2015年12月3日木曜日

“独りNabesada祭り~予備学習の仕上げに取り掛かる事①~

渡辺貞夫氏のコンサートに向けて、事前勉強として20のアルバム作品(CD19枚、DLアルバム1枚分)を聴いてきた。ジャズに留まらず、ブラジル音楽やアフリカ音楽、ロック色の強いものやバロック調のもの、ヒュージョンと呼ばれた音楽スタイルのもの等、多種多様な演奏に大いに戸惑いながらも、どの作品においても質の高い演奏を残していることに感じるところが多かった。

(※写真には、18枚のCDしか写っていないのだけど、もう1枚/Sadao Meets Brazilian Friendsは別所においてあるのです。)

実際に聴いた作品は、氏が制作発表された80数作品のうちの僅か1/4程度のものではあったが、1950年代初頭からプロとして演奏活動を始めて、国内での「修業期間」・秋本敏子氏との出会いがあり、61年に初のリーダーアルバムを制作、62年から65年までのバークリー音楽院への留学を経て、帰国後精力的なライブ活動、ボサノバの本邦への紹介、アルバム制作、後輩ミュージシャンへの指導、各地のジャズフェスへの参加、新しい音楽への挑戦(フリージャズ、ジャズロックやアフロビートの取り入れなど)、海外の一線で活躍するミュージシャンとの交流、そして70年代後半からのヒュージョン音楽としての表現方法の取り組みと大成功と。ボクがこの度聴いてきたアルバムはこの年代作品群からのピックアップだったのだが、それでも同氏が60年代から日本のポピュラー/ジャズ音楽界において、常に先頭ないしは中心的な存在として活躍してこられた様子を十分認識できるものであった。

 これらの作品群からは、それぞれの時代の音楽のみならずその時代的雰囲気までもが伝わってくるようで、氏が常にその時代の新しい音楽と格闘し吸収し我がものとしてきた様が連想された。それはまるで氏がその時代そのものに挑み格闘し克服してきた様にも感じられる。そういう意味においてボク個人としては、同氏が日本の若手ミュージシャンを引き連れて参加したモントルージャスフェスティバルの模様を録音した二つのアルバム「Sadao Watanabe at Montreux Jazz Festival1970)」「Swiss Air1975)」が大のお気に入りとなっていて、これらの作品では、まさしく同氏が世界を、そしてその時代を相手に真っ向から挑み、エネルギッシュな演奏で「どうだ」と聴衆に提示し魅了している様子や熱気が伝わってくるようで、大変痛快に感じられるからである。

 60年から70年代にかけては、ジャズにおいてはビバップ、フリー、ジャズロック・エレクトロニックサウンドの取り入れなどのジャズ・スタイルの変遷があり、ポピュラー音楽界に視野を広げるとフォークソングの流行と、圧倒的なパワーを持ったロックの隆盛、社会的情勢では反戦運動、サブカルチャーとしてのヒッピー・フラワー文化など、今の時代と比べても、随分と賑やかでざわざわとした時代だったのではないかと思える。そんな時代を同氏は精力的に活動し日本に留まらず全世界を駆け巡って音楽的成功を修めて来たのだ。それはある意味プロミュージシャンとして生き残りをかけた激しい戦いだったのではないかと思える。このヒトのキャリアを概観するだけでも、時代に対する嗅覚の鋭さや氏の持つ音楽的情熱の巨大さを思わずにはいられない。正しく侍ではなかったかと思う。

 こんな風に、自分で集めた氏のアルバム作品を聴きながら、CDについていたライナーノーツを眺め、ネット上で拾えたふたつのインタビュー記事を参考に、上記したようなことを勝手に想像してはみたのだけれど、ボクの空想は2015年現在からあくまでもレトロスペクティブ(後方視的)にそれらの作品を捉えたものであり、決して同時代的に鑑賞してきたのものではないわけで、分かったようでいて分からない何点かの疑問が残った。

 

