2018年8月16日木曜日

夏の朝に自転車に乗る~その2 求道者編~

812日に極楽寺山で“朝のお勤めを終えた”とF.Bに投稿し、午前9時前に帰宅してみると、messengerにイチロウから「やっぱり明日オレもバイクに乗ることにした。一緒に行くべ」と連絡があった。

豪雨災害後の後、イチロウも私もロードバイクに乗るモチベーションがすっかり落ちて、何処にも出かけず仕舞いであった。一種の自粛ムードが漂っていたのであったが、晴天(酷暑ではあったが)続き、久しぶりにお互いの休みが取れるので、事前に私から冗談交じりに「バイクでどこかに出かけよう」と誘うも、彼は渋い表情で「行かね」と断っていた。冗談半分で、これだけ誘っているのだから「うん」と言ってみろと畳みかけるのだが、イチロウは否とのつれない返事。終いには、私が「それでも貴様は、ヒトの子か?」と半分冗談で言い募っても、彼は渋い顔をしたままであった。誰よりもロードバイクに嵌っている野郎が、こんなエサに喰いつかないのは珍しい、寡黙なオトコに対してその背景を慮ってはみたものの、邪推しても始まらねえ、そっとしておくのが一番と思っていた。

それがどういう風の吹き回しか分からねど、とにかく813日は一緒に出張るという。その後のやりとりで、どうも早朝出て半日かけてどこぞに行くつもりらしい。“あのね、この酷暑の中で昼日中にチャリで走っていると危険だよ”と間接的に伝えるも、今度は彼のモチベーションが私のそれより高まっている様子で、「まあとにかく朝6時に何時もの処で待ち合わせね」と返事を寄越した。

ということで、812日に私は午前450分に起床することになった。まだ薄暗く自転車で乗り出すのを躊躇ったが、何時ものように家族が起きないように、そろりとベッドを抜け出し、スポーツドリンクを200ml+アイスコーヒー200mlを摂取し、ジャージに着替えて洗面を済ませ、家を出たのはam5;15頃。起きた時はまだ薄暗かったものの、5時過ぎには急激に当たりは明るくなり夏の1日が始まった気配があった。

西広島バイパスの側道から田方の坂道を上がり、安佐南区大塚に向かう。早朝とはいえ、クルマの往来は活発であり、それぞれにスピードを出しているため、歩道をゆっくりと上がる。決めていたとはいえ、早朝から出てきてこれから向かう山坂道を走るなんて、家内に言わせれば“バカ道”ということになり、それはそれで当たってなくもないなと独り笑う。

前日“朝のお勤め”を終えて帰宅すると、めずらしく妻からどこかに連れて行ってくれろとの要望があった。このような場合適当に中心街にでてランチをした後ウインドーショッピングで時間を潰して双方ともに満足するパターンが多いのだけれど、この日はクルマで出発した途端に助手席で家内が「暑い暑い。街を歩くのもこれでは辛い」と言い出した。じゃあ、このままドライブで良いかと問うと、「うん」という。

せっかくだから、普段イチロウと走る道をそのままトレースし、彼女に広島の山間部をみせてやるかということになった。クルマで何時ものコースをトレースしてみると、ふだんロードバイクで走行中には気づかなかったが、意外にも勾配がキツイ。オートマのクルマを運転していると、何度もキックダウンして登坂している。

思わず私が「あれ?この坂道こんなに勾配がきつかったかなあ。自転車だとあんまり気が付かなかったけどな。」などと独り言のように呟いていると、隣で女房が「あんた達、本当におバカだよね、こんなところわざわざ自転車で走るかなあ。バカ道だわ」と笑って言うのだった。

ちょっと話が横道に逸れたけれど、これから向かう道のりは前日に女房とドライブした道と正しく同じコースを辿ろうとしている。前日の夫婦の会話を思い出し笑いしながら走行していると集合場所の大塚駅付近のコンビニにたどり着いた。到着時刻am5;45頃、約束時間までまだ少しあるので、バナナ一本+ウィダインゼリー1袋+ミネラルウォーターを購入し、朝食を取る。

