2019年9月23日月曜日

オイラの武蔵国物語(下)

その不動産屋を辞した後、もうしばらく自由が丘界隈を散策し夕食をとって、息子の下宿に戻ろうという事になった。夕方になっても、人通りが多く、オシャレな女性や若いヒト達が目立った。細い路地には、可愛らしい洋菓子店やお洒落なブティック、飲食店が多く立ち並び、確かに女性や若いヒト達に人気のある街であることが察せられた。これらの商業地を少し離れると、瀟洒な住宅やお洒落な佇まいの低層高級マンションがある住宅地が広がっている。先ほどの不動産屋さんが所謂著名人の住まいや一般人には手が届きそうにない高級マンションがあるとのことで、正しく人気の高級住宅地となっているとのこと。私のような地方者には全く無縁の土地であり、現地に居てもどこか現実離れしたような感覚が抜けなかった。

家内から珍しく「腹が減った。焼き肉食べたい」との要望があり(緊張からの解放と共に疲れが出たのであろう)、彼女の希望に沿ってある商業ビル二階にある焼き肉店に入った。暫く待たされて、フロア1画のテーブル席に通されたが、周囲は満席状態である。

適度に飲み物や肉皿を注文してしばらくぼんやりとしていたが、少しずつ周囲の状況が分かってきた。周囲の家族連れの人達の出で立ちや年配のご夫婦の佇まいから察するに、このお店のお客たちはこの界隈の住人達が大半のようであった。

隣のテーブルに着いた家族連れは、40代の夫婦に中学生の娘さんだったが、お父さんはTシャツに短パン姿。テーブルについてしばらくすると、知り合いの家族を認めたらしく、「子ども達だけでここのお店に寄越したのかと思ったよ。流石セレブなんだね。」などと、大声で軽口を叩いている。それが済むと、これまたよく聞こえる音量で、自分の娘に対して、恐らくは仕事上の難しい話を熱心に語って聞かせている様子だった。

そこからは私が勝手に想像するに、この御仁、この界隈に生活の根を下ろし、仕事も順調なのだろう。この土地の住人になったこととその生活を維持している事に強い自信をお持ちなのだろうと感じた。

目の前に座った家内の話に耳を傾け、地方言葉を交えてその話に応じつつ、時々焼けた肉を彼女の皿に取ってやりながら、ふと私は、昔学生時代に読んだ曽野綾子氏の「都会の幸福」というエッセイを想い出していた。そのエッセイの中で、同氏が地方の良さも認めつつも、都会で暮らす者(特に山の手に住む者)の生活の在り方について語られていた。都会にあって、元気で自己主張をする者は大体が外部出身者であって、元々都会で生まれ育った者はあまり自己主張しない。近所付き合いや対人関係においては一定の距離を保ち、地方の者から見えれば淡白にも孤独にも見えるかもしれないが、それはお互いの生活を尊重しているに過ぎないのだと。そしてヒトに見られているので、いつも背筋を伸ばして生活している等々。私の勝手な記憶と感想なのだが、彼女のエッセイからは、都会の生活者が、どこか凛とした精神の張りと自由さと奥ゆかしさがあるような気がして、地方で暮らす若い私にはどこか羨ましいような憧れのようなものを感じたものだった。

先ほど取り上げた御仁が、どのようなヒトなのかは実際には知らない。家内も先ほどの御仁が気になっていたらしく、帰りの電車の中で、小声で彼女なりの感想を述べて、私に近しい感想を抱いていたことがわかり可笑しかった。ただし、私としては他方で、その御仁が私にはない生活者としてのバイタリティーや能力を持たれているようで、そのことを肯定的に認める気持ちもあった(これらは、全部勝手な私の空想に過ぎない)。

果たして、どこか私の気性の一部を受け継いだらしい愚息がこれから都会でどのように生きてゆくことになるのか。数年のうちに夢破れて都落ちをしていくことになるのか、或はそれなりに生き延びることが出来て、多くの方がそうであるように都内を離れて近県に居を構えることになるのか。どちらにせよ、それはそれで良いような気がした。ただ、どちらにせよ、「親としては静かに見守っていくしかあるまい」と。車窓から暗くなった住宅地に無数の灯った景色を眺めながら、小声で「母さん、そろそろ家に帰らんか?」と呟いてみたものの、家内には届かなかったようであった。



(終わり)

オイラの武蔵国物語(上)

愚息が来春都内の企業に就職することになり、今秋の間に通勤に便利な都内に引越すことになった。現在彼の下宿先から都内の新宿や渋谷までは電車で1時間強であり、最寄りの駅界隈は適度に飲食店やコンビニが散在する住宅地であり、暮らしやすそうな環境ではあった。

私のような地方者には、現在の下宿の賃貸契約を来年度以降も継続し、都内のオフィスに通勤しても良さそうに感じたのであるが、愚息曰く、「今後の通勤手段になるであろう東急田園都市線の通勤ラッシュ時の混雑ぶりが今から思いやられる」「若い時期に一度は都内に住みたい」とのこと。かつての私を振り返ると、奴の願望も分からないでもなく“ああ、そうか”と肯定も否定もしなかった。

