2016年7月20日水曜日

Rたちの夏(2)


7月17日、18日の二日に2回公演として、Rたちにとっては最後の定期演奏会が開催された。私と家内は、二日とも開場2時間前に会場となった市内のホールに出向いた。既に10数組のお客さんが並んで待っていた。事前に用意した折り畳み椅子に腰かけて待つことになったのであったが、その間スーツ姿の吹奏楽部員OBがボランティアで運営や会場係として働いていた。毎回、このOBの方々のキメの細かいそして配慮の行き届いた接遇には頭が下がる想いがしてきた。お手伝いをされる父兄の方々とOBの先輩方のご尽力があってこその定期演奏会なのである。

この度そのOBの中に、現役中には次男の憧れの先輩で今では県外の大学生になっていた男性数名の姿もあって、大変懐かしくなり挨拶をさせてもらった。

吹奏楽部員たちにとって、大学に進学後スーツを着てこの定期演奏会の手伝いをし、演奏会後に顧問の先生たちと打ち上げをすることがひとつのステイタスになっているようである。また、姿は見えなかったが、早期引退した子達も定期演奏会の2日間は裏方の手伝いとして参加しているようだった。



開演1時間前に開場となり、列に並んだお客さんが思い思いの席を確保。私たち夫婦は、1階席の中央よりステージに向かってやや左側そして前後を分ける通路の2列後ろ側の席を確保した。後から続々と小学生、中高の吹奏楽部員らしき女子生徒、恐らく部員の親族と思われる年配の方々、そして父兄たちが夫々に席を確保した。私は開演まで暫く席で居眠りをして待ったが、家内は他のお母さん方への挨拶をして廻っていたようである。母親たちにとっても最後の定期演奏会であり色々な想いが湧き上がっているのだろうと推察した。

やがて開演時間となり、会場が暗転し緞帳がゆっくりと上がり1部がスタート。

吹奏楽では大変有名な作曲家で春に急逝された真島俊夫さんに校歌をモチーフにして作曲を依頼した曲から始まった。同吹奏楽部定期演奏会のオープニングを飾る明るく楽しい曲であったが、聴きながら考えてみるにこの曲を聴くのも今回で最後になるのかと思うと、感慨深いものがあった。

プログラムは進み、今年のコンクールで演奏する課題曲のひとつを演奏し、その後緞帳が降りて部員が左右から緞帳の前に2列で出てきて、男性四部合唱で「いざ立て戦人よ」と「ウルトラセブンのテーマ」を無伴奏で演奏。「いざたて~」もこの定期演奏会で知った合唱曲であったが、若い男子が歌うと力強く・またすがすがしさもあり大変聴きごたえあり。「ウルトラセブン」は例の「セブンー、セブンー、セブンー」と始まり「セブン!、セブン!、セブン!」の直後にホルンで“プオー”が入るところまで再現。それが大変可笑しく会場からどっと笑い声が漏れたのだが、合唱が進んで行くと「倒せ火を吐く大怪獣~」の部分では2列目の何名が前列の部員たちの間からワーッと飛び出す動作をして、更に会場が大爆笑となった。演奏する側は真剣そのもので、観客席のどよめきに動じることなく最後まで完璧に歌いきった。合唱が終わると全員で一礼した後、「ショワッチ」と全員で声を出して左右に別れて退場していった。会場は笑いと割れんばかりの大拍手となって雰囲気が一気に盛り上がった。観ていて感動の涙と可笑しさの涙が出そうになって、それをこらえるのに腹筋がよじれてしまい苦しかった(笑)。

1部の残りは、高校生チームが今夏のコンクールで挑む課題曲と自由曲の演奏だった。この2曲とも大変良い曲で、ところどころにオーボエのソロパートが配置されているのと、各楽器パートがメロディーを紡ぐように構成がなされている美しい曲だと思った。オーボエソロパートを担当するA君は、中学チーム時代に部長を経験したのだが、中学時代の反抗期・生意気盛りのオトコどもをまとめるのは大変苦労したらしい。生真面目な彼はしばしば悩み苦しむことになった。しかし、その後そのスランプを乗り越え、その技術を大いに伸ばし最近ではその努力を顧問の先生から大いに認められたとのことだった。その演奏会でのA君のオーボエの音色の美しさは彼の成長の証として本当に光っていた。終演後に、彼の姿を認めたので思わず近寄って握手を求めたら、本当に充足感を得た良い笑顔を見せてくれた。

