を通して眺めることが出来た。誠に気持ちが良い。




それにしてもタカヒロは早い。トライアスロン・アスリートを舐めちゃあいかんでゴワス。何時ものごとくイチロウがペースを上げていくのをピッタリと後ろについて走行している。後で聞くと平均時速は35/hrをキープしていたらしい。私は、朝飯抜きと二日酔いによると思われるハンガーノックアウトに陥りつつあり、次第に二人から引き離されがちとなった。途中2か所小休止する間に、ゼリー状の栄養補給食、水分補給を行って、彼ら二人について行った。その後も順調に3人で走行を続け、国道沿いにある道の駅「いぶすき」にて中休憩を取る。今回のサイクリングでは、是非3人で桜島をバックに記念写真を撮りたいと思っていた。近くに居たカメラマン風の男性にお願いし、無事に収めることが出来た。ここにお示しできないは残念だけど、3人とも良い笑顔をしている。何時までも記憶に残りそうな記念ショットになった。

この休憩の間に、タカヒロに「体調は大丈夫か?」と尋ねると、彼は満面の笑みを浮かべて「ああ大丈夫だ。めちゃ楽しい」と答えた。私が、冗談のつもりで「じゃあ、このまま俺たちと錦江湾一周しちゃうか?」と問うと、彼は意外そうな表情を浮かべて「ああ、勿論行くよ」と答える。“ひえ~、凄いね。このお方は。”気力体力の塊のヒト、連日深酒・寝不足状態の筈なのに、彼の全精神・全身ダイナモ状態に本当にびっくりとすると同時に脱帽してしまった。そして愉快になった。

再び出発して、指宿山川港を目指す。3者で交互にペースメーカーになりながら快調に走行する。最後尾について二人の後ろ姿を見ていると、初めて訪れる土地でしかも学生時代を含めて3人でバイクを走らせるのはこの度が初めてなのに、既視感があり、不思議な感覚を抱いた。

イチロウにしてもタカヒロにしても若い頃からお世話になったな。イチロウは時に厳しく時に優しく至る所で随伴してくれて来たし、タカヒロはタカヒロで大きな包容力と、常に明るく前向きな行動を通して直接的にも間接的にも私に力を与えてくれてきた。人生においてこのような存在に出会えたことを幸せと呼ばずして何を幸せといおう。バイクツーリングにおける楽しみは、どんな道を走っていても前を向いて己自身の力で前進しつつも、同じ道を進む同伴者の様子を確認しその健闘を讃えながらも、彼ら健闘を再び己の力にフィードバックしていくところにあるのかもしれないーそれって人生の道程にも通じるところがある。

午前930分頃に指宿山川港に到着、ここまで走行距離50㎞。当初の計画では午前1015分発のフェリーに乗って対岸の鹿屋根占港まで渡海する予定であり、十分すぎる程順調に走行してきたことになる。

指宿山川港は、小さい入江にある漁港兼旅客港である。周囲に低い山に囲まれてその植生は南国風であり濃い緑が印象的である。港には、カツオ漁に使われる漁船が数隻係留されていたが、人影は少なく静かな気配であった。旅客埠頭の道向うに小さな雑貨兼土産物屋があり、独りの年配の女性が店を守っていた。フェリーが出航するまでの空いた時間を利用して、その店に立ち寄った。軒下には、カツオの珍味や地元のお菓子が並べられ、店内には日常雑貨が置いてあった。イチロウが「昨日の台風は如何でしたか?」などと年配の女性に話しかけて、その後はこの辺りの様子を尋ねている。このヒトこういう地元のヒトとの接触が旨いんだよね。

タカヒロや私は、店内を静かに眺めては目で楽しんだ。水分補給と糖分摂取のためにアイスクリームなどを購入してその店を辞した。

3人口々に「のんびりとした良い港だねえ」と感想を漏らす。本当に良いところだ。

港湾施設職員風の男性にフェリーの切符を買うように促されて、切符売り場で切符を無事に買い終えたところに、フェリーが着岸。自転車を押して、フェリーに乗り込む。甲板員のヒトに自転車をロープで固定して貰い、客室デッキに上がる。私たちは、客室内に入らず、室外のデッキにあるベンチに席を確保した。




1015分定刻にフェリーは出航。狭い入江を低速で進んだが、斜め前方にいけすを牽引する漁船が見えた。タカヒロに「あのいけすの中は、何を養殖しているの?」と尋ねると「あれはね、カンパチなんだ。目印の浮きの下はね、物凄く広くなってて多分深さでいうと10mくらいあるんじゃないかな」「昔学生の頃、潜水のバイトをしたことがあってね、いけすの中にもぐってさ、掃除なんかしていているとね、カンパチがそれこそ水族館みたいに目の前をうようよと泳いでね。それはおもしろかったなあ」と教えてくれた。

