2025年5月6日火曜日

GWの真っ只中にしまなみ海道に遊ぶ

 長男が、連休を利用し帰省。彼のリクエストはしまなみ海道に行ってみたいとのことだった。GWの真っ只中にしまなみ海道へ行くなんざ、わざわざ渋滞に巻き込まれに行くようなものなのにと内心ウンザリしたが、その経験も宜かろうと何も言わずに付き合うこととした。

広島県側から一度今治側まで往き、どこかの島に降りて、尾道で休息し、帰路とする行程。


来島海峡




生口島瀬戸田町にあるお食事処「ちどり」さん

名物「たこ天卵とじ丼」

これなかなか旨しw



瀬戸田町のサンセットビーチ。
瀬戸田町は、自転車天国の観光地化に成功の様子。
外国人のバイカーが、たくさんやって来ていた。

自転車客が沢山いるためクルマのドライバーにとっては細心の注意が必要で景色に見惚れている場合ではない。




尾道に立ち寄り夕方の商店街をぶらりと散策。休息するために、甘味処「ととや」さんに立ち寄る。普段はあまり甘いものは食さないが、連れどもに付き合って私は白玉クリーム餡蜜を所望す。フロア係の男性が申し訳なさそうに、先に注文した長男の「いちじく白玉かき氷」で「白玉を切らしてしまいました」と応じる。私が一瞬混乱して白玉なしの餡蜜で良いよとすると、「それはメニューにないもので」と。機転を効かせた長男が「じゃあオレのかき氷の白玉を譲るわ。白玉なしのいちじくカキ氷でお願いします。」と話を繋ぎ無事オーダーを完了。
運ばれて来た白玉クリーム餡蜜の白玉6つのうち、3つを長男にシェアしめでたくそれぞれの品が完成。
この餡蜜は品の良い甘みで良かった。連れどもがそれぞれに注文したかき氷も評判がよく「また来たいね」との感想あり。私たちのやりとりを見ていた男性店員が、にこにこしながら「次回は是非これらもお楽しみください」と白玉入りの甘味を示した。なかなか平和な時間を過ごせた。「ありがとう。また来ますね」と言い残しその店を辞す。
駐車場まで海岸辺りをゆっくりと歩く。向島と尾道側を行き来する小型フェリーが接岸している。尾道らしい光景なのだが、ニュースによるとひとつの航路は廃止されたとか。長男が「オヤジは海のそばで生まれ育って、今も海を観ながら生活してるだろ?飽きないか?」と笑いながら尋ねた。「ちっとも。全く飽きないねw。」と応じる。

“逆に海の見えない都会に住んで楽しいかい?”と聞き返しかけたが、不粋な質問に思え止めておいた。


護岸壁の一箇所にこんなスナップショットが埋め込まれていた。うむむ、やるな尾道。観光地化の手を緩めずw何度となく観た「東京物語」。私と息子どもの平凡な家族物語のプロットと重ね合わせてみたけれど、まあ言葉にするほどのこともないかw。終わり。


2025年2月2日日曜日

ちょっとドライブしちょっと美術館に立ち寄るの事

1月19日(日)に、私は休みが取れて気分転換を図ることにした。事前に家内に県内の道の駅を複数個所立ち寄りながらのドライブを提案したが、彼女はインフルエンザの流行を理由に私の提案を却下した。これ、いつものパターンです(笑)。

私は一計を案じ、妻の出無精を尊重する体を取りながら、「独りでドライブしてくるよ」と伝えておいた。同日の朝になって、彼女から「大竹市内にあるドーナツ屋さんが珍しいドーナツを売っているからそこに行きたい。ついでに同市内に新しくオープンした美術館のフレンチレストランでランチしたい。」との要望があった。私としては、この度のドライブ目的地について特にこだわりはなく、ただドライブを楽しみたいだけだったので、大きく譲歩した体を示し彼女の提案に乗った。(この辺り、我が夫婦の駆け引きについては読み流してください(笑))


今回の目的地のひとつになった美術館は、大竹市内の臨海埋め立て地に2023年3月にオープンした瀬美術館である。丸井産業株式会社の代表取締役の下瀬ゆみ子氏が先代から受け継いだコレクションを保存・公開する目的で設立されたのだとか。美術館の施設そのものは坂茂氏によるもので、2024年12月にベルサイユ賞・最優秀賞に選ばれたとの報道があった。