2部は、雰囲気がガラッと変わって、ディズニー映画の「Mr.インクレディブル」のテーマ曲から始まった。B君のビブラホーンの印象的な旋律、そしてアルトサックスのC君の艶やかな音色のソロパート、そしてバックの金管のアンサンブルも歯切れよく決まっていた。C君は、早くから頭角を現し吹奏楽曲においてもポップス曲においてもソロのパートを任されていた。どちらかと云えばちょい悪不良っぽい・そして妙にプロっぽい所作がステージ上で映えて大変恰好が良い。

その後は、ドラマヒット曲をメドレー仕立てで、その間数人が衣装を着て最前列でパフォーマンスを繰り広げた。曲構成もその前で行うパフォーマンスも良く練られていてひとつのドラマとして成立していて大変感心した。パフォーマンスを演じた数人の中には、D君がいた。彼は毎年のようにパフォーマンス担当として登場したが、その演技力は抜群で会場の注目をよく浴びて観客を沸かせてくれた。このD君の芸達者振りに何時しかわが家族は彼のファンになっていた。この度もなかなか演技でその存在感を十二分に発揮していた。

そして「シング・シング・シング」に曲目が移った。E君の確かなリズムを刻むドラムのソロから導入し、金管低音部のリフに続いて軽快なテンポでメロディーに進んで行く、SクラのF君がソロを勤め、再び金管から木管へ、そしてまた金管への長めのリフがあり、再びドラム・ソロへ、そして元部長G君が登場しトランペット・ソロ。G君はいつも明るくて冗談好きで彼らの学年のムードメーカーであり中心的存在だった。見事なソロを聴かせてくれて、そでに退場した。そして、最後にRの予告通り、クラリネットのソロとして登場。親としては緊張して見守ったが、淀みのない指さばき・音色もまずまず、そしてブレイクしていく直前の高音も切れることなく出して無事終了、嬉しそうにガッツポーズをして自分の位置に着席。会場から大きな拍手をいただいた。

“へー”と思った。これまで親の前ではほとんど楽器を演奏しないので彼の実力の程は全く分からず、奴の言っていることは大口かホラではないかと半分差し引いて聞いていたのであったが、それなりの演奏をしていたようであった。

その後もポップス曲をメドレーにして、数人の部員が最前列でパフォーマンスを繰り広げ観客を沸かせた。そこにも私が知る生徒君たちが登場したのだが、夫々成長過程でのドラマがあり、ここに記したいのだが、これ以上は書くのは止めておこうと思う。

その他にも高校総合文化祭のテーマ曲「翔~未来への道~」や、「翼をください」の楽器伴奏つきの合唱などが最後の方で披露されたが、こういう合唱曲は子どもが吹奏楽をしなかったら絶対に聴く機会などなかっただろう。これらの曲は彼らの年代に相応しい曲で、彼らが演奏するからこそ心を打つものがうまれてくるのだろうなと思った。特に前者の曲は、地元の高校生が作詞・作曲をしたらしい。結構好きになっていて時々私の頭の中で鳴っているw。

最後にアンコール曲を2曲やって、そしてフィナーレとして「In The Mood」を演奏して拍手喝采のうちにRたち学年の最後の定期演奏会は無事に終わった。

2日目の終演後、生徒たちを学校まで送る係りを仰せつかり、数人の生徒をクルマに乗せて短いドライブをした。どの生徒君たちにも満足そうな笑顔があり、夫々に感想を言い合っていた。助手席に座ったH君は、最後の曲でバリトンサックスのソロパートを担当した。既に顔見知りであったので、私が「この後の反省会で、泣いてしまうだろう?」と冗談半分で聴くと、「ボク、もう出だしの曲から目が潤んでしまって仕方なかったんです。非常にやばかった」と半泣き半笑い状態で応じてくれた。後部座席に座ったC君は私に気を遣ってくれたのか、「いやあ、今回はRに持って行かれちゃったなあ」と声かけてくれた。「いやあそんなことないよ。今回もC君のアルトはばっちり決まっていたよ」と応じると、バックミラー越しに、ステージ上では見せない幾分幼さを残した笑顔を覗かせてくれた。


彼らの演奏会の反省会後、高校3年生のメンバーと数組の親たちでささやかな打ち上げ会を催し、その会を午後9時過ぎに解散。別れ際に元部長のG君にこれまで次男たちの学年を率いてきたことへの労いとお礼を伝えると、彼は「おとうさん、ボク達、後3か月は続けますから」と力強く返事をしてくれた。