やがて約束時間少し前にイチロウが「おお、早いの」と言いながらシクロス・バイクに乗って登場。

「オレはさ、今日はこれでのんびり行くから、マサキは遠慮なく先に行ってくれ」などという。まだ行先が確定しないので、彼に確かめると「まだ分かんないけど、取りあえず湯来町の三叉路まで行こうや」という。急いでそのコースの所要時間を頭で計算し、am10:00までには帰宅できそうだと判断しO.K.と返事する。

予定通りam6:00頃に出発、ゆるゆると大塚駅から団地「こころ」に向かう坂道を上り始める。この坂は片道2車線で両側に幅広の歩道を有する立派な道路なのだけれど、その坂がよそ者から見ると大変にキツイ。よくこの付近に住む中高生達が自転車で上り下りしているのを見かけるけど、彼らは子どもの頃から本当に鍛えられているんだなと思う。立派な足腰を持った大人になっていくのだろうな。イチロウと駄弁りながらも、そんなおバカな事を想いつつこの長い坂を上り終えると早くも全身汗びっしょりとなっている。

団地「こころ」の前の右曲がりカーブを進むと、なだらかな下り坂で暫し両脚を休め、そこから伴―戸山線に入ると、一気に激坂となる。ケイデンスをなるべく一定に保ちながら、登坂を開始。この度のコースで一番の難所で、ただ無心にペダルを廻す。何も考えず―ただ両脚の筋肉の軋みを感じつつ、ペダルを廻す。暫くすると、耳元に心臓の鼓動が聞こえ始め、鼻腔には鼻汁が溜って己の呼吸の邪魔をする。ふと、前日に家内が言った「そんなことして何が楽しいのやら。バカ道」の言葉が脳裏に蘇った。

“こんなキツイ坂を上って何が楽しいか?と聞かれても、その答えを言葉にするのはちょっと難しいものな……。今はキツイけど、後から楽しくなってくるんだから。ただ、楽しいと思えるには、それなりの準備は必要なんだけどな…..。それをバカ道と呼びたければ、呼んでくれ。『バカ道』って響き、まんざら悪くもないか….、な、イチロウ?”

ロードバイクを数年前に初めて購入して、最初にイチロウに連れて来られた道が、ここだった。そもそも『バカ道』に導いたのはイチロウだった。

ふと、後方を走るイチロウを確認しようと振り返ると、数m遅れていた。“あれ、イチロウにしては、めずらしいこともあるものだね。暑さにやられたかね”などと思った。が、目の前には右に曲がるカーブの後に急勾配の坂が待っているので、声をかけるゆとりもなく取りあえずはペダルを廻し続ける。この伴―戸山線の山道で峠までの最後の200m300mが恐らく1213度程度の急勾配になっている。何も考えずただ左側に立っている電柱を数えてw、登って行った。

何とかその激坂を上り終えると、今度は戸山地区まで急勾配の下り坂。路面の凹凸に気を配りながら、一気に下っていった。戸山地区の三叉路まで降りてくると、イチロウが笑いながら「しんどいなあ、このまま下って行きたいw」と言っていたが、本心はそこにあらずw。三叉路を左折して、湯来・湯山街道に向かってなだらかな坂を再び登坂。なるべくインナーを使わずにケイデンスを一定に保つことを心がけながら登坂を続ける。ここでもイチロウがやや遅れ気味。“ホントに珍しいね。体調がどこか悪いのかしらん?”と思いつつ、その坂のピーク辺りでしばらく待ち、彼が追いつくと、なだらかな下り坂を下って行った。走行車両はほとんどなく、ブレーキを使わず、右に左にカーブをクリアしながら下って行くのは誠に気持ち良い。自然に笑みがこぼれる。