“ああ、よく鹿児島産のカンパチって出てるけど、これかあ。しかし、このヒトなんでもやってるんだな”とすっかり感心してしまった。

フェリーは次第に入江を離れて、錦江湾の外側を渡海し始めている。私たちの座っているデッキ側では、湾の入り口と外海が眺められた。




青い空から明るい陽射し(それは真夏のものよりもやや優しくなった光線)が海を照らしている。群青色の水面には小さく穏やかな波が立っていた。その波に陽光が乱反射して小さな光の粒が一面に輝いていた。右前方には高い山塊を形成する大隅半島とその尾根には巨大な風力発電機が数基見え、もっと右側をみると遥か遠くに種子島が見えた。しばらくすると、タカヒロが「マサキ、あのやや尖がった山が見えるだろ?あれが屋久島だよ」と教えてくれた。小さいけれどもどんぐりのような塊の山が遠景に見える。さらに、彼が「真後ろ見てごらんよ、開聞岳も綺麗に観えるよ。」私はおおと歓声を上げてデッキ後方に向かい、綺麗な円錐型の山を写真に撮った。




これは素晴らしい景色だ。来た甲斐があった。外気は暖かいが、体には涼しく優しい風が当たり、心身ともにリラックスし、目の前の景色を何時までも愛でていたい気分になった。3人とも次第に無口になって、目の前に広がる景色を眺めていたと思う。



ふと、私は昨夜の同窓会、そこに集まった面々のことを想い出していた。皆本当に良い顔をしてたな。多分夫々に、仕事や子育てなどの家庭のことでいつくかの山を乗り越えてきたのだと思う。お互いに50代を少し過ぎて子育てもひと段落過ぎたところか。人生の暦でいえば、目の前の光る景色のように晩夏から初秋に差し掛かってきた。これから老いに向けてゆっくりと進んで行くのだけれども、あの水面の光の粒のような青春のエネルギーの残滓が私たちの中にはしっかりと残っていて、それが人生を前に進めて行く燃料なのだと思う。そうすると、昨夜の面々のエネルギーはそうした残滓のなせる業だったのか……

そんな風に目の前の景色と自分たちの人生の季節を重ね合わせると、己のエンジンの中に多分に残るエネルギーを再発見出来たようで、体の内側に穏やかで充実した気持ちが広がっていくのが分かった。この旅で、旧友と再会し、己を再確認出来たような気がする。

フェリーは私たちを乗せて静かに両半島の海峡を進んで行った。次第に大隅半島の山々が視界を覆うようになってきた、海岸縁をみると、先ほど見たのと同じ生け簀がいくつも浮かんでいて、その生け簀のひとつに漁船が係留し作業をしている漁師の姿が見えた。その風景に、若かりし頃のタカヒロが真っ黒に日焼けして潜水する姿が目に浮かび、何とも言えぬ愛おしいような懐かしいような気持ちになった。今回のサイクリングで視界の中に入ってきたどの人工物よりも人間の生の営みが感じられ、何とも愛おしく感じられた。今回サイクリングは進むにつれてやけに人恋しさが内側に募っていくようだった。

フェリーは、50分の静かな航海を経て、南大隅町根占港に到着。私たちはバイクに跨り桜島を目指して北上を開始した。大隅半島側は、対岸の街と比べると田舎の風情であったが、蘇鉄やハイビスカスなどが道路端に生えていて南国の趣を更に強くしていた。陽射しは昼前に差し掛かり更に強く辺りを強く輝かせていた。

私がペースメーカー役となり、後方にタカヒロ、イチロウが続いた。しばらく走行していると、後方でタカヒロが「陽射しがきつくなってきたなあ。まだ真夏って感じだ~」などと陽気な声色で私やイチロウに伝えて来た。

「真夏かあw!」先ほどの私のうちに広がる心情と、タカヒロの内なる心情の差異がこの辺りに出ているようで、おかしみを感じた。

“そうだよ、タカヒロ。俺たちは、いつまでも真夏のような心根を持ってこれからも人生を楽しんで行こうやw”



つづく

2017年9月20日水曜日

小さな学校の同窓会


結局イチロウと私は、同窓会開始から30分程度遅れて、会場となったお店に入った。店内に入ると、直ぐにそこに参集した面々が大歓迎の意を表して迎え入れてくれた。「おお、イチロウ、マサキ久しぶり、よく来たなあ」と。彼らが示してくれる無条件の好意、歓迎の表現が大変嬉しかった。



幹事のタカヒロが、二人を席に案内し、他の者に「じゃあ、イチロウとマサキが来たから、乾杯しよう」と音頭を取ってくれた。




程なく、トリイが会場に到着して、私たち二人の横に座った。タカヒロの音頭で乾杯。座席に着いたところで、トリイが話しかけてくれる。彼が近況を話してくれた後、「それにしてもイチロウとマサキはずっとコンビを組んでいたよね。いつも静かに笑っている感じでさ」などというものだから、二人で「ちょっとそれ話盛ってないかw?」と笑う。このトリイは、当時は私からしてみれば学年一のハンサム男で、テニスで好成績を残した。一方でひょうきんなところもあり、元気なグループで楽しそうにやっていたと記憶している。



続いて私たちの荷物をレンタカーで運んでくれたサツキダが登場。タカヒロの音頭で乾杯した後、私の真横に着席。サツキダが「マサキ最近景気はどないや?」などと関西のおっちゃんの風情丸出しで話しかけてきてくれるw。「かくがくしかじかよ」と応じると、「そうか。そりゃな、こうしてこうしてみるとエエで」などと助言をくれるので、有難く傾聴した。



