2020年1月23日木曜日

「ひとり遊び」或は「老いのフォークテイル」

昨年は、あまり自転車に乗らなかった。自転車に乗ることに飽きた訳ではなかったのだが、今となればその理由を明確に述べることが出来ない。仕事の事情や気象が大きく影響したような気もするし、家族関係の変化~子どもの成長と共に家族としての凝集性が低くなってそれが故に無意識ながらに家族の用事に出来るだけ付き合った~が影響したのかもしれない。

一方で、先日次男と遊んだ際には彼から「最近は自転車に乗っているのか?」などと聴かれ、家族内では自転車に乗ることが私の唯一の趣味と認知されているようだった。

今年は、すこし自転車に乗ることに時間を割いてみようかと思う。自分の中では2年前の夏あたりが自転車体力のピークだったと思っているのであるが、年を経るにしたがって、確実に体力は落ちていくわけで、決してその時のピークまで回復出来ないにしても、その折々の体力で自転車に乗ることにすれば良い。のんびりとその時の己の体力の限界と会話しつつ楽しめば良いのではないかと思っている。



119日(日曜日)、天候;曇り時々晴れ、気温11/3℃。

午前7時過ぎに起床。体力的な自信がなく前日まで目的地コースが定まらない状態であったが、同じ体力がないのであれば、寒い中を平坦な道をだらだらと走るよりは、ゆっくりと山坂道を走る方が良いのではないかと次第に思うようになった。この理由付けはちょっと変とおもわれるだろうか?平坦な道であればずっとペダルを廻していないといけないが、山坂道では、登坂はペダルを廻してしんどい想いをすれど体は十分に暖まり、下り坂になれば脚を休ませることが出来る。山坂道を繰り返せば、道程の半分は休めることになりそう(笑)。

と、いうわけで、起床後洗面と簡単な朝食を済ませ、冬用ジャージに着替え、午前750分頃に自宅を出発。ウォーミングアップに西広島駅から畑峠に向かう。ゆっくりとしたペースで、前半なだらかな坂、後半つづら折りのやや急坂を上る。午前830分頃、畑峠に到着。小休止し水を入れ、疲労対策にアミノサプリを補給。再び自転車に跨り、峠の反対側の広島市立大から大塚交差点に向けて、ゆっくりと下る。


大塚の交差点に到着したのが、午前840分頃。ここからA-CITY~団地こころに上がるダラダラ坂の登坂開始。この辺りは、綺麗に整った住宅街で幅の広い歩道があるのが、この坂は、一見穏やか坂なのだけれど、団地こころに到達する頃には両脚に疲労を貯めてしまう箇所。この辺りの住民の方、学生さんたちが何気なく普段の通勤・通学に利用されている坂なのだけれど、この登坂は結構きつい、皆さん本当に偉いなあと思ってしまう。と、その日も同じ感想を持ちつつ、やはりゆっくりと登坂する。この坂を乗り切ると、団地こころを抜けて、伴~戸山道へ向かう。

この伴―戸山線の坂は、前半は緩やかな坂であるが次第に勾配が増し、最後の1/5くらいが10%以上急勾配の坂道。時に他のチャリダーにかわされるととてもがっくり来るのであるが、幸い冬の山道を上ってくるチャリダーは皆無のようであり、安心して自分のペースで登坂することが出来た。峠ピークで、休息も兼ねて写真を一枚。再びチャリに跨りやや急勾配の下り坂を戸山地区の三叉路まで下る。戸山地区三叉路には、午前930分くらいに到達。


ここから、その三叉路を右折し伴地区に下りていくコースを辿る(即ち、楽なコースを選ぶ)誘惑に駆られたが、伴地区から自宅に向かうには、私にとっては鬼門の五日市インターから西広バイパスに向かうダラダラ坂を通らなければならない。この道は、通学中の電動チャリに乗ったJKと戦う可能性あり。こんなことを気にする私は本当にバカだと思うのだけれど、疲労困憊状態の時に、電動チャリに乗ったJKと遭遇するのは嫌である。彼女たち結構早い。追い抜くことが出来ず、その後塵を拝するカッコウになれば、不様というか不審なオッサンに間違われる可能性あり。過去のばつの悪かった思い出が蘇り、戸山地区三叉路を左折して、湯来・湯山街道方面に気持ちが動いた。