湯来・湯山街道に出会うと、そこを右折し湯来町を目指す。この街道と戸山線の三叉路から従来であれば、両側切り立った断崖の間を蛇行しながら走る箇所があったのだが、数か月前にその蛇行道左側の斜面にトンネル付きショートカット道が出来て、クルマには大変便利な道路になったが、自転車乗りには無味な坂道が出来てしまっていた。後ろを走るイチロウが「詰らねえ道をこさえたものだ」とぼやいている。確かにその通りで、そこそこの勾配の登り坂の上にトンネルの中を走らされるのは、離合するクルマにとっても自転車乗りにとっても危ない。イチロウの言うとおりである。

その坂道を上がる途中のコンビニで小休止を得て、ふたたび湯来・湯山街道を登坂。ピークに達したところの地区に、以前イチロウがネットで情報を得たジャズ喫茶があるとのことで、その国道から左側に暫し逸れて探索した。その界隈は左の山間からの斜面を造成し別荘地のようになっていたのは意外で大変興味深かったが、お目当てのジャズ喫茶はその看板さえも終ぞ見つからず、肩透かしを喰らったような気がしたものの、イチロウとの徘徊は目的よりもその過程が面白いので悪い気は全くしなかった。

ふたたび湯来湯山街道に戻り、後はイチロウが出発前に言っていた湯来町の三叉路まで、なだらかな下り坂を下って行った。ブレーキを使わず重力に任せて下って行くのは誠に気持ち良い。ふと最近のプロたちが下り坂でスピードを得るべく、前傾姿勢でサドルから腰を前方にずらしてトップチューブ上に跨る姿勢を試してみたい衝動にかられたが、“それは素人には危険で禁忌である”事を思い出し、自重した。それでも今回のコースの中でこの長い下り坂は圧巻で、これまでの上り坂での苦難が一気に報われる。

『バカ道』を目指す答えのひとつはこの下り坂の悦楽にあるのだと再確認する。

湯来町の三叉路にたどり着いた時に、イチロウに「これからどちらに向かうか」と確認すると、右折して加計街道(国道191)に向かうという。私の計画では、191号線に合流後、広島市街地を目指して帰るつもりでいたので、そのままO.Kと応じ共に加計街道を目指して走行した。この道は、南は廿日市市から極楽寺山を貫いて、一部区間湯来・湯山街道と俗称がついた国道433号の続きであって、北は一部国道191号と交じり加計を通り安芸高田市まで至っているようである。文章で説明するにはちょっと難しい。

ともかくも、その国道433号線を加計街道191号に向かってほとんど勾配に気が付かないほどの下り坂を走った。両側に高い稜線で視界が遮られた広い谷間を気持ちよく走行。緩やかな下り坂なので、ペダル全開に回しても脚への負担も軽い。気持ちよく流しながら、ふと空を見上げると、真っ蒼なキャンパスに飛行機雲が#の字を描いていた。

後ろを走るイチロウに「あの飛行機雲見ろよ。すげえ気持ちいいな」と声をかけると、「へえ、綺麗だな」と笑いながら応じてくれていた。『バカ道』を目指す理由のその2、このような朝の空気感を全身に感じられること、ゆっくりと周囲の景色を愛でる幸福感は、バイクや自動車では絶対に味わえないだろうと思う。

『バカ道』の極意とは、「己の肉体と会話すること、全身を包む空気と一体感になれ、周囲の自然に耳を傾けろ」ということか。




そんなことを思いながら、ひたすらペダルを廻して走っていると、なんだか家内へのエクスキューズを思いついたようで愉快であったが、こんなことを嫁子に説明したところで決して共感を得ることはないのだろうことも察しがついた。

後ろを走るイチロウが、何を感じながら走っていたかは分からないけど、彼には彼の感じるところがあったのだと思う。

加計街道にたどり着いたところで、イチロウにどうすると声をかけると、「俺はこっちに行く」と加計方面を指さす。私は「俺こっちに行く」と広島市街地方面を指し、じゃあと言って別れた。こういうのもあって良いかなと思った。夫々に目指す方向というのは違って当然だし、その方が軽やかで良い。




