2021年5月18日火曜日

without him

 ああ、やっと見つけた。Astrud Gilbertoが歌う「without him」という曲。

 GWが明けた次の日曜日に、イチロウ氏が広島県安芸津町にあるレコードショップ「This Boy」を訪問した折に、Astrud Gilbertoの「the essential Astrud Gilberto」のLP盤を買ってきた。同氏曰く、内容はさることながら、そのジャケットを気に入り、私のために職場に飾ってやろうという意図で購入したという事だった。


 私が長年のアストラッド・ファンであることを同氏はよく理解しており、「このジャケットを見せたら私がさぞ喜ぶだろう」と思ってくれたらしいのであるが、実際同氏が購入したLPジャケット写真は、どこかの空港でジェット機を背景に、本人が手すりに腰を持たれつつ、顔をやや左に傾けてこちらを見つめているというショットで、60年代の空気感をたっぷりと伝えつつ、アストラッド自身の姿も誠に愛らしいもので、私自身も大変気に入ってしまった。

 このジャケ写真を眺めていたら、ふと学生時代にイチロウ氏と共に彼が手に入れた音源をカセットテープで流しつつよくドライブに出かけていた情景を想い出した。彼は長期休暇で帰省した折、弟ジロウ氏が入手したものや、或は兄弟でレコード屋巡りをして手に入れた音源をカセットテープにどっさりとレコーディングし、休みが明けて下宿に戻って来るとドライブの折などに私に聴かせてくれたものだった。当時ブラジル音楽(に限らず、文化的な情報なども)については、私のように地方に住み、周りに同好者がいない環境で過ごしている者にとって、彼(ら)がもたらす音源の量・内容は大変貴重なものだった。その頃、イチロウ氏と私は、暇な時に交代でお互いのクルマを出し合ってドライブしたものだったが、彼が運転する古い日産セドリックに乗ると貴重なブラジル音楽の音源が流れてきて、目の前の車窓の風景を楽しみつつも、その音楽世界にどっぷりと浸かることが出来た。その中にアストラッドの曲も多く含まれていて、ある曲が私の心を捉えて長年忘れ得ぬものになった。

 私たちは大学を卒業すると別々のところで就職なり過ごすようになって、私はイチロウ(とジロウ)が収集した音源を聴くことが出来なくなってしまったのだったが、幸い90年の一時期に60年から70年代のブラジル音楽の音源が次々とCDとして復刻発売されて、私は記憶を頼りに、彼らから教えて貰った音源を求めて、休日になるとそれらのCDを買い漁った。私は後追いながらもそれらの音源を手にすることが出来て、休日になると、クルマでそれらの音源を流しながらドライブをするという学生時代の延長を独りで楽しんでいたのであった。

 ただ、アストラッドのこの曲はどのアルバムを買っても収録されてなくて、私にとっては幻の曲となっていた。如何せん、その曲名も収録アルバムのタイトルも知らぬまま手あたり次第彼女のアルバムを買っていたので、私がなかなか手に出来ないのも無理からぬことであったが、或は発売する側も人気がないアルバムで復刻する意図を持たなかったのかもしれない。そして、結局のところ、現在に至るまでその曲に再会することが出来ず30数年間の時間が経ってしまっていた。

 この度、イチロウ氏とジャケットを眺めながら、私はその事を想い出してその曲のタイトルを同氏に尋ねてみた。

私「あのさ、アストラッドの曲で無茶カッコいい曲あったでしょ。スローテンポのストリングスで入って、途中からアップテンポになって、また元のスローなテーマに戻るあの曲。あれってなんている曲だったけ?」。

 そうすると、イチロウ氏は問い直すこともなく「ああ、あれね。『Without him 』ね。途中から入ってくるベースのラインとホーンセクションがカッコいいやつね。」とさらりと答えた。このあたり、彼とはツーと言えばカーと答える間柄で、苦労することなく彼に私の意が伝わったので可笑しくなってしまった。

 私「その曲は、どのアルバムに入っていたんだ?随分探してみたけれど、分からず仕舞いだったんだよね」。同氏「いや、実はオレもわからないんだよな。ベスト盤にたまたま入っていたんだよね。」という事らしかった。

 


そうか、善は急げ。ということで、早速Amazonで探してみると、Astrud Gilberto /5 original albums (Verve)なるものがあって、その中に含まれていたアルバムのひとつ「I haven’t got anything better to do」の中に「without him」が収録されていた。一度、you tubeでその曲を聴いたところ、まさしくズバリ私が長年求めていた曲であることを確認し小躍りしたくなるような気分で再びAMOZONに戻り、迷うことなくポチったw。たった1曲のために5アルバムも収録されたコレクションを購入することになったのであったが、その価値は十分あると思った。数日後、その5枚のアルバム入りCDコレクションを手に入れた時の私の歓びは、月並みな表現だけれど、まさしく筆舌に尽くしがたいものであった。この曲はやはり今聴き直してもカッコいい。

 この曲を聴いていると、イチロウ氏のクルマでドライブしたシーン、小雨の降る中の岡山の田舎道や山道の情景、或る日別の友人から借りた古いアウディ80に乗り二人して日本海まで遠出した時の愉快なエピソード、また古い日産セドリックのファブリックシートにしみ込んだオイルの匂いまで想起されて、何とも懐かしくなってしまった。

そして、これからは末永く自分のクルマで、気が赴いた時にこの曲を取り出しては楽しむことが出来るかと思うと、意味もなくひとりニヤついてしまうのであった。

 因みに今回購入したコレクションには1The Astrud Gilberto Album 1965 2) Look to the Rainbow 1966 3) Astrud Gilberto/ Walter Wanderley, A Certain Smile, A Certain Sadness  1966 4) Windy 1968 5) I haven’t got anything better to do 1969 5アルバムが含まれていた。