同日、美術館に訪れたのは午前11時40分頃であり、周囲は公園が整備されていて、デイキャンプができそうな緑地や、野球コートとして2面取れそうな広いグラウンドがあり、子ども連れの家族も多数見えてなかなかのんびりとした良い空間だった。

美術館のエントランス面は、緩やかな曲線のガラス張りで陽光を受けて美しい。ロビーに入ると、反対の海側も直線のガラス張りで宮島と瀬戸内が眺望できた。海側に設置された可動式だと言われる展示ブースはキューブ型であり、外側から見ると面白い。 ガラス張りの本館に、キューブ型の展示ブース、海と宮島と本土側の低い山の曲線と直線で造形された建物の対比は確かに印象的だった。

受付で入館チケットを購入し、展示室に進んだ。展示ブース内ではマイセン陶磁器の特別展示が行われていたが、ごめんなさい、私自身あまりマイセンに興味がなく知識も全くないのでゆっくりとスルーした。展示ブースを一通り見終わると、美術館の庭園に進んだ。

冬なので花も少なく緑も深くなかったが、ここは春から夏にかけてさぞや美しい眺めになるだろうとの期待を感じさせる庭園だった。本館に戻り常設展に進みました。「顔」がテーマであり、彫刻と国内外の絵画が展示されてい、それなりに面白かった。


美術館本館の海側にフレンチレストランがあり興味をそそられたが、残念ながら休日は予約制なのだそう。改めて予約して来店してみてもよいかな。私の自宅から車で30~40分程度の距離で、ちょっと日常生活から離れることができる場所・施設として捉えるならば誠にありがたいところと思われた。以上が瀬美術館の感想である。
この美術館を巡りながら、もっと大きく私の心を捉えたことがあって、それは以下のことだった。 広島県内には、瀬美術館を始め県内各所に小さい美術館が点在していて(数を数えたことがないので正確な数をここに示せなくて済みません)、それぞれの個性を発揮しながら展示活動を行っている。私自身は、まだまだ実際に訪れたことのない美術館が沢山あるが、恐らくそれぞれに個人なり団体が、日本の経済がまだまだ元気だった頃に収集し保存してきたものを今日に伝え整理し一般に公開しているのだろう。

大きい美術館を訪れて有名作家の作品や大作の常設コレクションを鑑賞するのも楽しいし、有名西洋画家の絵画をレンタルした特別展に駆け付けるのも大変有意義だけれども、今回の私のようにふらりと訪れてしばらくの間非日常的な建物やその空間、そして常設されている美術品を眺めながら、何かを感じてリフレッシュして帰られる美術館があること、それらの美術館の存在意義について考える機会になった。我が国にも、気が付けば、そんな文化的な土壌や落ち着き(こう表現するには早計かもしれないけれど)が育っているのかもしれない。だけれども、そのことを想う時に喜ばしい感覚だけではない何かを想わざるを得なかった。それは、何となくではあるが、我が国の有り様/ 政治・経済だけではなく社会的気分までが円熟期から退行期に向かう時代の流れのリフレクションとして照らされた現象のようにも感じられ、ある種の黄昏を眺めるような感覚だったかもしれない。

そんな雑駁な感傷めいた印象を家内に語ったところで、彼女をシラケさせるだけなので、あくまでもおっさんがひとり心に留めただけのこと。家内の希望に沿った晩御飯の具材の買い足しをしながら帰宅したのだった。 


2025年1月8日水曜日

人生における最も喜ばしい事のひとつ

 

この絵は、私がとても愛している風景をある作家さんに依頼して描いてもらったものである。私のような市井に暮らす名も無き者が、自分の愛している風景を描いてくれと作家に注文し、その絵を実際に手にすることができるなんてことは、人生の中でそうそうあるものではない。それはとても幸せなことだと思う。


作家は、Nick KANE氏。広島在住の英国出身のアーティストである。その経歴や作品の一部については、ネット上で簡単に検索できるので、興味のある方はぜひ検索してみて欲しい。私の友人と親交があり、数年前にこの方の水彩画を2点ほど購入させてもらった。それぞれにイタリアの春の風景を描いた小品だったが、私は大変気に入っており、購入以来ずっと自宅に飾っている。

