2017年2月27日月曜日

ミニ合宿 in Etajima①


225日(土)、26日(日)イチロウと共にミニ自転車合宿を行う。



今年312日に開催される「琵琶湖ロングライド2017」に、Gilberto’sの仲間と出場する予定としているが、私は、毎度のことながら練習が思うように出来ていなかった。

そこで、大会日前にイチロウと1度は100㎞越えの自転車ツーリングをして体を慣らしておこうではないかと2月中旬に決めて、26日にイチロウと走行することにした。その後、当初参加予定であったジロウとヤマグチ青年から、「この度は仕事の都合で不参加」との連絡があった。

「それはお互い社会人なのだから仕方ないが、何時かジロウの仕事がひと段落着いたら、彼らを我が町に呼んで、自転車合宿と称して遊ぼうではないか」とイチロウと話し合い、その企画を二人で強引に進めてしまおうということになった。



このような経緯/ “琵琶湖ロングライドに向けての調整”と、それとは別に“Gilberto’sの面々を呼んで合宿形式で遊ぶための下見”として、比較的温暖であるわが街で100㎞以上走るコース設定をイチロウに企画して貰い、急遽上記の日程でミニ合宿と相成ったわけである。



折角ならばGilberto’sの面々をもてなす場所として目論んでいる旅館の下見もこの際してしまおうと企んだのだが、25日当日になってその旅館に予約しようとするも、生憎先方は「本日全室満席でございます」と断りの返事が寄越してきた。安易に考えていたこちらが悪いのであるが、実際に行けないとなると、誠に残念であった。暫く二人して思案したのであるが、「じゃあ、そのまま職場で晩飯を喰ってそのまま泊まってしまおう」ということになった。




25日(土)いつも通りに仕事をこなし、午後5時の終業時間になると急いでジャージに着替え、イチロウと二人でウォーミングアップとして22㎞ほど走行する。最初は緩やかに平坦道を走り、途中トンネルがふたつある山坂道、そして小用桟橋手前を右折して秋月地区へ向かうなだらかな上り道。上り道のピークに名づけられた「しびれ峠」なるコーナーで、しばし呉市を臨み、そしてその峠を下って海沿いの道を南下。ひとつ短い峠を越えると、再びほぼ平坦な県道に出て、その道を県道に沿って北上する。ここでは、少しハードにペダルを廻して先に行くイチロウについて行こうとしたが、1.5㎞程度追走出来た後は彼に軽くちぎられてしまったw。気持ちの良い汗をかいて職場には午後6過ぎに帰着。ふたりとも意気軒昂であり、翌日の100㎞走行への弾みがついた。





夫々にシャワーを浴びて、晩飯の調達に市内のスーパー買い出しに出かける。土曜日の夕方7時前後に残っているお惣菜は品数も少なく、選ぶのに困ったが、さりとて食材を買って何かを作る元気もなく、夫々思い思いに残っている惣菜の中から選んで購入することにした。

琵琶湖ロングライドを想定して、その夜は禁酒とするアイデアも浮かんだが、目の前に缶ビールが冷蔵コーナーに積まれてあるのを見るとやはり欲しくなり、それを一缶手にすると、ついウイスキーの小瓶にも手が伸びてしまった。

“いやはや私は緩やかなれども確実にアルコール依存症に向かってゆっくりと進んでいるらしい”心の中で苦笑いをしてしまう



午後730分頃から、職場にて夕食会とする。職場の居室で、オッサン二人でお惣菜つつくなんざカッコの良いものではないのだが、勝手知ったるイチロウが相手であれば却ってこんな食事でもまた旨いものである。私は、学生時代の寮生活や貧乏アパート生活時の光景を思い出していた。Oscar PetersonやJaco Pastriousなど学生時代によく聴いた音楽を聴きながら、ふたりで缶ビールを開けて乾杯。その後買ってきたお惣菜を電子レンジで温めて分食べ、messengerのグループチャットでコウスケやジロウに「本合宿にはぜひ来いよ」などとメッセージを送り、二人の間では何時もの他愛のないことを喋った。結局のところ、気心知れた野郎と楽しめるのであれば、何喰っても関係なかったかw。