1) から3)までは既に持っていたのであるが、4)、5)はこれまで持っておらずその存在さ

えもこの度初めて知ったところであった。早速、4)、5)をipodに移植しつつ聴いてみたのだけれど、私は思わず頭を抱えてしまった。うーむ、聴いていてなんだか辛いw 5)はポップスとしてまとまっていてそれなりに聴き通せるのだが、4)はどうもいけませぬw

 そもそも、アストラッドが如何なる歌い手か少々悩むところがあって、Jazz ファンであれば「Getz/ Gilberto」「Getz oh go go」辺りでの彼女の歌唱を好むヒトは多いだろうし、それから進んでボサノバファンになったヒトならば、1)のアルバムの他、「The Shadow of Your Smile」「Beach Sumba」辺りまでは無条件でコレクションに持っているだろう。そして許容範囲として上の3)くらいまでの作品を佳しとするのだろうけれど、45)の作品になってしまうともうダメだと判断されるのではないかと思われる。

 アストラッドの歌唱は、その可愛らしい声質をしているものの、声量は乏しくピッチも不安定。与えられた曲も次第にボサノバ・ブラジル音楽を離れてアメリカンポップスになってしまっている。うーむ、若かりし20代の頃手当たり次第に購入したアルバムを聴きながら独りがっかりしたことを想い出してしまったw。「without him」をゲットしたら収集を終わりにしようと思いつつ、いつまで経っても出会えない辛さw。そうだった、あのほろ苦さ故にいつの日かアストラッド作品を収集することを断念したのだった。

 うーむ、アストラッドをどう評価(自分の中で位置づけるか)するかは全く難問ではあった。

 


次の日曜日に、コロナの影響でどこにも出かけられない状況下で、小雨の中を当てもなくドライブをしながら、彼女の演奏を聞き流しながら漠然と考え直していた。彼女無くして(without her)私は、ボサノバ・ブラジル音楽に出会う事なかったのは確か。そう思い当たり、作品的評価は度外視してみると、アストラッドは紛れもなく私のアイドルなんだよな。そうか、アイドルと云えば日本の70‐80年代のアイドルだって、歌唱力はそれほどでもなくてもそのキャラクターの魅力から大手レコード会社の大物プロデューサーが付いて、名うてのミュージシャンが楽曲を提供しバックの演奏を務めているケースも多かった。アストラッドは、日本で云えば浅田美代子さんや麻丘めぐみさんだと思えば、良いのではないかw? あの60年代半ばから70年代にアメリカのポピュラー音楽業界で求められていたキャラクター/ アイドルだと捉えたら良いのではないか。

 自分の中でそんな風に定義出来たらなんだか愉快になってしまって、ドライブからの帰路を遠回りしながら更にアストラッドの歌声に耳を傾けるのであった。どんな音楽だって、私の好きなアイドルが演奏しているのだよ。そう思うとストンと腑に落ちた。どんな曲も違和感なく私の心に入ってくる。めでたしめでたしw

 最後に、イチロウ氏(とジロウ氏)なくして without him)、この「without him」という曲と出会い、また30数年後に再会する事は叶わず、そして私の中でのAstrud Gilbertoの定義づけも出来なかった。どうも有難うw

 


てなわけで、ついでに若い頃に購入し、長らく聴かず仕舞いだったこの3つのアルバムも聴き直してみるかな。

 

おしまい

 

2021年2月15日月曜日

早春の鞆の浦~笠岡~寄島へのドライブ

 2月のある休日に家内と鞆の浦~笠岡~浅口市沙美海岸まで海沿いの道をドライブした。当日の天候は、最高気温15度最低気温4℃、晴天で早春らしい穏やかな日和だった。鞆の浦までドライブするなら、沼隈町の道の駅「アリスト沼隈」に寄ると良いよとイチロウ氏。同所では、地元の漁師が直接新鮮な魚を卸していて、朝早くからお客さんが店頭に並ぶくらいに地元のヒトには大変人気なのだとか。

 

そういうことであれば、早起きしていかねばと心に決め、当日家を出たのはam 07;10頃、山陽高速を東上し、福山西インターで高速道路を下り、沼隈町に向かう県道を走った。午前8時前の高速道路は交通量が心なしか多いようで、春日和を期待して皆それぞれの目的地に向かってドライブを楽しんでいるのだろうと思われた。

 


Am08:45に第一の目的地、道の駅アリスト沼隈に到着。同所は午前8:00の開店であったが駐車場は既にいっぱいで、イチロウ氏から聴いていたように人気店であることが分る。店内に入ると、出入り口の右横に鮮魚コーナーが設けられていて、逸る気持ちを抑えつつコの字に設えられた冷蔵棚を見て回った。


残念ながら第一目標のシャコは見当たらなかったものの、タチウオ、ゲタ、デベラ、カレイ、コノシロ、ハゼ、小エビ、エイ、チヌ、イイダコ、ミミイカ、などの新鮮な魚がずらりと陳列されてある。
あれもこれも欲しい状態であったのだが、散々悩んだ挙句、とは言っても最終的な決定権は家内にあるのだが、ハゼ、小エビ、タチウオの三枚おろし、刺身用のチヌの半身、ミミイカを購入した。

 

収穫内容に大満足であったが、この後笠岡や寄島町の道の駅、魚の直売所に立ち寄る道程であったので、次の目的地・獲物に向けて心が逸った。良いものは得るためには午前中が勝負だろう、他の客に良いものを取られる前に着かねば。アリスト沼隈を出る前に、朝飯替わりに缶コーヒーと「芋饅頭」なるものを買って車内で腹に収めて、出発。次の目的地は鞆の浦。

 