戸山三叉路から湯来湯山街道へ抜ける道は、ダラダラ坂の登坂と下りになっているのだけれど、前半の登坂は自分の脚力を確かめるのにちょうどよい勾配で、リズムよく登れると誠に気持ちが良い。この度、しばらくぶりにこの道を上ったのであるが、スピードは出ないもののインナーギアを使うことなく粘ることが出来、意外にもリズムよくそのピークまで登れることが出来た。若い頃のような爆発的なパワーは取り戻せないかもしれないけれど、持続力というか粘る力はこれからでも付けることが出来るのかもしれないと思ったりした。ピークに差し掛かった後は、ゆるやかな勾配の下り坂をゆっくりと下って行った。

午前105分頃に、湯来湯山街道の三叉路に到達。交差点脇にて自転車を降り、栄養補給を兼ねた小休止。サドルバックを開けると、レアチーズケーキバーなるものがあって、前日確認した時にはなかった筈だったから、てっきりイチロウがこそっと入れてくれていたのかと思い、彼にSNSで確認したところ「違うよ」と応答あり。じゃあ随分昔に入れておいたものを忘れていたことになるのだが、賞味期限大丈夫だったかしら。そんなアホな事を想いながら、大量の汗をタオルで拭きつつ休んでいたら、おそろいの黄色ジャージを着た若い衆3人組のチャリダーが、「こんにちは」と挨拶を寄越し、そのまま私が下ってきた戸山地区に向かう坂道を上がって行った。同じ方向に向かっていたら、軽くパスされていただろう、ヤバかった()


さて、これからどうしたものか? 

友和地区を抜けて山道を大竹市に向かう選択肢もあったが、予定時間を大幅に超過してしまいそうであった。家内に正午までには帰ると言って出て来ため、予定時刻に間に合うように帰るには極楽寺山を突き切って、帰ることがベストに思えた。じゃあ、そうしようということで、午前1015分頃に自転車に跨り、極楽寺山を通る国道を登坂開始。この道は両側を尾根が走り、朝方は遅くまで山陰になっており、その日は午前10時過ぎてもあまり日が射さしていなかった。辺りには一段と低い寒気が残っており、寒さが身に応えたが、登坂を続けるにつれ次第に全身から再び汗を出始めた。途中で標識に書かれている勾配は8%であり、その日辿ったコースの中ではここが最難所であった。

ゆっくりと確実にペダルを廻すことに意識を集中させる。この峠道のピーク前に小さな集落があり、その辺りから勾配は緩やかになるのであるが、この集落から峠までもなだらかな坂道が残されていて、呼吸を整えながらも失速させないために再度意識を集中させる必要があった。

最後はやや息切れをしながら漸く峠ピークに差し掛かる。午前11時過ぎに到着。暖冬とは云え、朝から山道を自転車で上がってくるなんぞ、傍からみればバカげているのかもしれないし個人的な達成感なんてものは、取るになりない遊びみたいなものなのかもしれないけれど、今日のコースの主だった箇所は大きなトラブルもなく順調にこなせたことには十分な満足感があった。


荒い呼吸と「 ギュッギュッ」という心臓の鼓動の高まりを聴きながら心肺の限界と、両脚の軋みから脚力の限界を感じつつ登坂を続ける苦痛と、その後に訪れる下り坂を重力に従って自由落下していく時の解放感と喜びは生の苦しみと死へのあまい誘いのようにも感じられる。若い頃に読んだ「臨死体験」の本によると、臨死体験における精神状態と坂道を下っていく時の解放感と悦楽感には共通する部分があるみたいだ。

そう思うと、私は老化という人生の下り坂を迎えて、遊びの中で死に向かっての予行演習を繰り返しているのかもしれないのだとも思える。

極楽寺山を廿日市市方面に下山しながら、そのような頭の中のお遊びをしていた。何時ものごとく下界に近づくと、交通車輛が増えて街の喧騒と人々の営みの中に戻ったような気がした。

その時に私の中に沸き起こってくる無条件の喜びに従って、いつものように宮島街道に沿った広い裏道を勢いよく駆け抜けていこうとしたが、この度は両脚の疲労が堪り思うようにペダルを強く踏み出すことが出来なかった。昨夏までは、極楽寺山の征服した高揚感から両脚に最後の力を籠めることが出来たものだったのに。


