2017年11月14日火曜日

東国への憧憬  


先週末1111日から同月12日の12日の旅程で、職域研修会に出席するため宮城県仙台市に赴く。「わざわざそんなに遠くまで出かけなくても」と家人なぞからは言われたのだが、今の私にはその「わざわざ遠くまで出かける事」が目的なのであり、早い話が日常生活から合理的な理由をつけて離れてみたいという想いがあった。

午前1150分広島駅始発ののぞみ号に乗り出発。昼時のため、缶ビール350ml、「鯛そぼろ飯」なる駅弁、「タコ天」なるおつまみを買い込み、旅のお供に池波正太郎の随筆「食卓の情景」。



車窓に広がる風景は秋の日差しを受けて明るく、空にはヒツジ雲が浮かんでいた。ひとつの懸念は東日本の天候が大陸からの前線の影響を受けて大荒れになる予報が出ていたことだった。



この度の旅行は、まあそんなことも見越して敢えて飛行機を避けて(確実に12日で旅行を終えたいがため)、飛行機に比べれば確実性の高いJRで移動をすることを選択したのだった。

秋の日差しを浴びながら、前日に私と入れ違いのように帰省してきた長男との昨夜の会話を反芻したり、前日までに職場でやり残したことがあったのではないかと少々心残りを感じつつも、広島から離れるにしたがって、気分は次第に日常の雑事から旅行に向いていた。

福山駅に到着し、隣席に誰も座らないことを確認したところで、缶ビールを開け、弁当を広げた。購入した「鯛そぼろ飯」、この度始めて食するのだけれど、これは絶品だったな。文字通り鯛の身をほんのりと甘めの味をつけてそぼろにしたものを寿司飯上に乗せたものでなかなか上品な味付けであった。



敢えて難を云えば、箸に乗せるとぽろぽろとこぼれやすいので、何かを読みながら片手で掬い上げることが出来ない。左手で弁当箱を持ち箸で口まで運ぶ作業が必要で、しまいにはご飯を掻きこむようにして食べてしまわないといけなくなり、他の事は中断して摂取することに集中せざるを得ない事だった。

折角、池波正太郎氏のあの独特の語りを楽しみつつ(しかも食がテーマ)に、チビチビとアルコールを入れて、ツマミを口にする、そういう旅の楽しみ方が出来なかった。確かに鯛そぼろ飯は美味であったが、これは私の選択ミスであった。

鯛そぼろ飯の摂取を終了した後、池波氏の語りを楽しみつつも、車窓からの暖かい陽気と満腹感で次第に眠気がやって来て、大阪から名古屋の手前までうたた寝をしてしまっていた。



広々とした濃尾平野、やがて浜名湖湖畔を通過して、静岡へ。進行方向に向かって左窓際の席から車窓を眺めると、円錐状の稜線が遥か前方にくっきりと見えた。これは僥倖、東海地方は澄み渡った快晴で、富士の稜線が綺麗に観える。静岡駅を通過する頃には、雄大な富士がくっきりと見えて、シャッターチャンスを待った。

ここ最近は、東国に出かける毎に天候に恵まれて、富士を眺めることが出来ている。どうも生まれも育ちも西国の人間(私)にとって、富士を眺めながら東に下ることほど気分が高鳴ることはない。往路で綺麗な富士を眺めることが出来ると、その旅が大変満足いくものに終わる予感がするのだ。

本当に何時眺めても富士は美しい。




満足のいく数枚の富士山の写真を得ることができた。

午後353分に東京駅着、午後420分発の東北新幹線はやぶさに乗り継ぐが、東北地方の強風のため出発時間が10分程度遅れるとの構内アナウンスがあった。ムム、そうか、東北地方は、天気予報通り荒れているのかと一抹の不安が過ぎるが、実際に東北新幹線に乗ってみると何事もなく運行している様子であった。地下を潜って、数分で上野駅。

本当に大変便利になったのものだったが、私の世代でも東への玄関口・関所として上野駅があり、西国への玄関口として品川駅というイメージがある。上野駅と聞けば、駅界隈の賑やかな雑踏と路地の視覚的イメージと東国への旅情を勝手に感じていたものであった。

学生の頃、一人旅で青森へ旅した時なぞ、上野駅の構内で青森駅行きの寝台特急を待っていると、如何にも東北から行商で出てきたという風情のおばちゃんたちが風呂敷包みの荷も背負って待っている姿を見かけ、『これから東北に出向くのだ』というある種の旅情・気分の高揚を覚えたものだった(これ昭和から平成に移る頃の話)。それが今では、上野はひとつの通過駅のごとくなっている。全く時代は変わったものだ。



この度東北の地へ足を踏み入れるのは、その学生時代の旅行以来であった。

野駅を過ぎると車両は地上に出て大宮駅に向かうのであるが、午後5時前なのに車窓の景色は宵闇が早くも迫り、西方の地平は茜に染まっていた。ふと窓外を眺めるととビルの間から垣間見える地平にくっきりと円錐の稜線が見えた。今まで全く知らなかったけれど、この辺りからも富士が遠望できるのか。東国のヒトはこんなきれいな夕暮れを眺めながら暮らしているのか、西国生まれの田舎者としては何やら羨ましい気がした。


やがて大宮駅を過ぎ、はやぶさは東北地方に進んで行く。どこかで白河の関を越えたか。この頃には、車窓の景色は暗闇で沿線の街の灯が美しく映えていた。学生時代の東北旅行から既に四半世紀以上も経ってい、当時車窓から眺めた景色が今ではどのくらい変わったのかを確かめることは出来なかった。

25年以上の月日が経てこの度東北の地へ出かけることに、密やかなる楽しみを感じる一方で、心のどこかである種の覚悟・緊張を感じたりもしていたのであるが、あの痕跡は外に広がる闇が覆い隠してしまい、私は何も知らぬ無邪気な旅人として振る舞うことが出来た。