鞆の浦に向かう県道を更に進んで行くと、程なくして海岸縁に出た。朝日に照らされた水面は波が立たずべったりと穏やかで、遠望するとキラキラと輝いていた。午前945分頃に、鞆の浦港に到着。街中を抜ける県道は聞きしに勝る隘路で、クルマの離合に大変気を使う通りであった。幸いにして休日朝であったせいか、隘路の対向車は少なく23台程度をやり過ごすだけで済んだが、生活道として使う住民の方々が、港の上に橋をかけたくなるのがよく分かった。休日朝の鞆の浦港は、誠に静かな佇まいで、しばらくのんびりと港界隈を散策したかったが、生憎付近の駐車場を見つけることが出来ず、路肩にクルマを停めて港の景色を数枚写メした。古き趣を残した瀬戸内の情緒が偲ばれて、私としては大変良かったと思えたのであるが、その事を家内に漏らすと「海辺で生まれ育ったくせに。実家の周りの風景と対して変わらないじゃんw」と笑っている。私も苦笑いするしかなかったのであるが、この瀬戸内の情景が好きなのだから仕方がない。自然とヒトの営みが織りなす風景が堪らなく好きで、その傾向は齢を取るにつれて益々強くなっている。今度は嫁など連れずに一人で来訪しようと思う。

 


結局のところ、鞆の浦には30分程度しかいなかったのだと思う。これから向かうところで、鮮魚が待っていると思うと、美しい景色を前にしても気はそぞろであった。鞆の浦から県道22号・380号沿いに福山に出て、国道2号線よりも海沿いの県道を使い日本鋼管前を走り、岡山県笠岡市カブト中央町(と呼ぶことをこの度初めて知った)にある道の駅・笠岡ベイファームに立ち寄る。この界隈は、干拓地を利用した農耕地が広がっており、私たちが訪れた時には辺り一面菜の花が咲いていた。誠にだだっ広く、地図で見ると「笠岡ふれあい空港」
なるものが設置されている。

 学生時代だから30数年前にイチロウ氏と岡山側から海沿いの道をこの界隈までドライブするのがとても好きだった。今では、立派な道路が通りルートが変わったせいか見る景色が変わっていたし、こんなローカル道沿いに道の駅が出来るとは当時は思いもつかなかった。

 道の駅・笠岡ベイファームにもたくさんの観光客が訪れており、駐車場にはクルマ、バイク、そしてロードバイクなどで大変混雑していた。そう、この日はチャリダーも随分多く見かけたな。駐車スペースの一画にクルマを停めて店内に入ると右手奥に鮮魚コーナーが設けられていた。はやる気持ちを抑えつつ冷蔵棚を見て回ると、ワタリガニ(ガザミ)、アナゴ、サワラ、真鯛、レンコ鯛、サザエ、バイ貝、ゲタ、カサゴ、オコゼなどが沢山陳列されていた。残念ながらここにもシャコはなし。

このお店は、所謂雑魚と呼ばれる鮮魚はなく、やや高級路線の鮮魚店だった。これはこれで良いし、「レンコ鯛の半身を酢ジメにしたらどう?」との店側の提案には心が随分動いたが、当日のこちら側の気分としては「小魚が喰いたし」であり、こちらの欲望とは微妙にずれていて、結局既に調理済みのワタリガニを一杯だけ買って終わりとした。その他、店内を一通り見て、次の目的地浅口市寄島に向かう。

 

笠岡カブトガニ博物館を右手に見た後、右折して県道47号線の海沿いの道に入る。右手の入江内の干潟はカブトガニの生息地として保護活動がなされているらしい。30数年前もイチロウ氏と逆方向に走ったのだけれど、道幅が広くなり時の流れを感じた。確か独身時代に家内も連れて来た記憶があったが、当人は全く記憶にないとのこと。「別のヒトと来たのではないの?」と疑義が呈されたが、それは当時の状況として全くなしと答えると「随分つまらない青春時代を送ったね」と憎まれ口をたたかれた。私は、無言で苦笑いしたが、海沿いの田舎道をデート目的にドライブするなんてことは、当時の若い女の子にとっても今の娘にとっても確かに面白いものではないかもしれない。あの頃も、私はこのあたりをドライブしながら、この道端に真っ黒に日焼けした小学生が水着姿で浮き輪を持って歩いているのを見かけ、自分自身の幼少期を思い浮かべて懐かしがっていたのだから、瀬戸内情緒に愛着を持っている者にしかこの道の楽しさは分からないのだろう。



 暫く行くと、瀬戸内海を遠望出来る海沿いに出て、護岸壁のあるスペースにクルマを停めた。時刻は11時過ぎを廻ったところで、陽射しは益々強くなり瀬戸の海は輝きを増していた。私と家内は夫々に風景を写メしていたが、妻がぼそりと「きれいな海なんだけど、写真に撮ってみれば、だからどうしたの?というような出来で、他のヒトには伝わらないのよね」と言った。

 正しくおっしゃる通りで、この写真をSNSで挙げたところで、自分の感動は伝わらないんだよな。この文章も同じで、他の人にはわかってもらえないのだろうけれど、自己満足と言えば自己満足だし、誰かに対する自分の存在証明でしかない。だけれど、「春の瀬戸内の情景は本当に素晴らしい」、「その景色を前にして感動したよ。」という事を、世の中の片隅に記しておきたいと思う。

一息入れた後、道沿いの大島美浜漁協の鮮魚直売所に立ち寄ったが、時刻は1130分を過ぎた辺りで、時間的な問題もあったのか、私が欲するような鮮魚はなかった。続いて、寄島町の鮮魚直売所に立ち寄ったが、23品を残し大半の品は既に売り切ったようで開店休業状態だった。道向かいの寄島漁港には、牡蠣の直売所が軒を連ねていて直接買うことも出来るし、地方発送もして貰えそうだったが、この冬牡蠣は数回我が家の食卓に上がっていたため食指は伸びず、次回の楽しみとした。

