家内から珍しく「腹が減った。焼き肉食べたい」との要望があり(緊張からの解放と共に疲れが出たのであろう)、彼女の希望に沿ってある商業ビル二階にある焼き肉店に入った。暫く待たされて、フロア1画のテーブル席に通されたが、周囲は満席状態である。
適度に飲み物や肉皿を注文してしばらくぼんやりとしていたが、少しずつ周囲の状況が分かってきた。周囲の家族連れの人達の出で立ちや年配のご夫婦の佇まいから察するに、このお店のお客たちはこの界隈の住人達が大半のようであった。
隣のテーブルに着いた家族連れは、40代の夫婦に中学生の娘さんだったが、お父さんはTシャツに短パン姿。テーブルについてしばらくすると、知り合いの家族を認めたらしく、「子ども達だけでここのお店に寄越したのかと思ったよ。流石セレブなんだね。」などと、大声で軽口を叩いている。それが済むと、これまたよく聞こえる音量で、自分の娘に対して、恐らくは仕事上の難しい話を熱心に語って聞かせている様子だった。
そこからは私が勝手に想像するに、この御仁、この界隈に生活の根を下ろし、仕事も順調なのだろう。この土地の住人になったこととその生活を維持している事に強い自信をお持ちなのだろうと感じた。
目の前に座った家内の話に耳を傾け、地方言葉を交えてその話に応じつつ、時々焼けた肉を彼女の皿に取ってやりながら、ふと私は、昔学生時代に読んだ曽野綾子氏の「都会の幸福」というエッセイを想い出していた。そのエッセイの中で、同氏が地方の良さも認めつつも、都会で暮らす者(特に山の手に住む者)の生活の在り方について語られていた。都会にあって、元気で自己主張をする者は大体が外部出身者であって、元々都会で生まれ育った者はあまり自己主張しない。近所付き合いや対人関係においては一定の距離を保ち、地方の者から見えれば淡白にも孤独にも見えるかもしれないが、それはお互いの生活を尊重しているに過ぎないのだと。そしてヒトに見られているので、いつも背筋を伸ばして生活している等々。私の勝手な記憶と感想なのだが、彼女のエッセイからは、都会の生活者が、どこか凛とした精神の張りと自由さと奥ゆかしさがあるような気がして、地方で暮らす若い私にはどこか羨ましいような憧れのようなものを感じたものだった。
先ほど取り上げた御仁が、どのようなヒトなのかは実際には知らない。家内も先ほどの御仁が気になっていたらしく、帰りの電車の中で、小声で彼女なりの感想を述べて、私に近しい感想を抱いていたことがわかり可笑しかった。ただし、私としては他方で、その御仁が私にはない生活者としてのバイタリティーや能力を持たれているようで、そのことを肯定的に認める気持ちもあった(これらは、全部勝手な私の空想に過ぎない)。
果たして、どこか私の気性の一部を受け継いだらしい愚息がこれから都会でどのように生きてゆくことになるのか。数年のうちに夢破れて都落ちをしていくことになるのか、或はそれなりに生き延びることが出来て、多くの方がそうであるように都内を離れて近県に居を構えることになるのか。どちらにせよ、それはそれで良いような気がした。ただ、どちらにせよ、「親としては静かに見守っていくしかあるまい」と。車窓から暗くなった住宅地に無数の灯った景色を眺めながら、小声で「母さん、そろそろ家に帰らんか?」と呟いてみたものの、家内には届かなかったようであった。
(終わり)
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