本日広島地方は、天気予報では晴れとのことであったが、予報に反して朝から曇り空で蒸し暑く身の置き場に困るほどである。世間では通常参議院選挙の投票日であるのだが、生憎私は職場でのお留守番で投票に行けず仕舞いになった。
多分イチロウは、投票を済ませてどこかへ自転車でトレーニングに出かけることだろう。彼は、石見グランドフォンドミドルコースに参加した後も手を緩めることなく、自転車トレーニングをコンスタントにこなして過ごし、先週末はジロウと道東で行われたサイクリング大会に参加し130㎞強ほど走ってきた。そしてその後も休む間もなくほぼ毎日天気が許す限り自転車トレーニングをして過ごしている。
先日も、彼は仕事の所用で職場から自転車で出かけたものの、出先から職場に帰る途中で、ディスクブレーキが故障し走行不可能となり、約3㎞の道のりを自転車担いで帰ってきた。全くもって“お疲れさま”と言いたくなる状況を、彼は“いやあ参った”と言いつつもどこか楽しそうな様子である。
彼は、年間を通じて5-6大会程度のサイクリング大会に参加することを目論んでいるようであり、次回は9月末に関東で開催されるヒルクライム大会に出場する予定にしている。その大会は、彼自身が当初予想していたよりも遥かに過酷な設定で、素人サイクリストの中でかなりの上級者向けとなっているようである。ジロウからその大会の詳細な情報を聴くにつけ、彼なりに緊張感とモチベーションを高めているようなのである。
「だめだ、だめだ。こんなものじゃあ、設定時間をクリア出来ねえ。」と弱音を吐きつつも、それでも休日になれば120-30㎞の山坂道を走り、普段は昼休みの1時間程度を使って職場近くの山坂道を走っている。また、自転車をこれ以上軽く出来ないとなれば、御自らの体重を減らすとのことで負荷を軽減しようし、この4月からは昼食を摂らずこれまでに軽く5kg以上の減量にも成功していた。
ここのところの彼の自転車に注ぐ情熱そして努力については、はたで見ていてただ感心するばかりである。
さて、そんなイチロウが、ある日昼休みを使って猛暑の中を自転車で山坂道を走っている時に、ふと足を止めて詠んだ俳句を二つの写真を添えて彼のF.B.にupしていた。
文学的素養のない私には、この句の良し悪しを適切に論評することが出来ない。ただ正岡子規以来の近代俳句においては写実的な句、読んだ瞬間にその五七五で表す情景が眼前に広がるような句が大変良いとされていると何かの本で読んだことがあった。
その点において、イチロウの作ったこの句を読むと、彼が山坂道の途中でふと足を止めて見た光景と心情がこちらにも伝わってくるようで、ちょっとした感動を覚えた。その句に対して、数人の方が「いいね」を押されていたのだが、特にコメントもなかったのでちょっと勿体ない気がし、何か私なりの感想を書きたくなった。他の方も閲覧されるところにupされていたので、私の感想を他者に見られる気恥ずかしさもあり、どのように書くべきか暫く逡巡したのだが、ある良いアイデアが浮かび、このアイデアで書けばイチロウも分かって笑ってくれるだろうと期待し以下のようなコメントを投稿したのだった。
<国文学者 李澤京平教授の解説>
え〜と、この俳句は所謂“詠み人知らず”、の句なんでございますねえ。明治中期から後期には一般に広まった句で、どうも“同人誌「ウグイス」でも取り上げられた”と言われているのでございます。
季節は丁度この頃、猛暑の昼下がり蟬しぐれの山坂道をえっちらおっちらと自転車を漕いで青年が登ってきて、峠でその両脚の疲労に耐えかねて、思わず自転車を降りてしまった。「いやあ、己の鍛錬がまだまだ足りんわい」と青年が己の力量に嘆いて、ふと下を向いたところ、何と車輪に押し潰されたヤマモモの実が転がっていたわけなんですねえ。その青年は、子どもの頃から野辺にある植物の実を口にしては、「これ食べられる。」「これまずい。無理。」と学習してきておりましたのでえ〜、その頃にはヤマモモのあの酸っぱい味にも慣れ親しんで大好物になっていたのでございます。青年が、慌てて上を見ますとお、まだまだたわわに実ったヤマモモの木があるじゃあございませんか!
