2015年12月25日金曜日

Where do we go from here?

さて、これからどうしたものか……..

 すっかりと暮れた窓外に前方の街灯りを眺めながら、マサキはハンドルを握り独り思案していた。フロントガラスには先ほどから小粒の雨がフロントガラスに打ち始めている。

 マサキは、その日首尾よく定刻に仕事を済ませ、クルマを運転し帰途についていた。午後7時前後のラッシュを避けて、帰路を都市高速に向けたが、その日の夕方は何時にも増して交通量が多いように感じられた。

 低速度で走る前方車両に気を配りながら、彼は取り留めもなく「次は何を聴いて行こうかしら?」と考えていた。

 “ナベサダ氏が、ライブとコンサートでも取り上げたBaden Powellの「Samba Em Preludio」が大変素晴らしく印象的だったなあ”。“そうだ、そう云えばブラジルのカリスマ的ギタリスト、バーデン・パウエルはこれまでずっと回避して聴いて来なかったなあ。この際、バーデン・パウエル氏に挑戦するのも一興か……..?

 しかしである、そんなことをその日の休み時間にイチロウにふと漏らすと、彼は破顔一笑といった感じで「バーデンは、あんたには無理だろうに。しんどいぞー」と却下の意を示した。イージーリスニング好きのマサキには、バーデンの演奏はエスニック色が強く途中で挫折してしまうだろうとの意見であった。

その代わりに、彼は、別のミュージシャンを提示してきた。「ナベサダを制覇したのだから、日本の誇るジャスミュージシャンつながりで、北村英治(cln)を行こうよ。良いよ、めちゃくちゃカッコ良いよ」と。

 

北村英治氏ねえ、確かに。イチロウのいうように、北村英治そしてスイング・ジャズに向かうのも確かに良い。それにクラリネットって楽器はその音色がたまらなく好きだ。確かに……。イチロウが調べたところでは、201641日にサントリーホールで北村英治氏米寿記念公演が開催されるらしい。それまでに北村英治氏を勉強するのも一興だ。

 ただしかし……….。スイングジャズは陰りがなく明るい曲が多く、聴いていて気分が明るくなるし確かに嫌いではない。だけれど、そのジャンルが確立していて、それをこれから4月までの4か月間集中して聴いて行くもの逆にしんどいな・・・・。

 “バーデンか、or キタムラか?” 正しくwhere do we go from here?な状態にマサキは陥っていた。

 マサキは、都市高速道路を降りて、一般道へと合流する地点で左後方から来る車輛を慎重に見極めながら、一般道に入るべく左側にレーンチェンジし赤信号が点灯している交差点にクルマを停車させた。

 
その時、マサキの脳裏にはふと、車内に流れている曲とは別のあるメロディーが浮かんでいた。“Where do we go from here? Matt Dennis 。そうだったw、「Dennis, Anyone」というアルバムに入っていたっけ。”

 


信号待ちの間に、マサキは急ぎ、i-podに取り込んでいる同アルバムをピックアップして流し始めた。

 

久しぶりに聴くMatt Dennisだった。決して彼の歌声は、声量豊かなではないが、ちょっと鼻にかかるハスキーな声色のボーカルは大変魅力的で、ピアノ弾き語りで歌う曲はどれも小粋な佳曲揃い。聴いていて誠に心地よく幸せな気分に浸れる。彼は、決して多作ではないが、彼が残したアルバム「Dennis, Anyone」「Matt Dennis plays and sings」はクラブでのライブ録音であり、演奏する曲も全体的にまとまっていて、背景の雑音もクラブの雰囲気伝えてアルバムの雰囲気を更に盛り上げてくれている。マサキには、これらのアルバムにまつわる個人的なエピソードがあるわけではないのだが、若い頃の一時期冬場になるとこの二つのアルバムをよく聴いていたものだった。

 