 


寄島町の道沿いに、鮨屋とさかな料理の食堂を発見し、それも次回の楽しみとしつつ、この度の最終目的地の沙美海岸に向かう。

同地に着いたのは、午後1240分頃。いくつかの家族連れ、若いデート中の男女などが思い思いに海水浴場の浜を散策していた。気温もクルマの車外温度計を見ると17度まであがりぽかぽか陽気となっていた。先ほどのアリスト沼隈で購入したおにぎり弁当で昼食とした。この海岸にも学生時代の楽しい想い出があった。初夏と初秋に訪れて静かな白浜をぶらぶらと散策するのが好きだった。駐車場も広く海水浴シーズンを外して来るには良いビーチだと思う。

お弁当を食べると少し眠気が差して、車内でぼんやりと過ごし眠気をやり過ごした。ぼんやりとしながら、この度のドライブを振り返った。この度のドライブルートは大変素晴らしかった。天候も良し、風景も良し、ゲットした収穫物も大満足。これからも、春・夏・秋の夫々の季節に来ようと思う。まずは春になれば店頭に並ぶ瀬戸内の魚も随分賑やかなになるだろうし、その季節折々の瀬戸内の情景も楽しめる。幸いにして、家の家内も道の駅めぐりドライブを好むようになった。道の駅めぐりを愉しむなんて、我々もそれなりの中高年夫婦になってしまったのだろうけれど、それはそれで良し。

 

ただ、今回の反省点は、瀬戸内情緒を愉しむことと鮮魚をハントすることは必ずしも両立しないことだった。良い獲物を得るには朝早くその鮮魚店に出向くしかなく、悠長に風景を楽しむゆとりがない。アリスト沼隈の鮮魚コーナーに来た他の客は、一通り陳列棚を見て得たいものがないようだとさっと出ていくヒトが多かったことに気が付いた。恐らく次の店に向かったのではないかと思われる。鮮魚ゲット目的のドライブと瀬戸の海辺散策のドライブは心構えから違うのだ。だから、次回は春から初夏の間のシャコを始め色々な小魚が美味しいシーズンにやって来て、道草せず鮮魚ハントに勤しもう。

 瀬戸内情緒を楽しむのであれば、やはり自転車で出動した方が良さそうで、その際には福山か笠岡まで輪行して、そこから鞆の浦或は寄島方面にツーリングに出ていくのが良いだろう。

 しばらくぼんやりとそんなことを考えていたら、次第に眠気が取れて、帰路に向かった。帰りは来た海辺の道を辿り笠岡市内に出て、しばらく2号線に乗り、福山パーキングエリアのETC専用ゲートから山陽高速を西下した。

 帰宅時間は15;40 頃。少し小休止を取った後、17:00から今日ゲットしたものを使っての夕餉の仕度に取り掛かったのであった。

 

あ、言い忘れた。私は魚をさばくことが出来ないので、調理は全て家内にお願いした。生魚のさばくことを厭わない嫁を貰って良かった。ありがとう。

 

(おしまい)

2021年2月5日金曜日

ある小さな旅(3)

 美術館の玄関を抜けると、木調のフローリングの広いロビーがあった。正面に受付カウンター、右手はミュージアムショップで安野光雅氏の著作物の販売コーナー、左手奥にホワイエがあり、展示室に続いていた。

 


私は、正面受付に進み観覧を申し込んで、検温を受けてホワイエに進んだ。待合には、一組の家族連れらしき人たちが休んでいる様子であったが、時節柄か入館者は少ない様子であった。ホワイエを通り抜けて展示室に進むと、他の観覧者は居らず、私は落ち着いていて館内をめぐることが出来た。まずは、この度のテーマのひとつ明日香村の水彩画シリーズが展示されていた。淡い色調の彩色を施された風景画が並べられていて、いずれの作品も懐かしさと静謐さを感じさせるものであった。最近どうも絵画を眺めていると、作者が画材に絵筆を走らせている光景を想うことが多くなり、作品を通じてその情念などを受け取っている錯覚に陥ることが多くなった。勝手に作品を通して作者と対話しているような気になっているのであるが、この度も作者が抱いたであろう明日香村の美しい山里に対する憧憬や日本らしい原風景に対する愛情が伝わってくるようだった

 

更に展示室を進んでいくと、「きつねのざんげ」「赤いぼうし」という絵本作品の原画が展示されていた。これらの絵本画に出てくるキャラクターはどこかで見たようなタッチ・彩色がほどこされていた。上の2作品は初めて見るものであったが、検索すると氏の作品のひとつに「不思議の機械」という作品があって、それは私が就学直前に親から買い与えてもらったものだったし、私自身も子どもが幼少時期に同じ絵本を自分の子どもに買い与えたものであることが分った。

 


そうだったのか! 私は幼少時期に、そして私自身の父親業の最初の頃に安野光雅氏の絵本作品に触れていたのだ。この作品は、幼児に対して数学的思考を育む意図が表されており、子ども心に好きな作品だった。名前を知らないままに過ごしてきたけれど、随分お世話になっていたんだな、そう思うと氏の作品群への私なりの愛着が更に増したのだった。

 

私の子どもが幼い頃、私は仕事の都合もあり共に過ごす時間をあまり持つことが出来なかった。「オイラもジョンレノンになりてえ」などと周囲に冗談交じりに愚痴ったこともあったが、せめてもと、子どもと一緒に就寝できる時間があると、絵本を読み聞かせることを私自身の楽しみとした。休みの買い物用事があると、本屋を覗いては絵本を購入し、それを読み聞かせた。やがて子ども達にも好みが生じ始め、彼らのお気に入りであった五味太郎氏の作品が多くなったのであるが、本屋で色々な絵本を物色していると、挿絵の素晴らしい作品も多く、子どものためというよりも、私自身のコレクションとして購入したものも次第に増えていった。