そして打ち上げ会場となったレストランの前で、なぜ彼らが知っているのか不思議だったのだが、尾崎豊さんの「卒業」を皆で合唱して解散したのであった。

これから彼らは、夏休み期間に幾つかのイベントをこなした後、吹奏楽コンクールの県大会・地方大会に臨む予定となっている。彼らの先輩たちはこれまでに全国大会出場を何度か果たしたのだが、丁度彼らが中学部に入学して以来5年間は地方大会止まりで敗退し、高校3年生はそこで涙し部活から卒業していった経緯があった。G君の「後3か月」とは、10月に開かれる全国大会に出る!という力強い宣言であったのだ。


一親として「おいおい、君ら受験勉強はどうすんのw!」と突込みを入れたくなる言葉ではあったが、G君のその心意気には感心せざるを得なかった。

“でも彼らだったら、それをやってしまうのだろうな”

バカ親として感じるに、今の彼らだったらひょっとして長年の夢であった全国大会出場を実現させてしまうのだろうなと若いエネルギーの塊のような連中を見るにつけ、“それはそれでまあ良いか”と肯定的に思えるのであった。

(おわり)


追記;本来であれば、彼らが所属する吹奏楽部の顧問・参与の先生方への感謝の気持ちをきちんと表明しておきたいのであるが、G君の弁を待つまでもなく彼らはまだやる気のようであり、もうしばらく彼らの吹奏楽物語は続くようである。彼らの物語がひと段落した時に感謝の気持ちを何処かで書いてみようと思う。




2016年7月19日火曜日

Rたちの夏(1)


私は、Rが中学・高校で吹奏楽部に所属するまで、日本全国でこれほどまでに吹奏楽が部活動として或は音楽活動として盛んであることを知らなかった。毎年この時期になると、各中学・高校の吹奏楽部員は、全国吹奏楽コンクールの出場を目指して各地方大会に臨む。夏休み期間に入ると、彼らは朝早くから夜遅くまで練習漬けの毎日を送ることになるのだろう。



Rは幼稚園時代からピアノを習い、クラシック音楽が好きな少年であった。彼が小学校高学年時にある音楽イベントで、彼が後に進学することになる男子校で中学高等学校の吹奏楽部の演奏を聴いて以来、そのクラブに所属することを夢見るようになった。しばらくしてその学校に進学することになり、迷わずそのクラブに所属するようになった。担当楽器はクラリネットで、その理由として、ひとつは本人の口がこの楽器に適していると顧問の先生に判断されたこと、そしてもう一つは、本人の密やかな野望として、そのブラスバンドのコンサートマスターになりたいという願望があったからである。吹奏楽においては、クラリネットがオーケストラにおけるバイオリンパートに似た役割を担い、ステージに向かって指揮者の左側に座ることが多い。自然とクラリネットのトップが指揮者の直ぐ左に位置することになり演奏中には他の奏者への合図出し、普段の練習においては、基礎合奏中の監督を行うが大きな仕事のようだった。

 彼が所属する吹奏楽部の大きな活動としては、夏期に行われる定期演奏会、夏の吹奏楽コンクール地方大会、冬の小楽器編成によるアンサンブルコンテスト、その他23のイベント演奏、冬場の短期合宿などがあった。

 その後月日が流れ、Rは途中で挫折することなくむしろ益々音楽にのめり込み、クラシックのみならず、吹奏楽からジャズ・ポップスまであらゆるジャンルの音楽が好きになった。途中で、他の部員間で起こるこの年代特有の様々な葛藤(顧問の先生への反抗心、部員間の争い)を経験しつつも、やがてその葛藤は嵐が自然に去っていくように、部の先生への反抗心は尊敬と信頼へ、部員同士の反目は、友情と集団内の凝集性に変わっていたようである。

 昨夏、Rたちの学年は高校2年生になり、定期演奏会の実行委員として演奏会準備と運営に協同し、昨秋3年生の引退と共にクラブ中心となった。彼らは益々同輩との絆を深めつつ、Rは無事に、その吹奏楽部のコンサートマスターのポジションを射止めた。

 その頃になると、Rはあの年代特有の自我肥大もあり、親子のバカ話の中では、「実技はともかくも1、楽理については音大受験レベルにまでにはなっているよ」などと大きなことを言っていた。

ある時、クラブの先生が雑談の折に、彼の高校卒業後の進路希望について何気なく尋ねたところ、彼は一般学部への進学を考えていると躊躇いながらも答え、普段から彼の音楽好きを理解してくださっている先生に少し意外に思われたようだった。


実は二親とも、本人のここまでの音楽への傾倒と日頃勉強を疎かにしている様子から、何時本人が音大進学の希望を言い出すか覚悟していたのであるが、その話を本人から聴いた時には拍子抜けするほどの驚きがあった。何度も本人に確認したのであったが、本人は「音楽で喰っていくなんて、プロはそんなに甘い世界じゃないんだよ」「俺は一生音楽好きでいたいだけなんだ。プロレベルのアマチュアを目指す」と返事した。