車内でMatt Dennisを聴きながら、条件反射的に能天気にも幸せ気分全開状態になったマサキであった。「plays and sings」の中の「Junior Julie」の歌詞なんて、これはO. ヘンリーの短編小説に共通する世界観だよなあ、短い歌なのによく書けている詞だなあ。スゲースゲー。だけれど、このオチがねえ、最近の若い娘さんに聴かせたら絶対に「キモい~」と拒絶反応しめされるだろうなあw等と、独りにニヤけて聴いていた。一般道に入り益々混雑していたが、脳天気にも幸せ気分に浸っているマサキには全く気にならなかった。

 
  マサキの乏しい語学力で理解したところによると、このJunior & Julieという詞は、若いカップルのオトコがその彼女に向かい、ジュニアとジュリーのためにお金を貯めよう。いつかジュニアは偉大なドクターになるだろう、ジュリーは偉大なレディーになって、ホワイトハウスにお茶に招かれるようになるだろうと歌い、そして最後に「それは早やすぎる話で、ボク達は今日結婚したばかり」、というオチをつけている。

 

 
何時の間にか先ほどまでのちょっとした葛藤はやがては治まり、自宅に辿り着くころには穏やかな気分になっていた。

 自宅に辿り着くと、彼はMatt Dennisの音楽を止めて現実生活に戻るのに多少の躊躇いを感じたが、意を決して駐車スペースにクルマを停めて、屋内に入った。

 キッチン・ダイニングに入ると、長男がポツ然とした感じで座っている。「ちょうど今帰ってきたところだ」という。「おふくろさんは、どこに行ったんかな?」

 そう問われて、マサキは思い出した。ああ、次男の学校行事で帰りが22:00ごろになるのだった。夕食は、確か準備してくれていた筈。

「じゃあ、野郎二人で晩餐するか………?」「別に構わないよ」

 


“野郎二人のクリスマスというのは、昔よく経験したなあ。目の前のコヤツもどうもオヤジと同じ道辿りそうな感じだなあw”

 Matt Dennisの「Junior Julie」を聴いて己の幸せを感じる日もコヤツにとっては程遠い未来の話だろうな”向かいに座り、温めなおしたビーフシチューをぱくついているニキビだらけの愚息を眺めながら、独りニヤつくマサキであった。
 
 
(終わり)

 

2015年12月23日水曜日

A Letter to The Editor



1218日に中華料理屋「天津」で、イチロウと一連の「Nabesada祭り」の打ち上げを行ったのだが、その夜のイチロウは付き合ったこれまでの中で例外と思えるくらいに、ご機嫌であった。下戸の彼が珍しく、チンタオビール2本にウヰスキー・ハイボール一杯をその腹に収めていた。

 河岸を替えて二人でナベサダ談義をさらに続けてのであるが、彼が「あのなあマサキ、今回はよくもこれだけシリーズ化して書けたなあ。エラカッタ。だがなあ、こんなに沢山書いてしまったら読者が読みづらいだろう。どんな優れた論文でもなあ、サマリーがないと意味がないだろう?ちゃんとまとめのサマリーを書いて論文は完了なんだから、ちゃんとサマリーを書いとけよw」と繰り返し言うのだった。

 アクセス数少ないブログなので、そんなに読むヒトを気にしなくても良いじゃないか、と必死で抵抗してみたものの、イチロウは酔いが回った赤ら顔で全く納得してくれないw。

じゃあ仕方がないな、書くことにするが、サマリーだけだと、全く味気ない文章になってしまう。そこで遊びついでに、「架空雑誌宛の短報」という形で今回の「独りNabesada祭り」をまとめようと思った。

 

以下は、その似非論文である。

 

A letter to the editor

 