アルコールを缶ビール350ml、ウイスキーのソーダ割グラス2杯入ったところで、急速に疲れと眠気が出始めて、午後9時過ぎには夕食会は終了。ミニ合宿1日目のスケジュールは完了となった。50過ぎのオッサン二人には、夜遅くまで駄弁る元気も残っていなかったのであった。



翌日は、午前8時に江田島の北部を出発し、江田島~能美島~倉橋島~鹿島を目指す107㎞走行を予定していた。天気予報によれば、当日の天気は、晴れ後曇り、気温 13/ 3℃となっていた。(つづく)

2017年2月25日土曜日

季節が、慌てて動き始めて.....


先週末は少し日差しも肌暖かく空気も温んだようであったが、今週に入ると寒が戻り空気が冷たくなり、そして本日はまた再び空気は冷たいが日差しは穏やかなものになっている。

空を見上げると、雲が南西から北東に向かって静かに流れていた。




春先の目まぐるしく変わる天候には、外出時には気を遣わされるが、それでもどこか気持ちは軽い。



先日、鹿児島に在住のタカヒロからmessengerで連絡があった。

「高校同窓会の案内を出したのに、マサキからの“出席”の連絡がないぞ」と。“あの”イチロウでさえ、出席すると返事があったのだと添えてあった。



高校同窓会の案内状を私の職場住所に送ってくれたらしいのだが、まだ手元に届いてなかった。しかし、どのような口説き落とし方をしたのかは知らねど、“あの”(w)イチロウを籠絡させたとは、さすがはタカヒロ、人たらしぶりは健在の様子である。



結局その場では曖昧な返事を返したのであるが、タカヒロは「会場の案内をどこに送れば良いか?職場か自宅か?」と話を進めてしまった。どうもグイグイと彼のペースで押し込まれてしまったのであったが、彼には私が押しに弱いことを見透かされていたようである。



その連絡から更に23日開いて、彼からの会場案内の封書が届き、それと同時に同窓会案内はがきも私の手元に届いた。後者は、131日に消印になっているから、3週間程度職場の事務所に寝かされていたらしいが、それにしても、出欠確認の督促としてはあわただしいなと思った。タカヒロの押しの一手ぶりに苦笑いを浮かべる。




イチロウに「本当に貴様は同窓会に出ると返事したのかと」質すと、意外にも「今回は行かなしょうがあんめい」などと真顔で返してきた。“むむむ……..” イチロウが殊勝な事をいうなんて! 35年付き合ってきたが、こんなことを言うなんざ、初めてである。“恐るべしタカヒロよ…..



じゃあ、しょうがない。オイラも出席で返信しておくかと思い定め、タカヒロにmessenger
で案内状が2通とも手元に届いたこと、そして出席とさせていただくことを伝えた。タカヒロ「大丈夫、次回の幹事をマサキに振ったりしないから。俺に腹案があるから、任せとき」だと(笑)。



“はい…….。タカヒロ、どこまでも見透かしているのか(笑)”こちらの懸念を承知している。なんだかな、高校時代の頃、彼が校舎の渡り廊下の向うから、クリクリ眼に笑みを浮かべて「おう、マサキ!」と言いながらやってくる姿が脳裏に蘇った。



以前にも別のブログに書いたのであったが、同窓会なるものがどうも苦手でこれまであらゆる同窓会の出席をお断りしていた。学生時代のことを振り返ると、別にいじめを受けたわけでもないし、仲間内で深刻な葛藤や闘争があったわけでもないのだが、ある種の苦い想いが蘇り、その事が同窓会なる集まりへの参加を忌避させていた。



改めて考えてみるに、結局のところ若い頃の曖昧で所在のない自分が嫌だったことにたどり着いて、もう50過ぎのオッサンになっちゃまって、何時までも己のidentity diffusionを起こしかけた若かりし頃のことを云々してもしょうがいあるまいと思い直した。