今振り返っても、子育て期間は私にとっては大変幸せな時期だったと思う。私の息子二人がその事を今でも覚えているかどうかは知らないが、やがて自分の家庭を持ち、自分の子どもをもうけた後に、彼ら二人も夫々に子どもに絵本を読み聞かせる楽しみを持ってくれることを願う。

 さて、二つの絵本の原画展示コーナーを過ぎると、最後に草花の水彩画スケッチが展示コーナーとなっていた。繊細なタッチで描かれたどの草花も可憐であり瑞々しく、氏の自然への細やかな眼差しと愛着を感じさせるものであった。

 どの作品群も素晴らしく、私の心を打つものがあった。ただその感情をどのような言葉で言い表したら良いのかもどかしさを感じていた。私は、展示室を出て回廊となった館内の廊下を歩きながら、整理の付かない内的な体験を表す言葉を探していた。

 


私は、言葉にならないモヤモヤとした気分のままに歩いていると、廊下の窓から明かる陽射しの中でみぞれ交じりの雪が舞っているのが見えた。穏やかで静かな光景で、先ほど来の気分を幾分かは落ち着かせてくれるようだった。

 ふたたびロビー内のホワイエに戻り休息を取りながら、スマホを取り出しみるとラインで息子が殿町通りの喫茶店で待っているとの知らせが入っていた。短時間で観覧を済ませるつもりだったが、気が付いてみると1時間半も経っていたらしい。「今すぐ、そちらに向かう」と返事し、目の合った受付の女性に黙礼し、美術館を離れた。

 殿町の通りを息子の待つ喫茶店に向かって歩きながら、先ほどから心の中に宿った感情が言葉出来ないもどかしさを感じていたが、他方で静かでおだやかな感覚もあった。

 喫茶店で息子と合流し、殿町通りを辿り駐車場に向かった。車に乗り込みメイン通りを国道方面に向かう途中で、右手に「森鴎外記念館」が再び見えた。息子が、「しまった。ここ寄らなかったね」と声に出したのだが、私が「別に良いじゃん。俺たち日本文学好き漱石派だろう?」といい加減な返事をすると、彼は「そのセリフ良いね。今回の事、友達にもそう言っておくわ」とケラケラと笑っていた。



 「津和野、意外に楽しめたわ」「こういう処、オヤジと来た方が楽しめるね」と息子。

「そうだろ。地方には地方の風物や文化に触れる楽しみ方があるんだよ。そういう楽しみを持つことも、大人の嗜みだな」と応じると、息子は笑いながら「うん、まあ覚えておく」と肯定も否定もしないのであった。

 

帰路のドライブ中に、息子との会話を楽しみながらも、先ほどの美術館で心のうちに高まった言葉にならない感覚を振り返っていた。それは「津和野」が表象する私の幸福な時代への回顧と郷愁の念であったのだろうが、感覚としては、すこしの寂寥感と安寧が入り混じったこれまでに味わったことない感情の高まりのようであった。


 


(おわり)

 

 このドライブ、後部座席には家内が同乗していましたが、私が意図したテーマの性質上文中に登場させる必要がなかったので、全く触れませんでしたw

ある小さな旅(2)

 そのお店は、ごく普通の食堂で、中では二人の中年女性が店の番をしており、幸い他の客は居ず店内はガラガラ状態だった。厨房カウンターに近いテーブル席に座り、先ほど駐車場のオジサンに聴いてやってきたが、新蕎麦が出るの?と一人の女性に聴いてはみたが、その返事はおざなりでなんだか肩透かしを喰らったような気分になった。メニューを見ると、各種蕎麦、うどん、定食ものが書かれているが、殊更に「新蕎麦」を謳っている訳でもない。辛うじて「手打ちそば」と書かれているので、その謳い文句を信じてざるそばを二人前注文する。やや気を削がれた気分になったが、まあこれも一興と思い直し、次男と先ほどまでの雑談を続ける。暫くして出された蕎麦は、所謂出雲そばであった。

 


蕎麦を手繰って、汁につけて口にしてみると、歯ごたえのやや硬めではあるがもっちりとした食感で、汁は甘い。付け合わせは、なぜか出汁のきいた油揚げと蒲鉾の千切り。これを少しずつ汁に付けつつ蕎麦と一緒に食べていると、これはこれで旨かった。ああ、これは山間の田舎町らしい蕎麦の食べ方でこれはこれで良いのだと。店の雰囲気からして(蕎麦屋ではないので)蕎麦湯が供されることも期待しなかったし、実際に出ては来なかったが、当地の観光の始まりとしてはまずまずの滑り出しとしようと思った。

 

その店を出て、一筋向うの殿町通りをJR津和野駅方面に向かって歩き始める。左右は城下町の名残を残す家屋や古い佇まいの商家風の建物、和菓子屋、造り酒屋が立ち並んでいた。通りの人影はまばらであり、静かで落ち着いた雰囲気のある通りであった。この街の観光スポットのひとつであるキリスト教会は現在改修中であり、残念ながらその外観を眺めることが出来なかった。先ほどの駐車場の受付で貰った観光案内によると、この教会には信者受難の歴史が刻まれているとのことであり、こんな地方の山深きところにも日本史に関連するような大事件があったことに心が動く。そういえば、津和野藩の初代藩主は徳川家康の孫娘を貰い損ねて悲劇的な最期を遂げたというのも悲しい歴史ではあるが、再び繰り返すけれど、こんな山奥の小さな町の歴史が、いくつもの日本史上のエピソードに繋がっている事に素直に驚いてしまう。