“なんだかな。”である。彼の考え方は現実的ではあるけれど、夢がないと言おうか。だからと言って、本人がその気になっていないのに、厳しいプロの世界を目指せなどとけしかける訳にも親としては出来ず……

高校3年になり、進学を意識した同学年の数名は早期引退として部活を止めて、それを横目に見ながら、本人は「コンマスとして俺が途中で辞めるわけに行かないだろう」と最後まで部活を続けることを宣言。同様に“残留を決めた”十数名の仲間と最後(夏の定期演奏会と吹奏楽コンクール)まで部活動を続けることになったのであった。

二親としては、一般大学を受験することに本人が決めたのだから、“良い処で部活の見切りをつけてくれれば良いものを”と陰でぼやくのであったが、本人の気持ちが変わらないものを強引に辞めさせる訳にも行かず、結局のところ本人の納得するところまでさせざるを得ないと思い定めることになった。恐らくは、最後まで部活を続けることを決めた他の生徒の親御さんも同様の想いを抱かれたことだろうと思う。




そんな風に時間はまたしばらく流れて、次男たちの最後の定期演奏会が開催される時期がやって来た。彼らの定期演奏会は、市内のホールを借りて2日に渡る2回公演で、1公演は、2部構成で1部が毎年のコンクール課題曲と自由曲、男子四部合唱、その他吹奏楽曲やクラシック曲を演奏、2部はジャズやポップス曲、そしてテーマを決めたポップスメドレーに被り物やダンスありのパフォーマンスを絡ませた出し物など硬軟織り交ぜて観客を楽しませてくれる。最近は、結構な人気を博しているようであり、同じ学校の生徒や部員の家族以外にも市内外の中高生の吹奏楽部員たちや一般の愛好者のヒト達も観に来るイベントになっていて、2回公演とも2000人収容のホールがほぼ満杯状態となっている。これは生徒たちの努力だけではなく、彼らの先輩たちが築き上げた伝統と云って良いであろう。

家族にとっても、この定期演奏会を観に行くというのは、ここ数年の大きな楽しみになっていたのであったが、次男は毎年、演奏会前にどんな曲目やパフォーマンスをするのか一切事前に知らせず、演奏会に行ってみて始めてその内容を知ることになった。そこには10代男子特有のエネルギーとユーモアが感じられて毎年私の中の忘れかけた何かを思い出させてくれて大変感動を覚えたものだ。

例えば、今では合唱曲として人気がある「翼をください」を聴いて何の感動も覚えなかったが、10代のオトコどもが四部合唱で真剣に歌っているのを聴くと、毎度不覚にも目頭が熱くなってしまう。

また、何よりも管楽器特有の美しさや、それまでに馴染みのなかった吹奏楽曲の良さにも気づかせて貰った。管楽器は、弦楽器や鍵盤楽器と違い、楽器から単音しか出ないものの、ヒトの吐く息によって音が生まれて消えていく性質の中に美しさや魅力があるのだということを知った。そのような特徴を持った管楽器たちがハーモニーを作る時に管弦楽とはまたすこし異なる魅力を発することも理解出来た。

Rは今年の定期演奏会についても、事前にほとんど何も教えてはくれなかった。6月の或る日、夕食後何時ものように次男がi-phoneをヘッドホンで何かの曲を聴きながらくつろいでいた時に、「パフォーマンスには出ない。最後だから演奏に専念する」「後輩の実行委員がシング・シング・シングをすると言ってくれて、クラ・ソロを貰う事になったから」とだけボソッと何時もの調子で不愛想に短くいうのみであった。



(つづく)

2016年7月15日金曜日

Mr. Flying Businessman


 

(※一度書いた下書きを何かの弾みで消失してしまったので、全面的に書き直したのだが、どうも一度書いたものを書き直してみると、初回の勢いはなくなってしまった。)



本日は、広島地方は曇り時々晴れで、多少湿度は高かったようであるが、気温は然程上がらず最高気温は278℃ぐらいだったか。夕方には、涼風が吹いて何やら盆過ぎの風情であった。梅雨前線は太平洋上に停滞しているようでで、大陸性高気圧のなせる業だった。何時になったら梅雨が去ってくれるのか、或は昔20年数年前に経験したような梅雨がさらないまま夏が終わってしまうのではないかと多少心配であり、すっきりとした気分にもなれない。