私は、その後、伴地区に出て再びアストラムライン沿いの道を田方方面に帰って行った。

帰宅後は、家内の要望に応じて山口県周防大島までドライブしたのだが、途中立ち寄った喫茶店でSNSをチェックしていると、イチロウよりダムの写真付きで「ここまで来たでえ」とのメッセージがあった。手元の時計を見ると、pm13;30だったか。レスポンスしてみると、「今加計まで帰ってきたよ」と。恐るべしイチロウ、当日の最高気温は35℃を超えていたはず、炎天下の中をまだ走っていたのか。タフネスおじさんである。

後日、職場に出勤したイチロウに確認してみると、彼の帰宅時間はpm 3;30頃で走行距離は128㎞であったらしい。「脚には応えなかったかったけど、暑さにやられたな」と何食わぬ顔で返事していた。その日は、当日乗っていたシクロスバイクで出勤していたので、昼休みに何気なくその自転車を持ち上げてみると、これが結構重い!私のロードバイクと比べても45㎏は重たかったような印象だった。

そうか….、あの日私がイチロウに比べて好調に思えたのは錯覚で、彼は重たい自転車に乗ってあの激坂を上っていたのか…….。しかも炎天下の中を私の倍以上走っていたとは。

そう思うと、『バカ道』求道者として、一歩も二歩も先を往くイチロウに感嘆交じりの爽快さを感じがしたのであった。

(終わり)

2018年8月15日水曜日

夏の朝に自転車に乗る~その1~

811日から同月13日まで短い夏休みを取った。テレビなどの報道で帰省客や旅行客で日本各所が混雑しているなどのニュースが流れていたが、それを横目に私はどこにも行かず自宅でのんびりと過ごした。

ただ何もしないのは勿体なく、早朝からロードバイクに乗ろうと密かに目論んでいたのであったが、幸いにも天候に恵まれて目論見通り事は進んだ。

11日は、職場の留守番明け、雑務を朝済ませ、“暑さ慣らし”として、am11;50am 12:30まで職場付近の峠道を往復。恐らく気温は35℃まで達していたはずで、僅か40分の走行なれど暑さにやられてしまった。やはり、猛暑日の昼間に自転車で走るのは危険すぎることを実感。翌日からの自転車走行は、早朝から午前10時頃までが限界であることを悟った。

 8月12日、am 5:00に起床。窓外を見ると既に外界は明るくなっている。家族を起こさないようにそろりと起きて、スポーツドリンク200ml+アイスコーヒー200mlを流し込み体を覚醒させる。ゆっくりとジャージに着替えて、バイクのタイヤの空気圧を整えて、家を出たのは、am5;50頃か。



宮島街道沿いの裏道を使って西下し、廿日市の速谷神社付近のコンビニ辿り着いたのは、am6:20頃。そのコンビニで、ミネラル水+ビタミン炭酸水350ml+バナナ一本+ウィダインゼリー一本を購入。後者3つを補給し、水はボトルに入れて、am6:30頃に極楽寺山の峠を目指して登坂開始。



なるべくペースをキープすることを意識し、ギアを軽くすることをギリギリまで抑えてペダルを廻したが、意外にも好調で坂道を上がることが出来た。このコースはここ最近猛者どもの知るところとなり、毎回数人に遭遇するが、この度は早朝のためか、一人下ってくるヒトとすれ違っただけであまり見かけず、変なプレッシャーも感じずにマイペースで登坂を続けることが出来た。

それでも、センターラインが無くなり道幅が狭くなるころから勾配は恐らく123度となる箇所があり、その辺りから先ほどまでの好調感は失せて両脚、心肺への負荷が一気にきつくなった。どうもこの頃慢性副鼻腔炎にでもなっているのか、鼻腔内に鼻汁が溜って、それが呼吸を妨げることになってしまうのも厄介だった。