タカヒロのように「来いよ」と誘ってくれる友人があることを有難く想い、それに素直に乗っかることも人生の悦びなのだと素直に感謝せねばと思う。



春だしね。

過去の思い出やわだかまりを季節が廻ってくるように繰り返し反芻していると、何時かはそれまでと違った心もちや結論を導き出せることを密かに確認した次第である。




2017年2月19日日曜日

卒寿のお祝いに


本日は、風は冷たいものの朝から穏やかな陽光が射し春めいた一日であった。我が実家の近所に住まう伯母が彼女の畑の一画に梅の木を植えていたことを想い出し、そろそろその花も咲き始めていることだろうと、昼に覗いてみた。案の定、春の日差しを浴びて、小さな花々が凛と咲いていた。



実家に戻ってみると、その伯母が母を訪ねてやって来ていたので、早速彼女にその写真を示すと、クシャクシャな笑顔を作り、「これは良いねえ。M子にメールで送ってやっておくれ」と頼むものだから、軽く請け負った。




M子とは、伯母の二女(即ち私の従姉妹)で現在ドイツ・ミュンヘン近郊に在住している。彼女とは時々e-mailでやり取りしているのだが、メールを送る序でに、彼女からの宿題についての回答もそろそろ送らなければならないと思った。彼女は私より10歳年上で、小さい頃より姉御肌のしっかり者で、私にとっては頼もしい姉的存在で、その関係は今も変わらず頭が上がらない。



先月、彼女とメールをやり取りした際に、彼女から「今年母(即ち上記の伯母)が卒寿(90歳)を迎えるにあたり、記念のアルバムを送ってやりたい。」ついては、私の実家に古い写真があるのを記憶しているのだが、その中から伯母姉妹たちのそれぞれの結婚写真などがあったら送ってほしいとのことだった。



確かに、我が実家には古い白黒写真が未整理の状態で、何かの紙箱に収められているのは記憶にあった。その中には、私が生まれていない頃の伯母や母、兄弟・従兄連中の写真があったはずなのだが、果たしてどこにしまい込んだものか、皆目見当が付かなくなっていた。



M子に「ご期待にうまく添えるかどうか自信がないが、善処してみるよ」と返事し、それから時間を見つけては、物置の中の有りそうなところを時々探してみるのだが、私の記憶に或る紙箱もそれらしき未整理の写真たちもうまく見つけることが出来なかった。



何度かトライして、我が家族の両親や兄弟の若かりし頃の写真はなんとか見つけ出したものの、伯母に関連するような良い写真は見当たらず、ましてや伯母姉妹達の若かりし頃の写真や、結婚写真などはどうしても見当たらなかった。M子からの宿題に満足いく回答を送ってやれず、グズグズしている間に1ヶ月ほど経ってしまった。



それでも、私からの回答を待ちわびているであろうM子に対し何らかの回答はせねばならず、何点かピックアップして、スナップ写真をそのまま写メしてe-mailに貼付して送った。

さて、M子からどんな返信が送られてくるか?「O.K.だよ」と言ってくれるか、はたまた「マサキちゃん、もうちょっと頑張ってみようよ」となるか?どうも、後者になりそうな予感が強い…….w



私自身も、もっと良い写真があった筈なのにというすっきりとしない気持ちを抱いたまま、それでも何点か古い写真を見ていると、我が親族にとってのゴールデン・エイジというものが確実にあったのだろうと懐かしい気分になった。多くは、私がこの世に存在しない60年代前半のもので、伯母や母、そして祖父母、彼女らの子どもたちがまだ幼き頃のあるひと時が映し出されていた。

