2015年12月11日金曜日

予備学習の総仕上げに取り掛かるの事②

これまでに渡辺貞夫氏のアルバムを20作品弱聴いて来て、分かったようで分からなかった事を知りたくて、「渡辺貞夫 ボク自身のためのジャズ/ 人間の記録174」(渡辺貞夫著・岩浪洋三編、日本図書センター 2011)を読んでみた。

 

本書は、再編集ものらしく終戦後の氏の音楽と出会いから米国留学を終えて帰国後1968年頃までの音楽活動の振り返り、そして巻末に1977年に「PLAY BOY」誌に掲載された編者がご本人の自宅でインタビューした記事から構成されていた。だから、本書には同氏が4243歳の頃までの経験に基づいて積み重ねられてきた音楽に対する考え方が示されている。その後も現在に至るまでに40年の時を経ており、その後の体験により氏の音楽に対する考え方に多少の変化はあったかもしれないが、基本となるものはその頃既に出来上がり、現在に至るまで氏の思考の中核を成すものになっている筈である。

 

ボクの疑問に対する答えを探しながら本書を読み進めてきたのだが、まずは同氏のバークレー音楽院への留学と帰国直後の様子について、ボクになりに印象に残ったことを記しておきたい。

 

1) 氏が、音楽の道に入って以来、楽器演奏の練習に余念が無かったこと。ご本人は、演

奏していて自分の求める音が上手く引きだせた時の感覚を忘れたくなくて、更に楽器の練習をしていこうとするらしい。その姿勢は、日本でのキャリアスタート時から米国留学中もそして日本でのトップミュージシャンとなった後の現在に至るまで変わりがないようである。

 

2)氏は、日本時代に十分な演奏技術を得て、更にジャズを極めるために米国に渡ったものの、米国留学時代に有名・無名のジャズミュージシャンとの交流を経て、彼らの音楽に対する態度:ジャズに限らず、ポップスなどのあらゆる音楽ジャンルに対する愛情や演奏することへの悦び、に触れ、ご本人自身のそれまでの音楽に対する頑なな態度から解放され、より広い音楽的視野・志向性を持つことが出来たようである。また、バークリー音楽院でジャズ理論、作曲法、和声法などの基礎を学び、またご本人自身の成績も常にトップ10に入るくらいに優秀であったらしい。

 

3)氏のボサノバとの出会いは、ゲイリー・マクファーランド(vib/ arr)のグループに加わり演奏活動を共にしたことがきっかけであったが、当初は全くつまらない音楽だと感じていたらしい。その良さに目覚めたのは、演奏旅行中にたまたまセルジオ・メンデス/ブラジル65の演奏を聴いたことがきっかけで、その演奏を聴いて以来サンバのリズムが好きになったのだという。因みに編者の注釈によると、米国からの帰国直後に本人がどこに行くにも、セルメンとブラジル65LPを抱えて歩いていたことが印象的だったらしい。

 

465年、ビザの更新に纏わるトラブル、ニューヨークの大停電を契機に急にホームシックにかかり、望郷の念に駆られ、ミュージシャン仲間や音楽関係者など周囲の強い慰留を押し切って帰国。氏のジャズプレイヤーとしての実力、そして恐らくはその明るい人柄に米国のミュージシャン仲間からも信頼も好意も抱かれていたようだ。

 

5)帰朝後、精力的にライブ活動に入るも、米国と日本にあるジャズ音楽の土壌の埋めがたいギャップについて、思うところが多々あったようである。当時のジャズミュージシャンの音楽的志向性の幅の狭さ、演奏技術(ご本人はリズムの幅が狭い、バウンズしない、と表現)、ファンの演奏を聴く姿勢のこと(ご本人曰く、ジャズの聴き方をひとつしか知らない。素直に喜びを示さない)、そして働く環境としての問題(米国のようなUNIONがない、即ちギャラの問題などプロミュージシャンとしての身分保証がしっかりしていない)等々。帰国後しばらくして、日本のジャズミュージシャンから乞われてバークリー音楽院で学んだことを半年かけて自宅で講義したらしく、その後その講義が大変評判が良かったこと。そしてこの講義が、後にヤマハ音楽教室の設立に発展したこと(これは、知らなんだw)。