それでも、爽快な感覚だけは気分としてあった。これからは、体力は落ちていくかもしれないけれど、これまで以上に一人遊びをする時間は持てるわけなのだから、ゆっくりとした自分のペースで楽しめば良いのだと。そういう気分になると、昨夏までとは違うペースで気持ち良くペダルを廻すことが出来ていた。

午前1140分頃に帰宅。走行時間3時間50分程度。走行距離は測っていないけれど、まあ良いか。

追記;なんだか歯切れの悪い書き方になってしまった。ただ一つ明確に書き残しておきたいのは、これからも体力が低下しようが純粋にチャリを楽しみたいし、更に加えるとすると自分の老いの過程についても楽しんでやろうと思っているだと。





愚息と遊ぶ

山口県内の大学に進学した次男は、若い頃の私の気質に似てどこか軽佻浮薄なところがあり、社交性は私以上に活発なのであるが、どこか浮ついた、それ故に大小の失敗をやらかしてくれる奴だった。彼は進学した後は、親の目が離れたことを良い事に、何やら秘密裏に色々遊んでいるようであったが、この冬当たりから少し落ち着きを見せ、「我ながら愚かなことをした」と言いそれまでの金髪を切り、小綺麗な短髪に変えたのと、以前は私が送るLINEのメッセージにも反応が乏しかったであるが、この頃はそれほどの遅滞もなく素直に返事を寄越すようになった。

意地悪な見方をすれば、春休みを控えて奴なりの下心があるようでもあるのだが、全体的にはそれなりの年齢になって心境の変化・落ち着きも示し始めたのかもしれない。

地方で大学生活を送る青年に共通の悩みとして、都会に比べれば楽しみや文化的刺激が少ない様子で、彼はバイトとクラブ活動以外の暇な時間は、嘗ての私のように友人と県内の各所をドライブして(レンタカーや友人の車を使って)過ごしているのだという。本人の実力もあったのであろうが、不思議にも彼は自ら進んで地方の大学に進むこと選んだ。彼の青春時代が、地方の大学に進学し20代を地方で過ごした私のそれに似たようなものになりそうであることに、親としては悪い気はしていない。



この正月の連休中に彼から私に誘いがあり、二人きりで岡山市内から蒜山までドライブを楽しんだ。往きの高速道路は彼に運転を任せ、帰りは私が運転した。彼の運転については、多少ぎこちなさとちょっとした癖があり、助手席に私にとっては不安な面があったが、そこはあえて何も言わず、彼の運転に任せた。ドライブ中に問わず語りの彼の大学生活噺に耳を傾け、想像通り私の学生生活と同じような生活を送っていることに密かにニンマリとし、また、彼自身も多少なりとも共感の意を示す父親に悪い気がしていない様子であった。

112日-13日には、妻からの働きかけで彼の引越しの準備のために、彼の下宿先へ訪問した。次年度から彼の通うキャンパスが変わるために(無事に進級できればの話だが)引越しを年度末までに完了させなければならないことになっている。訪問の表向きの理由は、引越しに不必要な生活雑貨・衣類などを整理し実家に持ち帰るというものであったが、実質的な理由は二親が息子に遊んでもらうというものであり、その事は親子間で暗黙の了解になっていた。

次男は嫌がる様子もなく歓迎の意を表していたが、果たして私が学生時代に親の訪問をこのように歓迎していたかと云えば、全くそんなことはなかったから、彼の態度には内心驚いた。

初日は、妻の要望で下関に遊ぶことになった。途中、次男のリクエストで下関近くの川棚温泉街にある元祖瓦そば・「たかせ」さんに寄ることになった。なんでも大学からの課題で、「瓦そば」についてレポートを出さないといけないのだという。彼の大学には不思議な授業があり、「山口と世界」なる授業があって、山口県の近現代史・産業史・地理・文化について学ぶ課題があるのだという。