いつの間にか、それは50年以上も前の物語となってい、あらためて流れた年月のことを想わずにはいられなかった。




2017年2月14日火曜日

2月14日の事情


これらのチョコレートは、バレンタインデーに職場の同僚からいただいた所謂“義理チョコ”という奴で、勿論これだけ貰ったというのを自慢したいがために載せた訳ではない。




ご存知のように、バレンタインデーに女の子が好きな男の子にチョコレートを渡す習慣というのは、神戸あたりのチョコレート菓子屋さんがプロモーションしたもので、いつの間にか全国に広まったりしたらしい。50過ぎのオッサンにとっては、小学校の高学年ぐらいからその習慣を知っていたから、個人史的にも40年以上のお付き合いというか傍観していたことになる。



恥ずかしながら、学生時代を通じて一度もバレンタインデーにチョコレートを女の子から義理チョコなるものも含めて貰ったことが終ぞ1度もなかった。全くもって女の子からモテなかった野郎ということになるのだが、そういえばクリスマスに女の子とデートしたこともなかったから、本当に女の子とは無縁の思春期・青年期を過ごしてしまった。



小学校では、クラスで人気者の男子が、中高になると夫々に女の子と付き合っている男子がチョコレートを貰い、まんざらでもない顔をしているのを眺めていたことになる。正直なところ、多少のコンプレックス意識もあっただろうことも否定しない。



しばらく時代が下って、長男がまだ幼稚園年少組だった頃、213日の晩に、「なんでなんか知らんのじゃけど、明日女子がチョコレートをくれるらしいから、それも何人もくれる言うから、リュックサックを持って行かんといけん」などと言い出した。家内と顔を見合わせて、笑いを堪えていたのだったが、いくらなんでもリュックサックが必要なほど貰えはしないだろうと本人が寝てしまった後夫婦で笑いながら話した。



当日、本人は張り切ってリュックサックを母親から用意して貰い登園したのであったが、その日の夕方、本人に成果を尋ねると、本人は「一個も貰えなかった。」と涙目で応えた。

“ああ、こいつもどうやら、父親と同じ道を辿るんだなあ”と可笑しくて笑いをこらえていたのだが、あとで家内から聴くところによると、幼稚園が終わった後、23のお母さん方からお断りの電話があって、それぞれの女の子が長男向けにチョコレートを用意して登園したのだが、同じ組の男子に目聡く見つけられて横取りされたwとのことで、結局長男の手元に届かなかったとのことであった。どうも、ぼんやりした奴だから、分け前にありつけなかったということらしいw。



更に時代はしばらく下って、ここ最近のことになるが、どうもバレンタインデー事情というものが、昨今は変わってきていて、家内や年頃の女の子を持つ知人によると、最近の女の子はバレンタインデーにはチョコレートを中の良い同性の友達と分け合うらしく、男子に渡すという行為はいつの間にか廃れたらしい。“へー、そんなものかねえ”と不思議な感じもするし、最近の思春期・青年期の男子・女子の事情はエライ淡泊なものになったものだと思う。確かに、20代の男性・女性を対象にしたアンケート調査でもそれまでに一度も異性と交際したことのないヒトが結構な割合でいるらしい(ボクも、かつてはその一人だったのだがw)。“彼氏作るより、女友達といる方が楽しいし~”なんていう子が増えたとも聞く。



確かに、その考え方にも共感する部分もあるのだけど、翻ってみて50代のオッサンが己の若い頃を振り返って、10代・20代前半の頃って、オトコも女の子も夫々に“彼氏や彼女が欲しい”ともうちょっと積極的だったような気がする。なんか女の子もギラギラというか、彼氏を作ることに積極的だったような、恐らくは同世代の周囲からそう急かされているような気配があったような気がする/ むしろ私のようにずっと女の子に縁がなかった奴の方が少数派だったような気がするのだが。



“義理チョコ”なるものもいつの間にか死語になってい、職場の女性が男性同僚に渡すというのも少なくっているという。これは、その方が良いよね。いただく方としてはなるべくご負担はかけたくない。わざわざそのグループの代表のヒトが、どこぞのチョコレート売り場に行って、価格と内容を吟味して購入しておき、214日に合わせてそれを職場まで持って来て、各個人に目立たないように手渡してくれる。代表者の立場に己がなったら、一抜けしたくなるもの。