それはそれとして良かったのではないかと思う。

午後6時過ぎに仙台駅に到着。駅を出ると、街はすっかり夜の帷が降りて、辺りは冬の装いとなった人々で溢れていた。頬にはキリリと冷えた空気が当たりある種の清々しい気持ち良さがあった。駅周辺は高いビルに囲まれて、正面には中央分離帯に高木が植樹された通りが見て取れた。東京都内のどこかの街と言われても信じてしまいそうな風情であったが、それを悪く言えば地方都市も小東京化と形容することも出来るし、流石は東北随一の大都市の風格と評することも出来そうであった。

私には、その街の佇まいに対して、そのような批評とは別次元のある種の好意を感じていた。駅西口を出て徒歩10分程度中心部から離れたホテルに投宿。ホテルレセプショニストでは、若い女性が応接してくれたが、彼女の言葉の末尾からこの地方の心地好い訛りを聴くことが出来たのは大変嬉しかった。


旅装をほどいてひと段落した後で、さて夕食をということになるのであるが、私の場合、一人旅で一番煩わしく思うのは食事を摂ることであった。何を食べても良いのであるが、どうも食に対する勘がない私は良い店を探し当てるのが下手である。

幸いなことにホテルの通り向かいに地元料理を出してくれそうな居酒屋を発見し、暖簾を潜った。土間から板張り座敷になったカウンターの席に通され、若い女性店員さんがこの地方の訛りのある言葉で、丁寧にお勧めの物を説明してくれた。おっさん旅人としては少しうれしくなって、勧められるままにオーダーする。セリのお浸し、曲がりネギの炭火焼き、刺身盛り(ソイ、マグロの赤身、鯛)、白子のポン酢、そして生ビールグラス1杯、地元のお酒を2合ほど(銘柄は忘れてしまった)。仙台名物の牛タンはパスw。三陸沖のウニ、ホヤなども食してみたかったが、季節がらなかったのは残念。



それにしても上に挙げた品々はどれも大変旨かった。特にセリのお浸しの優しい味わいとと曲がりネギの純朴な甘さは本当に旨かった。ごちそうさまでした。



店の雰囲気も良く、なごやかで、店内の有線から流れてくる昭和の歌を、他のグループが静かに口ずさんでいるのが妙に良かった。“青葉城恋唄”が流れてきて、オジサンたちが思い思いに歌っている時には、つい私も口ずさみそうになったw。仙台に来てエカッタw。

仙台の味をしっかりと楽しんで、店を出たのは午後8時前。もう少し三陸のものを食べたいーそうするには寿司がよかろう、鮨屋はないかと探しながら駅前に戻り、googleなどで検索したが、結局これはと思う店を探し当てることが出来ず仕舞い。結局のところ駅構内の食品売り場で、サンマの握りと白ワインハーフボトルを購入してホテルに引き上げた。

池波正太郎氏の語りを楽しみつつ、握り鮨をつまんでは白ワインを飲んで、何時の間にやら寝てしまっていた。



翌朝、9時過ぎにホテルをチェックアウトし、研修会に参加。午前10時から午後4時まで聴講して無事に目的は終了。午後520分仙台駅発の新幹線に乗って東京経由で自宅にたどり着いたのは、午後1145分頃。移動にくたびれたが、楽しい気分のままに家の門を開けた。



玄関を入ると、この夏、青春18きっぷを使ってクラブの仲間と東北旅行をしてきたという長男が「仙台から新幹線で帰ってくるなぞ、ご苦労なこった。ちゃんとずんだ餅を買ってきたか?」と言い、私を出迎えてくれたのであった。



(終わり)


2017年10月24日火曜日

イチロウ行状記~バイク1台組み立てるの事②~

私が、保有していたバイクのアルミフレーム/ Cinelli Experienceを元に、一部のパーツを私が購入し、その他の大半のパーツをイチロウから譲り受けて、新たに一台バイクを組み立てちゃおうという計画は、ある一つのパーツの購入が遅れて2週間ほど待たされることになった。


購入に意外に苦戦することになったのは、ヘッドパーツ・スペーサーで、この樹脂製の輪っかが手元に届くのに2週間の日数がかかってしまった。このスペーサーがないと、ステムの位置が決められないどころか、ホークを通してタイヤを嵌めて、ハンドルに取り付けたデュアル・レバーからの各ワイヤーも取り付けられないわけで、こんな輪っかのために何も作業が始められないのだった。



イチロウ、連日のように「マサキ、スペーサーはまだ届かんのか‼?」とご下問されども、来ないものは来ないのであって、普段なら通販サイト「密林」から適宜発送したよとか明日届くよと事前の知らせがメールである筈なのに、この度はその素振りさえ示されなかったのであった。このスペーサー、販売元から直接送られてくるはずになっているので「密林」も直接には輸送過程を把握していないのかもしれなかった。



イチロウ「まだ、スペーサーは来ぬか?」マサキ「はい、未だ音沙汰ござらぬ」のやりとりを数回繰り返した数日後の1010日の夕方、お待ちかねのブツは航空郵便にて中国からふらりと届いた。



“樹脂製の輪っかは今や中国製なのか、へーっ”とある種の感慨を覚えた。こんな単純な代物なのにこれがないと自転車は組み立てられず。“自転車一台の成り立ちひとつをとっても国際化してんだなあ”とどうでも良いことに感動しつつも、少しでも早くイチロウ殿に知らせなければ。




「殿、ご注進!」とばかりに、仕事を終えて寛いでいるイチロウにブツが届いたことを報告すれば、「ウム、でかした」とイチロウ。



「早速見せてみろ」とのことだったので、封筒から輪っかを取り出すと、イチロウ「ふむふむ」サイズのあった輪っかを取り出して、フレームのヘッドチューブにホークをはめ込み、事前に寸法を計算し組み合わせを決めていた輪っかをヘッドチューブから出たホークに嵌め、その上にステムを取り付けてしまった。