やがて、私たちのテーブルにかつての元気・にぎやかグループの面々が集まって来て、トリイとサツキダ達と当時の話に盛り上がりを見せた。しばらく、彼らの話に耳をかたむけていたが、そこへフルハタが近づいて来たので、「久しぶり」と声をかけ私たちのテーブルに招き入れた。フルハタは、当時どの学校にもいたようなツッパリタイプの少年だった。イチロウと寮の居室を共にしたころから何かに開眼したようであり、後にタカヒロなどから聴くところによると、彼はイチロウに対して当時の事を大変感謝しているらしかった。今では仕事で忙しく活躍しており大盛況を博しているとのことだった。この度の同窓会出席に当たって、彼に会う事も密やかな楽しみだった。彼を我々のテーブルに招いたものの、生憎席が空いていなかったので、私は「フルハタとイチロウの間に積もる話もあろう」と席を譲った。



私は他のテーブルの空いた席に座り、そのテーブルに居たオノやミカらと会話を楽しんだ。夫々に学校を出た後の苦労を経て充実した今日があることを教えてくれたのだが、目の前にいる二人の表情を見ていると、当時の面影を残しつつも流れた年月の重みのようなものが感じられて大変感慨深い想いがした。



突然背後で、爆笑を伴った大声がしたので、振り返ると元気・賑やかグループが大変な盛り上がりを見せていた。サツキダのだみ声と、他の者と賑やかな笑い声と。彼らの当時と変わらないエネルギッシュさに圧倒される想いがしたが、店内のテーブルライトに映し出された各々の表情にも確かなこれまでの道程が刻まれているのが見いだされ、それはオトコどもの群像が描かれたレンブラントの絵画のようであり、ある種の感慨を覚えずにはいられなかった。



しばらく間夫々に会話を楽しんだところで、タカヒロが我々に注目を求め、次回同窓会の幹事役を指名すると述べた。「前回から幹事をしたものが次の会の幹事を指名できるということになっていたから」と切り出し、「毎回写真係で上手く会を盛り上げてくれているモトムラになってもらうよ」とはっきりとした口調で宣言した。



“きたきた”と内心思い、息を潜めて事の次第を観ていたが、タカヒロが続いて「この幹事の仕事は結構大変だから、同じ地元のイチロウとマサキも補佐してあげてよ」と続ける。



“ムムム”薄々と予感してたんだよ。タカヒロがこういう展開に持って行く策を練っていたのではないかと。去年の夏にタカヒロが広島に来て夕食を共にした時に、私が予防線を張っておいたのだが、その際にタカヒロは愛嬌の眼を更に真ん丸にして、「大丈夫だから、マサキ。俺に腹案があるからw」と笑っていたものだ。奴の事だから、イチロウと私が同窓会に対して消極的であることを察知していて、ソフトに二人をこの会につなぎ止めを図ったようにも思えたw。タカヒロは、若い頃からヒトたらしで、相手をうまく丸め込める奴だった。明るい性格なものだから、彼のいう事に誰もが納得せざるを得ず、そして相手に不快な気持ちを抱かせない。それがタカヒロの魅力のひとつなのであり、この度も彼の魅力に引き寄せられて大嵐の中を全国各地からかつての仲間がこうして集まってきているだ。ちらっとイチロウの方を見ると、イチロウも複雑な表情を作っていた。彼も似たようなことを感じたに違いないw




その後、会はタカヒロとフルハタの行きつけのワインバーにて2次会が行われた。シャンパンで乾杯の後、私は一次会で話しが出来なかった他の同窓生と話すべく席を廻った。何人かの女性陣が固まる傍に行くと、メイコが声をかけてくれてしばらく話をした。学生以来会っていなかったヒトで、彼女が私のこれまでの来歴を聴いてきたので、かくがくしかじかとかいつまんで説明。先方もその後の様子を教えてくれた。彼女は彼女なりに頑張っている様子で幸せそうに微笑んでいた。“よかった”「でも、当時はね、恥ずかしくて女性陣と全く話すことができなかたんだよ。少し大人になってこうして普通にやっと話が出来るようになった」と話を結ぶと、明るく笑って応じてくれた。



私たちが卒業した高校は、一学年50人程度の小規模な学校で全寮制であった。3年間思春期の仲間が寝食を共にしたわけで、そこには濃密な交流とそれに伴うエピソードが多分にあった。当時の自分が他の同級生にどのように映っていたか、変な奴だと思われていたか、妙な堅物だと思われていたか、今となっては分からない。タカヒロは常々「そこで出会った仲間は、ただの友人以上に同じ飯を喰って育ったファミリーみたいなものだ」と言っていた。そうなのかもしれない。今は30年以上の年月を経て、それぞれを肯定できる関係性になっていて、そういう関係は人生の宝みたいなものなのだろう。私もイチロウもこの仲間たちを否定するつもりはなく、むしろ大切な仲間だと感じている。ただ同窓会のようなものが苦手だけなのである。



それぞれに会話の輪が出来て落ち着いた頃、タカヒロが私とイチロウの席に座り、私たちに語り掛けて来た。「今日はありがとうな。本当に嬉しいよ、みんな台風の中でここまでやって来たくれたのだものな。中には、飛行機が飛ばずキャンセルせざるを得なかった奴もいたけれども、これだけ集まってくれたのだもの、自分としては大満足だよ。みんな色んな苦労は夫々にあるかもしれないけれど、こうやって人生を楽しまないとな。」