私がつい余計にも「まるで中高の社会科みたいやな」というと、彼自身は真顔で「オレも最初はそう思っていたのだけれど、おかげで俺みたいな余所者でも山口のことが理解出来るようになってな、ためになるし良い勉強になるわ・・・・」なぞと応じ、その彼の応答の様子から彼なりにその土地への愛着が芽生えつつある様子であった。入学した当初は、「もうこんなところに長くいたくない。何もなさすぎる・・・」と嘆いていたものだった。彼の心境の変化については家を出て他所で適応的に暮らしていく上で好ましい側面があり、男親としては「それはそれで良いか」などと思えた。

瓦そばは、山口県民の方々にとってはソウルフードのようで、地元のスーパーを覗くと、食品コーナーに瓦そば用の茹で麺が多く売られている。各家庭で休みの昼ご飯として頻繁に作って食べているらしいが、焼きそば用の瓦が各家庭で用意されているのかと思いきや、今ではホットプレートで調理されて食されているとのこと。私自身はこれまでに食べたことがなく、前々から気になっていたのであるが、今回初めて食べられることになった。


川棚温泉にある「たかせ」さんの創業社長がこの瓦そばを考案したと謳っていたのであるが、その伝来として明治10年の薩摩戦争の際に、従軍した兵士達が焼けた瓦の上で色々なものを調理して食べたことからヒントを得て茶そばを瓦の上で焼いて、そこに錦糸たまご、肉、ネギなどを載せて今のかたちにしたのだという。



「たかせ」さんの店構えは、なかなか立派で、雰囲気の良い古い建物とその敷地内にはちょっとした日本式の庭を設けられていた。私たちは、人数分の茶そばと私と次男用にこの店のもう一つの名物としているうなぎご飯(ひつまぶしみたいなもの)を注文した。瓦そばは、程なく我々の目の前に運ばれて来た。適当量のそばを箸で一掴みし、それを出し汁につけて食べるのであるが、これはこれで大変美味しかった。所謂ソース焼きそばよりも断然あっさりとしていて食べやすく飽きが来ないのが宜しい。私はとっても気に入った。またこの店に来訪したい気分だった。次男もこのソバが結構好きになっているらしい。よその土地の文化なり食べ物なりに愛着が持てれば十分に適応して暮らしていける。


妻がぼそっと何やら言っていたが、それは聞き流した。彼女の言動の中には、愚息がこの土地に染まる前に、地元に帰ってきてほしいという願望が見え隠れするのであるが、親元から離れて暮らし始めた以上帰って来るか出たままになるかは、本人が決めることで、その事を彼女も重々承知しているから、何やらぼそっと言う形になってしまうようである。

その後、私たちは下関に出て、唐戸市場をすこし見物した後、対岸の門司に向かい門司港レトロ街をしばらくぶらついた。生憎、天候が悪く、外は雨交じりの強い風が吹いていたため、妻は最寄りの土産物コーナーにとどまり、私と次男は門司港駅まで歩き、駅舎の中にあるスタバで一服することになった。そこで次男は時々大学の仲間と高速バスを使い博多まで遊びに出るのだという話をしていた。
〝それはそうだろうな(笑)“ いくら田舎暮らしの覚悟が付きつつあっても、偶には都会のにぎやかな刺激が欲しかろう。山口県西部は、北九州圏と言っても良く。実際に彼の同級の浪人生出身仲間の多くは、北九州地区から進学してきたようであった。また、息子のアパート物件を探した折に、不動産屋に聴いても、山口県の多くのヒトが特別な買い物をする時は、北九州・博多に出向くと言っていた。特に博多は学生にとって日本一優しい街とも聞いたことがある。彼も徐々に山口県民の皆さんに準じた生活に送るのであろう。それも宜しかろう。


しばらく二人で雑談をした後、一人土産物屋に残った家内のことが気になり出し、そのお店まで引き返すことにした。そのまま門司港駅を離れようとしたところ、次男が「ちょっと待ってくれ」と言い、駅構内を改札口に向かって歩き出した。見ると、プラットホームに「鹿児島行き」と書かれた列車が停まっている。そうだった、この駅は鹿児島本線の始発駅だったのか。暮れ始めた薄明りの構内に、幾つかの列車が停められていて、ちょっとした旅情を感じさせる雰囲気があった。次男はゆっくりと構内を眺めて写真を何ショットか撮っていたようだった。