それからイチロウは、連日昼休み、アフター5に取り揃えていたパーツをフレームに取り付け、後輪用のホイールにはスプロケットを、ダウンチューブにはチェーンリング並びにクランク、そしてフロント・ディレーラー、チェーンステイにはリア・ディレーラーを、それらを順次取り付るとあっという間にチェーンを取り付けてしまった。




「うん?」「あのー、良いのかな?オイラの出る幕なしか?なんだか悪いような……」というマサキを尻目に、イチロウは今度はハンドルに取り付けたデュアル・レバーにブレーキ、ギアのワイヤーを取り付け始めている。



イチロウ「ああ、このワイヤーのはめ込むところがちょっと見えねえな」と、ワイヤーの突端部分のはめ込みにやや苦労しており、ペンライトでレバーの奥を照らしアシストをしたのが、マサキの行った作業全行程で後は、すべてイチロウが組み立ててしまい1012日までには、自転車がほぼ仕上がってしまった。



「ギアの調整が難しいんだよ」とその作業を一晩寝かせたものの、1013日には、ギアの調整も終わり、最後にギア・ワイヤーを切断して全作業を終了。イチロウ殿が「パーツさえ揃えば、組み立てはプラモデルより簡単!」と豪語していたままに、あまりにも容易く自転車の組み立てを終えてしまったのには、驚いた!



余談になるけれども、このイチロウ、マウンテンバイクの油圧サスペンションの調整も自分でそれ用のオイルを買ってきて調整出来てしまう、それもスポーツバイクショップで何気なく話をしたら、プロにも驚かれてしまったという逸話を持つオトコであった。



この男、本当にスポーツバイクを組み立てさせたら、ものの23日で仕上げてしまう野郎なのだ。



最後に、マサキが完成の記しとして、ハンドルにお好みのバーテープを巻き(イチロウの監督のもとに2度のやり直しを命ぜられることになったがw)完成。




1014日(土)の昼休みに、職場の前の道を交互に試走して、目出度く“納車”と相成った訳である。実際に乗ってみると、カーボン・フレームに馴れた者にとっては少々起動が重たく感じられたが、乗り味はかっちりとしており大変満足。言いだしっぺのイチロウが予言していたように、普段の練習用には充分であった。



私が満面の笑みを浮かべて「イチロウ、素晴らしい乗り味だよ。良いよ、良く出来ている」と言えば、イチロウも満足そうに眼を細めて深く頷くのであった。

こうして私のCinelli Experienceは、イチロウの手によってものの見事に復活しめでたしめでたしなのであったが、実はもう一つの問題が生じてきていた。



それは、秋も深まり日照時間が短くなって、夏の間に半ば習慣になっていた夕方トレーニングが出来なくなったことであったwさてどうするべw?



(別のタイトルにてつづく)

乗りバカ日誌~周防大島一周をする~


109日、前日にイチロウと連絡を取り合い、急遽周防大島に遠征することになった。

以前より、イチロウとの間でどこかのタイミングでこの島を攻略せねばという話になっていたのだが、互いの予定が微妙に合わず見送られていた。

この度は、互いに家庭状況からその日は夕方までの半日がフリーとなることが判り、「せっかくだから」ということで、同島への遠征を即決。

同日午前7時にイチロウ宅へクルマで迎えに行き、自転車を積み込み、出発。広島五日市インターから山陽高速道を使って西下、山口県玖珂インタ―から高速道を降りて、県道437号を使い南下、周防大島を目指した。

私にとって、山口は隣県なれども縁の薄い土地であり、車窓から見える景色は物珍しかった。岩国、山口は夫々に“名は体を表す”で、広島とは山塊の形成が違い、険しい山々の谷間を縫うように道路が走っていた。周防大島に向かう県道沿いには、左右に小高い山がありその際まで田圃が作られ、ガスが立ち込めていた。道路なだらかなアップダウンを繰り返しながらも下り基調で、「この道も自転車で走ったら、さぞ走り甲斐があるだろうな」「もっと山口県のコースを開発する必要があるよね」などと、ふたりとも早くも“乗りバカ”全開モードになっていた。

私たちが往く国道は一度盆地に下りたところでやや険しい上り坂となり、それを上り切って三叉路の交差点にたどり着くと、前方に明るい青空とその下に瀬戸内海(伊予灘)が見渡せた。三叉路の交差点を左折し道に沿って右折すると高い橋脚を持つ橋に差し掛かった。左右の眼下にはさざ波の立った早瀬が見え、多数の船尾に帆を掲げた小さな釣り船が揺れながら浮かんでいた。

私は子どもの頃に、叔父に連れられて釣りに一度だけこの島に来たことがあった。この度の来島は40年ぶり、波に揺られながら浮かんでいる釣り船を観ていると脳裏に当時の体験が蘇り懐かしさが込み上げてきた。やはり秋の晴れた日に訪れて釣り船に乗せられて鯛釣りをさせてもらったっけ。そういえばスナメリが数頭ゆったりと泳いでいたな。

あの頃と変わらずこの島は、釣り番組でしばしば取り上げられるほど、釣り人にとっては人気の島なのだろう。

この度は、突然周防大島遠征が決定されたものだから、この島について事前学習が出来ず、その他の予備知識が余りない。私にとっての周防大島に関する知識と言えば、釣りのメッカ、海水浴、そして村上水軍の一派が戦国時代終焉と共に毛利家から同島を所領として与えられて移り住んだことくらいか。

近年ではスポーツバイク愛好家がこの島の周回を目指してやって来ているらしい。スポーツサイクルショップ・ウエキのおやっさんの情報によれば「マサキさん、このコースは結構アップダウンきついっすよ」とのこと、隣でイチロウがおやっさんの声色を真似ながら笑っている。

