誰かが慌ただしく門前を車輪が空を切るような音がしたとき、マサキの頭の中には、銀色の車輪が空から、ぶら下がっていた。けれども、その銀色の車輪は、その空を切る音が遠のくに従って、すうっと頭から抜け出してきえてしまった。そうして目が覚めた。
枕元を見ると、昨晩眺めた自転車雑誌が床の上に落ちている。昨晩マサキは床の中でこの雑誌が床に落ちるのを確かに聞いた。彼の耳には、それがゴム毬を天井裏から投げつけたように程に響いた。夜が更けて、四方が静かな所為かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはずれに正しく中る血の音を確かめながら眠に就いた……。
などと、敬愛する漱石先生の「それから」の冒頭部分を引用して描き出してみたのだけれど、作中の主人公「代助」ほどではないにせよ、ここしばらくのマサキは、心の底で何やら収まりの悪い落ち着かない感情を持て余していた。
先月開催された鹿児島で行われた高校同窓会と翌日の自転車ツーリングの事を書き上げた後、マサキはしばらく腑抜け状態になってしまい、ぼんやりした気分で過ごしていた。それが、しばらくすると何か大切なことを書いてなかったような何がしか心に引っかかるものがあることに気が付いた。さりとてそれが何であるのかは判然とせず、“後日談”を書いてみたらそれが明確になりそうな気もしていたし、他方では、蛇足なような気もしていた。
先日、マサキは2-3か月ぶりに散髪をしようと何時も通うユニセックスの美容院に出かけた。担当してくれる店長は、マサキと同世代の男性で、作業中にする会話も同世代という事もあって弾むことが多かった。その日もお互いの趣味を出して談笑していたのであるが、その店長が、前後の脈絡に関係なく「マサキさん、高校同窓会とか出ています?」と話題を振った。「ええ、先月ね、参加したところなんだよ」と返事をすると、彼が「そう。私も時々同窓会に出席するんだけど、やっぱりあれは出ていた方が良いよね」など言う。続けて「会が重なるにしたがって出席するメンバーは固定しちゃうんだけどね。なんだかこの頃は、会ごとに誰々が亡くなったという話が出てね。だから会の始めは『黙祷』から始まっちゃうの。辛気臭くて嫌だなと思うんだけど、でもボクらも気が付いたら、物凄く年取っちゃったんだよね。あっという間にね。だから、そういうのって、きちんと確認しておいた方が良いと思って。自分にとってね。」等と言った。彼がいう「そういう」のとは、己の齢を差すのか、同窓生の消息を指すのか明確には分からなかったが、明確化しなくても良さそうで、この場合は両者のことを指していると解しても問題ないのであろう。マサキはそう理解した上で、その店長のいうことに一理あるような気がして肯定的に頷いた。
散髪から帰ると、妻がマサキの頭を何時ものように眺めて、「うん、まだ(た)もっている」と笑った。続けて「髪を切ったら若返ったじゃん。ああ、同窓会から帰ってきてからちょっと若返ったよね。ちょっと元気があるっていうかね。」「だから、私が云った通りだったでしょ、やっぱり同窓会に出席するのって、若さを保つ秘訣なんだよ」と。
マサキが高校同窓会から帰宅した後、妻に同窓会の土産話をすると、彼にとっては意外だったのであるが、妻の反応は普段の会話に比べて良く、マサキの持ち出す話題に喜んで聞いていた。マサキが撮った同窓会の写真を彼女に見せてやると、「へー、このヒト達みんな若いねえ、女性陣も皆さん綺麗だね。」など弾むような声で感想を述べた。そして、さも面白いものを観たと言わんばかりに、「この中に昔の彼女とかいるの?」とカマをかけて来た。
「そんなヒトいるわけないだろ、あの頃は全然モテなかったんだよ。」とマサキは事実を言い、「だけどさ、『高校時代はカッコ良かったね』と言ってくれるヒトもいたよ」と盛って話をすると、妻は、「良かったじゃないの、お世辞でもそういうヒトが居てくれて…」とさも可笑しそうに笑った。そして、先に述べたように「同窓会出席イコール若さを保つ秘訣だよね」とマサキに諭すように結論付けたのであった。
マサキとしては、これまで若さを保とうなどと微塵にも思ったことはなく、あるがままに生きて、それが外観に自然に出ていればそれで良いと常日頃に思っているのだが、この度高校同窓会に出席し旧友たちと再会してみて、確かに彼らから何かしらのエネルギーを貰ったと感じていた。そして、「同窓会なる舞台装置」の効用について考え直さざるを得なかった。
高校同窓会から帰った夜、妻が勝手に結論付けた会話の中で、「ところでコウイチさんは、元気だったか?」の問いがあった。妻が知るマサキの交友範囲で、学生時代からの親しい友人として、彼の名が挙がったのであった。
コウイチはこの度は他の用事で出席出来ず会うことが叶わなかった。後で知るところによると、コウイチは台風の影響で本来の用事がキャンセルとなったのだが、やはり台風の影響でこの度の同窓会出席をキャンセルせざるを得なかった同窓の友人と地元でミニ同窓会を開いたらしい。
マサキは、コウイチとは普段からSNSで連絡を取り合っているので現在も親交が続いてい、コウイチが地元に住む同窓生と会ったエピソードについては、コウイチの日常のエピソードとして話は済んでいた。しかし、こうやって同窓会について振り返ってみると、マサキは、コウイチが会ったであろうミズタ、タカモトなどは学生時代以降は全く会っていないことに気が付いて、普段は強い想いは持たないが、会えるチャンスがあれば会ってみたいものだと思ったのであった。
そんなふうに連想を紡いでいくと、マサキにしてみれば、同窓会という舞台装置の効用とは、わざわざ機会を作って会いたいと思うかつての親しい友人とまではいかないが、それでも同じ時代に同じ場所で一時期を過ごした仲間に然程の労力を使わず邂逅できる装置なのだということを知るところになった。
その邂逅で何を再発見できるかはヒトそれぞれに感じる処なのであろうが、マサキの場合には、かつての仲間への現在も続く緩やかな連帯感であったり、再会を果たせなかった者に対しての否が応でも感じられるその者たちの存在感であった。
同窓会の翌日にタカヒロやイチロウと眺めた海に輝く光の粒に、若かりし頃の仲間たちのエネルギーを思い浮かべ、ある種の愛おしさを感じたのであったが、その光の粒の中には同窓会に出席した仲間だけでなく、欠席し再会できなかった嘗ての仲間の姿も実はあったのだと、マサキはあらためて思うのであった。実は今まで全く気が付かなかったけれど、あの時に集まった仲間(その中にはあまり親しく付き合ったりしなかった者も含めて)から有形無形の影響を受けたからこそ今の自分が存在しているのではないかとも感じられた。
マサキは、今ここまで考えてみて、「結局は蛇足的なことを書いているだけじゃん」と独り苦笑している。
ここまで連想してきても、あの夜半に観た銀色の車輪が果たして何を表象しているのか、それはライフサイクルを象徴しているようにも感じられるし、人生の節目における何かのエネルギーの再点火のようにも思えたりもした。
“うむむ”と流れる雲を眺めながら、漱石先生のように頬杖をして思案するマサキなのであった。
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