 


殿町通りを歩き、途中で造り酒屋に乗り地酒の「初陣」を次男と私用に一本ずつ購入し更に歩く。蕎麦屋もあれば、イタリアンレストランもあり、「しまったね。さっきの食堂に入らずに、こちらの店にしておけば良かったな」と二人で笑う。

 

殿町を通り抜けると、左手に津和野駅があった。駅前にたどり着いて、振り返ると今回の密かに目的にしていた安野光雅美術館があった。白壁造りの建物で、私が想像していた以上に立派な建物であった。てっきり小さなギャラリー程度だとばかり予想していたのであるが、門柱を見ると町立と刻まれている、町を上げて同氏の業績を顕彰していることが察せられた。私がこの美術館を訪れようと思い定めたきっかけは、前日にSNSのニュースで同氏の訃報を知ったことだった。安野光雅という名前は、記憶の端に残っており、私の好きな司馬遼太郎作の『街道を往く』シリーズの装画を担当されていた。司馬遼太郎氏もこれらの作品の中で、取材旅行に同行していた安野氏を「画伯」として時折文中に記していた。その他にも、新潮社の夏目漱石作品の文庫本の表紙絵も担当していたと記憶している。

 


私が、次男に「オレはちょっとここに入って来るけど、おまえどうする?」と尋ねると、彼は「オレ、そこのSLを見物したり、この辺をぶらついて来るわ」というので、またLINEで連絡を取り合うことにし、私一人その美術館に入ったのであった。

 

(つづく)

ある小さな旅(1)

1月のある日曜日に、宇部市に住む次男の下宿へ食料・生活雑貨を届けるために訪ねたついでに、津和野までドライブすることにした。当日は最高気温5℃で晴れ。同地では先週末に久しぶりの大雪となっていたが、その後の寒気のゆるみで私と家内が訪れた日には積雪はなくなっていた。

 予てより、次男の下宿を訪れるたびに津和野へのドライブを提案していたが、彼が毎回私の提案を却下してきたため、その望みを叶えられていなかった。次男は既に大学入学早々に友人の運転で同地を訪れたらしいのだが、「あまり面白いとは言えなかった」との感想を持っていた。地方の町には大規模レジャーランドも娯楽施設もないだろうけれど、その土地固有の文化的情緒や趣、そして自然があり、そのことに接して楽しむのも人生における悦びのひとつではないかと私なぞは思うのだが、今の若い人たちにはそんなことは通じないものらしい。

 この度は珍しく、次男の方から「オヤジが行きたがっているから、一緒に行ってやってもいいぞ」と言うので、私は二つ返事で「それでは行ってみるか」と応じた。

 私自身は、小学3年の頃に父親に連れられて同地を一度訪れたことがあった。その道程は、クルマで実家を出たのが昼前、津和野市街地を臨む山間の宿屋に到着したのが日暮れ頃。そのまま投宿して1泊。翌朝には、市街地を観光せずそのまま山間部をドライブして帰ってきたというものだったと記憶している。母親は留守番で男親子の小旅行であったが、母親の元を離れて父とふたりだけの旅に、少し大人になったような晴れがましい気分があったと記憶している。

 当時の私にとっては、「父親とふたり旅する」という企画に大きく心が動き、目的地の「津和野」という名前は記号でしかなった。今となっては、その旅行中に父親と私の間で何を話しどう行動したのかは、あらかたの記憶は失われているが、今でも「津和野」という名前が出ると懐かしい気分となる。

 その日は、宇部市内をam10;40頃に出発し国道9号線を益田方面に北東に向かって、途中コンビニや道の駅に立ち寄りながらの片道2時間弱のドライブだった。

 山口市街地を抜けてしばらく進むと少々険しくカーブの多い山道となった。この頃は、坂道に出会うと、『自分がこの道をロードバイクで上るとすれば、どんな按配か?』という尺度で推し量ってしまう癖がつき、つい助手席に座った次男にそう話しかけると、彼はしかたないオヤジだなという顔で笑っている。彼も父親に多少の愛想を言うくらいには成長したらしく、「じゃあ、今度は一緒にチャリで走ってやるかw」などと言う。「ああ、今度は是非そうしておくれ」と私も笑いながら応じた。

 ドライブが進むにつれて、話題の中心が次男の大学生活の様子になり、彼の問わず語りの内容から、彼なりの世界観や物事への価値基準が窺い知れて、親としては大変興味深かった。彼は、高校卒業前後から、文学に目覚めたらしく、洋の東西を問わず色々な作家の小説を読んでいるようであった。浪人時代は、私から見れば彼の読書熱は目の前の課題からの逃避しか過ぎず、受験が落ち着けば彼のその熱も治まるだろうと勝手に推測していたのであるが、大学入学後も彼の書棚には文庫本が増えているようだった。

「最近読んだのは」と23の作家の名前を挙げつつ、「でも、」と言いながら、一番良いと思うのはやっぱり夏目漱石なのだという。私はニンマリとし「同感だ」と伝えた。


 やがて私がドライブするクルマは、坂道を上がり切り盆地状に広がる台地に差し掛かった。道路標識を見ると阿東町という町に入ったらしい。このあたりは、道の両側に田畑が広がっており、まだ十分な積雪を残し辺り一面銀世界となっていた。メーター類表示の車外気温計は0.5℃から1.0を表示していた。次第に外界は曇り始め雪がちらつき始めた。クルマはノーマルタイヤのままにしてあったので、これからの道程が思いやられたが、幸い路面は乾燥しており凍結しそうにはなかった。だが念のため「寒気により路面が怪しくなってきたら途中で引き返すぞ」と横の次男に伝える。

