2020年2月11日火曜日

萩往還~ちょっとさわりの部分を走ってみた~

202022日の前日に次男宅に泊めて貰う。次男は学年末試験を前日に終え、快く私の宿泊を了承してくれたのは良かったが、意外にも明日半日は遊んでくれろと言った。泊めてもらう身としては、多少なりともホストの希望にも応じざるを得なかった。

この度の宿泊目的は、前々から気になっていた『萩往還』と呼ばれる古道に沿った山道を自転車で走ってみようということだった。萩往還は、江戸時代中期以降に発達した藩の政庁が置かれた山口/山陽道と萩城下を結ぶ街道であったらしい。現代では、この古道にそって山口市街地から山間部を縫って萩市内へ通じる県道が通っている。以前家内と山口に来た折に萩を目指したことがあって、クルマのナビが指定した道がこの県道で、なかなかきつい勾配と曲がりくねった道なりが、自転車乗りにしてもバイク乗りにしても恰好な走行コースであるように思えたものだった。


可能な限り出来れば半日使って、この古道沿いの県道を走ってみたいものだと兼ねがね思っていたところ、この度妻が他用で不在となったため、この機会を使って、クルマに自転車を載せ山口までやってきた。


当日朝08;30頃に次男の部屋を出て、JR山口駅前に08;45頃に到着。そこから萩往還が通った県道62号線の峠道を目指す。国道9号線バイパスを横切り、重要文化財瑠璃光寺を左手に見ながら進むと、旧街道を思わせる街並が少し続く。やがてはその街並みを通り過ぎると、左にカーブし川沿いのなだらかな坂道に差し掛かった。

同伴者はいないので、ゆっくりと慌てることなくペダリング。自分の最適と思われるケーデンスをキープしながら慎重にギアをlowに落としていく。やがて進んでいくと左眼下にダムとダム湖があった。この辺りからはしばらくフラットな見通しの良い道が続いた。

しばらく進んでいくと、左右の斜面に数軒の人家が見えて、再び右に大きくカーブが見え、その正面に『萩往還』と書かれた標識があった。現代の道県道62号線は右に大きくカーブし、ここから勾配がきつくなり道幅も狭くなっていた。

周囲を林に囲まれた狭い道は、人影も行き交う車両もなく時折鳥の鳴き声が聴かれるばかりで静かであった。勾配は次第にきつくなり左右にカーブ、そしてつづら折りを繰り返し、ピッチは上がらねどもマイペースでペダルを廻した。

六軒茶屋跡地と書かれた道標を見て、県道を横切るように左右の急斜面に石畳の道がちらりと見えたあたりから両脚に疲労を感じ始めた。


「しかし、昔の長州藩藩士は大変だったのだろうな。山口政庁から萩城下に向かうのに、いきなりこの急峻な山道を越えないといけないものな。籠にしても、馬で越えるにしてもこの山坂道は大変だ。ましてや徒歩となると難儀なことだったろう。特に幕末の動乱期になると、この藩は勤皇派と佐幕派に分かれて大騒ぎになり、吉田松陰の安政の大獄、長州征伐の際には奇兵隊の活躍。その間、長州藩士がこの道を忙しなく行き来したのだろう」

六軒茶屋跡を過ぎて曲がりくねった登り坂を進んでいくうちに、頭上の視界が次第に開け、初春の青空が見えるようになった。あともう少しで峠のピークに達するだろう、あともうひと頑張り・・。大きく右へカーブすると、勾配11%距離にして大体300400mの直線があった。


“ひえ~、これが最後の難所かいな・・・・”心が折れそうになり、そろそろ両大腿部が攣り始める兆候が出現。静かな峠道に己一人。呼吸は荒くなり、両耳の奥で鼓動がぎゅっぎゅっと聞こえ始めた。ここらあたりで一休みするか?それとも登坂を続けるか、そのような逡巡を覚え始めた時、〝往時には国難を背負った藩士がこの険しい山道を息つく暇もなく上て行ったのだもの。現代のお気楽な中年男がこのくらいの難儀で弱音吐いてどうするの?“と思えた。そう思うと、密命を帯びてあるいは志を秘めてこの古道を登って行った長州藩士たちの激しい息遣いが聞こえてきそうな気がして、私はもう一度心を奮い立たせたのであった(なんて書くと、司馬遼太郎みたいでしょ?w)

なんとか勾配11%の直線を上り切ると、程なく峠ピークに達したのであった。到着時刻09;55くらい。


このまま、この道を下ることも考えたのであるが、前夜の次男との約束もあり、昼までに帰着する自信がなかったので、このピークから来た道を引き返すことにした。ゆっくり下りながら、何枚かの写真を撮った。市街地に戻ると瑠璃光寺の境内を外から眺め、立派な作りの山口県庁舎を眺めつつ、次男のアパートを目指す。1045頃に帰着。

午後から、息子のリクエストで萩市へドライブ。午前中上った県道を今度はクルマで走行する。険しい上り坂に差し掛かると、次男曰く「ここをチャリであがったんか?バカだねえ~」と一言。“そうだよ、ただの坂バカだよw”と返す。