午前820分頃、私たちは国道437号沿いにある「グリーンステイ・長浦」に到着。その駐車場の一画にクルマを停めさせてもらって自転車を下ろし出発準備に入った。

午前840分頃に、グリーンステイ・長浦を出発。国道437号に沿って時計回りに島一周を目指す。快晴で陽射しは明るいが空気はひんやりとし自転車で走しるには誠に気持ち良く絶好のコンディション。左手に海・安芸灘を観ながら海岸沿いを走行、所々にヤシが植えられ一見南国風に整備されていた。私たちは一路、島の東端にあるなぎさ水族館を目指す。

途中で、「道の駅サザンとうわ」「○○仏」「星野哲郎記念館」「宮本常一記念館」「ハワイ移民博物館」等々、立ち寄っても良さそうな観光施設あったものの、私たちは兎に角先を急いだ。それでも道路状況は、自動車の往来は少なく信号もなく、道は海沿いをほぼフラットに伸びているので、バイク走行は誠に快調で気分は上々。

イチロウなどは、安芸灘に浮かぶ島影を眺めながら、「お、あれは宮島か?」など知った名前を挙げるものの、そんなことはない筈で我々の知らない伊予諸島が見えていたのだろうw。

行く先々で、海岸に面した道路端から釣りに来た人達が釣り糸を垂れていた。中には親子連れもいてなかなか良い風景であった。



午前9時半頃になぎさ水族館に到着。休息を取るために浜辺の駐車場に下りてみると、浜辺に続く広場には多数のテントが張られて野外キャンプに子どもを含む家族連れの客で大盛況の様子だった。イチロウが「ああ、こういう時期が俺たちにもあったよなあ。ここに家族を連れてきても良かったな」などと言った。私は「あー」と曖昧な返事。うちの家族は海水浴もキャンプも嫌ってたからなあ。企画しても、「絶対嫌だ」と言ってただろうな。

水分とアミノサプリを補給して、再度出発。しばらく行くと国道437号は終わり、右折して小高い尾根を上り短いトンネルを抜けると、伊予灘を臨む斜面に出た。眼下に望む海は、光線の具合か、それとも水深によるものか、深い青緑色で何やら先ほどまでの明るい海景色とは趣が異なっていた。

道は右に曲がるカーブに沿って山の斜面を走る道(オレンジロードというらしい)と、そのまま真っ直ぐに降りて集落に続く坂道があり、すこし迷ったものの集落に下りる坂道を選んで下ることにした。

その坂道を降りると小さな入江に臨む由宇地区があった。狭い路地を右に曲がりクルマがやっと一台通れる幅の道がすぐに山際にぶつかって崎に沿って上り勾配となる。ふと左後方を振り返ると、険しい崖の斜面に佇む由宇地区が見渡せた。入江は深い群青色の水を湛えて天然の良港の様子で静かな入江風景に見惚れてしまった。それにしても崎の斜面に拓かれた小路は木立を縫いながらも険しく、山間部の新しい道路がない時代は、ここに住む人々がこの狭い山道を使って隣の集落まで通っていたのかと思うと頭が下がる想いがした。



ここから先は、崎の廻る山坂道と馬ヶ原地区、小浜地区といった海岸縁の集落を23通りながらの道程となった。左手には伊予灘を遠望しながらの走行であり、この頃になると日は高く上がり水面はエメラルドグリーンに輝やかせていた。崎の道は木立に囲まれて、急な斜面に囲まれた小さな入江にはコテージ、中には針葉樹を利用してウッドハウスが建てられてい、リゾート地として開発されている箇所があった。

そんな崎の斜面の山道と海べりのフラットな道を23繰り返した後、二車線の県道に合流し片添ヶ浜海浜公園にたどり着いたのは1030分頃か。



片添ヶ浜海浜公園は、白砂の広い浜辺でヤシの木やフェニックスが植樹され南国風に整備されており、宿泊用の施設、公衆トイレ、シャワー室の建物を有す散策用遊歩道が備わった海水浴場となっていた。シーズンオフのためか、海岸に人影はなく静かであったが、海岸から県道を挟んだ山側の一画ではキャンプ用のテントがいくつも張られ、やはり家族連れが多数キャンプを楽しんでいる様子であった。


私とイチロウは、しばしエメラルドグリーンに輝く海を眺めながら休息。イチロウ、キャンプ場を眺めながら「もうオレたち家族をキャンプに連れて来てやろうかという時代は終わったねえ。今度キャンプするとしたら、孫連れてこようかということになるな」とボソリという。私はそれを聴きながらもイチロウの口から『孫』という言葉が出て、世俗的な想像を働かせているが彼には似つかわしくないと思われ、思わず笑ってしまった。



15分程度休息後、再び走行開始。これから島の南側を走る県道60号に沿って走る。先ほど前の山道とは違い、道幅は広く2車線道となる。これまでは誠に順調で、イチロウが当初イメージしていたよりも早いペースで走ってきたらしい。イチロウは上機嫌で、「いやあ、全くマサキと走っているのが気楽でエエわあ。ストレスないものねえ。こんな感じで諸国漫遊するかなあ。今度はコウイチのところに二人して出向いて、奴に何か称号を与えてやらんといけんねえ」などと、笑っている。

走りはじめて直ぐに、左カーブのなだらか勾配に差し掛かると、イチロウが笑いながら東野英二郎(水戸黄門)の声色を真似て「あそこに曲者が居りますぞ、助さん・格さんやっておしまいなさい」と言いつつ嬉しそうに上り坂道を攻め始めるのだった。