彼は上記の語りの中で、前後の言葉は忘れたが、コアなメンバー“ って言葉を出した。どう受け止めたら良いのかなw。この同窓会に消極的なこの二人もコアなメンバーととらえてくれているのかw。どうもタカヒロから今後も毎回同窓会に出ろよなというソフトな工作を受けているような気がしないでもなかったがw、彼が私たち二人を含めて高校時代の仲間を大切に思う気持ちに偽りはなく、彼の仲間に対する愛情を素直に受け入れようと思い笑顔で応じた。



我々3人が話しているところにカシワギがやって来て、「なんだって、明日自転車で走るらしいな。すげーな。バイクそんなに楽しいの?」と話しかけて来た。カシワギは当時から落ち着いたクールな奴で男気に溢れたオトコだった。本人から聴くところによると30歳すぎてから格闘技を始めめきめきと腕を上げて主要な大会で好成績を残し、今では本業の傍らその団体の役員も務めているらしかった。目の前にいる現在の彼はカッコ良いナイスミドルの風情を漂わせて、ある種の風格が生まれていた。

私が「格闘技に比べたら、転ばない限り痛くないから楽だよ」などと冗談めかして応じると、今では爽やか壮年/何かのファッション雑誌に出てきそうなハンサムな笑顔で笑ってくれた。



あっという間に楽しい時間は過ぎて、イチロウと事前に撤収時間と決めていた午前0時になった。もう一度、そこに集まった古い仲間の顔を眺めた。みんな良い顔してる。それぞれにハンサムになった。このたびは本当に会えて良かった。

仲間に別れの挨拶を済ませて2次会会場を出ようとしたのだが、タカヒロが最後に近づいて来て「明日出発する前に電話入れてくれよ。俺もちょっとサイクリングに付き合うつもりだから」という。



ええ!、これから彼はホストとして3次会・4次会に付き合うだろうに、体力大丈夫かいな?と思ったのだが、彼のホストとしての優しい心根が感じられて、気持ちよく「了解」と返事をして会場を後にした。



外は気持ちの良い風が吹いており穏やかで気持ちの良い夜だった。

そのままイチロウと共にホテルに戻ったのだが、彼が珍しく「ちょっとなあ、部屋に寄って良いか」という。もう彼らのエネルギーに当てられてちょっと興奮が冷めやらぬのでクールダウンしないと眠れそうにないのだという。



そうだ全くだ、高校時代そのままのエネルギーが今宵の同窓会にはあった。確かに私もそのエネルギーにほだされたような気がしていた。

おわり








イチロウ行状記~嵐の中薩摩国へ下るの事~


918日休日の朝6時にマサキは妻に叩き起こされた。

「さっさと起きて出なさいよ。今ならまだ電車も動いているし。」と。

「良いんだよ。ちゃんとイチロウ殿と作戦考えているんだから」と返事をしようとしたが、最早家内は階下のダイニングに下りている。



“ったく……”と舌打ちしながら、ダイニングに下りると、マサキの妻はテレビモニターを見ながら台風情報を確認していた。



「昨日留守番変わってもらって良かったねえ。在来線は午前10時に運転見合わせ。山陽新幹線はまだ動いているし、だけど九州は熊本―鹿児島間で始発から運転見合わせになってるよ」「博多まで取りあえず出て、そこで熊本―鹿児島間の運転が再開するのを待つと良いわ」

なぞと、妻が勝手に予定を立てこちらに知らせる。



「あのね、もうその辺イチロウ殿と事前に打ち合わせているの。最悪でも夜になったら、台風は日本海側に抜けているだろうから、その頃出発して2次会からでも顔を出すつもりなのだよ」と応じたものの、どうもニュースで流れる台風タリム情報では鹿児島の南海上でその速度を下げつつ、その辺りでぐずぐずと北東に向かっているようだった。



“ムムム、どうもイチロウ殿と立てた作戦を修正した方が良さそうだのう。もう少し時間が経ってからイチロウ殿に連絡を入れて作戦修正を具申してみるか、確かイチロウ殿も前日のブリーフィングの時には「当日の状況をみて作戦が修正出来るように、何時でも出撃できるように準備を整えておけよ」と言っていたものだ。



そんなことを頭の中で考えているそばから、横から妻が更に口を挟んでくる。



「はあ、2次会から出るですと?貴方様は何考えてるの!タカヒロさんが幹事して一生懸命準備してくださっている筈。同窓会っていうのは、きちんと最初から出るものです。それが男としての嗜みではないですか。だから、あなた様はお友達がいないのです。数少ない友達は大切にしなければ。友情は大切にしてくださいよ。」



“なぬ? どうしてうちのオナゴというものは、こういう時に限ってもっともらしい正論はいてくるものなのかね!オトコの友情という言葉をオナゴが知ったように語るものではないのだ。下がっておれ。”という言葉を苦虫を噛み潰したよう表情を浮かべつつ飲み込むマサキであった。



