実際に聴いた作品は、氏が制作発表された80数作品のうちの僅か1/4程度のものではあったが、1950年代初頭からプロとして演奏活動を始めて、国内での「修業期間」・秋本敏子氏との出会いがあり、61年に初のリーダーアルバムを制作、62年から65年までのバークリー音楽院への留学を経て、帰国後精力的なライブ活動、ボサノバの本邦への紹介、アルバム制作、後輩ミュージシャンへの指導、各地のジャズフェスへの参加、新しい音楽への挑戦(フリージャズ、ジャズロックやアフロビートの取り入れなど)、海外の一線で活躍するミュージシャンとの交流、そして70年代後半からのヒュージョン音楽としての表現方法の取り組みと大成功と。ボクがこの度聴いてきたアルバムはこの年代作品群からのピックアップだったのだが、それでも同氏が60年代から日本のポピュラー/ジャズ音楽界において、常に先頭ないしは中心的な存在として活躍してこられた様子を十分認識できるものであった。
1) 氏のジャズ演奏技術は、61年の初リーダーアルバムを聴いて分かるように、そのころすでに高い水準に達していて、62年に渡米してバークリー音楽院に入学する時点で、例えばチャールス・ミンガスのような一流プレヤーをして「自分のグループに入らないか?」と誘われるくらいに本場のジャズ・ミュージシャンに認められるレベルに達していたようである。そのままトレートアヘッドなジャズ演奏を続けても、十分な成功を修めたと思われるのに、ストレートアヘッドなジャズに留まらず、ボサノバやジャズサンバ、ロック、アフリカ音楽や民俗音楽に氏の音楽的世界を広げていった理由が分かるようでいて分からなかった。新しい音楽が次々に起こる“ざわついた”時代背景もあり、ひとつのスタイルに留って安穏としている訳には行かなかったかもしれない。氏の音楽的変遷に対する聴き手側の戸惑いとそれに対する答えについて、「Bird of Paradise」のライナーノーツを記した油井正一氏が触れられていて、その点について抜粋させて貰うと「渡辺貞夫氏の音楽哲学を、簡単に言えば、自分が楽しめる音楽なら演奏する、というのに尽きる。(中略)自分が楽しめる音楽を楽しくやれば、聴く人は同じように楽しんでくれるという、実に明確なる哲学である。」としている。
“なるほど・・・・”とは思う。
それでも同時代にはスタイルを変えないでキャリアを終えたジャズ・ミュージシャンも沢山いたと思われる。チェット・ベイカー、ビル・エバンス、リー・モーガン、クリフォード・ブラウン、ジョン・コルトレーン、等々。ファンとは誠に勝手なもので、あるミュージシャンを想描くときに、こんな演奏とかこのアルバムという風に捉えたいものだと思う。その点、氏の音楽を思い描く時に、フュージョンの「カルフォルニアシャワー」だけではないし、ボサノバだけでもないし。「やりたい音楽をやったきた」と言われても、それはそうだのだけれど、もう少し言葉にならないものかと勝手に思ってしまうのだ。
それでも同時代にはスタイルを変えないでキャリアを終えたジャズ・ミュージシャンも沢山いたと思われる。チェット・ベイカー、ビル・エバンス、リー・モーガン、クリフォード・ブラウン、ジョン・コルトレーン、等々。ファンとは誠に勝手なもので、あるミュージシャンを想描くときに、こんな演奏とかこのアルバムという風に捉えたいものだと思う。その点、氏の音楽を思い描く時に、フュージョンの「カルフォルニアシャワー」だけではないし、ボサノバだけでもないし。「やりたい音楽をやったきた」と言われても、それはそうだのだけれど、もう少し言葉にならないものかと勝手に思ってしまうのだ。
3)“洋楽”を聴かなくなってしまった若い世代の方はあんまり気にしないのかもしれな
いけれど、ボクなぞは“今聴いている(日本の)音楽のオリジン”はどこなのか、つ
い気になってしまう傾向がある。もう僕も旧世代に属するおっさんになってしまって
いて、このように思うのはおかしなことなのかもしれない。ただ、ポピュラー音楽に
限らず映画にしてもファッションにしても60年~80年 代は、まだまだ海の向こうのも
のを日本にせっせと輸入しては摂取し、それを解釈してはジャパナイズしていた時代
だったのではないかと思う。前回、氏に対して全く失礼な表現だとは思いつつも、つ
い“既視感”という表現を使ってしまったのだが、氏は日本人の演奏家として、その
オリジナリティーなり独自性なりについてどんなふうに考えていたのだろうか?この
課題は、海外にオリジンを持つ芸術分野で創作活動をしていくアーティストたちに共
通するもののように思われ、大変気になるところだった。
いけれど、ボクなぞは“今聴いている(日本の)音楽のオリジン”はどこなのか、つ
い気になってしまう傾向がある。もう僕も旧世代に属するおっさんになってしまって
いて、このように思うのはおかしなことなのかもしれない。ただ、ポピュラー音楽に
限らず映画にしてもファッションにしても60年~80年 代は、まだまだ海の向こうのも
のを日本にせっせと輸入しては摂取し、それを解釈してはジャパナイズしていた時代
だったのではないかと思う。前回、氏に対して全く失礼な表現だとは思いつつも、つ
い“既視感”という表現を使ってしまったのだが、氏は日本人の演奏家として、その
オリジナリティーなり独自性なりについてどんなふうに考えていたのだろうか?この
課題は、海外にオリジンを持つ芸術分野で創作活動をしていくアーティストたちに共
通するもののように思われ、大変気になるところだった。
ちょっと冗長的にボクの疑問を書き連ねてしまった。本来ならば、氏に直接聴いてみたいところなのだが、残念ながらボクはあくまでの一ファンに過ぎず、氏と一面識もないので、直接伺うことは不可能なことだ。上記のボクなりの疑問に対する答えは、同氏の評伝などの書物にあたってみるしかなく、“何かないかしら?”と例のごとくネット通販を物色してみた。
唯一ヒットした本が「人間の記録…174 渡辺貞夫~ぼく自身のためのジャズ」/日本図書センター(2011)なるもので、そのタイトルからして、もう僕の疑問対する答えになっていそうな感じだったのでw、喜び勇んで早速ポチって読むことにしてみたのだった。
唯一ヒットした本が「人間の記録…174 渡辺貞夫~ぼく自身のためのジャズ」/日本図書センター(2011)なるもので、そのタイトルからして、もう僕の疑問対する答えになっていそうな感じだったのでw、喜び勇んで早速ポチって読むことにしてみたのだった。
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