この先しばらく、崎をまわる登り坂でイチロウは同様の物まねをしては坂道を攻めるのであったが、次第に私は遅れ気味になり、「黄門様が率先してやっつけてしまうシーンなんてないはずなんだがな」と見えなくなったイチロウを思いながら苦笑いする。



この後、崎の山道を抜けると、左手に小さな島(沖家室島)かかる橋が見え、その真ん中でイチロウが待っていた。キラキラと海に浮かぶ小島になだらかなアーチは本当に美しい風景であったが、私は高所恐怖症が災いしゆっくりと楽しむゆとりなしw。イチロウの写真を撮って出発。



その後も再びイチロウを追う形で、崎の山道、崎が終わると海べりの集落沿いの平坦道が繰り返された。県道60号から出会う浜辺・集落にはそれぞれにお寺の甍が見えて、その形から浄土真宗の寺院と思われたが、夫々の地域の人々が古より信仰が厚く、地区のお寺を支えてきたのが判り、この島の物成りと海からの恵みが豊かであったことが偲ばれた。

アップダウンを繰り返しているうちに、すっかりイチロウの姿を見失ってしまった。ふたりで自転車で出張る時にはよく有ることであったのだが、こちらとしては、夏のトレーニングでそれなりに走行力をつけたつもりなのに、イチロウの脚力がそれよりもまだ上を行くことに改めて舌を巻く想いだった。

このオトコの坂を見ると火が付き、前方に他のサイクリストの姿を認めると追いつき追い越さずにはいられない“性”は一体全体なんだんだろうねw

イチロウも土地土地の風俗風物に人一倍好奇心や知識欲求は旺盛なはずなのに、そんな会話をする暇もなしw。兎に角大幅に遅れないようにこちらも急がねば…….

1130分頃、地区の名前は判らず仕舞いであったが、白木という郵便局のある漁港手前でイチロウが待ってくれてい、そこで休息と腹ごしらえをすることになった。

この漁港も高い山々に囲まれた入江にあり、天然の良港と思われた。波止場には、数人の釣り人が居るほかは静かな佇まいであった。コンクリートの岸壁から海を覗くと、無数の稚魚が泳いでいた。のんびりとした昼下がりで、シューズも脱いで疲労を感じ始めた脚をマッサージなどして休息を取った。イチロウと何を雑談したっけ?他愛もないことを話したか。島の南側の道路沿いには、食事が取れそうなお店がなさそうだなと話したか。



正午を過ぎて辺りは眩しいほどに明るく、左手に見る海の水面は光を反射してきらきらと輝いていた。



その後もひたすらイチロウの後を追いかける形で、走行を続けた。安下庄/竜崎温泉界隈がこの島の南側で一番大きな地区のようで、「この島に泊りがけで来る出のあれば、この辺りにしたい」と想いつつ、更に相好を続けた。海沿いの道は県道4号線に変わっていたが、相変わらず交通車輛は少なく信号もなし。 

安下庄を過ぎて崎を廻る山坂道で、イチロウに引き離されてしばらく走行していると、次第に左前方に本土が見え始め、前方に周防大島大橋が視界に入ってきた。しばらく進むとバス停のベンチに腰掛けて小休止しているイチロウを発見。



イチロウ「なんだか予定よりもかなり早く俺たち1周してしまいそうだなw」

私「だからさ、あんた、飛ばし過ぎなんだよw」

イチロウ、うひゃうひゃと笑って、「でも、本当に気持ち良いなあ。ここ本当に良いサイクリングコースだよな。帰って良いブログ書けそうだろうw?な、マサキ!」

私「あのね、必死でペダル漕いで来たから、なーんにも覚えてねえ。旅情に浸る暇がないんだよう~w」「こんどから、アンタと出張る時はMR4を使った方が良いんじゃねえ?」

イチロウ、更に大笑いして「まあ、そう言うな。またここに来たいだろう?その時は、ちゃんと見るべきところをコースに組み入れるからさ……w

全くこの度はタイトル通りの乗りバカになってしまっていたw

水分と最後のアミノ酸サプリを補給し出発。大橋を目指して走行し、大橋を過ぎると最後のアップダウンを乗り越えて、ゴールである「グリーンステイ・長浦」に到着。到着時刻は午後120分頃。

走行距離;96.4㎞、所要時間;4時間40分(休息時間を含む)であった。



帰宅後、ルート・ラボで同じように周防大島を周回するコースを検索してみると、どなたかが過去にこの周回コースをトレースしてくださっているようであったのだが、その方の設定時間は6時間としていた。

それから見ると私たちの走行時間の短さはどう表現したものかw?

-セワシナイw-

結論;

周防大島の周回コースは、適度な起伏があり全力で走るのも楽しいが、もっとゆっくり景色や観光スポットなどの風物を楽しみながらサイクリングを楽しむべしw

(終わり)

2017年10月5日木曜日

イチロウ行状記~バイク一台組み立てる編①~


ある初秋の昼下がり

イチロウ「近頃のマサキの走りぶり、誠にあっぱれである。おぬしと早駆けをしていると、これまでなら後ろから来るお前を気にしていたがのう。もうそれも気にせずとも安心して走れるわ」「褒めて遣わす」

マサキ「はは、殿よりお褒め頂き有難き幸せ。恐悦至極にございまする」

イチロウ「それでのう、マサキ、カーボンホイールの件はどうなった。」

マサキ“ギクッ”

イチロウ「おぬしのCinelli Superstarにカーボンホイールを換装した後、外したアルミホイールをお前のところに保管してあるExperienceにつけることになっておるだろうか。ウエキのおやっさんのところへ、今週末行ってくるのだぞ。必ずだぞ、な、マサキよ」



マサキ「は、はあ」(と、平伏する)