この度、職場のアイコンになるような絵画が欲しくなり、友人を通じて同氏に制作を依頼したところ、快く引き受けてくださった。この風景は私が幼少のころから慣れ親しんだもので、所謂「心の風景」と呼ぶべきものである。発注してから1年6か月の時を経て実際に手にすることができたが、KANE氏のメモランダムによると、その制作過程は習作を重ねて同氏のイマジネーションを幾度も練り直し形にされたものである。そのアーティストの情熱・エネルギーを知ると、畏敬の念を抱かざるを得なかった。

当初私は、仕上がった絵に対して私自身の原風景に重ねる心象との違いを感じ、多少の違和感を覚えたが、私の眼で見た実際の「原風景」に対しても既に私自身の心象が投影されているのであり、当然別の人物がその風景に投影させる心象はその人固有のものであるはずである。そのことに気が付いて改めてこの絵をひとつの作品として見直すと、作者のこの絵に込めたイマジネーションや意図が見る側に静かに伝わって来るような気がした。

私は、この絵全体が持つ静寂さと明るさ・生命力に深い感動を覚えると同時に、この絵によって、私自身がこの原風景に投影している心象に新たな意味や価値を加えて貰ったような気がした。同氏がこの絵に添えてくださったメモランダムについては、ここでは触れないでおく。見る側のイマジネーションの広がりを削ぐことになるのからであるが、そのメモランダムはこの絵を手にした者の密やかな宝物でもあるからである。

これからずっと、私と私の同僚、そして来訪者がふとした時にこの絵を眺めながら僅かな時間であるにせよ、ある内的な時間を持つことになるだろうと想像すると、それもまた大変幸せなことだと思えるのである。

2025年1月2日木曜日

年末年始alacarte in 2024~2025

1.2024年最後の留守番独り晩飯 

12月27日に、2024年最後の一人晩飯を作った。年の瀬ということもあり、私好みの蕎麦を作って年越し蕎麦とした。若い頃に母親が大晦日の晩に忙しい正月準備の合間を縫って作ってくれたかけ蕎麦が近年大変懐かしくなり、師走の一人晩飯の際には必ず作るようになっている。


写真のように、豚肉を使った肉蕎麦で、竹輪とモヤシ、そして刻み葱がトッピングされている。かけ汁は和風だしにコンソメを追加し、全体的に南蛮風蕎麦仕立て。この度は、乾燥ポルチーニが大量に余っているので、その戻し汁も出汁に追加してみた。決して私の家族を含めて他の方に強くお勧めするような美味しい蕎麦とは言えない。しかし、私にとっては大変懐かしい味であり、これを食べずに年を越すのはどこか物足りなく感じる。齢を取ると共に私の味覚が退化しているのは重々承知しているが、味覚の退化と共に子供返りしているのではないかと感じてしまうのが、我ながら可笑しい。あ、言い忘れたが、この蕎麦、とても美味しかったですぞ(笑)。 

2.密命 

12月29日より冬休みをもらい、家内の実家に帰省した。冬休み直前に、アニキからちょっとした密命を下された。彼曰く、岡山の銘菓のひとつに「調布」という和菓子があり、それはあの「大手饅頭」よりも歴史が古いのだとか。それまで岡山の銘菓といえば「大手饅頭」が歴史的に一番古いと勝手に思い込んでいた。あの内田百閒先生がその随筆に「岡山の知人が上京するという知らせを寄越せば、大手饅頭を所望する」と書かれているぐらいなのだから、てっきりそう思い込んでいた。岡山といえば、絶対に大手饅頭なのだとアニキに反論したものの、この「調布」は江戸末期からあったらしく、製造元の店の名は「翁軒」と言うらしい。岡山に帰省する前にネットで調べてみると、翁軒さんは既に閉店しており、今では廣榮堂さんが製造販売を続けているようだった。家内に言わせると「きび団子に薄いどら焼き生地が巻いてあるだけよ。」とのことで、地元民から見るとあまりお勧めではない様子。それでも私はこれまでその存在すら知らなかったので、話題提供のつもりでこれを機会に買い求めるのも良いかと思った。 