それに代わり、イチロウ殿そしてマサキが本来は同窓会なるものに距離を置いてきたのだが、この度の幹事がタカヒロであるその一点において出席を決めた事などをかいつまんで妻に説明してやると、オナゴという奴は/ この場合マサキの妻特有の気性なのかもしれないが、益々説教じみたことを言い始めて、「本当にうちの旦那様は気性が暗うございますわね。純粋に同窓会で昔の仲間と楽しんできたらようございますのに。全く…..。」と完全にマサキの人格まで問題にし始めやがったw



マサキは朝っぱらから妻からの攻撃に段々イライラとした気分になって、このオナゴとここで半日痴話げんかになるであろう展開が見えて来たので、イチロウ殿に電話を入れてみた。「あのう、大変申し訳なく存じ奉るが、拙者は先行させていただきまする。行けるところまで行って、殿のお越しをお待ち申し上げまする」とやや一方的に用件を伝えた。流石のイチロウ殿もマサキの一方的な意見具申に戸惑いを匂わせつつも「よかろう」と返答したのが精一杯であった。マサキにはすべてを説明するゆとりがなく、「先駆け御免」と言って電話を切った。




午前8時過ぎ、マサキはどんよりとした曇り空の下、クルマにリュックサックと輪行バックを入れて出発。午前9時前に広島駅に到着。駅に着いたところで、先ほどの余りにも非礼だった電話の件についてイチロウ殿に再度電話で断りを入れる。朝の女房とのやり取りの一端を説明して平謝りし、万が一イチロウ殿の鹿児島入りが遅くなるようであれば、きちんと参集した各位に丁寧に説明させていただく旨を具申し了承を得た。




午前914発広島発鹿児島行き改め熊本行みずほ603号の自由1号車の一番後ろの席を確保し、座席の後ろに輪行バックを押し込む。同列車の一号車はガラガラ状態。「そりゃそうだよな。台風に向かって旅をする人なんてそういないよな」。ひとり座席に着いてマサキがホッとため息を付いていると、通路向かいの席に座った一人旅風の女性が「どちらまで行かれますか?」と訪ねてくる。「拙者は鹿児島です、そちら様はどちらまで行かれますか?」と問い返すと、「都城までなんです。博多から高速バスを使おうと思ってたのですけど、どうなることでしょうねえ」等と答えられた。本当にこの嵐の中を女身一つで大丈夫かしらと思いつつ「どうぞお気を付けて」と丁寧に応じる。



“この台風の中行くのだから、さぞや大切な用件があるんだろうな”とその女性の旅行の先行きを案じてしまったマサキであったが、翻って自分が台風の真っただ中に重い輪行バックを担いで鹿児島に向かおうとする用件の重要性について思い返さざるを得なかった。



先にも少し触れたように、マサキそしてイチロウ殿にとって、高校同窓会なるものは積極的に出ようとするものではなかった。その経緯については、それこそマサキの妻のような者にとっては“ネクラな話”なのだろうからここでは述べるつもりはない。彼らの高校の同窓会は、これまで2年に1度のペースで数回開催されていたが、イチロウ殿とマサキは、4年前に1度出席しただけで2年前の同窓会には出席していない。4年前は関西地方で開かれて、同地方在住のコウイチから強い誘いがあり、それがなければ欠席していただろう。我々のような者に会いたいと思ってくれるコウイチの想いに対して“男気”を示そうというのがその時のイチロウとマサキの出席理由だった。



この度もそうである。タカヒロがイチロウ-マサキ主従に対して正式にも、個人的にも接触を図り、同窓会出席に向けて周旋してきた。マサキには就職して間もない頃、タカヒロの存在がどれ程彼の精神的に支えになっていたか、忘れられない恩義があった。“ここは長年の彼の恩義に答えるべきでしょ、男気でしょ”と思わずにはいられなかった。



イチロウ殿はイチロウ殿で、「今回は幹事がタカヒロだもんな、行かない訳にはいくまいて」などとボソリと言っていた。そう二人が普段あまり他人に見せない“男気”を示す時でしょ!ということでイチ-マサ主従ラインで結論が出たのであった。



そうなると話は更に展開し、「折角薩摩国まで下るのであれば、愛馬ならぬ愛車も持ち込んで、晩夏の錦江湾・桜島を観ながら自転車ツーリングをするべ」という美味しい話が両者の間で持ち上がった。イチロウ殿が、薩摩行き2週間前にネットのルートラボを開いて作戦を立案。鹿児島市内~指宿~フェリーで対岸の鹿屋根占まで渡海~桜島周回道路半周~フェリーで鹿児島市内に帰還するという素晴らしいコースを設定し、ブリーフィングでその作戦を披露した際には、マサキは歓声を上げたものだった。「同窓会に出てタカヒロに我らの男気を示し、翌日はバイクで薩摩を堪能するという作戦ですね、イチロウ殿!」とマサキが満面の笑みで言えば、イチロウも「そうじゃ、まあ楽しみにしておれ」と目を細めて満足そうな笑顔を浮かべた。



それがである。薩摩行き数日前になると、いきなり台風タリムなるものが我々の計画実行の前に暗雲をもたらしたのであった。マサキは、此度も毎日のように少しずつ変わっていく台風情報と天気予報をチェックし雲行きを眺めて苛立つ想いをしたのであったが、2日前になっても台風タリムの進路予報円は変わらず、同窓会が開かれるその日に鹿児島辺りを直撃する予報となった。



マサキが思わずイチロウ殿に「我々はどう動きましょうぞ?」とお伺いを立てると、イチロウ殿「案ずるな、マサキ。わしの中には、台風一過の快晴の下、桜島を眺めながらバイクを漕いでいる図がちゃんと頭の中に入ってるでな」 

マサキ“? じゃなくて、同窓会の方ですが…..