ただし、わざわざ「来年からもう要らないから、絶対にくれるなよ」と強く断るのも変なような気がするし、ましてや1年に一度のことだから強く拘っているわけでもなし、毎年チョコレートを頂いて、はたと「今日は214日だ」と再認識するのであった。ただ、職場でのコミュニケーションの媒体としてチョコレート菓子を頂くことは素直に感謝しており、ホワイトデーには(ああ、こんな習慣もあったなあ)家内に急き立てられて、お返しのお菓子を用意していたりする。



私の職場の同僚の平均年齢が高く、平均年齢は4050歳くらいであろうか。どうも“義理チョコの風習”も自分を含めた前後20歳のレンジのオジサン・オバサンの間の習慣に収束していくのかもしれない。きっと、そうなんだねw。



それにしても、バレンタインデーにチョコレートを女の子が同性の友達に渡そうが、男の子に渡そうが、おばさんたちがおじさんたちに渡そうが、はたまた、お母さんが家族に渡そうが、結局のところチョコレート菓子屋さんが儲かる訳で、この風習を根付かせた神戸のチョコレート菓子屋さんって、本当に偉いんだなあ。




東京にて束の間の休息;復路編


翌朝、気が付くと午前7;00

コウスケと渋谷駅前で別れたところまでは記憶にあるのだが、その後どうやってホテルの部屋までたどり着いたのか、全く記憶にない。おまけに、サイドボードの上には、ビール一缶とおにぎり1個が置いてある。どこのコンビニに立ち寄って買ったものか。恐ろしや記憶にない。これは絶対嫁には言えず、黙っておこうw

ただ、覚醒後の気分は多少の気怠さが残るものの、気分は晴れやかであった。このまま帰るのが惜しいな、何処通って帰ろうかなどとぐずぐずと思案していると、テレビから「西日本の日本海側で記録的な積雪となっている」とのニュースが流れてきていた。“そうだった。また関ケ原~米原付近の積雪で新幹線が運行遅延を来しているに違いない。夕方までにはかえらねば”と思い立ち、急いでシャワーを浴びて、身支度ならびに簡単に部屋を片付けて、午前830分頃にホテルをチェックアウトした。

午前9時過ぎに東京駅に着いて、午前10時博多行きののぞみの指定席を取ったのだが、またもや通路側のC席となった。家族にお土産と己の昼弁当を購入、アルコール抜きが多少寂しかったが、昨日しこたま飲んだのだから、そこまでして呑まなくても良いかと己を慰める。

そして、いよいよ午前10時に車上のヒトとなり、西に向かったのであったが、途中のお楽しみは、無論「富士山チェック」である。熱海駅を通過した辺りから、席を立ち、デッキの進行方向に向かって右側のドア窓に張り付く。車窓を流れる景色は、その日も快晴であり空気が澄んでいた。綺麗な富士を拝めるのではないかと期待に胸膨らませる(50過ぎのおっさんがw)。



しばらくすると、右前方に富士の稜線が見え始めた。むむ、山頂付近に雲がかかっている様子。これは、ちょっとヤバいかも。前回、一回ずつシャッターを切っていたのが、時速250㎞で走行していると、障害物に頻回に出会い、チャンスを逃していた。今回は同じ轍を踏みたくない。どうするべきか……..

“あ、そうだった。シャッター連続押しのバーストにしてしまえば良いんじゃんw!”それでよく撮れたものだけ保存しておけば良いのだ。こんな簡単な事なんで前回思い浮かばなかったのかねw?