今週月曜日に、関東在住のコウスケより突然messengerで、「水曜日に広島に出張となったが、ついては夜独りで呑みなおせる良い店は知らないか?」と連絡があった。



“コウスケ、広島に来るのか。オイラを誘わずして水臭いな”との旨返信したところ、コウスケは、仕事上の付き合いの宴会があり何時終わるか分からないこと、当方も多忙であろうから遠慮したのだと応じた。



“多少遅くなっても良いから、少しの時間でも会おう”と更に返信したところ、彼は了との事だった。



コウスケは、自転車仲間のGilberto’sつながりの友人で、10数年前にJoao Gilbertoの来日公演の際にジロウの紹介で知り合いとなった。最近ではサイクリング大会で同行したり、Samba Jazz PianistMikaさんの岡山公演で一緒に楽しんだ。一度は私の東京出張の折に二人で呑んだこともあった。普段は彼の音楽や古い映画或は居酒屋に関するツイートを楽しませて貰っている。明るく楽しいヒトで酒席でも座持ちも良いし、また対人関係に目配りが良く効き、また物事の段取りもしっかりとしていて、私のようなずぼらでぼさーっとした奴からみると尊敬に値する人物である。前回彼に会ってからもう1年以上も経っていたので、折角彼が広島に来るのだから一目でも会っておきたいと思った。



コウスケからの連絡が入った直後に自分の予定表を見て、その夜フリーであることを確認したつもりでコウスケに会おうと返信し、早速イチロウに「コウスケが来るから、夜遅いが会いに行かないか?」と誘ったところ、彼も二つ返事で「そうしようか」と応じた。私が、更に「twitterを観るに、コウスケは最近日本各地に出張しているみたいで、超忙しそうなんだよな」と加えると、イチロウ「そうなのか。じゃあflying businessmanなんだな」と言った。



Flying Dutchmanならぬflying businessmanね、良いね。良いタイトルをありがとう」と応じると、イチロウ文字通り鼻白む表情を作り、「うん?チェッ。」と何事かを悟ったかのような反応を示した。そう、私は、このblogにコウスケとの束の間の邂逅の模様を書くのに、そのタイトルとして“Flying Businessman”とすることを咄嗟に思いつき、その事をイチロウが素早く察したのであった。イチロウ「あのさ、Flying Businessmanはもう登録商標にしているから、もうマサキは使えないのw」と笑ったが、「いやいや、もう使わせてもらう事に決めたぞ。アリガト。」と応じたのであった。



その後、他の業務上の予約が入り、その調整のために改めて自分の業務予定表を眺めていると、1週間分の予定を見誤っていることに気が付き、なんと!コウスケが広島へやってくる日は夜の職場留守番が組み込まれていることを再認識した。慌てて他の同僚に留守番日を交代して貰えるように交渉してみたものの、その同僚も当日所用があり変更困難であることが発覚。



万事休すであった。如何ともしがたかった。うーん残念、断腸の想いでコウスケに断りのメッセージを打電。しばらくしてコウスケより「やむなし。次回のチャンスを楽しみに待つ」と応答してくれた。



私としては、Flying Businessmanがちょっとした幸せを運んできてくれたのに、私はそのちょっとした幸せを受け取れぬまま、彼が目の前を通過し飛び去って行ったような、そんなイメージを抱いてしまい、軽い喪失感を覚えたのであった。



“あーあ。”



“でも、まあ何時かGilberto’sが存続する限り、彼に会うチャンスはこれからもあるから彼が云ってくれたように次の機会を楽しみに待つか。”そう思い直し再び日常の生活に戻ったのであった。



さて、コウスケと会う筈だった水曜日の翌日、昼休みにtwitterを眺めていると、彼が幾つかのツイートを残しているのを知った。どうも、前日の晩は広島の新名物つけ麺をシメとして食べて宿泊先に引きあげて、その日は午前中に広島の老舗ラーメン店「陽気」の中華そばを食し、その後広島駅近くに移動し老舗喫茶店「中村屋」の“冷コー”で喉を潤し、更に流れてその近隣の呑ん兵衛の間では有名な大衆居酒屋「源蔵本店」で昼呑みをして、昼過ぎの新幹線に乗り意気揚々と広島を去ったようであった。



流石コウスケ、“通”としての嗅覚鋭く、ツボはちゃんと抑えて引きあげて行った。“やるね。全くお見事である。”

私には、彼の24時間+αという短時間で広島滞在中に残して行った彼の行跡がとても鮮やかに思えて、まるで夏の青空に描かれた飛行機雲をみるような爽やかな気分を覚えたのだった…..