ただ、果たして新卒の初任給で、しかも住宅手当はつかないとの条件で、都内の物件の賃貸料が賄えるのか甚だ疑問ではあり、県境を越えて都内に通勤される方も沢山おられるだろうから、彼の願望は彼の現実を無視したものであろうと思われた。

夏の終わりごろから、愚息と家内が其々に都内の賃貸物件情報をネットで調べ始めていたがやはり想像通り高値であり、とても新卒者が月々の家賃を払えそうではなかった。印象としては、都内の賃貸物件の家賃は、同じ間取りで比較すると地方の2倍から2.5倍程度であった。

それから、愚息と二親の間で情報戦を絡めつつのちょっとした攻防(越境する・しない、多摩川を越える・越えない、通勤路線をどこにするか等)があったが、最終的に就職後もしばらくは家賃の半分を親が負担することで決着することになった。子どもが社会人になった後も、親が仕送りすることについて、親バカ・過保護の気がしないでもない。私の中でも多少の迷いがあったのであるが、私自身のこれまでを振り返ってみるに、私も社会人になった後も親から有形無形の援助を受けて来たわけで、因果応報と言うべきか、少なくとも私が育った家族文化においては自然な事なのだろうと思い定めた。

さて、9月のある連休に休みが取れたので、家内の提案で愚息の下宿を根城にして、都内の賃貸物件を探しつつ東京見物をすることになった。事前に家内が目黒区内で条件の合う物件をピックアップしており事前予約なしで不動産屋に行くことにしていたが、ついでにこれまでも知名度は高いが一度も訪れたことのない自由が丘というところに立ち寄ってみようという事になった。

土曜日の夜遅く、愚息の下宿に入り、翌日曜日午前9時過ぎに出て、横浜線から田園都市線を使い、溝口で東急大井線に乗り換えて自由が丘へ。溝口から東急大井線に乗り換えると、二子玉川を経て多摩川沿いの左右に緩やかな丘陵地の間を線路が走っている様子である。その丘陵地にびっしりと戸建てや低層の集合住宅が見えるが、緑が多く残っているせいか落ち着いた雰囲気が感じられ、都内に住まいを求めるヒトたちにとって、この地域が人気の土地柄であろう事が、よそ者の私にも判るような気がした。

自由が丘駅に降りて、駅前のロータリー近くにある喫茶店で小休止し、家内とちょっとした作戦会議を開く。家内としてはこの界隈の不動産屋に入り、私共の希望する条件に合う物件をいくつか見たいとの事。私には、愚息や家内が期待するような物件に当たることはないだろうと思われたが、物件巡りをする事でこの界隈を散策できるだろうという目論見があり、家内の提案に乗ることにした。

小休止の後に、自由が丘駅近くのある小さな不動産屋さんに入った。店内には若く可愛らしい女性が一人居て、来訪の主旨を伝えると、ニコニコとした笑顔で応対を始めてくれた。家内が希望する価格帯や間取りを述べ、事前にピックアップしていた何軒かの物件を伝えると、その女性がその資料を準備し始めた。それを待っていると店主の男性が帰ってきた。改めて妻から希望条件とピックアップしていた物件について述べると、その男性が先ほどの女性が取り出してくれていた資料を眺め、早速それらの物件について管理会社に確認の電話を入れてくれた。ネットで調べた物件の大半が既に契約成立済みであったため、新たにその不動産でこちらの希望する条件にある物件を取り出し、夫々の物件について別の管理会社に内見が出来るか否かを問い合わせてくれた。忽ち、4軒の物件の内見が出来ることになった

いずれも駅から徒歩10分程度の処であったため、その男性に連れられて、各物件を歩いて観て回ることになった。

最終的には、その不動産屋が徒歩で案内してくれた物件について当方の希望に合う物がなかったが、観て回る過程で、その男性からこの界隈の情報が得られたことは大変勉強になったし、ちょっとした観光にもなった。

その男性は50代半ばに見えたが、とても親切かつ親しみやすい性格のようであり、当方が息子の就職後も家賃を半分仕送りするつもりであることを伝えると、「へー」と純粋に驚いたような表情を作った。それから、彼と色々と話しているうちに、彼自身の家族について問わず語りを始めた。「やっぱり子どもっていくつになっても可愛いよね」と言い、初対面にしては立ち入ったプライベートな内容も語った。彼の話している内容から、どうも彼の親の代で東京に出てきたようだった。結局途中の昼休憩を挟んで、夕方4時過ぎまでその不動産屋に付き合ってもらったのであるが、最後に紹介してもらった物件の内見を済ませてそのお店に戻った時に、彼のお母さんも店内に居られた。ニコニコとした笑顔と、きさくな物言いをする親しみやすい女性であった。家族的な雰囲気と人情味のある店主が営む良い不動産屋のようであり、そのお店を辞した後で家内と出来ればこの不動産屋にお世話になりたいものだと語り合った。



(つづく)