【題】Nabesadaの音楽性に対する私的論考

【著者】マサキ、イチロウ

【目的】Nabesada氏の音楽作品の変遷を踏まえつつその音楽的志向を理解すること

【方法】期間:20151020日から同年1218日。方法:渡辺貞夫氏の1961年から1980年までの作品を主体に20アルバム作品を無作為に抽出し試聴。同氏著作「渡辺貞夫~ぼく自身のためのジャズ/ 日本図書センター発行(2011)」の読了。フィールドワークとして、20151113日広島Live Jukeでスモールコンボでの演奏、同年1213日西宮市 兵庫県立芸術文化センターでの「Naturally Concert」ストリングスアレンジ付きでの演奏を観察し比較検討。20151218日中華料理屋「天津」での世間話。これらを資料としてCohort的に検討し極私的に考察する。


 
【結果】11961年の初リーダーアルバム「Sadao Watanabe」において高度なJazz演奏技術を披露していた。その演奏技術は、米国のJazz Musicianからも高く評価されていた。2)米国留学期(19621965年)の経験により、Jazzのみでなく幅広い音楽を演奏していく志向性を持つに至ったようであること。それは世界的なBossa Novaブームと重なり、帰国後積極的に同氏がこの音楽を演奏することにより日本でも同様のブームをもたらすことになった。3)その後、アフリカ音楽への傾倒のみならずフュージョンや民俗音楽的展開を示すが、一方でストレートアヘッドなJazz演奏の継続を示している。4)同氏本人は、その著作の中で自らの音楽について、自身のことを「ジャズ・ミュージシャンと言わなくても良い」「ヴァラエティーに富んだ音楽をやりたい。あらゆる変化のあるリズムを使っていきたい」としつつ、「リズムに抵抗なく入れて、スイングすること」が最初の問題であり、「ジャズのスイング感に魅力を感じている」、そして自らの音楽が「これからもジャズ的フィーリングのあるものになるだろう」としていた。また同著作からは、繰り返しリズムについて繰り返し言及していた。5)実際の本人の演奏においては、ストレートアヘッドなJazzにおけるエネルギッシュでありながらも、高度な指使いによる淀みのないフレージング、イージーリスニング・ジャズ、ソフトサンバ的な曲におけるスムースでメロディアスなフレージングが特徴的であった。6)また、ステージ上では同氏のプロフェッショナルな態度、即ち聴衆に対する謙虚な態度、同僚に対する信頼、自らの音楽に対する真摯な態度が窺え、また同僚からも尊敬と信頼を受けている様子が窺えた。7)後日18日では、店主より6)の結果を補強される談話があった。

【考察】渡辺貞夫氏は、1933年生まれ。1951年に上京後音楽活動に入り2015年現在82歳であり、その音楽キャリアは63年に及ぶ。63年間に演奏スタイルをバップ・ジャズ、ボサノバ、サンバ、ジャズロック、アフロ音楽、MPB、イジージーリスニングなどの音楽に展開していきつつも、それらの音楽の中に常にスイング感・ジャズフィーリングを見出していたようである。同氏は、多様なリズムや幅広い音楽スタイルに愛情を抱きつ幅広い音楽に自らを投じつつ、一方でジャズ的要素を自らの音楽的オリジンと捉えていた。「やりたい音楽をすることが幸せであり、それが聴き手にも楽しんでもらえることになる」という自らの音楽に対する強い自負が窺えたが、その背景には、同氏が自ら納得いく音を得られるまで、そしてその音が常に再現できるように、常に楽器の練習に余念が無かったこと(恐らく現在までも)、弛まぬ努力があったことをその著作より知ることが出来た。

 さて、著者らは60年代後半に生まれて、80年代前後同氏が一連のフュージョン作品で大成功を収め国内で社会的に大きく取り上げられた頃にその名前と顔を知った世代である。残念ながら、コマーシャライズされた「ナベサダ」程度でしかその存在を今日まで知ることがなかった。90年半ばに著者のひとりであるイチロウが、“エセ・ボサ”(※ボサノバブームに便乗して制作されたと思われるボサノバ・テイストの作品を、著者たちが勝手に名づけたもの)のアルバムを収集したことがあり、その時偶然に「Sadao meets Brazilian Friends」を入手し、その作品のクオリティの高さに驚きつつも、同氏のその他の作品群にその多様さ故にどう手を染めていけば良いのか立ち往生し、そのまま収集を放棄しまったという体験があった。一方のマサキは、フュージョンブームの頃1984年にスティーブ・ガッド(ds)、ウィル・リー(b)らを率いた地方コンサートを観に行った経験があった。しかし、不覚にもそのコンサートのほとんどを眠りこけてしまい、アンコールで披露されたスティーブ・ガッドのソロをフィチャーした「カルフォルニア・シャワー」だけを記憶に残すのみという大失態をおかし、それがトラウマになったのか、その後全く同氏の音楽を聴かないで過ごしていた。

