そのお店は、ごく普通の食堂で、中では二人の中年女性が店の番をしており、幸い他の客は居ず店内はガラガラ状態だった。厨房カウンターに近いテーブル席に座り、先ほど駐車場のオジサンに聴いてやってきたが、新蕎麦が出るの?と一人の女性に聴いてはみたが、その返事はおざなりでなんだか肩透かしを喰らったような気分になった。メニューを見ると、各種蕎麦、うどん、定食ものが書かれているが、殊更に「新蕎麦」を謳っている訳でもない。辛うじて「手打ちそば」と書かれているので、その謳い文句を信じてざるそばを二人前注文する。やや気を削がれた気分になったが、まあこれも一興と思い直し、次男と先ほどまでの雑談を続ける。暫くして出された蕎麦は、所謂出雲そばであった。
蕎麦を手繰って、汁につけて口にしてみると、歯ごたえのやや硬めではあるがもっちりとした食感で、汁は甘い。付け合わせは、なぜか出汁のきいた油揚げと蒲鉾の千切り。これを少しずつ汁に付けつつ蕎麦と一緒に食べていると、これはこれで旨かった。ああ、これは山間の田舎町らしい蕎麦の食べ方でこれはこれで良いのだと。店の雰囲気からして(蕎麦屋ではないので)蕎麦湯が供されることも期待しなかったし、実際に出ては来なかったが、当地の観光の始まりとしてはまずまずの滑り出しとしようと思った。
その店を出て、一筋向うの殿町通りをJR津和野駅方面に向かって歩き始める。左右は城下町の名残を残す家屋や古い佇まいの商家風の建物、和菓子屋、造り酒屋が立ち並んでいた。通りの人影はまばらであり、静かで落ち着いた雰囲気のある通りであった。この街の観光スポットのひとつであるキリスト教会は現在改修中であり、残念ながらその外観を眺めることが出来なかった。先ほどの駐車場の受付で貰った観光案内によると、この教会には信者受難の歴史が刻まれているとのことであり、こんな地方の山深きところにも日本史に関連するような大事件があったことに心が動く。そういえば、津和野藩の初代藩主は徳川家康の孫娘を貰い損ねて悲劇的な最期を遂げたというのも悲しい歴史ではあるが、再び繰り返すけれど、こんな山奥の小さな町の歴史が、いくつもの日本史上のエピソードに繋がっている事に素直に驚いてしまう。
殿町通りを歩き、途中で造り酒屋に乗り地酒の「初陣」を次男と私用に一本ずつ購入し更に歩く。蕎麦屋もあれば、イタリアンレストランもあり、「しまったね。さっきの食堂に入らずに、こちらの店にしておけば良かったな」と二人で笑う。
殿町を通り抜けると、左手に津和野駅があった。駅前にたどり着いて、振り返ると今回の密かに目的にしていた安野光雅美術館があった。白壁造りの建物で、私が想像していた以上に立派な建物であった。てっきり小さなギャラリー程度だとばかり予想していたのであるが、門柱を見ると町立と刻まれている、町を上げて同氏の業績を顕彰していることが察せられた。私がこの美術館を訪れようと思い定めたきっかけは、前日にSNSのニュースで同氏の訃報を知ったことだった。安野光雅という名前は、記憶の端に残っており、私の好きな司馬遼太郎作の『街道を往く』シリーズの装画を担当されていた。司馬遼太郎氏もこれらの作品の中で、取材旅行に同行していた安野氏を「画伯」として時折文中に記していた。その他にも、新潮社の夏目漱石作品の文庫本の表紙絵も担当していたと記憶している。
私が、次男に「オレはちょっとここに入って来るけど、おまえどうする?」と尋ねると、彼は「オレ、そこのSLを見物したり、この辺をぶらついて来るわ」というので、またLINEで連絡を取り合うことにし、私一人その美術館に入ったのであった。
(つづく)
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