マサキは急激に不安が頭をもたげてくるのを自覚した。



“殿のご気性が、その幼年のみぎりから太平楽であったのは重々承知しているが、果たして此度薩摩国へ下るにあたり、まさか殿の中で優先順位がいつの間にか逆転しているのではなかろうか?同窓会出席よりも断然バイクツーリングを優先し、場合によっては台風を理由に同窓会出席を握りつぶそうとしているのではないだろうか?流石に、“男気”という似合わない言葉を持ち出して同窓会に出ると宣言したのだから、それはないだろうけれども…..”



そんなことを思い始めたところで、更にイチロウ殿がマサキの不安に追い打ちをかけるようなことをいう。「あのさあ、マサキよう。万が一、新幹線が止まっちゃって、どうしても鹿児島にいけないとするだろう?そうしたら、次の日完全にフリーになっちゃうでしょ。その日は台風が抜けて良い天気になると思うんだ。そしたらさあ、朝適当に一緒に走ってさ。そのままウエキのおやっさんのところに行ってさ。マサキのバイクのタイヤをカーボンホイールにする相談に行ってみない?」などのニヤニヤとした顔で宣うた。



ここの辺りで、マサキの顔色が変わっているのをイチロウ殿も流石に察したらしく、「分かっておるわ。そちはワシを疑っているな。どんなに遅くなっても、当日に鹿児島入りし、皆に会って我が男気しめそうぞ。マサキが心配するに及ばぬ。」などと言って、マサキの懸念を振り払うのであった。



そう話は、嵐の中を押してデカい輪行バックを担いで旅に出る重要度について振り返っていたのだが、マサキにはかつてのタカヒロに対する恩義に報いる事、そしてイチロウ殿に対する忠義立ての両者を実行するべく、事情を知らない他者から見れば嵐の中を進むには滑稽と取られても不思議ではない旅装で旅のヒトになっていたのであった。



これまでの経緯を振り返っていたマサキであったが、山陽新幹線の運行状況は全くスムーズでみずほ603号は何事もなく九州に向かって走っていた。



下関に通過するころ、イチロウ殿から入電。

「これから参る。博多1110着」と。

かたじけなくイチロウ殿。マサキはその文面にイチロウ殿渋い顔が見えたような気がし、“馬鹿なオトコに付き合わせて申し訳なく”と思うのであった。“イチロウ殿ひとりであれば、もっと合理的な状況判断で動けるだろうにおバカな判断に突き合わせてしまった。高校以来ずっとこんな感じで付き合わせているよな”と、ふとこれまでのイチ-マサ主従関係を思わずには居られなかった。



小倉を過ぎた頃、タカヒロから入電。「マサキどうだ?大丈夫か?」と。「取りあえず、博多まで移動中。心配かけてかたじけなく」と応じる。




博多駅にてみずほ603号を降りて、イチロウ殿の到着を待つ。待つこと約1時間程度1115分頃、イチロウ殿が「よう」と現れた。



マサキが今朝の無礼な電話についてイチロウに詫びを入れて、かいつまんで女房とのやり取りを説明すると、イチロウ殿ニヤニヤしながら「実はさ、こっちも似たようなもんだ」と笑った。

イチロウ殿が語るには、マサキからの電話の件で事の次第を奥方に伝えたところ、「それは上様、マサキ殿のために今から出立しなさいまし。このままほっておかれるのはよろしくないですよ。お友達甲斐がない。どうぞお友達のために行って差し上げなさいまし」とのこと、「しょうがなく出てきちゃったよ」とイチロウ殿は笑った。



「まあ、そういうことだ。」「だからと言って、これからどうするべ。ここで時間潰そうにも、このデカい荷物を引きずって歩き回るわけにもいかないしなあ」と流石のイチロウもこの足止め状況の打開策を考えあぐねていた。



しかし、マサキには「例えここで何時間も足止めを喰らっても、この非日常的状況をイチロウが居れば適当に楽しめるものな」と能天気に構えていられる気がしていた。




博多駅でやることがないので、イチロウ殿とマサキは待合室横の喫食コーナーで軽い昼食を摂った後、熊本まで取りあえず移動することにした。熊本入りしたのが午後2時過ぎだった。熊本駅に着いたところで、運行見合わせが何時解除されるのかは全く情報が入らなかった。何もすることなく二人が駅構内から外を眺めると、横殴りの雨と街路樹が激しく揺れているのが見えた。“台風タリムが荒れ狂っておるわい”と暴風の最前線に向き合っていることにマサキは軽い興奮を覚えていた。