同日、岡山の家内の実家に到着後、その日の晩飯の食材を買い求めるために、天満屋まで出かけた。嫁子がそれぞれの買い物に夢中になっている際に、天満屋の前の表町商店街を歩き、翁軒の店舗があった場所を求めてしばらく歩いてみた。確かに天満屋から表町商店街を南に数百メートル歩いたところにその店舗はあり、そして閉店していることを残念な気持ちを抱きつつ確認した。そして天満屋に戻り、地下で廣榮堂制作販売の「調布」をゲットしたのだった。その後妻の実家に戻り実食。確かにきび団子と同じ求肥に小麦粉で焼かれた薄いパンケーキ状の皮が巻かれてあった。求肥が餡替わりとなっているのをどう捉えたものか。ちょっと評価に悩むところ。この駄文を読まれ興味が湧かれた方は一度お試しあれ。


3.日生の牡蠣を喰らうのこと 

12月29日の晩御飯の際に、私が酔い気分で「明日は日生の五味の市(地元漁協の海鮮市場)に殻付き牡蠣を買い出しに行こう」と提案したところ、意外にも長男が大いに乗り気となった。翌30日には、長男にしては珍しく午前8時には起床し身支度を始めたので、それならばということで、8時30分に私と長男そして義父と3人で実家を出発した。

日生は私にとっては思い出深いところで、学生の時分に地元の小魚が食べたくなるとアニキ(私の友人)と日生までドライブし港近くの炉端焼き店で(アルコール抜きで)シャコ、渡り蟹、小エビ、イイダコ、ベイカなどを注文し鱈腹食べたものだった。あれは旨かったなあ。その数年後にその炉端焼き店は店じまいしてしまい、その後10年程度岡山で暮らしたが、気軽に地元の小魚を食べさせてくれる店に出会えなかった。前日の晩に日生まで牡蠣の買い出しを提案したのは、その裏であわよくば地元の小魚などが手に入らないかと期待してのことだった。



午前9時30分頃に、目的地である日生・五味の市に到着。開店は午前9時だったが、既に敷地内は大勢の来客で大賑わい。市の建物の道路を挟んだ向かい側にバーベキュー広場があり、そこには既に多くの人たちが海産物のバーベキュー・特に殻付き焼き牡蠣を楽しんでいた。朝早くから大勢のヒトが、焼き牡蠣を食べている様は圧巻だった。私たちの目的は殻付き牡蠣の購入であったため、それを横目で眺めながら、五味の市の建物に向かった。場内に入ると、既にそこも来客で大賑わいで、私も少しでも良いものを得たいと素早く移動しながら売られているものを物色していると、大ハマグリ、ナマコ、生きたハマチ、車エビなどが売られている。どれにしようかと考えながら場内を歩き回っていると、長男はいつの間にか長蛇の列の中にいる。二つのコーナーで殻付き牡蠣を販売していたのだが、そのコーナーには既に多くのヒトが並んでおり、長男が気を利かせてひとつの列の中に入ったらしい。殻付き牡蠣は大きな樽の中にあり、客の注文に応じてザルに移して量り売りしているらしかった。1㎏1000円の価格が付いていたが、私にはそれが高いか安いかはわからない。そしてその分量の中には殻の重さが含まれているのだから、どのくらい購入すると良いものなのか皆目見当が付かなかった。他の料理も食卓に並ぶのだろうから、せいぜい一人当たり2-3個食べれば十分だろうと思ったが、長男が俄然やる気を見せて「オレは10個食べるからな」と宣言していた。このオトコ、独り暮らしでひもじい生活をしているのか、相当飢えているらしい(笑)。「思うだけ買えば良い」と言い残し、私は私でその他の海産物を見て廻った。結局のところ、ハマグリは地元産ではないし、ハマチは既に購入済み、車エビとナマコを候補に家内にLINEでお伺いを立てたが、残念なことに車エビは却下され、結局ナマコ2個入り2000円だけを購入することになった。