 


って、こんな表現余りにも大げさでクサ過ぎるか()

(終わり)






2016年7月10日日曜日

イチロウ行状記~ごっこ遊び編②~



イチロウの作った俳句に対して「国文学者李澤京平教授」を真似て、パロディー解説を書いて遊んだみたところ、イチロウ自身に笑ってもらえた事に気分を良くして、更に新たなネタはないかしらと思案したところ、ひとつだけ見つかった。

 先週末イチロウが北海道のサイクリング大会に参加して帰ってきた時に、私に道東からのお土産として食べ物を二品持ち帰ってくれていた。袋ごと渡してくれたので、その場では中の物を確かめず、帰宅後その袋の中を確かめて驚いたというか笑ってしまった。その二品とは「エゾシカのカルパス」なるものと「毛ガニ汁」というものであった。

 毛ガニについては、これまでにも食べたことが有るので良かったのであるが、エゾシカの肉で作ったカルパス(サラミみたいなもの)は初めて見る食べ物だった。エゾ鹿は確か夏がシーズンだったような気がする。何時か夏期に、フレンチレストランでコースのメインディッシュとしてエゾシカ肉のステーキを出されて食べた記憶があるが、その時に私にはどうも“濃い味”のようでちょっと辛かった。食後のデザートが更に濃厚なチョコレートケーキで、口と胃の中がいっぱいで、それ以来出来れば鹿肉は避けたいなと思うようになった。

 そもそも私は、ジビエなど野山の獣肉やその他普段食べ馴れていないものを食するのが大変苦手で、イチロウから何時も「このお口王子野郎w」と笑われていた。イチロウは、食に関しては大変おおらかというかタフな舌を持っており、獣肉を始めその土地土地の珍味を何でも食すオトコである。ハチの子、イナゴは平気であり、多分大陸の奥地でムシやクモや羊の脳ミソが出されても、或はどこかの島嶼地域でアザラシや名の知らぬ軟体生物を出されても、現地のヒト達が旨いと云えば、彼も喜んで食べるであろう。

 私の軟弱な舌を彼から「お口の王子様」と笑われているものだから、この度のイチロウの道東行きの際に、私が趣返しと言わんばかりに「俺の土産は気にしなくて良いから、紋別に行ったら、エゾシカ、熊肉、トド肉なんでも好きなだけ喰って来いよw」と言い送り出していた。そういういきさつがあったのものだから、この度イチロウがそのお返しとばかりに「エゾシカのカルパス」を持ち帰ったのには笑ってしまったのだった。このイチロウめw。

 これをネタにしようと決めたのであったが、元歌を作るところから始めなければならず、暫く頭の中をこねくり回して以下のような歌を作ってみた。


蝦夷地より 持ち帰りし その品の 由尋ねて 君を想わん
                       (佐々木朝臣雅紀)


我ながら下手くそな短歌である(といえるかどうかの代物である)。あれこれと語句を足したり引いたりしてもこれ以上の歌は思いつかなかった。取りあえず、架空の歌はこれにして、次に「国文学者 李澤京平教授」が言いそうな解説文を作ってみた。


(国文学者 李澤京平教授の解説)

この歌は、古今東西和歌集に採録されている一首なんですねえ。佐々木朝臣雅紀は、当時瀬戸内地方の国人だったようですねえ。余り資料が残っていないのですが、同時代の安芸国日記なる記録にこの人の名が出ているので実在の人物なんですね。

業績といえば「イチロウ行状記」なる文章を遺しているようですが、余り広くは知られておりませんで、一部の研究者が知る所謂知る人ぞ知るという人物です。この人の友人に井筒朝臣一郎宜仁なる人物が居ましてえ、今述べましたイチロウ行状記の主人公なのですが、このヒトが、ある時朝廷から蝦夷地討伐の命が降りまして、弟ジロウとともに蝦夷地に渡ったわけですね。その模様については、「イチロウ行状記」の一部が散逸したらしく、まだ発見されていないわけなんですが、どうも首尾良くイチロウ一行の遠征は目的を成就したようです。そこで一郎宜仁が、機嫌よく雅紀に蝦夷地でのお土産として酒の肴を求めて持ち帰ったのが、これですね。