ボクの勝手な想像なのだが、氏がこの講義を引き受けた理由の中には、表現したい音楽(既に本ジャズの本場の米国で十分に評価されていた音楽性)を演奏するためには、どうしてもその当時の同僚の演奏レベルを引き上げる必要性があったことや、そして日本のジャズ音楽界そのものを引き上げていかなくてはならないという切迫した想いもあったのではないだろうか?

 

6)その後、氏は再び刺激を求めて68年に渡米しゲイリー・マクファーランドが経営するレーベルでのレコーディング、ニューポート・ジャズフェスティバルへの参加した後、予てよりサンパウロ在住でクラブオーナーだった小野氏からの誘いに応じる形でブラジルへ単身乗り込んだ。この辺りを読む限りにおいて、望郷の念に駆られて帰国したものの、同氏の意識は狭い日本に留まっていなくて、常に米国や世界にむかっていたのだろう。編者の注釈によると、サンパウロに渡って演奏した際には、地元のテレビや新聞に大きく取り上げられた氏のテレビ出演後は、地元のミュージシャンの大評判になり、実際に氏の演奏を聴いたミュージシャンはそのうまさにすっかり魅了されたのだという。氏の帰国後、サンパウロのミュージシャンの間では「渡辺貞夫をもう一度本格的に招聘しよう」という署名運動まで起こったほどだったらしい。

 

この辺りでそろそろ、ボク抱いた疑問に対する氏の答えについて触れていこうと思う。

 

1)どうして色々なスタイルの音楽を演奏してきたのかという点について。

「ボク自身のジャズ」という章の冒頭に、ご本人曰く「自分自身をジャズミュージシャンと言わなくてもいいのではないか?最近はそんな気持ちになってきた。・・・・あらゆる変化のあるリズムを使っていきたい。・・・あらゆるリズムに抵抗なくスムーズに入っていけて、しかもスイングすること、それが最初の問題であり・・・。音楽の醍醐味をあじわったのは、・・・・・たった一つの音に惹かれて感銘を受けたという場合が多い。・・・そのためにはジャズから離れても良い。自分の幅を失いたくない。」今後やっていく音楽としては、「ただ、ボク自身としてはジャズのスイング感に非常に魅力を感じている・・・・、たとえもとになるものがジャズでなかったとしても、ジャズ的フィーリングのものになるだろう」と。

ジャズ以外の音楽に目を向けるようになったきっかけとして、氏は米国留学前の数年間に、クラッシック畑のヒトからフルートを習っていて、演奏の上でも未知の音楽に触れるという意味においても学ぶ点が多かったと述べられている。

 

つまりボクなりに解釈すると、ご本人は音楽的幅を広げていく志向を持ったヒトだったのであり、あらゆるジャンルの音楽・様々なリズムに出会う時、その中に自身の音楽性に共鳴する要素を見出せたならば、もっと言ってしまえばその音楽の中にスイング/ジャズ的要素を見出せたならば、その音楽の懐に入っていける演奏家なのだろう。表層的には色々なスタイルの音楽を演奏しつつも、芯のところは常に「ワタナベサダオというフィルターを透したジャズ」という音楽が鳴っているということなのだろうか。「ワタナベサダオ」という核となる音楽性を持っているという強い自負があるからこそ、どんな音楽にも飛び込んでいけるのだと云えそうだ。

 

2)氏は、同時代のミュージシャンをどんな風に捉えていたのだろうか?