次第に富士に近づいて来てシャッターチャンスが訪れる。“撮れる、撮れる。気持ちよか~w”

50過ぎのオヤジが一人富士を激写して興奮している図というのも、誰かに見られたらものすごく恥ずかしいことなんだけれど、幸いにしてここはデッキ。名古屋駅まではしばらくあるから、売り子の女性くらいしか通らないんだよな。誰もいないデッキでオッサン一人興奮しているのも益々もって変なんだけれど、まあ誰も知らないことだから、ウフフ……

やがて、富士を眺めれるポイントが過ぎ、席に戻って、ゆっくりとバースト写真の中から、良く撮れたものを選ぶ。

題して、“時速250㎞で富士を激写する!”















また、新幹線に乗ったら、「独りデッキの大興奮、富士激写大会」をやっちゃおうw。

富士の写真を、広島までの道のりをチェック、多少の編集を加えながら帰ったのであった。

あ!「陸王」(池井戸潤 作)も行き帰りの新幹線の中で読み終えたのであったが、うん、この度の作品も大変面白かった。だけれども、それを書き始めると書く方も読まされる方もくたびれてしまうので、この度は割愛。


コウスケ殿には、楽しいパラダイスな夜を提供してもらい本当にありがとう。この場をお借りして深く深く感謝申し上げますル。



おしまい


東京にて束の間の休息②


コウスケお勧めの焼き鳥屋で、まずはビールにて乾杯し、前回昨年の10月に広島で呑んだ後のことをちらほらと駄弁り始める。昨年11月に私とイチロウが渡辺貞夫氏のライブに行った模様のことから始まり、コウスケが一昨年12月のナベサダ氏とジャキス・モレレンバウム(チェロ)の共演コンサートを聞き逃してしまったことに言及。私が、「どうも君らは渡辺氏のことを疎かにしてやしないかw?」と軽く突くと、彼氏「いやあ、そんなことはないけれど。でも、ちゃんとナベサダ氏の自叙伝を読んで勉強しないとね」などと笑っている。



コウスケというオトコ、本当に喋り上手・聞き上手で、普段話題のない私の話に飽くことなく相槌を打ってくれたり、テキトーに話題を振ってくれたり、ええオトコだと思う。コウスケが注文してくれた串物や鳥刺しなどが次々と運ばれてきて、呑む方も熱燗に移行し、急ピッチで宴が進んだ。コウスケお勧めのお店だけあって、串物はどれも旨い。勧められるままに初めて食べた鳥刺しも、なかなかの味だった。注文した品をすべて平らげたところで、その店での宴を早々と終了させ、次のお店に移動。



再び渋谷駅に出て、スクランブルを渡り、駅を背にして道玄坂を斜めに横切り、確かもう二つぐらい大きな筋を渡って、路地に入るとそのバーはあった。




BAR BOSSA。このお店は、コウスケのtwitterでしばしば呟かれるところで、その名前のごとくBossa Novaを専門に店内で流しているらしい。雑居ビルの1Fにあって、私が勝手に想像していたものとは違い、かなり落ち着いた佇まいであった。エントランスを右に入ると、右手にカウンター席、左手にテーブル席が4つほどあったか。私たちは右手のカウンター席に案内してもらい、一息つく。





流れてくる音楽は当然ブラジル音楽なのだが、感心したのは全て(かどうかは確認していないが)LP盤のもので、スピーカーから時折レコード・ノイズが漏れてきて、それが妙に心地よかった。 まずは、赤ワインを夫々に注文して、二人の駄弁りを再開する。コウスケやジロウ達のこの店との出会いから始まり、互いに共通した知り合いのことなどを駄弁る。なんの話題からの流れかは失念したが、コウスケから実はジロウが大のアストラッド・ジルベルトのファンなのだということを聴いて、大変驚くとともに大変嬉しかった。



ジロウは、その道ではかなり有名なブラジル音楽通で、かなりの音源を収集している人物である。彼が、最近アストラッド・ジルベルトが56か国の言語で歌ったすべての音源を手に入れたことや、その中で「日本語が一番上手かった」などとツイートしていたのを知っていたのだが、それはあくまでの収集家としての喜びを表現していたものと勝手に理解していた。