図録1をご覧になって下さい。先に述べた安芸国日記に、朝臣雅紀の日頃の食生活に触れられているところがございまして、そこを拾い読みしますと「雅紀、もっぱら質素なる食を好み、獣肉これを忌み嫌う。ヒトこれを見てお口長者と笑う」とございます。みなさんもう一度図録1をご覧ください。おわかりですねえ。エゾ鹿の干し肉だったんですねえ。親友である一郎宜仁が長い遠征から無事でしかもご当地のお土産まで携えて帰ってきたよ。恐らく雅紀は殊の外嬉しくその気分のままお土産の包装を解いてみたら、苦手な獣肉だったということなんですね。末句の「君を想わん」なんて強い調子で終わってますねえw。雅紀のその時の気持ちがよく表れていると同時に、それを知りつつ、持ち帰った朝臣一郎宜仁の茶目っ気、笑い顔がこの末句から伝わって来るでしょう。

遠方から帰還した親友の無事を喜び、土産に感謝しつつも、その土産の前で目を白黒させている朝臣昌平のユーモラスな様子が笑える活き活きした優れた歌ですねえ。男同士のユーモアに溢れた友情は昔も今も変わらないことを我々現代人に教えてくれていますですねえ。

そして、結局雅紀はこの品をどうしちゃったんでしょうか?そこを想像すると更に笑えますねえ。

以上です。ご清聴ありがとうございました。

 と言った後で振り返ってみると全く下らない文章をF.B.のグループにUPしてイチロウに見せたのであった。


翌日職場でイチロウから「昨日の李澤京平教授シリーズ、なかなか面白かったじゃないか。」との感想があり。つづけて「で、あのエゾシカ・カルパス結局どうした?」と私に質してきた。

 「え、まだ食べてないぞ。」と私が応じると、

 イチロウ「なんだと。折角、マサキの事を考えて、トド肉カレー、クマ肉の大和煮もあったところをパスしてやって、エゾシカ・カルパスにしてやってたんだからなあ。だめだな、マサキは、お口王子だな。情けないよ、全くw」と笑っている。

 私は「いやいや、食べないとは言ってないじゃん。今晩ちゃんと試してみるからさ」とやや答えに窮してしまった。

 “しまった、墓穴を掘ってしまったわい。”“そうりゃそうだよな。折角北海道からお土産は買って帰ってくれたんだから、食わず嫌いせずに、ちゃんといただいてイチロウにその感想をいうことにしないとな。”

 その夜、夕食後に酒のツマミとして、「エゾシカ・カルパス」の袋を開けて、恐る恐るその一つを口にしてみた。“ふむふむ、イチロウが云う通りにこりゃサラミみたいなもんだな。”“うん?しかし、この後口に尾を引いて残るような風味は………、むむ。うーん、これはやっぱり。難しいなあw

 私は急いでウイスキーのソーダ割を一気に呑みほしたのであったw。



(終わり)




イチロウ行状記~ごっこ遊び編~


本日広島地方は、天気予報では晴れとのことであったが、予報に反して朝から曇り空で蒸し暑く身の置き場に困るほどである。世間では通常参議院選挙の投票日であるのだが、生憎私は職場でのお留守番で投票に行けず仕舞いになった。


多分イチロウは、投票を済ませてどこかへ自転車でトレーニングに出かけることだろう。彼は、石見グランドフォンドミドルコースに参加した後も手を緩めることなく、自転車トレーニングをコンスタントにこなして過ごし、先週末はジロウと道東で行われたサイクリング大会に参加し130㎞強ほど走ってきた。そしてその後も休む間もなくほぼ毎日天気が許す限り自転車トレーニングをして過ごしている。

先日も、彼は仕事の所用で職場から自転車で出かけたものの、出先から職場に帰る途中で、ディスクブレーキが故障し走行不可能となり、約3㎞の道のりを自転車担いで帰ってきた。全くもって“お疲れさま”と言いたくなる状況を、彼は“いやあ参った”と言いつつもどこか楽しそうな様子である。



彼は、年間を通じて56大会程度のサイクリング大会に参加することを目論んでいるようであり、次回は9月末に関東で開催されるヒルクライム大会に出場する予定にしている。その大会は、彼自身が当初予想していたよりも遥かに過酷な設定で、素人サイクリストの中でかなりの上級者向けとなっているようである。ジロウからその大会の詳細な情報を聴くにつけ、彼なりに緊張感とモチベーションを高めているようなのである。



「だめだ、だめだ。こんなものじゃあ、設定時間をクリア出来ねえ。」と弱音を吐きつつも、それでも休日になれば12030㎞の山坂道を走り、普段は昼休みの1時間程度を使って職場近くの山坂道を走っている。また、自転車をこれ以上軽く出来ないとなれば、御自らの体重を減らすとのことで負荷を軽減しようし、この4月からは昼食を摂らずこれまでに軽く5kg以上の減量にも成功していた。