 時折風が強まり、路面より冷気が白く舞い踊る状態となり、意識してスピードを落とす。幸い交通量は少なく後方にはクルマがなかったので、低速を維持しつつ外界の銀世界を目で楽しんだ。



 再び、坂道となりその先のトンネルを潜ると、左眼下に左右の山々の稜線の間を川が走り、その川に沿って細長く街が広がっている光景が見えた。目指す津和野のようであった。『ああ、この景色はあの時と同じ景色だ。確かに見覚えがある。』

 両側の小高い山々の峰には少しばかり雪が残ってい、向かって右側の山の中腹を走る国道9号から谷間の平地に緩やかに蛇行しながら下って行く道の路面は濡れているものの残雪はなく、そのまま苦なく進むことが出来た。谷間の平地に降りた右側に道の駅があり、しばし休憩。そこで、この地の銘菓『源氏巻』という和菓子と出雲そばを購入した。

 再びクルマに乗って町の中心部に進む。暫く進むと、森鴎外記念館が左手にあった。そうだった、森鴎外が津和野藩の士族出身であることは知っていた。興味は惹かれたがまずは津和野中心市街地を散策しておきたく、そのまま素通りした。

 暫く車を進めると旧市街地に繋がる橋があり、その橋を渡り殿町通りとは一筋左手の通りを進み駐車場に車をつける。駐車場は空きスペースが目立ち、私たちより前に来た車は56台ほど、コロナの影響もあるしこんな寒い季節に訪れる観光客もそうは居まいと独り納得する。管理人受付に出向き、前払いの料金を払うと、応じた管理人の男性が、「あのね、昼ご飯まだだったら、そこのJAの食堂に行くと良いよ。今新蕎麦出しているから。旨いと評判よ」という。私たちは「わかったよ。ありがとう」と応じ歩き出したが、次男に聴くと「蕎麦なら食べて良いよ」という。では、寄ってみるかと男性の言われた通りにその食堂に寄ってみた。

(つづく) 

2021年1月11日月曜日

マサキ、チーズバーガーをこさえてみる、のこと

前回のブログでハンバーガーについて触れたが、それを読んだイチロウ氏が「オレも米軍弾薬庫のPXで売られたハンバーガー喰いてえ」と感想を漏らした。

 妙なところに喰いついて来たなと不思議に思っていたところ、彼には彼なりのハンバーガー原初体験なるものがあるらしかった。彼が私に語ってくれたところによると、彼がまだ中学の思春期真っ只中の折、ひと夏米国アリゾナ州にホームステイしたのだが、有る休日にホストファミリーが、彼を砂漠へドライブに連れ出してくれて、そこでバーベキューを催してくれたのだという。

 バーベキューで振る舞われたのが、分厚いハンバーガーとポークビーンズだったとのこと。いずれの品も大味だったのではないかと推測されるのだが、これはあくまでも日本における通説;アメリカの料理は大味であるという噂を述べたまでのこと、むしろ強調しておきたいのは多感な少年が異国の広大な大地の上で、その空気や日光と共に五感を全開にして味わったハンバーガーもポークビーンズも最高に旨かったに違いない。どんな料理にしても、その土地で味わうのが一番であることは、実体験として私もなんども認識を新たにしてきたものだ。

 彼には彼なりのハンバーガー体験があったものだから、私が触れた米軍基地のハンバーガーの件は彼の心の琴線に触れたらしい。その後、彼は「オレも米軍弾薬庫のハンバーガー喰いてえ。絶対美味かったんだぜ、それ。」「今でも、そのPXにハンバーガー売ってるのかなあ。そこにどうにかしては入れないものかな」などと折に触れて私に言うのだった。

 私なりに振り返ってみても、あれは私が小学校低学年の頃なので70年代半ば。という事は、まだベトナム戦争の雰囲気が多分に残っていた頃で、弾薬庫にもアメリカ軍属の関係者らしきヒトたちが出入りしており、関係車両をわが田舎町でも時折見かけたものだった。あれからもう45年くらい経って、そういえばこの田舎町で米軍の車両も関係者らしきヒトを全く見かけなくなった。弾薬庫そのものはまだあるけれど、PXを必要とするくらいの人員規模はないのではないか。

 そんなことをイチロウ氏に話すと、イチロウ氏も「むむむ。」と黙り込むのであった。米軍弾薬庫PXのハンバーガーをもう一度喰いたくなっていたのはイチロウ氏だけでなく私も同様で、それならば記憶を頼りにあの「ザ・アメリカンハンバーガー」を作ってみてやろうと思い定めた。

 イメージは、ダブルチーズバーガーで、パテにはアメリカンビーフを使う事、味はシンプルにケチャップとマスタード、肉汁ジュワーで夫々の素材がしっかりと味わえるものにしよう。そんなアイデアをイチロウ氏に伝えると、彼は「そうしたら、ケチャップとマスタードはHeinzのケチャップとマスタードじゃないとダメだからな」と拘られる。ああ、そうかバーベキューコンロの脇のテーブルの上に置いてあったのは、このブランドのケチャップとマスタードだったのだろうな、そう推察申し上げて、彼の示唆に準じることにした。