今年の5月中旬に、マサキは奮発して自転車のフレームをアルミからカーボン製に交換、他のパーツはそれまでのものを流用したのだが、手元にアルミフレームが残った。イチロウ殿は、マサキが持ち帰ったフレームを眺めて「よしこのフレームを使ってもう一台組もうぞ。良いなマサキ」との機嫌よく宣うた。マサキも快く「そうですね。次はホイールをカーボン製にしとうございまするから、その時には今のホイールを使うことが出来ますル」と応じたのであった。

その後月日が流れ、その間にマサキはカーボンホイールについて調べていくうちに、なかなかの値の張るものであることを知り、簡単に手に入れることが出来る代物ではないことを悟った。だが、昨今は低価格帯のカーボンホイールも各メーカーから出されていることも知り、一縷の望みを持ってスポーツサイクルショップ・ウエキに出向いたであったが、マサキは敢無く撃沈w。寧ろ、涼しい眼をした店長さんの勧めるカンパのホイールに目を奪われ、すっかりそのホイールが欲しくなってしまっていた。

週が明けて、マサキがイチロウ殿にウエキでの首尾について報告したところ、イチロウ殿は重々しく頷き「そういうことであったか。そちの想いも十二分に納得いくものである。それはそうであろう」と応じたのであった。

翌々日のことであった。イチロウ殿が昼休憩の間に、どこかにふらりと出かけたかと思うと、しばらくして上士詰所に入りマサキの傍まで寄ると「このホイールとタイヤ使って於け」という。



マサキ「殿、それは誠にかたじけのうござりますが、流石にそこまでは心苦しゅうございます」

イチロウ「何、マサキ勘違いをするな。マサキがカーボンホイールを手に入れるまで、貸与するだけのことじゃ。苦しゅうない、使って於け」



マサキ「殿……..

実は、マサキのアルミフレームを使って一台を組むにあたり、イチロウ殿は様々なパーツをマサキに気前よく与えていたのであった。「これらはな、わしがこれまで愛用していたものだ、貴様の走りぶりに対する褒美じゃ、取って置け」と。

○イチロウ殿から下賜されたものを列記してみると



サドル、シートポスト、ハンドル、ステム、チェーン、



○無償貸与されたもの、アルミホイール、タイヤ。



○マサキが新たに購入したもの



STIレバー、シマノギア105セット(前後ディレイラー、チェーンリング、クランク、前後ブレーキ)、ブレーキ・シフト用のワイヤー、ヘッドスペーサー、バーテープ、タイヤチューブ

因みにペダルは保管していたSPDペダルを使用予定。



マサキはイチロウ殿の思し召しを大変有難く思いつつも、イチロウ殿からのにじり寄らんばかりの圧力に後ずさるような想いも抱き始めていた。これは何とかして早くカーボンホイールを手に入れて、イチロウ殿にホイールを返却せねば…….

10月のとある日、仕事が一段落がついた午後5時過ぎ、城内の上士詰所に上記した各パーツが揃ったのを見たイチロウ殿は満面の笑みを浮かべて「やったじゃないか、そろそろの組み始めることが出来るなW、何?ヘッドスペーサーがまだ届かないだと?仕方ない出来るところからゆるりの始めるかの…….」と独り言を言い工作を始めたのであった。「腕が鳴るのうw 実は、プラモデル作るより、自転車組み立てる方が簡単なんだよね~」とも言いながら。










マサキは、脳裏の中に三度銀色の車輪がぶら下がっているのを見たのであった。


つづく


サイクリングは楽し

9月の鹿児島遠征から帰って以来、イチロウも私も夫々に目的は違うにせよ、夫々にバイクへのモチベーションを高めている。

彼との雑談の際に、私が「あのね、blogのことなんだけどさ、“イチロウ公漫遊記”という企画でね、高校の同窓会が各地で行われる度に、そこにMR4を持ち込んで、その土地を走って、うまいものを喰って、それを文章にするってことしたいんだけど」と持ち掛けると、彼は「全然だめだね。走ることに徹すること。その土地の奴も同行して走るんじゃないとダメだ」とわざとハードルを上げるようなことを言った。私が調子に乗って「じゃあ、イチロウ公がその地元民に、俺に“島のグライペル”タカヒロに“かごしまのチッポリーニ”と命名したように、称号を授与して廻るっていう企画はどうだ?」と付け加えると、イチロウはゲラゲラと笑った。

その後、イチロウは、天気の良い日は片道20㎞を自転車通勤、雨天にでもなれば仕事の後にローラー台でペダルを廻し、トレーニングに余念が無い。「どうしたんだ?何かに憑りつかれたのかw?」と茶化すと、「あんたも見たでしょ。やまなみクライムライドで俺が棄権したの。あれ今から思うと、過体重だったんだよね。だから、もう3㎏絞り込まないといけないのよ」と言うのだった。

私の見立てでは、あのサイクリング大会での彼が棄権した要因は、明らかに前半のオーバーペースによるものと思われるのだが(最近気が付いたのだが、彼のスピードは素人では猛者レベルであることには間違いなさそうである)、彼の出した結論はそういう事なのだから、それが正しいのだとするしかない。

傍で、イチロウがそんな風にトレーニングに励んでいる姿を見せつけられると、益々彼我の差は広がっていくように思われ、私もそれなりにトレーニングを続けるつもりになり、先週の日曜日に早速愛車に跨って何時もの山坂道を走ることにした。

コースは、極楽寺山(国道433号)の激坂登坂とストレート下り坂~県道292/ 曲がりくねった登り坂-湯来南・玖島のなだらかな登坂と下り坂~県道42/ 友和~大竹市街地の最後の登り坂の後谷間に大竹市を臨みながらの下り坂。スポーツサイクルショップ・ウエキへの訪問後、宮島街道沿いの裏道を経由し西広島まで。恐らく走行距離にして、80㎞弱。