萩に着くと、松下村塾と指月城跡を見学。吉田松陰を祀った神社があったが、司馬史観に影響を受けているせいか、多少の違和感あり。彼はただ純真一途なヒトで思うがままに行動した青年だったのではないかと。若さゆえのある種の美しさはあるけれど、神社に祀るようなヒトだったのかな?(関係者の皆様、すみません。単なる主観的な想いであって、彼の事績を貶めたいわけではございません。)


その後、萩城(指月城)跡を次男ふたりで散策する。日本海につき出した小山にそのお城はあった。そのそばには碁盤の目に区画された城下町跡があって、美しい街並が残っていた。江戸時代も今と変わらぬ静かな街だったのだろうな。なんだか山陽表の忙しなさから隔絶されたような静かな城下町がそこにはあったような気がした。



(おわり)

ケースレポート/「変わりあんパン」に見る、ある中年夫婦の機微について


症例;Mさん53歳男性


主訴:「この先私は、今後の夫婦関係をどうすれば良いでしょうか?」

既往歴:特記事項なし

家族歴:現在、妻と二人暮らし。挙子二人(いずれも男児)。子どもは二人とも進学に合わせて、本人宅を離れた。

嗜好歴;アルコールは何でも好き。週4回飲酒。喫煙(-)

人格的傾向;本人談 「優柔不断だけれど、頑固。いつもニコニコしているが、ヘラヘラとしていると他者から言われる。恐妻家」

経過:

 X1月のある週末に、Mさんは妻と一緒にあるショッピングモールで買い物。その日の夕食食材を買い物している時に、妻から「明日の朝食用にパンを買って帰ろう」と提案された。Mさんは、その食品売り場にあるベイカリーの人気商品である「あんバターパンをひとつ買ってくれろ」と応答。しかし、夫婦ともに他の事に関心が移り、朝食用パンならびに『あんバターパン』は買わず仕舞いだった。

 その翌日夕食が終わり、Mさんがしばらくそのままテーブルで寛いでいると、妻が「これ朝食用に持って行き」と紙袋を渡した。Mさんは、中をあらためず「わかった、あんがと」と言い、通勤用バッグにしまい込んだ。翌朝、職場でその包みを広げると、『あんパン』ひとつが入っていたので、缶コーヒーと共にそのパンを朝食として食べた。

 同日晩に、夕食後いつものごとくMさんはテーブル席で寛いでいたところ、妻が「ああ、そうだ。忘れないうちに」と言い、紙袋をマサキさんに渡した「明日の朝食用」と。マサキさんは中身をあらためず、「サンキュー」と言ってその袋を通勤バックにしまった。翌朝職場でその袋を開けると、前日とは違うメーカーの『あんパン』がひとつ。前日のごとくそれを朝食とした。

 その晩、Mさんが夕食後に寛いでいると、妻はひとしきり喋った後、「これ、明日のパンね」とMさんにビニール袋を渡した。Mさんが何気に中を見ると、また別のメーカーの『あんパン』らしきものが見えた。

Mさんは、基本的に妻の出す食事は「何の注文も、クレームも言わない主義」なのだが、流石に3日連続の『あんパン』はちと辛く、思わず「ええ~、またあんパンなの~?」と妻に聴いた。彼女曰く「だって、『あんパン好き』って言ったじゃん!」と返答。Mさん:「ちゃう、ちゃう」「俺が食べたいと言ったのは、『あんパン』じゃなくて、『あんバターパン』!」「似たようで、全然違うのよ・・・・」

それに対して、妻は「そんなの知らんわ」と応じ、そのままMさんの前に“ずいーっ”
とその包みを押し返した。Mさんは仕方なく、その包みを通勤カバンに入れて、翌朝三日連続の『あんパン』を朝食として食べた。

4日目の夕食後、妻が「じゃあ、これね」と言ってMさんに渡したのが、『つぶあん&マーガリン/ 黒糖ふーみロール』なる菓子パン。マサキさん:「ムムム・・・」と内心唸りつつ何も言わず。翌朝朝食にして食べたところ、〝甘すぎて無理っす“と途中でギブアップしてしまった。


※あくまでもご本人の主観的感想であり、この商品の優劣を述べているものではありま

せん

5日目の夜、妻「今日、知り合いの奥さんと外出した時に、有名なパン屋さんがあったから」としてMさんに渡したのが、『りんごあんぱん』。Mさん;「こ、これは・・・・」と再び密かに唸ったまま、何も発せず。翌朝喰ったところ、「全くのノーマーク。でも、結構イケている。」と内心ホッとした。


  あくまでもご本人の主観的感想です。この商品の優劣を述べているものではありません。ただ、Mさんは、アップルパイやアップルパンが幼少期より好きだっただけのことです。

 6日目の夜は、幸いにして「朝食用パン」なるものは妻から支給されず。Mさん内心ほっとして就寝。翌朝は気持ち早めに家を出て通勤途中にコンビニに立ち寄ると、その名もずばり、『あんバターフランス』なるパンを発見。喜び勇んで、そのパンをひとつと缶コーヒーを購入してカバンにしまい込み、職場に着いて改めて包装の文字を読んでみると、〝バター入りマーガリン“と書いている。Mさんは、大変がっかりした。 