それを見た青年が思わず生唾を飲み込んで、子どもの頃に味わったヤマモモの味を思い出したのでございます。ですから、この場合「ヤマモモ」とは己の童心のメタファーになっていまして、「脚休めよ」とは“一生懸命に物事に打ち込むのも良いが時には休めよ”、と。そして「路しるす」とは、“熱気で焼けた路が潰れたヤマモモの汁を吸う”にかけつつ、一生懸命に何事かに没頭して乾き切った心にヤマモモの実の汁、即ち童心の心をもう一度染み渡らせよ“転じて“童心の時に抱いた夢、そしてその後の生き様をもう一度心に刻めよ”、とこうなる訳でございます。ですから、「一生懸命に生き急ぐなよ。時にふと脚を止めて童心に帰って、己の生き様を振り返ってみなさいよ」とそのようにこの句を読むことが出来る訳でございます。
え〜と、この俳句は所謂“詠み人知らず”、の句なんでございますねえ。明治中期から後期には一般に広まった句で、どうも“同人誌「ウグイス」でも取り上げられた”と言われているのでございます。
季節は丁度この頃、猛暑の昼下がり蟬しぐれの山坂道をえっちらおっちらと自転車を漕いで青年が登ってきて、峠でその両脚の疲労に耐えかねて、思わず自転車を降りてしまった。「いやあ、己の鍛錬がまだまだ足りんわい」と青年が己の力量に嘆いて、ふと下を向いたところ、何と車輪に押し潰されたヤマモモの実が転がっていたわけなんですねえ。その青年は、子どもの頃から野辺にある植物の実を口にしては、「これ食べられる。」「これまずい。無理。」と学習してきておりましたのでえ〜、その頃にはヤマモモのあの酸っぱい味にも慣れ親しんで大好物になっていたのでございます。青年が、慌てて上を見ますとお、まだまだたわわに実ったヤマモモの木があるじゃあございませんか!
それを見た青年が思わず生唾を飲み込んで、子どもの頃に味わったヤマモモの味を思い出したのでございます。ですから、この場合「ヤマモモ」とは己の童心のメタファーになっていまして、「脚休めよ」とは“一生懸命に物事に打ち込むのも良いが時には休めよ”、と。そして「路しるす」とは、“熱気で焼けた路が潰れたヤマモモの汁を吸う”にかけつつ、一生懸命に何事かに没頭して乾き切った心にヤマモモの実の汁、即ち童心の心をもう一度染み渡らせよ“転じて“童心の時に抱いた夢、そしてその後の生き様をもう一度心に刻めよ”、とこうなる訳でございます。ですから、「一生懸命に生き急ぐなよ。時にふと脚を止めて童心に帰って、己の生き様を振り返ってみなさいよ」とそのようにこの句を読むことが出来る訳でございます。
この歌の精神が、行き急ぐかのように明治維新から文明開花・富国強兵と足早に近代化・西洋化していく明治期の日本人のココロに強く響いたようなのでございます。一説には、夏目漱石がこの句から大いに刺激を受けてえ、彼の近代日本に対する思索を深めていったとかいかなかったとか言われているのでありますが、残念ながらそれを裏付ける資料は残っていないのですねえ。
なお、実際のこの青年が、ヤマモモに目が眩んで、思わず口いっぱいにその実を食べてしまった事実は誰も知らないのでございました。
なお、実際のこの青年が、ヤマモモに目が眩んで、思わず口いっぱいにその実を食べてしまった事実は誰も知らないのでございました。
以上でございます。ご清聴ありがとうございました。
この国文学者 李澤京平教授なる人物は実在のヒトではなくて、2014年9月から約1年間に亘り毎週日曜日23時15分~23時45分までフジテレビで放送された「ヨルタモリ」というバラエティー番組の1コーナーで、タモリが演じたキャラクターである。百人一首をパロディーにしてそれらしく李澤教授が解説していてクスクスと笑えた。ご記憶の方もいらっしゃるだろう。そのコーナーを含めイチロウと私の大変お気に入りの番組であった。
私のパロディー解説をイチロウも分かってくれたらしく、彼の評価も「最高じゃねえか」との事でまずまず気に入ってくれたようであった。私はイチロウにそれなりに喜んでもらえたことで更に気分が良くし、この李澤京平教授ネタをもっと書きたくなり、新しいネタを探し始めたのであった。
(つづく)
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