この問いは、我ながらアバウト過ぎる疑問設定ではあった。この本では、氏は直接的に応えてくれていない(当然と云えば当然かw)。ただ、「ビッグプレーヤーの道」という章で触れられているのだが、氏は常にベストな演奏をすることに心を砕いて来られたようである。メンタル面だけでなく身体的なコンディションにも常に気を配っていた様子が読み取れる。氏は、プロフェッショナルとしてベストな演奏をすることのみに関心があるのであり、自分が演奏者として向上することのみに専心していて、ひょっとしたら同時代のプレーヤーの生き方などについては余り気にしていなかったのかもしれない。自分は自分、他者は他者という感じで。そしてこの日頃の精進が、60余年に及ぶ長いキャリアをささえていたのであろう。

 

3)氏の考えるオリジナリティーや独自性についてどのように考えてきたのか?

先に触れたことに通じるのだけれど、ひとつは氏が人並み外れた練習・努力を通じて培われた演奏技術や音楽性は、どんなジャンルの音楽を演奏するにしてもその中に芯として宿っているのだろう。本人にとって、それは言葉で表現できるものではないのかもしれない。寧ろ氏の音楽的オリジナリティーについては、その演奏を通じて聴き手側が感じ取るべきものなのかもしれない。それ関連して日本人のミュージシャンとして、氏曰く「僕はジャズをやる場合、日本人であるという意識はないといっていい。・・・・、意識して日本調を狙ったりしたものは嫌だ。ボクはアメリカで演奏していて、日本的であるとか東洋的であるとか言われたことはなかった。自分に正直な演奏をすればそれでいいと思う」と。

 

そう、渡辺貞夫氏の音楽の核にあるものは、「渡辺貞夫」そのものなのだ。

 

ボクが前に述べたように、氏の色々なアルバム作品を聴きながら、時々戸惑いを覚えたのはその演奏する音楽スタイルの多様さというか変遷について対してであり、「もうついて行けない」と感じたことなのだった。氏に対しては本当に失礼この上ないことを記してしまうのだが、氏の作品を聴き始めた当初は、確かに演奏は上手いのだけれど、どうも器用に時流に旨く乗って来られただけなのではないかという疑念が払拭出来なかった。ご本人も自身の演奏について「オレは嗅覚というか、触覚というかその点でシャープな感じがするんだよね」と述べられているのだが、この言葉からもう少し想像広げると、確かにその時代時代に求められていた音楽や未知の優れた音楽を探求する上での嗅覚も鋭いヒトだったのだと思う。ただ、氏が色々な音楽と出会い、その音楽を好きになって演奏をするその根底には、プロの演奏家として自分の納得がいく音を求めて弛まぬ努力と練習を重ねて培われた音楽性に対して強い自負心があるのだということを理解出来て、激しく納得してしまったのだった。

 

いや本当に渡辺貞夫氏に参ってしまった。もの凄いヒトだと思う。氏のアルバム作品を聴き始めるまでは、ボクが氏の存在を知るきっかけとなった80年代にテレビコマーシャルでニコニコと笑っている、或るいはその頃流行したヒュージョンを演奏するカッコいいオッサンというイメージしかなかった。それが実際にその作品に触れ、そして本書を読んでみると、とてつもなく強烈な魅力を持った音楽家だったことを知ることになった。
 
 
 
この度の“独りNabesada祭り”、Twitter上のコウスケとイチロウの会話を見て何気なく「Naturally」を聴き、イチロウの説得にあって「Sadao Watanabe Meets Brazilian Friends」を聴くことになったのが始まりだったのだけれど、少し掘り下げてみるととてつもなく大きな鉱脈が眠っていたという感じだった。

 

うむ、これでよし、と。これで事前学習は一区切りにしよう。

 


“独りNabesada祭り”はいよいよ佳境を迎え、次回は126日(日)に開催の「Naturally」フォローアップコンサート本番を残すのみ、当日は正しく主祭の神事として大いに楽しもうと思う。
 
(つづく)

 

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