※あくまでも本人の主観的感想です。Mさんはマーガリンが多少苦手なだけで、商品そのものに文句は全くありません。


7日目の夜。夕食後妻から音沙汰なく、Mさん〝しめしめ”と思いながら就寝。翌朝も気持ち早めに出勤し、通勤途中でとあるベイカリーに立ち寄った。そこで、Mさんの目に飛び込んできたのが、「塩バター・・・」ここまで読んでMさん悦びに満ち溢れた表情を浮かべ、そのパンをトングでつかみレジへ。それと、テイクアウト用にホットコーヒーを注文。商品を手渡されると笑顔で「ありがとう」と言い残し、クルマに戻って、早速パクリとやってみた。生地は、“バターの塩分にちょっとインパクトがあって旨し、だけど、アンが出て来ない・・・”。

「あー!」「こ、これは『塩バターパン』だ。『塩バターあんパン』ではない!」


※話は経過の最初に戻るが、Mさんが「バターあんパンが食べたい」と言った時に思い描いていたベイカリーが供するパンは、正確には『塩バターあんパン』で、クロワッサンの形状で生地は塩味が効き食感はフランスパンのような硬さを有したものだったのです。

 その時、Mさんが口にしているのは、食感といい塩加減といい、Mさんが思い描いていたパンの生地と類似しているのだけれど、そこに当然ながら餡が入っていなかっただけのこと。

 Mさんは、そこで己の早合点ぶり軽率ぶりに苦笑いを浮かべざるを得なかったが、己の間抜けぶりと共に、この一連のエピソードが最近の夫婦関係を如実に反映しているようで、しじみと省みざるを得なった。夫婦間の微妙なすれ違いが生じていることである。

 Mさんは、しばらく言葉にならない感情を冷めかけたコーヒーと共に飲み込んで職場に向かったのだった。


それから2週間が経った2月上旬の日曜日に、Mさんは、買い物の用事で出たついでに、時々利用するベイカリーに立ち寄り、目出度く本人がこれだと思う『あんバターパン』をひとつ購入。

翌朝、職場に着き、「いざ!」とばかりに喜び勇んで朝食としてそのパンを食べたのだった。この『あんバターパン』は、パン生地はフランスパンのような硬さで若干塩味が効いている、粒あんは甘さのコントロールが良く上品。厚さ2㎜程度のバターが餡の上に載せられている。粒あんの甘さと、バターの塩味が絶妙。
朝のエネルギー摂取と元気を出すのに最適!・・・の筈だった。ただ残念なことに、ちょっとその朝の体調加減のせいか、バターが重たかった。「ああ、オイラはもうこのパンを食べこなせない年になっちまっているのか」「むしろ、今後は塩バターパンくらいにしておこうか」と、Mさんは薄ら寂しさを感じたのであった。



(考察)

たかが『あんバターパン』ひとつを介した夫婦間のやり取りを記したケースレポートなのだが、そこには平凡な中年夫婦の抱える機微、中年夫婦の危機の兆しが内包されている。論点は、色々側面から指摘され得るが、

ひとつは、そもそもMさんが本人の求める菓子パンをその妻がその通りに購入してくれるのが当然だとしている前提が見え隠れしている点。昨今のテレビコメンテーターであれば、「オッサンが、そんなことでごちゃごちゃいうなよ」「そんなに欲しければ自分で買えば済む話じゃないか」と一刀両断で終わる話である。

ふたつ目は、それまでの経過の中では、妻が夫の朝食を気にすることがなかったのに、最近になって朝食を考慮し夫に菓子パンを買い与え始めている点。子育てが終わって多少なりとも夫に関心が向けられていると受け止めることが可能であるが、果たしてその再接近を夫がちゃんと気が付いていたかということ。そして、気が付いていたにせよ、果たして夫がその再接近に対して、多少なりとも気が重く感じてはいなかったかどうか。

3つ目、その夫婦関係の再接近過程において、それまでの四半世紀経った家族文化なり夫婦関係の積み重ねの中で一度完成した関係性を、どのような方法なり思慮を持って修正し解決させていくかという課題が今後も残るであろう事。これはなかなか言葉で云うほど簡単とは思われない。最近メディアを賑やかせている男女のゴシップに似た経過を辿るかもしれないし、〝第2のハネムーン”なぞとカウンセリング本に書かれているような経過を辿るかもしれない。要は、Mさんの心構えひとつに負うところ大で、果たしてMさんにそんな気力があるのかどうなのか。



等々と、己の日常的な葛藤を極力客体化してごちゃごちゃ考えていたら、マサキはとても面倒くさくなって、しまいには「夫婦間関係なんていっぱいそれらしい本も出ているし、テレビコメンテーターの人たちならしたり顔でごもっともそうな事を言うだろう。だけどね、結局のところなるようにしかならないけんね。」と思うのだった。

そして「いっそのこと、オイラはこれから『変わりあんパン評論家』にでもなろうかしら。」と、詮もなき新たな展望を見出そうとするのであった。


(おわり)