 この度の一連の研究の動機において、著者ら各々の「Nabesada体験」に対するリベンジの側面を否定しえないが、この度集中的に渡辺貞夫氏の諸作品と演奏ライブへの参加を通じて以下のような結論を得た。

 ○Nabesada氏の音楽性のプライオリティーは「プレイヤー」である。それも侍魂を持った日本が誇る稀代の名プレイヤーであること。様々な音楽ジャンルや共演者に対して、そこにジャズフィーリングを感じれば、相手の懐に飛び込んで歌心溢れる演奏をし、共演者をそして聴衆を納得させ、誰をも幸せにさせてしまうことの出来るプレイヤーであった。

 ○多様なリズム、音楽ジャンルを我がモノとさせてきた背景には、同氏の幅広い音楽・リズムを自らの音楽に積極的に取り込んで行こうとする同氏の音楽的志向性の展開ゆえであり、多彩な音楽演奏を残した作品群は、この音楽家の個性に帰するところである。

 ○世に出された諸作品は多様な音楽スタイルを示すが、通底するものは「渡辺貞夫」というフィルターを通したジャズの発露であり、そこには日本の職人気質に重なる同氏の匠としての自負が存在していたのである。

 ○同氏のアルバム作品を回顧する過程で、同氏の音楽キャリアと音楽的展開は同時代の音楽変遷と概ね重なり、同氏の時代対する嗅覚の鋭さを表しているように思われた。

 ○では、この21世紀に新たなる“Nabesada氏”のようなミュージシャンが登場するかどうか?という疑問が著者間に生じたが、昨今の音楽界の状況などから、残念ながら“否”であろうという結論になった。

 

【限界】渡辺貞夫氏のアルバム作品全80数作からあくまでも20作品を無作為に取り出して試聴したが、60年代から80年の作品を取り上げ、また70年代のアフロ音楽作品と80年代以降のフュージョン、MPBもの、などのほとんどは試聴出来ていないため、全作品を網羅した上での私的考察ではない。今後も漸次同氏のアルバム作品を収集し試聴を続ける必要がある。また、本論に述べた結果や考察は、あくまでも著者らが同氏のアルバム作品やライブ演奏を聴いた上での主観的印象であり、他者の評論や考察を検討していない。あくまでも本著者たちの主観的な印象に基づく考察であり、他の評論者においては異なった考察が述べられることになろう。但し、多様な評論や考察が、「渡辺貞夫」氏の音楽性をより多角的・立体的に理解することにつながるのであり、その点においてこのような本論における私的論考も多少の価値があるのではないかと思われた。

なお、本論文に関連して開示すべき利益相反はない。

 

Reference

・試聴したアルバム作品(年代順に記載)

 

Sadao Watanabe1961

○※ Latin Baloch Collection(1965)

Bossa Nova ‘67(1967)

Jazz Samba(1967)

The Girl From Ipanema(1967)

Nabesada Charlie(1967)

Sadao Meets Brazilian Friends(1968)

Song Book(1968)

Sadao Watanabe Live At The Junk(1969)

Sadao Watanabe At Montreux Jazz Festival(1970)

Sadao Watanabe(1972)

Swiss Air(1972) 

I Am Old Fashioned(1975)

My Dear Life(1977)

Bird Of Paradise(1977)

California Shower(1978)

Morning Iland(1979)

Remembrance(1999)