 材料はコロナ禍であるのが理由ではないのだが、なるべく確実に手に入れたいと思い、ネット通販を検索し、以下のものを年末年始にかけて手に入れた。

・バンズ冷凍もの6個入り一袋

・胡瓜のピクルス1瓶、チェダーチーズ一袋、Heinzのケチャップとマスタード1ボトルずつ

・パテ成形器1セット

 生鮮食料は、近くの大型スーパーでの買い出し

・アメリカンビーフ肩ロース270g、国産牛ミンチ130g

・サニーレタス、タマネギ、ベーコンスライス1パック、トマト

そしてこれらの材料が揃った1月上旬のある夜に試作してみた。

1) パテ作り




アメリカンビーフ肩ロースを一口サイズに切った後、フードプロセッサーでミンチ状にした。(フードプロセッサーが、自宅に在ったのは誠にラッキーだった。)アメリカンビーフのミンチをボールに移し、国産牛ミンチと合わせて氷冷水の上でしばらく粘りが出るまでひたすら捏ねる。味付けは、塩と黒コショウのみ、風味づけにローズマリーパウダーとナツメグパウダーを加える。きちんと塩量を図っておけば良かった。塩加減は適当だったのだが、やや多めに加えた。


ある程度ミンチ肉に粘りが出てきたところで、パテ成型器に擦切りいっぱい入れて、蓋状のものをプッシュして形を整える。400gのミンチ肉では、私が購入した成型器から3枚のパテが作れたので、パテ1130g強となった。


 




2) 各材料の準備


その他、玉ねぎは厚さ5㎜程度の輪切りに。ピクルスは小型の胡瓜のものを1つ分薄くスライス。ベーコンスライスは2枚用意した。トマトは1㎝程度に輪切りしたもの1枚、サニーレタスは3枚程度。

 3) それぞれの食材を調理

・ベーコンスライスとタマネギの輪切りを中火にかけたフライパンでソテー。玉葱は焼き目がつき、すこし透き通り始めたくらいでフライパンから外し、アルミホイルに移しておく。ベーコンも焦げ目がついたら同じくアルミホイルに入れておく。仕上げ前にオーブントースターで温め直したいから。

・パテは、イチロウ氏の体験によるとミディアム状態で焼き上がるのが理想らしいが、この度の肉は解凍ものであり、衛生面も考慮して肉汁が失われない程度で十分な火を入れておくことにした。片面は中火で裏返してからは弱火とし、合計10分弱ソテーした。

・バンズは冷凍庫から出した後、常温に戻した後に少しバターを塗ってオーブントースターで2分ほどトーストした。/前後するが、先ほどのタマネギ・ベーコンはその前にホイルごとオーブントースターにて温め直した。

 








・パテのソテーが仕上がるのを見計らって、バンズをオーブントースターから取り出し、各食材の盛り付けを開始。 バンズ下半分のうえに、ベーコン、サニーレタス、タマネギソテー、チェダーチーズスライス、(マスタード)、焼き上がった直後のパテ、生トマトスライス、(ケチャップとマスタード)、チェダースライスチーズ、胡瓜ピクルス、そしてバンズ上半分。



 4)試食してみる。

 実際に出来上がったダブルチーズバーガーは、誠に分厚くてボリューミー。とてもこのハンバーガーを口を開けてそのまま食べられる状態になかった。そうだ、以前テレビかなにかで観た時に、アメリカのオニイサンたちが、思い切りこのハンバーガーを押しつぶすようにぺちゃんこにして、嬉しそうに口を開けて食べていたっけ。それを想い出し、バンズを軽く叩いて押しつぶそうとしたら、中の具材がはみ出して収拾付かなくなりそうになったので、もうとにかく何も考えずに取り掛かる事(食べ始めることにした)

  うーむ、誠に美味し!!。パテからは、肉汁がこぼれて、牛肉の味がしっかりしていた。塩加減も良かったみたい。フレッシュなトマトとレタス、半ナマ状態のタマネギ、これらをカリカリベーコンと深みのある味わいのチェダーチーズが下支え。バンズも程よくパサパサで、パテのずっしりとした食感に上手く受け止めている。柔らかいだけのバンズでは、このパテを上手く受け止めることは出来なかったであろう。そうなんだよな、バンズの良し悪しもバーガーの出来を左右するんだものな。

  期待以上のダブルチーズバーガ-だった。ソースなどで誤魔化されない、素材が主張し合った上でのハーモニーが絶妙なバーガーに仕上がり、一人大満足の結果だった。

  早速、翌日仕事が終わった後で、イチロウ氏に試食願う。



  イチロウ氏:「おお、これは食べるのに一苦労だね。どれどれ……。うむ、これウメエ!これは何個も行けるぞ。このパテよく出来てるぞ……」「おお、腹いっぱいなった。でも、まだ喰いてえ…..。」

  以上、イチロウ氏は大満足してくれた様子だったのだが、その感想を聴いて、作り手としては「してやったりw」と、彼以上の更なる満足を得られたのであった。

 うーむ、幼き頃に食べさせて貰った米軍PXのハンバーガーも、イチロウ氏が多感な頃にかの地で食べたハンバーガーもこんな味がしたのだろうか?少なくとも私の淡い記憶を頼りに比べてみたけれど、この度のバーガーと比べてみて多分当時食べたハンバーガーの方がやはり旨かったのではないかと思えて仕方がない。どんなに工夫を凝らしたところで、あくまでも「〇〇風」であり、現地のヒトが(この場合牛肉の味を良く知っている米国人)が現地の工夫の中で作ったものに叶う筈もなく、また食べる者もその土地の風土を味わいながら(イチロウ氏の場合であればアリゾナ州の空気、私であれば我が田舎町にある米軍基地という異国の雰囲気)いただく方が旨いに決まっているもの。あのハンバーガーの味は、心の奥底に仕舞われた永遠の味なんだと思う。それはそれで良しとするべきだろう。

  そう思うと、ある別の感慨が湧いて来るのではあるが、この度のバーガーは、あくまでも「マサキのチーズバーガー」として更に精進を重ねて味を極め、それを欲する者どもに食わせてやり、後世にマサキの笑顔と共にこのチーズバーガーの味を各々の脳裏に刷り込んでやろうかしら?とふとおバカなことを思うのであった。

 

終わり