午後4時くらいになると、雨は降り止み、青い空が雲の間から見え始めた。マサキ「イチロウ殿いよいよですな。間も無く新幹線も動き始めましょうぞ。良かったあ」とイチロウ殿に悦び勇んで上申すると、イチロウ真顔で「あのねマサキ、最近のJR九州は全てのおいて慎重なの。ほら九州各地で災害が続いたでしょ、安全運行に全社挙げて取り組んでるの。」「(人差し指であちこちを指し示す動作をしながら)だからね、おざなりに良いでゴワス~良いでゴワス、なんてやっていないわけよ。(さらに激しく人差し指をあちこち指し示しながら)良いでゴワス、良いでゴワスって、厳しくちぇっくしているわけ。そうだな~、熊本―鹿児島間を2時間くらいかけて総チェック入れるよ。だから、まあ運転再開は18時くらいだろうねえ。」




マサキ内心驚く。「我が殿は何時からJR九州の広報担当になられたか。よくご存じだわ。今頃、良いでゴワス、良いでゴワスと総点中なのかあ。我が殿は物事をよく見通せる畏き御方にて、きっとそうなるに違いあるまい」



午後4時半頃になると、熊本駅新幹線構内にアナウンスが流れて、運行再開は1758分発からだと知らされた。イチロウ殿の予想ものの見事に的中!すっげーな。イチロウ殿は。



タカヒロに打電する。「かくがくしかじかで、18時開始の一次会には残念ながら遅刻することが確実になったよ」と。程なくしてタカヒロからF.Bを通じて、一次会開始を19時からとすること。またしばらくして、タカヒロより入電有。同じく鹿児島入りを目指していたサツキダが熊本駅からレンタカーにて鹿児島に向かうつもりであるが、イチ-マサ主従もそれにのっけて貰えとのこと。マサキが了解と返電し、二人でサツキダが待つ駅前ロータリーに向かうと、サツキダにすぐに会うことが出来た。しかし残念な事にサツキダが借りたクルマはトヨタ・ヴィッツで、どうやっても人間二人と輪行袋二つを乗せることが出来ない。サツキダが「そしたらな。輪行袋ふたつは運んでやるさかいに、二人は新幹線でおいで。重たい荷物を運ばんでええだけ楽やろ?」と言ってくれて、有難くサツキダの申し出を受けた。



サツキダが出発した後、マサキは先ほどイチロウ殿と運行再開の祝杯を挙げたことを後悔した。「拙者たちも、レンタカー借りて移動してしまえば良かったでしょうかね?」イチロウ殿「うーん、そこ微妙な。大嵐の中なれない道中を往くのも却って危険だしな。これはこれで仕方がなかったんだよ。まあ、最善は俺たちなりにつくしたのさ」とマサキを慰めたのであった。




その後、予定通り1758分に熊本―鹿児島間の運行は再開されて、ふたりは熊本で足止めを喰らった他の旅行客でごった返す列車に乗り込み鹿児島へ向かった。“あそこでサツキダに輪行バックを運んでもらえてよかった”とマサキは満員となった列車のなかで思うのだった。



イチーマサ主従を乗せた新幹線は、鹿児島中央駅に午後7時前に到着。ふたりは素早く予約していたJR九州ホテルに投宿。程なくしてサツキダから電話があり、ホテル前に来たから輪行バックを引き取りにおいでと。急いでサツキダの待つ場所に出向き荷物を受け取りお礼をいう。そしてまた後でと。



とにかく着いた。一次会に遅れてしまったのだけれど、最善は尽くした。後は、タカヒロや他の同窓生が待つ会場まで向かいさえすれば良し。イチーマサ主従の毎度毎度のドタバタは、大体マサキが原因を作り、イチロウ殿がそれを耕し整理してイチロウ殿のよく使う「予定調和的」に物事が成るのだけど、この度もそうなりましたw。ここまでくれば、もう事の大半は済んだ。後はただひたすらに楽しめば良いw。

午後7時過ぎの鹿児島は、先ほどまで台風が吹き荒れていたはずなのにすっかりと静かな夜の帷が降りて、穏やかな表情をイチーマサ主従に示すのだった。



終わり

2017年9月8日金曜日

たかがネジ一本、されどもこの一本


つらつら考えてみるに、自分の苦境を他者に理解して貰うことが時には難しいものである。例えば、同業種のヒトに己の仕事上の困難さを話したところで、その困難さが上手く通じないことがあり、同じ仕事内容でも個人に与えられた環境が違えば、夫々に質の異なるトラブルが生じるわけで、類似した環境下で類似した仕事をしている他者であれば理解して貰えそうだが、そういう偶然にそうそう出会えるわけではない。

今ちょっとした苦境に陥っている問題は趣味上の話なので、ここに気楽に書き始めているのだが、その苦境とは、私が所有している24インチの折り畳みバイクの部品六角穴付きボルトの交換で生じている問題である。



私はGiant MR4という折り畳みバイクを持っている。同車は、日本国内限定モデルで1996年に生産を開始、2017年に生産終了となったロングセラー車だった。正確な購入年は失念してしまったが、前後の経緯から思い合わせると2008年頃だったと思われるで、所有歴は9年目となるようである。私にとってはロードバイクへの入門となった自転車であり、自転車に乗る楽しみを教えてもらったモデルであった。



先日久しぶりにこのMR4の簡単なメインテナンス作業をし始めたのであるが、ふと気が付くとヘッドとステムを固定する上記のボルトの腐食が進んでいて、そのボルトを交換したいと思った。