ここのところの彼の自転車に注ぐ情熱そして努力については、はたで見ていてただ感心するばかりである。

さて、そんなイチロウが、ある日昼休みを使って猛暑の中を自転車で山坂道を走っている時に、ふと足を止めて詠んだ俳句を二つの写真を添えて彼のF.B.upしていた。




「ヤマモモの 脚休めよと 路しるし」



文学的素養のない私には、この句の良し悪しを適切に論評することが出来ない。ただ正岡子規以来の近代俳句においては写実的な句、読んだ瞬間にその五七五で表す情景が眼前に広がるような句が大変良いとされていると何かの本で読んだことがあった。

その点において、イチロウの作ったこの句を読むと、彼が山坂道の途中でふと足を止めて見た光景と心情がこちらにも伝わってくるようで、ちょっとした感動を覚えた。その句に対して、数人の方が「いいね」を押されていたのだが、特にコメントもなかったのでちょっと勿体ない気がし、何か私なりの感想を書きたくなった。他の方も閲覧されるところにupされていたので、私の感想を他者に見られる気恥ずかしさもあり、どのように書くべきか暫く逡巡したのだが、ある良いアイデアが浮かび、このアイデアで書けばイチロウも分かって笑ってくれるだろうと期待し以下のようなコメントを投稿したのだった。



<国文学者 李澤京平教授の解説>


え〜と、この俳句は所謂“詠み人知らず”、の句なんでございますねえ。明治中期から後期には一般に広まった句で、どうも“同人誌「ウグイス」でも取り上げられた”と言われているのでございます。
季節は丁度この頃、猛暑の昼下がり蟬しぐれの山坂道をえっちらおっちらと自転車を漕いで青年が登ってきて、峠でその両脚の疲労に耐えかねて、思わず自転車を降りてしまった。「いやあ、己の鍛錬がまだまだ足りんわい」と青年が己の力量に嘆いて、ふと下を向いたところ、何と車輪に押し潰されたヤマモモの実が転がっていたわけなんですねえ。その青年は、子どもの頃から野辺にある植物の実を口にしては、「これ食べられる。」「これまずい。無理。」と学習してきておりましたのでえ〜、その頃にはヤマモモのあの酸っぱい味にも慣れ親しんで大好物になっていたのでございます。青年が、慌てて上を見ますとお、まだまだたわわに実ったヤマモモの木があるじゃあございませんか!
それを見た青年が思わず生唾を飲み込んで、子どもの頃に味わったヤマモモの味を思い出したのでございます。ですから、この場合「ヤマモモ」とは己の童心のメタファーになっていまして、「脚休めよ」とは“一生懸命に物事に打ち込むのも良いが時には休めよ”、と。そして「路しるす」とは、“熱気で焼けた路が潰れたヤマモモの汁を吸う”にかけつつ、一生懸命に何事かに没頭して乾き切った心にヤマモモの実の汁、即ち童心の心をもう一度染み渡らせよ“転じて“童心の時に抱いた夢、そしてその後の生き様をもう一度心に刻めよ”、とこうなる訳でございます。ですから、「一生懸命に生き急ぐなよ。時にふと脚を止めて童心に帰って、己の生き様を振り返ってみなさいよ」とそのようにこの句を読むことが出来る訳でございます。

この歌の精神が、行き急ぐかのように明治維新から文明開花・富国強兵と足早に近代化・西洋化していく明治期の日本人のココロに強く響いたようなのでございます。一説には、夏目漱石がこの句から大いに刺激を受けてえ、彼の近代日本に対する思索を深めていったとかいかなかったとか言われているのでありますが、残念ながらそれを裏付ける資料は残っていないのですねえ。
なお、実際のこの青年が、ヤマモモに目が眩んで、思わず口いっぱいにその実を食べてしまった事実は誰も知らないのでございました。

以上でございます。ご清聴ありがとうございました。



この国文学者 李澤京平教授なる人物は実在のヒトではなくて、20149月から約1年間に亘り毎週日曜日2315分~2345分までフジテレビで放送された「ヨルタモリ」というバラエティー番組の1コーナーで、タモリが演じたキャラクターである。百人一首をパロディーにしてそれらしく李澤教授が解説していてクスクスと笑えた。ご記憶の方もいらっしゃるだろう。そのコーナーを含めイチロウと私の大変お気に入りの番組であった。

私のパロディー解説をイチロウも分かってくれたらしく、彼の評価も「最高じゃねえか」との事でまずまず気に入ってくれたようであった。私はイチロウにそれなりに喜んでもらえたことで更に気分が良くし、この李澤京平教授ネタをもっと書きたくなり、新しいネタを探し始めたのであった。

(つづく)