Broad Cast Track ‘67 ‘72(2006)

Naturally(2015)

 

・著作物

○渡辺貞夫 ぼく自身のためのジャズ 人間の記録174 日本図書センター、2011

(もうこれで、本当におしまいw)

2015年12月20日日曜日

「テンシン」行


イチロウが珍しく「打ち上げしようぜ」と言った。「ほら忘年会も兼ねてだなあ、今回のNabesada祭りの締めをしようや。ついてはテンシンにちょっと行ってみようぜ。」という。

 

夜出無精の彼がそんなことを言いだすのは珍しい。こちらとしても断る理由もなく「おお、Nabesadaについて鼎談しようか」とふたつ返事で応じた。

 

その日イチロウとボクは仕事を終えた後待ち合わせ、広島市内にある中華料理屋「天津」に赴いた。歓楽街のメイン通り沿いにその店はあり、初めての来訪者にも分かりやすい。少し古びた趣の引き戸を開けると10数人がけのカウンター席があって、その奥にテーブル席が45組ある、入り口に対して縦長の作りをしていた。入り口の右手に厨房があって、男性店主独りがテキパキと料理を作り、女性1人がフロアを担当していた。

 

イチロウとボクは店主に会釈した後、カウンター席に座り、「さて」とメニューを眺める。豆腐の天麩羅、豚(耳)の味噌煮、水餃子、鶏手羽先の薬膳煮などに目が留まり、チンタオビールと共にそれらを注文。

 

ビールが運ばれてくると、早速二人で乾杯をした。店主が他の客の注文も裁きながら、手際よく我々の注文をした料理を作ってくれる。上の料理、どれも旨い。豆腐の天麩羅、豚耳の味噌煮は沢山のネギと共に甘い味噌をたっぷりと付けて食べるのだが、ちょっと感動的だった。

 


すこしビールを飲み、料理を食べていると次第に気分もほぐれた。イチロウとボクがどちらともなく、「この度のNabesada祭り良かったよなあ」という。「今回聴かなかったら、絶対にこれからの聴くことなかったよな」と。イチロウ、「俺この前の広島ライブの時、ウルウルしてただろう。やっぱホンモノだと分かって嬉しかったんだよなあ」という。

 

ボクも相槌を打つ。「確かに。あのライブは本当に凄かった。感動したものなあ。」「今回聴かなかったら、一生カリフォルニア・シャワーのオジサンという認識しか持たずにいたものなあ。」と。

 

さて、この天津というお店、実はナベサダ氏直々に教えていただいたお店で、1113日の広島ライブが終了した時、ご本人が「この後、この若い連中が天津に行くから、もし良かったら皆さんも行って盛り上がって下さい」とアナウンスされた。その時、イチロウは「一丁付いて行くかw?」などと言っていたのであるが、ボクは妙に気が引けてしまい断ってしまった。後日イチロウが調べるに、この天津さんは広島では有名なお店でナベサダ氏が広島に来られる際には必ずライブ後に立ち寄られるお店だそう。それを知った夜出無精のイチロウが、「是非天津で、打ち上げするぞ」と言い、強い決意を表明したのであった。

 

少しお腹が落ち着いて店内を見回すと、カウンター席の背後の壁には所狭しとサインの書かれた色紙が貼ってある。ナベサダ氏はだけでなく、沢山の芸能人が過去に来店しているみたいだ。「へー」と思う。

 

やがて、イチロウが向かいで作業をしている店主に「ここのお店は、よく渡辺貞夫さんが来られるらしいですね」とごく自然に尋ねる。このヒトの、このタイミング、大仰でないさりげなさでお店のヒトと会話できる能力・それも相手から気持ちよく話を引きだす能力に何時も感心してしまう。一種の才能である。

 

その店主さんは、話をしてみるととても気さくで穏やかな物言いをして下さる方で、多分イチロウとボクが彼の目の前でナベサダ氏の話やブラジル音楽の話をしていたのでちょっと気になっておられたのであろう。「お客さん、音楽関係?地元のヒト?」などと確認した後、ナベサダ氏について語って下さった。「貞夫さんはねえ・・・・」と話し始めてそのお店とナベサダ氏の馴れ初めを教えて下さった。