午前850分に自宅を出発した。

極楽寺山への登坂道は何時走ってもげき坂で、ここしばらくのあまい練習ばかりを重ねてきたせいか登坂に難渋したが、他にも対向車線で下ってくるヒト2名、私と同じく登坂しているヒトが1名の同好者の姿を認め、途中でへこたれている場合ではなかった。この極楽寺山登坂は、それを終えると充実感があり、辛い想いをする代わりに達成感の報酬は大きい。峠を過ぎて、緩やかな下り坂の爽快感は格別のものがあった。

国道433号が湯来・湯山街道と合流すると、そのまま湯来方面に左右に蛇行するなだらかな坂をしばらく上がると、県道292号との別れ三叉路にぶつかる。その三叉路にあるコンビニで水分補給を兼ねて小休止。我が愛車を眺めて写メをしていると、あるドライバーが声をかけてくれる。「にいさん、この自転車カッコイイね。何処まで行くの」と。愛車を褒められて悪い気はせず、笑顔でお礼を言い、大竹まで県道292号を通っていくのだと応じると、その男性「え、そんな遠くまで行くの。良い運動になるね。気を付けて」と言ってくれた。再度「ありがとう」と応じ、出発する。

県道292号沿いの湯来南~玖島、県道42号沿いの友和までは、なだらかな勾配の登り坂とその後下り基調の道が続く。左右は山間に田圃が広がり、自転車で走っていて誠に気持ちの良いところである。対向車線に大竹市側から上ってきたと思わるサイクリスト3人程度見かけ、すれ違う度に軽く会釈する。左右の田圃には、首を垂れた稲穂の緑が広がり収穫を待っている。空気はひんやりとし、借り入れた稲を田圃の隅で燃やす煙の臭いが辺りに立ち込めていて、里山に秋の訪れたことを五感で感じることが出来た。


友和を離れ、暫く行くと、ため池沿いの山道となり、閑散とした道は下り基調。左右は木立で左右にカーブしているため、前方からやってくる車に気を付けながら、ペダルを快調に回す。ため池沿いの道から左折すると、このコース最後の200m300m程度の登り坂。疲れた脚にずっしりとした負荷を感じるが、これを越えると素晴らしい下り坂が待っているので、精神的な負荷はそれほどでもない。

そして、谷間の下り坂を気持ちよく下降、次第に視界が開けて大竹市市街地とその向こうに瀬戸内海が見える。このコースの一番のハイライト。道は広く路面もスムースであるため、ブレーキをかけずに一気に下って行った。

国道2号線に出ると、しばらく岩国市方面へポタリングし、スポーツサイクルショップ・ウエキに立ち寄る。同店は、旧道沿いにあり、ちょうど町内会の祭りがあり、子どもたちが神輿を押して旧道を練り歩いていた。


ウエキに立ち寄った理由、それは私の愛車にカーボンホールを装着する相談をすることだった。

応対する若い店長さんは、店内の壁に飾ってあったカンパニョーロのbora oneを勧めてくれたのであったが、私が「予算的に厳しいよ」と伝えると、それではと、「低価格帯として、アメリカのtrek製のモノは如何か?」と提案。続けて言うには、マサキのバイクであればカンパのものを付けた方が、自転車の完成度が高いよ、価格帯の差はつまるところ車輪の回転のスムースさに現れるよ。それから、カーボンホイールにはリムハイト50㎜と35㎜のものがあるが、35㎜は軽くてヒルクライムに向いているよ。リムハイト50㎜のものは平坦な道を高速で巡航するのに向いているよ。このリムハイト50㎜のモノをつけると走り始めはちょっと重たい感じがするけれど、スピードが乗るとそのスピードを維持してくれて走りは誠に気持ちの良いものだよ、等と涼しい眼差しで語ってくれたのだった。

私は、恐らく涎をたらさんばかりにその説明を聞いていたことだろうw。店に飾られたカンパのホイールを眺めながら、脳裏には私の愛車にそのホイールが綺麗に嵌って、先ほど里山の道を走っている光景が浮かんだのであった。

「うーん」と唸り、笑顔を浮かべて「ちょっと考えますわ」と若い店長さんに告げ、すごすごとその店を退散したのであった。

帰りは、2号線沿いの裏道を東に向かって帰ったのであるが、頭の中は銀の車輪で頭がいっぱいになっていたのであった。

さて、どう予算編成をするべきかw? ああ、カーボンホイールが夢枕に出てきそうであるw。











2017年10月3日火曜日

あれから


誰かが慌ただしく門前を車輪が空を切るような音がしたとき、マサキの頭の中には、銀色の車輪が空から、ぶら下がっていた。けれども、その銀色の車輪は、その空を切る音が遠のくに従って、すうっと頭から抜け出してきえてしまった。そうして目が覚めた。



枕元を見ると、昨晩眺めた自転車雑誌が床の上に落ちている。昨晩マサキは床の中でこの雑誌が床に落ちるのを確かに聞いた。彼の耳には、それがゴム毬を天井裏から投げつけたように程に響いた。夜が更けて、四方が静かな所為かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはずれに正しく中る血の音を確かめながら眠に就いた……



などと、敬愛する漱石先生の「それから」の冒頭部分を引用して描き出してみたのだけれど、作中の主人公「代助」ほどではないにせよ、ここしばらくのマサキは、心の底で何やら収まりの悪い落ち着かない感情を持て余していた。



先月開催された鹿児島で行われた高校同窓会と翌日の自転車ツーリングの事を書き上げた後、マサキはしばらく腑抜け状態になってしまい、ぼんやりした気分で過ごしていた。それが、しばらくすると何か大切なことを書いてなかったような何がしか心に引っかかるものがあることに気が付いた。さりとてそれが何であるのかは判然とせず、“後日談”を書いてみたらそれが明確になりそうな気もしていたし、他方では、蛇足なような気もしていた。