まずはネジの寸法を測り、同寸法と同じボルトをネット通販で探してみたが、規格が記載されているのみ~例えばM ○○mm(○のなかは数字)~で、自分が欲しているボルトがどの規格に当てはまるのか分からなかった。



であるならば、ホームセンターにボルトを携えて出向き、同じ規格のものを探せばよいと思い、仕事帰りに帰路途中にあるホームセンターに立ち寄り、ネジコーナーにて探したのだがどうも同じ規格のものを探し出せなかった。



しばらく店内を歩きながらどうしようかと考えていたところ、そういえばそのホームセンターの近くに専門販売店が近年オープンしていたことを想い出し、ちょっと立ち寄り相談してみようと思い至った。生憎同店の閉店時間がせまっていたのだが、間に合わなくとも場所だけでも確認しておいても良いと思い、クルマで向かったのであった。


幸いなことに閉店前に店に滑り込めたのであったが、事の首尾は誠に不調。私の間の悪さも手伝って、なんと出禁を宣告されてしまった。同店でのやり取りについて、私になりに思うところあるが、同店の店員の対応について悪く言うつもりもないし、先に書いたように図らずも私の間の悪さが店側に迷惑をかけたようであり、ここに記したいことの主旨も別にあるのでこれ以上触れない。

ただ多少なりとも貴重な情報が得られ、私が欲しているボルトは専門店では得られそうにもない事、私の所有しているMR42010モデル以降ヘッドとステムの形状が変更されているとのことだった。

MR4は大変優れた自転車で使っていて楽しいモノなのだが、私にとってちょっと困っていたのは、ヘッドとステムを固定しているそのボルトが走行中に緩みやすく、ちょっとした衝撃でハンドルが下がってしまう事だった。どんなにきつく締めたつもりでも、緩んでしまうので出先途中でレンチを取り出し締めなおす必要があった。いっそのことヘッドパーツとステムを後期モデルと同じものに交換するのもひとつの手かと思われた。

帰宅後、当日の事の次第をイチロウにSNSで報告すると、意外にもイチロウが激しく同情してくれて、自転車オーナーの気持ちを汲んでくれる自転車屋が非常に少ないものだと嘆いてくれた。私としては、「まったくだ」と思われ、溜飲が下がる想いがして大変有難かった。

その後、ネットで色々検索してみるに、世間のスポーツバイク愛好家たちも自転車のネジパーツの交換に苦労されていることを知った。同じ規格のネジ・ボルトをホームセンターで探したり、ないのであればネジ問屋に出向き、それでも同じ規格がなければ大枚はたいて特注のネジをオーダーしなければならない状況に陥ったヒトも居る様子であった。


私が欲しているボルトの規格については、亀旅製作所さんが寸法と規格の対照表をホームページに掲載してくださっているのを知り、それは規格上は「M8 25mm」らしいことを知った。後日、ネット通販で形状は多少違うものの、同規格のボルトを見出して購入することにした。

Giantのホームページを閲覧すると、同社の製品についての問い合わせは販売店部門にしてくれとの事であった。既に専門販売部門の一角への交渉は先に記したように不調に終わってしまったのであったが、幸いなことに市内にもう一店舗あったので、そちらに翌日の夕方に電話連絡し私のMR4のヘッド・ステム・(多分ハンドルも)交換可能か交渉してみると、対応してくれた店員さんが、快く「メーカーに部品の調達が可能か確認してくれる」と返答を下さった。後日休日に同店を訪れてもう少し詳しく相談することにして、電話を終えた。

たったボルトひとつを交換する過程で、思わぬ苦境に陥り少々苦い想いを経験しているのであるが、普段からイチロウがクルマの維持やロードバイクの修理の過程で様々な苦汁を味わっているのを傍でみて来たので、これしきの苦労は大したことではないと思うようになった。

既に生産終了となったMR4であるが、何といってもこのバイクはロングセラーになったくらいの名車なのであり、私個人としても非常に愛おしい。何が何でも可能な限り所有し続けたいと思っている。多少のトラブルに出会いつつも維持する苦労を味わずして、本当のチャリ道の醍醐味を知る喜びは得られないだろう。それに古い名車(クルマ)を所有することに比べたら自転車の維持費なんて比較にならないくらいに安いのだから。


書いてしまえば、この度の苦境は以上のようなことであり、スポーツバイクに興味のないヒトであればたかがネジ一本の大した興味を覚える話題ではないだろうし、スポーツバイクを所有しているヒトのなかでも走ることに徹しているヒトであれば、部品が手に入らなくなったら新しいバイクに買い替えを考えて然程悩まないのかもしれない。されども気に入ったバイクを何時迄も愛でていたい者にとっては、絶対欠くことの出来ないパーツなのである。

たびたびカーオーナーの中に古いクルマの維持に莫大な労力と情熱を注ぐヒトを見出せるように、自ら所有する自転車を道具やモノとしてだけではなく愛着の対象とする者が自転車乗りの中にもいるのだとするのであれば、どうやら私やイチロウはその部類に入ってしまうのだろう。

そういう輩とそういう輩の相談に快く応じてくれる自転車屋になかなか出会う機会がなく、そこに日本における自転車文化の成熟度を推し量れそうな気がするのであるが、その話をするにはまた別の機会としたいと思う。

つづく