翌朝、私は長男の「オヤジ、もう8時になったよ」という声で目を覚ました。前夜、早起きをして近所の有名なパン屋で買い出しをし、朝食を摂ったら出かけようという予定を長男と話し合っていたのだが、不覚にも寝坊をしてしまった。これまで、彼のアパートに泊まった翌日は、いつまでも起きてこない長男のために朝食の買い出しや簡単な部屋の整理をしてやるのが習慣となっていたのだが、その日はそれをしそびれてしまった。長男が「朝食のパンをとりあえず買ってくるから、その間にシャワーでも浴びとけよ」と言い残して出かけた。
「起きなければな」と上体を起こし座り直して改めて部屋を見回すと、相変わらず雑然とした状態で、奴らしく思わず笑ってしまった。「相変わらず汚い部屋だな」。だけれども、長男の友人は平気でこの部屋に泊まりに来るのだとか。汚いけれどどこか気分が落ち着くところがあり、それは私の学生時代の部屋と似通った雰囲気だと思った。ずぼらなところは血が争えぬw。「ああ、今日の予定を全部キャンセルして、この部屋で長男とゆっくり過ごせれば」と思ったが、せっかく長男が出かけるために準備を始めてくれているため、少しでも有意義に過ごさねばと気を取り直し、私はシャワーを浴びることにした。
シャワーを浴びて居間に戻ると、長男がテーブルの上に買ってきたパンと淹れたコーヒーを用意して待っていた。「オヤジは、朝は甘いパンとコーヒーでよかったよな」「うん、それで充分だ、ありがとう」。
長男と私は、午前中の行動予定を多少練り直し、午後からはそれぞれの予定で動くことを確認。とりあえず新宿まで出てブラブラと見物し、正午過ぎに分かれることになった。
午前10時前に長男のアパートを出て、最寄りの私鉄駅まで数分歩く。駅までの道は商店街となっていて、パン屋、肉屋、魚屋、花屋、乾物店などが並ぶ道路でそこを数百メートル歩く。その商店街から駅の傍にある古刹の境内までは、落ち着いた雰囲気があり私自身気に入っている風景だった。どこか私が住む街に似通った雰囲気があり、長男も随分気に入っている様子だった。「オレ、できたらここから離れたくないんだよな」。その気持ちは、とても理解できた。私はその話を聞くたびに「じゃあ、お前、頑張らないとね」と判で押したように返すのであった。改めて思い返すと、長男がこの街に移り住んでちょうど5年経ったことになる。月日が経つのは早いもので、彼がこの街の暮らしに馴染んでいることを親として喜ばしく思うが、地方者が伝手の少ない都会の片隅で暮らし続けることも大変なことだろう。本人の頑張り次第というところだろうか。
私鉄に乗って、新宿3丁目の駅に到着したのは午前10:30頃だった。私は、この駅に降り立つのは初めてだった。新宿そのものには何度か来たことがあったが、JR新宿駅とこの駅の位置関係がさっぱりと分からない。地図アプリで確認したいところであったが、長男が先に歩きスタスタと行ってしまうものだから、その余裕もなかった。駅の改札を通りそのまま地下道を歩いていると、彼が「ここから伊勢丹に直接入ることができるからね」と言い終わらないうちに、伊勢丹の地下入り口に到達。
前日に、私が「なんかさ、ぱりっとした服買ってやるよ。普段はリモートワークが多いからそれほど必要ないのだろうけれど、それでもいざという時のために一着ぐらい持っておけよ」と伝えると、長男は「オレは別に要らないから。オヤジが見たいのだったら付き合うから一緒に行こう」と曖昧な応答をしていた。じゃあ、まあ伊勢丹新宿店のメンズ館を冷やかしてみるかということになったのである。
伊勢丹新宿店内では、外国訪日客や所謂「leonオヤジ」の恰好をした先輩(恐らく70代)たちが多数いた。私が東京を「日本語の通じる外国」と捉えるようになって久しいが、田舎者のオヤジとしては正しく異文化を眺めているような気分だった。長男に「好きなものがあったら買ってやるぞ」と声をかけたが、長男は私が知らないブランドの服を次々に手に取って眺めながらも「別にオレは要らないぞ」とにべもなく断った。長男は精神的ばかりでなく経済的にも父親に頼らなくてよくなっている様子だった。
私は、その日午後から業務上の用事を済ませるために駒込に向かう必要があり、伊勢丹新宿店を離れた後、残りのわずかな長男との時間をカフェで過ごした。そこでも長男が先に立ちオーダーから席の確保までしてくれたのであった。特別な会話はなかったが、このままもう少しゆっくりと長男との時間を楽しみたいとも思った。しかし、この辺りの按配は難しいもので、長ければ良いというものでもなく、案外短い交流時間の方がお互いに親子関係を安定させるのに良いものかもしれないとも思えた。
私は、まるで笠智衆になった気分で、ジジイとしての自分を確認したような心持ちだった。そういう気分になったせいか、一人で新宿3丁目界隈からJR新宿駅に向かう自信がなくなり(次の目的地に到達しなければならない時間に余裕がなくなったこともあり)長男に駅まで案内してくれないかと頼んだ。「おれもその方が都合が良いから」との理由で、長男も快諾、新宿の雑踏の中を並んで歩き、JR新宿駅の入り口で「じゃあ」とお互いに言い合い、あっさりと別れた。
その後、私はJR山手線に乗り駒込駅で下車し、地図アプリを使って無事に目的地に到着した。5時間の研修を無事に終え、すっかり暮れてしまった街の中をJR駒込駅まで徒歩で戻り再び山手線を使って東京駅にたどり着いた。電車の中ではやはり外国人訪日客が多く、その中には若い親子連れが私の目に留まり微笑ましく感じられた。その頃には私は本来というか普段通りの心持ちに戻っていて、帰ってからの業務上の課題についてあれこれと思い浮かべていたのではあったが。
東京駅に到着後、いつものパターンで八重洲地下街を徘徊し、職場に渡すちょっとした土産物や新幹線車中で食べるお弁当・少々のアルコール類を物色し、19:39発ののぞみ87号に乗車。指定席に座ると、買ったお弁当を広げたところで、ホッとした気分となり、此度の長男とのやり取りを振り返った。
昨夜、長男がさりげなく「来年結婚する」と言った。私はさらりと応じたが、きちんと彼の考えを詳しく聞くべきだったかもしれない。つい「親しい人だけを招いてパーティー形式の披露宴にすればいいのではないか」と言ってしまったが、「親しい人」の中には誰が含まれるのか?彼が幼いころからとても可愛がっていた義理の両親(彼の祖父母)をちゃんと含めるだろうか?など、あれこれと考え始めてしまった。
そして、あることに気づいた時、私はちょっとした胸のざわつきを覚えた。「来年結婚するということは、こうやって上京した折に親子水入らずで楽しめる機会も、あと1-2回程度ではないか……。」
光陰矢の如し! 私たち家族としてのゴールデン・エイジもあっという間に過ぎ去ろうとしている。
私は、再び笠智衆のような気分になって、「かあさん、わし帰るけんのう」と心の中で呟くのであった。
おしまい