1) 氏のジャズ演奏技術は、61年の初リーダーアルバムを聴いて分かるように、そのころすでに高い水準に達していて、62年に渡米してバークリー音楽院に入学する時点で、例えばチャールス・ミンガスのような一流プレヤーをして「自分のグループに入らないか?」と誘われるくらいに本場のジャズ・ミュージシャンに認められるレベルに達していたようである。そのままトレートアヘッドなジャズ演奏を続けても、十分な成功を修めたと思われるのに、ストレートアヘッドなジャズに留まらず、ボサノバやジャズサンバ、ロック、アフリカ音楽や民俗音楽に氏の音楽的世界を広げていった理由が分かるようでいて分からなかった。新しい音楽が次々に起こる“ざわついた”時代背景もあり、ひとつのスタイルに留って安穏としている訳には行かなかったかもしれない。氏の音楽的変遷に対する聴き手側の戸惑いとそれに対する答えについて、「Bird of Paradise」のライナーノーツを記した油井正一氏が触れられていて、その点について抜粋させて貰うと「渡辺貞夫氏の音楽哲学を、簡単に言えば、自分が楽しめる音楽なら演奏する、というのに尽きる。(中略)自分が楽しめる音楽を楽しくやれば、聴く人は同じように楽しんでくれるという、実に明確なる哲学である。」としている。

“なるほど・・・・”とは思う。

それでも同時代にはスタイルを変えないでキャリアを終えたジャズ・ミュージシャンも沢山いたと思われる。チェット・ベイカー、ビル・エバンス、リー・モーガン、クリフォード・ブラウン、ジョン・コルトレーン、等々。ファンとは誠に勝手なもので、あるミュージシャンを想描くときに、こんな演奏とかこのアルバムという風に捉えたいものだと思う。その点、氏の音楽を思い描く時に、フュージョンの「カルフォルニアシャワー」だけではないし、ボサノバだけでもないし。「やりたい音楽をやったきた」と言われても、それはそうだのだけれど、もう少し言葉にならないものかと勝手に思ってしまうのだ。

 ) 上記したボクが勝手に思いつくままに挙げたジャズ・ミュージシャンって偶然かもしらないけれど、ある者は事故などで夭折したり、ある者はドラッグの問題がそのキャリアに影を落としていて、余り幸せな最後ではなかったような気がする。それに比べて、氏の音楽キャリアは60年以上に及び83歳なられた現在も現役プレーヤーとして意気軒昂といった誠に喜ばしい状態である。氏は、同時代のミュージシャンたちをどんなふうに眺めていたのだろう?

3)“洋楽”を聴かなくなってしまった若い世代の方はあんまり気にしないのかもしれな
  いけれど、ボクなぞは“今聴いている(日本の)音楽のオリジン”はどこなのか、つ
  い気になってしまう傾向がある。もう僕も旧世代に属するおっさんになってしまって
  いて、このように思うのはおかしなことなのかもしれない。ただ、ポピュラー音楽に
  限らず映画にしてファッションにしても60年~80年 代は、まだまだ海の向こうのも
  のを日本にせっせと輸入しては摂取し、それを解釈してはジャパナイズしていた時代
  だったのではないかと思う。前回、氏に対して全く失礼な表現だとは思いつつも、つ
  い“既視感”という表現を使ってしまったのだが、氏は日本人の演奏家として、そ
  オリジナリティーなり独自性なりについてどんなふうに考えていたのだろうか?この
  課題は、海外にオリジンを持つ芸術分野で創作活動をしていくアーティストたちに共
  通するもののように思われ、大変気になるところだった。

 

ちょっと冗長的にボクの疑問を書き連ねてしまった。本来ならば、氏に直接聴いてみたいところなのだが、残念ながらボクはあくまでの一ファンに過ぎず、氏と一面識もないので、直接伺うことは不可能なことだ。上記のボクなりの疑問に対する答えは、同氏の評伝などの書物にあたってみるしかなく、“何かないかしら?”と例のごとくネット通販を物色してみた。

唯一ヒットした本が「人間の記録…174 渡辺貞夫~ぼく自身のためのジャズ」/日本図書センター(2011)なるもので、そのタイトルからして、もう僕の疑問対する答えになっていそうな感じだったのでw、喜び勇んで早速ポチって読むことにしてみたのだった。

 


(つづく)

0 件のコメント:

コメントを投稿