先日、マサキは23か月ぶりに散髪をしようと何時も通うユニセックスの美容院に出かけた。担当してくれる店長は、マサキと同世代の男性で、作業中にする会話も同世代という事もあって弾むことが多かった。その日もお互いの趣味を出して談笑していたのであるが、その店長が、前後の脈絡に関係なく「マサキさん、高校同窓会とか出ています?」と話題を振った。「ええ、先月ね、参加したところなんだよ」と返事をすると、彼が「そう。私も時々同窓会に出席するんだけど、やっぱりあれは出ていた方が良いよね」など言う。続けて「会が重なるにしたがって出席するメンバーは固定しちゃうんだけどね。なんだかこの頃は、会ごとに誰々が亡くなったという話が出てね。だから会の始めは『黙祷』から始まっちゃうの。辛気臭くて嫌だなと思うんだけど、でもボクらも気が付いたら、物凄く年取っちゃったんだよね。あっという間にね。だから、そういうのって、きちんと確認しておいた方が良いと思って。自分にとってね。」等と言った。彼がいう「そういう」のとは、己の齢を差すのか、同窓生の消息を指すのか明確には分からなかったが、明確化しなくても良さそうで、この場合は両者のことを指していると解しても問題ないのであろう。マサキはそう理解した上で、その店長のいうことに一理あるような気がして肯定的に頷いた。



散髪から帰ると、妻がマサキの頭を何時ものように眺めて、「うん、まだ(た)もっている」と笑った。続けて「髪を切ったら若返ったじゃん。ああ、同窓会から帰ってきてからちょっと若返ったよね。ちょっと元気があるっていうかね。」「だから、私が云った通りだったでしょ、やっぱり同窓会に出席するのって、若さを保つ秘訣なんだよ」と。



マサキが高校同窓会から帰宅した後、妻に同窓会の土産話をすると、彼にとっては意外だったのであるが、妻の反応は普段の会話に比べて良く、マサキの持ち出す話題に喜んで聞いていた。マサキが撮った同窓会の写真を彼女に見せてやると、「へー、このヒト達みんな若いねえ、女性陣も皆さん綺麗だね。」など弾むような声で感想を述べた。そして、さも面白いものを観たと言わんばかりに、「この中に昔の彼女とかいるの?」とカマをかけて来た。



「そんなヒトいるわけないだろ、あの頃は全然モテなかったんだよ。」とマサキは事実を言い、「だけどさ、『高校時代はカッコ良かったね』と言ってくれるヒトもいたよ」と盛って話をすると、妻は、「良かったじゃないの、お世辞でもそういうヒトが居てくれて」とさも可笑しそうに笑った。そして、先に述べたように「同窓会出席イコール若さを保つ秘訣だよね」とマサキに諭すように結論付けたのであった。



マサキとしては、これまで若さを保とうなどと微塵にも思ったことはなく、あるがままに生きて、それが外観に自然に出ていればそれで良いと常日頃に思っているのだが、この度高校同窓会に出席し旧友たちと再会してみて、確かに彼らから何かしらのエネルギーを貰ったと感じていた。そして、「同窓会なる舞台装置」の効用について考え直さざるを得なかった。



高校同窓会から帰った夜、妻が勝手に結論付けた会話の中で、「ところでコウイチさんは、元気だったか?」の問いがあった。妻が知るマサキの交友範囲で、学生時代からの親しい友人として、彼の名が挙がったのであった。



コウイチはこの度は他の用事で出席出来ず会うことが叶わなかった。後で知るところによると、コウイチは台風の影響で本来の用事がキャンセルとなったのだが、やはり台風の影響でこの度の同窓会出席をキャンセルせざるを得なかった同窓の友人と地元でミニ同窓会を開いたらしい。



マサキは、コウイチとは普段からSNSで連絡を取り合っているので現在も親交が続いてい、コウイチが地元に住む同窓生と会ったエピソードについては、コウイチの日常のエピソードとして話は済んでいた。しかし、こうやって同窓会について振り返ってみると、マサキは、コウイチが会ったであろうミズタ、タカモトなどは学生時代以降は全く会っていないことに気が付いて、普段は強い想いは持たないが、会えるチャンスがあれば会ってみたいものだと思ったのであった。



そんなふうに連想を紡いでいくと、マサキにしてみれば、同窓会という舞台装置の効用とは、わざわざ機会を作って会いたいと思うかつての親しい友人とまではいかないが、それでも同じ時代に同じ場所で一時期を過ごした仲間に然程の労力を使わず邂逅できる装置なのだということを知るところになった。



その邂逅で何を再発見できるかはヒトそれぞれに感じる処なのであろうが、マサキの場合には、かつての仲間への現在も続く緩やかな連帯感であったり、再会を果たせなかった者に対しての否が応でも感じられるその者たちの存在感であった。



同窓会の翌日にタカヒロやイチロウと眺めた海に輝く光の粒に、若かりし頃の仲間たちのエネルギーを思い浮かべ、ある種の愛おしさを感じたのであったが、その光の粒の中には同窓会に出席した仲間だけでなく、欠席し再会できなかった嘗ての仲間の姿も実はあったのだと、マサキはあらためて思うのであった。実は今まで全く気が付かなかったけれど、あの時に集まった仲間(その中にはあまり親しく付き合ったりしなかった者も含めて)から有形無形の影響を受けたからこそ今の自分が存在しているのではないかとも感じられた。



マサキは、今ここまで考えてみて、「結局は蛇足的なことを書いているだけじゃん」と独り苦笑している。




ここまで連想してきても、あの夜半に観た銀色の車輪が果たして何を表象しているのか、それはライフサイクルを象徴しているようにも感じられるし、人生の節目における何かのエネルギーの再点火のようにも思えたりもした。

“うむむ”と流れる雲を眺めながら、漱石先生のように頬杖をして思案するマサキなのであった。