実は、私は今でもアストラッド・ジルベルトが一番好きなのだが、それは気恥ずかしくて、仲間内には言ってなかった。所謂Bossa Novaファンと云われる人たちは、「Getz/ Gilberto」に始まり、「Café au go go」を聴いて嵌っていくのだと思われるが、アストラッドはあくまでもファンにとってその入門編に属するようなヒトで、その後興味が広がっていくと、マリア・トレド、シルビア・テレス、ワンダ・サー、レニー・アンドラージ、エリス・レジーナetcなどの歌姫に出会う事になる。その頃になると、入門編のアストラッドの格付けは自然に“過去のヒト”になっていく(のだと、勝手に思う)。既にその道のプロになっているジロウには彼女のことなど、彼の興味の対象になっていないものと思っていた。



“へー、ジロウが今も尚アストラッドが一番好きだなんてねえ”



なんだかとても嬉しくなるようなニュースであった。その日は、会うことが出来なかったが、ふと若い頃のジロウを想い出して懐かしくなってしまった。




その他ボサノバ談義をしていると、店主が気を利かせてくれて、懐かしいLPを次々にかけてくれて、大変幸せな気分になっていた。“ここは極楽じゃ~”と何度も口にすると、コウスケも嬉しそうに笑っている。その後も、酒が進み、夫々にワイン2杯、ウイスキーのソーダ割を3杯ずつ飲んだか。



楽しい時間はあっという間で、気が付いたらそろそろ終電の時間になった様子であった。コウスケ“そろそろ帰りますか?” 私“ここは極楽じゃ、帰りたくねー” コウスケ“良いからもう帰るよ”という事になり、大満足ながらも多少後ろ髪を引かれる想いでその店を辞したのであった。:次回から上京した折には、この店に必ず立ち寄ることに決めたw




(つづく)

2017年2月13日月曜日

東京にて束の間の休息①


先週金曜日から12日の旅程で上京した。私が所属する職域団体の会合を覗き、昨今の情報収集が主目的であった。

いつものことながら、例年開かれるこの会議には、数日前に突然出席せよとのお達しがあるのものだから、何も事前の準備(余暇も含む)も出来ず、この度も前々日に神奈川在住の長男に「晩飯でも食わないか」と誘ったところ、一度は「いいよ」と返事があったものの、前日になって「クラブが忙しい」とのドタキャンを喰らってしまい、会議が終わって一泊する理由を失ってしまっていた。

しかしながら、ここしばらくどこにも出かけてなかったものだから、少しばかりは日常から離れてゆっくりさせて貰おうと思い、そのまま1泊することにした。

さて、東京の一晩をどうしたものか? 当初長男の都合に合わせて渋谷駅界隈のホテルを予約したものの、渋谷には全く縁がなくオリエンテーションが付かない。そうだ、コウスケやジロウが時折呟いていたBarでも覗くか?と思い立って、コウスケにmessengerで連絡を取ると、彼の返信には「一緒に行こう」と気持ちの良いことを書いて寄越してくれた。いつもこちらの突然の連絡にも係わらず、彼は気持ちよく返信してくれて大変有難く思う。

当日午前530分に起床し、午前637分の広島発ののぞみに乗る。窓口の男性が雪の影響のため、米原―名古屋間で速度を落として運行するため約30分遅れの東京着であろうと教えてくれる。残念ながら、左側窓側は取れず、右側窓側の席となる。

“往きは、富士が見られないのか……”すこし残念に思うがこれは仕方ないか。

新幹線の席に座り、暫く読み損ねていた「陸王」(池井戸潤 作)を読み始める。

やがて私の乗ったのぞみが、米原を通過し関ケ原に差し掛かると、車窓から見える景色は銀世界。“流石、関ケ原…..”意味もなく感動する。関ケ原を抜けて濃尾平野を通過すると、快晴で空気が澄んでいた。“明るい土地柄だな…..”またここでも意味もなく感動する。











快晴となった車窓からの景色をしばらく眺めていたが、浜松を過ぎてしばらくすると、右前方に頂に雲がかかっている綺麗な円錐型の山が見えた。“あれ?”“フジヤマか‼?