 

その店主さん曰く、ナベサダ氏が最初に来店したのは79年のことだったらしい。最初は地元のプロモーターが案内されたと思われるが、それ以後は広島に演奏に来られるたびに立ち寄るようになった。毎回ツアーに共演するミュージシャンも引き連れてきていたので、次第にそのミュージシャンが広島に来た際共演する他のアーチストたちを連れて来店するようになったらしい。因みに俳優系の最初は「小沢昭一さん」らしく、そのうちに俳優の皆さんも数多く立ち寄られることになった(この件、小沢昭一ファンのボクは、おお!と感激してしまった)。今ではミュージシャン関係、俳優関係のヒト達が多数来店することになっているとのこと。店主さん「以前ではスティーブ・ガッドさんやウイル・リーさん、最近ではサリナ・ジョーンズさんも来られましたよ」と(へーw)。

 

そんな話を店主さんがしてくれて、ちょっと手が空くと、ナベサダ氏のサインやこの前ライブで共演したミュージシャンの来店時の写真を見せてくれた。その時は、ナベサダ氏は来店されなかったのだが、変わりにサイン入りの「Naturally」コンサートツアー用ポスターをこのお店に送ったのだそうだ。店主さんが御礼状を送ると、ナベサダ氏は返礼の手紙を送ってきたらしい。

 

“ああ、とても優しく手律儀な方だな”と思った。“こういう付き合いを大切にされる人だからこそ、何処に出かけて行っても現地のヒトに受け入れられて音楽的交流が出来たんだなあ”と物凄く納得できるエピソードだった。

イチロウが「貞夫さんのサインとかどの辺にありますか?」と店主に尋ねると、「その奥のテーブル席ですよ」と教えて下さった。

 


「折角だから」と席を離れて奥にあるテーブル席コーナーに行ってみると、ワ~沢山ありましたw。“ナベサダ・コーナー”がありました。「今度来るときは絶対に、このテーブル席に座らせて貰おう」とイチロウ満面の笑みを浮かべている。

 

音楽関係者が集まることは別にしても、その店の雰囲気、出される料理の旨さ、店主さんのお人柄、どれも申し分なくここは何度来ても良いなと思った。

 

店主さんがいうには、ナベサダ氏は来年も広島に来ると伝えられたとのことで、イチロウと二人で「来年もというかナベサダ氏が元気でライブで来広される間は、毎回ライブを観に行くか」と話した。そして、ナベサダ氏を追ってこの店に来ると。ちょっと楽しい年中行事になりそうである。

 

天津に来て良かった。まだまだ長居してその店主とナベサダ談義をしていたかったのだけれど、如何せん、お腹が一杯になりそれ以上留まる訳に行かなくなり、1時間20分程度で退散することになった。19;30分にスタートしたが、まだ21時にも届いていない。“河岸を替えよう”ということにして、その店を辞去し、暫く繁華街を歩いた。

 

前の通りには、忘年会の1次会が終わり次のお店を思案する様子のグループ客、気分良く盛り上がり嬌声を挙げて騒いでいるグループ客で溢れていた。辺りには、其々の店から放たれる香ばしい匂いが漂っていた。

 

「天津」さん、本当に良い店だった。また来よう。あの店、コウスケやジロウ好みの店だったなあ。何時か連れてきたい。そうだ、コウイチも広島に呼んで、ナベサダ氏のライブを観てあの店で打ち上げるのも良いなあ。来年第2Nabesada祭りをするか。

 

ほろ酔いの頭で「Naturally」を鳴らしあれこれ楽しい思案をしながら、イチロウと肩を並べてぶらぶらと賑やかな通りを歩いた。冷たく乾いた空気が熱くなっていた身体に優しく触れたよう気がした。

 

(続く)