何とか200300m続く急勾配を上り終えると、木立に囲まれたつづら折りの坂道となり、ゆっくりと呼吸を整えながら登坂を続ける。毎回このつづら折りのカーブの数を数えるのだが途中で数え忘れてしまう。この度は数え忘れないようにと心がけるのだが、このつづら折りを上っていると、木立の湿気を含んだひんやりとした空気、静寂の中に聞こえてくるカッコウ、セキレイなどの鳥のさえずり、蝉の音などに意識が向いてしまいがちとなる。そのおかげでいつも雑念から解放されて、その時の己の状態に自然と向き合う事ができるのだが、この感覚が本当に気持ち良い。森と己が一体となっていくようで下界の雑念もどこかに消えさる。

つづら折りのカーブの数を数え忘れそうになったが、この度はしっかりと記憶を保ち、全部で7か所あったことを確認した。




坂道は、登ってきた国道433号と極楽寺山キャンプ場へ続く道の三叉路に差し掛かる。視界が左右の稜線がV字に切り開かれた先に宮島の弥山が遠望できる箇所に到着。ここから見る景色は何度見ても気持ちが良い。



廿日市市観光協会のホームページによると、極楽寺山は天平3年(731年)に行基が開山し聖武天皇が建立した真言宗の古刹寺があるのだそうな。下界からこの坂道を黙々と上がってくると精神が浄化されていく感覚があり、確かに古来人が霊験あらたかな山だと考えたのもよくわかるような気がする。

ただ現在の私は、弥山を遠望しながらも、早くも疲労困憊しへこたれている己と向き合っていた。このまま引返して下って行くか、当初予定していた極楽寺周回コースを進んで帰還するか。

ひさしぶりに極楽寺山に上って来て、随分疲れていた。国道を離れて極楽寺山キャンプ場へ続く山道を通って山の反対側に下って、再び国道433号に合流し、そこから再び国道433号線を廿日市方面への登坂道を上がり、今休息している三叉路まで戻って、そのまま廿日市市街まで下るコースをたどる自信が持てないでいた。

“どーしようか?”しばらく弥山を眺めながら思案していたのだったが、時間を確認するとまだam7:00を廻ったところ、何も急ぐことはないではないの、山を楽しめば良いのだし、途中でへこたれたら、休んで山の景色、葛原地区の山里風景を楽しめば良いではないか、そんな声が脳裏に浮かんできたのだった。


“行基様、そうさせていただきまする。ゆっくりと参りまする。”


心を整えると、あらたなモチベーションが湧いて来て、極楽寺山キャンプ場に向かう峠まで一漕ぎ、それからは山間の集落を縫う径を下って行った。集落を抜けると小川が流れる木立を抜ける。木立にはまだあまり日が届かず冷たい空気が全身を冷却してくれて誠に気持ち良かった。

その木立に囲まれた小路が終わると先ほど別れた国道433号に再び合流。そこを左折し、国道を登坂開始。道路標識によると平均勾配8度の緩やかなカーブの後に直線が続く坂道をただひたすらにペダルを廻す。そろそろ両大腿の筋肉に軽い痛みを覚える頃に、道幅が狭くなって左右の斜面に水田が広がる葛原地区に入る。水田には稲が朝日を浴びて青々と茂り目に優しい。集落を走っていると、地元のヒトが畦道の雑草を刈る準備をされており、挨拶をするとごく自然に「おはようございます」と返事をしてくれた。良いですね、夏の山里の佇まい。


しばらく集落を走るとふたたび針葉樹の木立に差し掛かり勾配がきつくなったのであるが、ここまでくればゴールに設定した国道433号の峠まで残りわずか。最後まで気を抜かずにペダルを廻し、am7:44にゴールに到着。一息入れる。

その峠からも眼下に廿日市市街地、その先に宮島弥山が遠望出来た。毎回このコースを走っていると、山の自然との一体感を得ながら己の雑念からの解放を得ているような、そんな気分を楽しめるのだ。この日も無事に“朝のお勤め”を終えたような充足感を得ることが出来た。

後は、国道433号の廿日市市街に向かって下って行くのみ。ペダルを廻さず、適宜ブレーキを入れて重力に任せて下って行くのみ。空気を切り裂いて下って行くのは、自転車に乗る最大のご褒美か。上がってきたつづら折りカーブを対向するクルマに気を付けながら下りていくと、猛者どもが其々に上がってきた。単独の者、ペアで上がってくるもの、皆何かを求めて入山しておるの、お疲れさまでござる。軽く会釈してすれ違うのだが、私はなんだか先達者としてどや顔になっていたかも知れぬw。