「あのさ、この前は山口から鈍行で博多まで行ったんだけど、死にそうだったわw」。てっちゃんとまでは言えないものの、彼もまた電車が好きなようであり、旅情を楽しめる奴になっているようであった。〝そういう旅情を楽しめる情緒を持っているのってなかなか良いじゃないの!“





最後に、下関に戻り妻のリクエストだったフグ料理を食べて帰ることにした。事前にイチロウから教えて貰っていたフグ料理「やぶれかぶれ」さんへ向かう。このお店は、養殖ものを使い、リーズナブルな値段でフグの料理を提供してくれている。


店のもっと奥にあるい板張りの座敷に通されて、メニューを暫し眺める。その中に鉄焼きコースなるものがあって、珍しそうだったので、それを3人前注文。それとせっかくだからと焼き白子を一皿追加。残念ながらクルマで来ているのでアルコール類は頼めず、3人ともノンアルコールビールで乾杯。ああ、ひれ酒呑みたかった()


つき出しの皿、ふぐ刺し、フグの唐揚げ、鉄焼き(フグの薄く切った身を鉄板で軽く焼いて、それを焼き肉風のタレ、もしくはポン酢につけて食べる)、そしてフグ雑炊。お値段はとてもリーズナブル。一同大満足。妻より珍しくお褒めの言葉あり。


イチロウこの場を借りてお礼を言います。良いお店を紹介してくれてありがとう。嫁子が大変喜んでおりましたぞ(笑)。来冬も是非再訪したいお店でした。

その夜は、3人とも大満足し次男の下宿に引き上げたのだった。

翌日は、午前中は次男の部屋を掃除し引越しに不要となりそうな生活雑貨・衣類を整理。午後から次男をバイト先に送り届けて、二親は帰路に向かったのであった。

帰りの道中で、妻はいつの間にか素直になった次男に驚きを示していた。私は彼女の話を黙って聴きつつも、男親としていつの間にか次男と同じ目線で物事を語り合えるようになっていることに喜びを覚えたのであるが、そこには彼なりに己に対する自信が芽生え始めている様子が見て取れて、そのことに安堵する想いもあった。

この感覚は悪いけれど女親には分からないだろうなあ。これは妻には言わないでおこうと思う(笑)。

2020年 初日の出


私の2020年は職場で迎えた。大晦日を過ぎて元旦の午前2時頃に入眠したのだが、何故か午前650分頃に覚醒。ふと窓外を見ると薄っすらと明るくなってい、ひょっとしたら初日の出を拝むことが出来るかも知れないと思いついた。枕元に置いてあった携帯で当日の初日の出時間を確認すると、午前713分頃となっている。これはチャンスと思い慌てて上着を羽織り、戸外へ出てみた。東の方角にある山稜に沿ってオレンジから朱色の赤みを帯びたスカイラインがあったが、日の出までには時間がありそうであり、しばらく戸外で待つことにした。



初日の出を拝むことになったは、どのくらいぶりのことであろうか。例年大晦日は、アルコールをしこたま飲んで、元旦朝は寝坊をする事が恒例になっていた。学生時代に何度か友人と初詣~初日の出というコースをたどり遊んで以来であり、前回初日の出を拝んでから30年以上は経っていることだろう。



久しぶりに初日の出の瞬間を逃すまいと、ずっと目を凝らして東の空を眺めていたのであったが、〝日出ショー“なるものは荘厳なれども前奏時間が間延びしたように長く、今か今かと待てどもなかなか日の出は始まりそうになく暖冬とは言え朝の冷気は身体に堪えた。いよいよ日の出時間は近づいて、そして予定時刻を過ぎれども一向にお天道様は現れず、朱色からオレンジ色から黄色になっていく一点に目を凝らすことさらに20分、午前734分頃にゆるりとその姿を下界の者にお示し遊ばれた。一人静かな気持ちになって、柏手を打って、深く頭を垂れてこの1年のお祈りをしたところ、既にお天道様は完全に姿を現して、何事もなかったようにその一日の仕事を始めなさった。


〝初日の出ショー“は、呆気なく終わってしまったのだが、なんだか気持ちは改まったようなちょっと気持ちが引き締まったような気分にはなれた。

2020年はどんな年になるのか?個人的には大きな目標は立てないでおこうと思った。ただ、年々肉体は衰えども、気持ちは軽くおだやかでありたいと願うのだった。