“上りの新幹線の右側の車窓から富士山が見えるポイントがあるのか!? 人生50年生きてきて今まで知らんかったあw” 慌てて写メをする。ワ~、また新幹線に乗って上京する楽しみが出来たというものだ。

結局、やはり約30分遅れの11時前に東京駅に到着。そこから会議が開かれている大手町のホテルまで地上を徒歩で移動。

この景色。“the 東京!”ってな感じで、地方から出てくると、この景色を眺めると、ぐっと気持ちが盛り上がる。根っからの田舎者なのだけれど、晴れ晴れとした気持ちになる。何度眺めても良い景色である。




午前11時開始の会議には、30分遅れで到着し、末席にてその会議の各議題を聴取する。得るところ大。16時の閉会まで聴いて無事用事は終了。


そこから渋谷のホテルに向かって移動したのだが、途中一か所ほど寄り道をする。赤坂にあるコーヒーチェーン店で、訪ねてみると赤坂サカスの近くにあった。今年の始めから長男がバイトを始めたらしい。当日は、本人は非番であるので“良いタイミング”であった。

昨年末に、このお店でバイトをするのだと奴が言い出した時は、親として心理的な抵抗感があったのであったが、理由を聞けば「クラブの活動資金にしたいのだ」とのこと。週1回午前中の半日とのことであったので、「じゃあ、良いことにする」と認めてしまった。



16;30ごろに、雪が降り始めた路地を赤坂地下鉄駅から数分歩いたところに、そのカフェがあった。想像していたよりは落ち着いた雰囲気の店内で、予め長男が勧めてくれていたドリップコーヒーを頼む。オーダーを受けてから淹れて作ってくれるとの事で、数分ほど待つ。その間に、長男にラインで“職場訪問”したことを告げると、程なく“マジか(笑)”との応答あり。“マジだよ、一度は職場訪問しとかんとな”と再び送ると、“ごゆっくり”との事。

やがて、注文したドリップコーヒーが出来たとブザーが鳴って、カウンターに受け取りに行った。若いヒトや女性が多いが、リラックス出来る落ち着いて店内であった。思い思いにパソコンや本をひろげて寛いでいる様子であった。こんなところで長男がユニホームを着て働いているのかとちょっと想像してみたが、思うようにイメージが湧かない。“まあ、飲み屋でバイトするよりもエエか”と何の根拠もなく思った。長男お勧めのドリップコーヒーは、角のないマイルドな味わいで、なかなか飲みやすかった。

30分程度そのお店で休息を取った後、再び渋谷に向けて移動。1720分頃に、渋谷駅横のホテルにチェックイン。コウスケにmessengerで連絡を取ると、1830分くらいにはホテルのロビーに着けるだろうとのこと。了解と返信し、備え付けのテレビを見始めると、次第に1日の疲れが出てきて、そのまま転寝をしていた。1830分頃に、messengerのアラームが鳴って目覚める。コウスケより到着が少し遅れて19;00頃になりそうだとのこと、また34軒お勧めの食事処を候補に挙げてくれて、「行きたいところを教えてくれろ」とのメッセージが入っていた。“コウスケの挙げるものに間違いなし、どれでも良い”と送った。

19時過ぎに、コウスケがホテルのロビーに現れ、お互いに“やあ、お久しぶり”と挨拶を交わし、食事に向かうが、何せ金曜日の夜なのでどの店も一杯であろうから、ホテルの近場から、当たっていこうということになった。ホテル横の路地を駅より反対側に2030m入ったところに候補に挙がっていたひとつの焼き鳥屋があって、意外にもテーブル席がひとつ開いていた。コウスケ曰く「この界隈では、ボク的には一番美味しいと思う」とのことであったので、迷わずそのお店に決める。




こうして、コウスケとの久しぶりの楽しい邂逅が始まったのであった。



取りあえず、前篇はここまで。