やがて道幅は広くなり、山すそまで降りていくと、陽射しがきつくなり蒸し暑い空気と街の雑音が私の全身を包んだ。人間界への帰還、そして私の日常に戻って行ったのであった。

(つづく)

2018年8月7日火曜日

2018年無知の旅

7月のある夕餉時に、向かい合って座っている愚息(19歳浪人生)が、唐突に「オヤジは現代音楽の中で誰が好きか?」と尋ねた。突然の質問だったので多少面喰いながらも「やっぱ武満徹が良いな」と応じると、「リゲティを知っているか?」と問う。

リゲティ?そんなヒト知らんなと言うと、愚息曰く「あのヒトの管弦5重奏良いよなあ」と。しばらく会話が別の方向に変わり、愚息と家内がやりとしている間に、テーブルの下でスマホを使ってリゲティを検索すると、スタンリー・キューブリック作品「2001年宇宙の旅」で彼の作品が挿入曲として使われていた事を知った。

“ああ、あれか!確かモノリスと人類が接触するシーンで不気味とも荘厳とも形容されそうなコーラスが挿入されていたな”

「リゲティって、2001年宇宙の旅の挿入曲に使われていたヒトか、わかった。」と愚息と家内の会話に無理矢理入っていくと、愚息「そう。じゃあアトモスフェールくらいは知ってたか?」などとやや上から目線で応えた。

愚息の上から目線っていうのが、少々悔しくて。とは言っても、この頃ではクラシック・現代音楽分野における知識量では、音楽オタク化した愚息には全くかなわなくなっているのでそんなに深刻な問題なのではないのだけれど、それでも映画/小説「2001年宇宙の旅」が好きであると思っている中年オヤジにとっては、迂闊にも挿入曲の作曲者を知らないでいたことに直面化させられ軽いショックと気恥ずかしさを感ぜざるを得なかった。

翌日、通販サイトでリゲティ作品を検索し彼の作品を俯瞰するべく何枚かの企画ものアルバムをポチって、そのCDが昨日手元に届いた。


それらのCDを仕事の終わりにi-tuneに取り込んでいると、横のイチロウが覗き込み「ああ、リゲティか、2001年宇宙の旅の」なぞとさりげなく言った。「あんたも知ってたのか?」と問うと、彼曰く「まあね、チェロ・コンチェルトとか聴いてたからね」と穏やかな声色で返した。



“なぬ~、みんな知ってたのか?知らなかったのはオイラだけか…….

この場合の“みんな”とは、私が普段の日常会話で音楽話が出来る、愚息とイチロウ、そしてコウイチという狭いサークルを指すのだけれど、コウイチは映画にも通じているからわざわざ確かめなくてもどうせ知っているに違いない。それにしても己の無知ぶりに軽いショックを受けた。

まったく……、これじゃあ“2018年無知の旅”じゃないのよ.....。という事で、奴らに追いつくべく、リゲティを昨晩から聴き始めたところである。





追記;所謂現代音楽あるいはそれに影響を受けた音楽というものは、実は50代のオトナにとっては、その子どもの頃60年代から70年代、例えそれを現代音楽だと知らなくても、その頃の映画やテレビドラマを通じてよく耳にしていたのではないかと思う。リゲティを聴き始めても、音の塊や不協和音、楽器の異色とも思える取り合わせを違和感を全く感じずにすーっとその世界に入っていくことが出来る。聴いていてとても楽しい。

つい愚息に、「こういう音楽って、オヤジの子どもの頃に何気に耳にしていたな。ほら音の塊がぐあーんと流れてくるやつとか」と言ったところ、奴は涼しい顔をして「ああ微分音のことね。微分音というのはね……」とスラスラと説明するではないか。

また、一本取られてしまったw。