振り返ると長男は未だに列の中におり、再び彼の元へ戻り共に順番を待った。私たちの前のおじ様が13㎏+3㎏を購入するのを見た時には、最後の樽の中に入った牡蠣の半分以上を持って行くことになり大いに焦った。ただ視線を移しよく見ると隣のコーナーでも、おばちゃんが牡蠣の販売準備を始めている。私たちの後ろに並んだ人たちは大いに安心したことだろう。それにしても、この市場にはこの後も続々と殻付き牡蠣が運び込まれることになるのだろう。年末の販売側の熱意と客側の購入意欲で場内は活気に満ち、ひと時ではあったが、年の瀬らしい気分を味わうことが出来たのは誠に良かった。結局私たちは3㎏分の牡蠣を購入し満足して引き上げたのだった。

私の勝手な印象なのだが、日生産の牡蠣は広島産のものに比べると内臓部分が少なく臭みが少ない。カキフライにするとこの臭みのなさが物足りなさを感じさせる気ががしなくも無いが、他の調理方法では、その身は肉厚で食べやすい印象を持っている。こちらの方が牡蠣を苦手とする人でも食べやすいのではないだろうか。特に、スーパーに出回っている今シーズンの広島産牡蠣は実成が悪く小粒なものが多く、これまで2-3回食卓に上がったが満足するものはまだ口にできていなかった。

それにしても、この市場では地元産の小魚は売られていなかった。季節が冬であったこともあろうし、観光客相手の市場なので瀬戸内の小魚を求める客もいないのかもしれない。そして我々日本人の食生活が変わり小魚の需要そのものが無くなりつつあるのかもしれない。

近年、瀬戸内海が綺麗になり、海水中の有機物が減ったことや開発の為に藻場が減り生息する魚種も魚量も減り、従って瀬戸内の漁獲高も減っているとの事。私が求めているような小魚や甲殻類もめっきりと獲れなくなっているかもしれないと思うと寂しい。

さて、その日の夕餉に、予定通り殻付き牡蠣が食卓に上がった。殻付きをそのままレンジでチンしてレモン汁をかけて食べるというシンプルな調理ではあったが、これが誠に美味であった。長男は宣言通り10個以上を平らげ、私は3個食べれば十分であった。片や食欲旺盛の男、片や年末になり早くも胃酸過多で食が進まなくなっている男。

うーむ、食欲イコール体力差をまざまざと見せつけられた年末であった。

おわり


2024年12月28日土曜日

年末のalacarte in 2024 「ちょっとした歓び」

 ヒトに携わることを中心に置いた仕事をしていると、課題やトラブルはつきもので、今年はその課題やトラブルが発生しては解決に奔走し、ひとつの課題やトラブルを乗り越えると次の問題に直面することを繰り返してきたように感じている。最初のうちは、その度にやれやれとため息をつくこともあったが、この頃では人と付き合うこと、即ち世間とはそんなものだとどこか吹っ切れたような、割り切った心持ちでいる。

そんなことをこのブログで綴るつもりはないのだが、その代わりにここに詮もなきことを駄文にしておくと、気分転換になっているのは間違いない。

12月に入り、いつもの師走のように、この年末もバタバタと過ごしてきたが、今年最後の駄文をアラカルト的に記しておこうと思い、書き始めている。

1. ちょっとした歓び

昨年の終わりに、胡蝶蘭をいただく機会があった。3株の寄せ植えで、それぞれの株に立派な花が咲いたが、それまで胡蝶蘭に全く興味がなく、管理方法についての知識もゼロだったこともあり、花が終わった後に生き残った株は1株だけだった。本来の私であれば、残った株もそのまま放置してしまうところなのだが、幸運なことに残った一株の花が終わらないうちに、その花茎から新たな花茎が生えてきたので、なんとかその株を育てたいと思うようになり、胡蝶蘭の育て方をYouTubeで検索し、あれこれと模索し始めたのが今年の春先のことだった。

胡蝶蘭を育てるなんて、昭和世代の気分が強いオヤジ(私のこと)から見ると(これは私自身の偏見なのだが)、リッチな有閑マダムが温室で胡蝶蘭を世話して楽しんでいるイメージが長年あり、どことなく抵抗感があった。しかし、YouTubeで愛好家や栽培者が投稿した動画を見ているとなかなか奥深く楽しそうだた。中には、私から見るとマジックを見せられているような動画もあったが、最終的には初心者向けの素焼きの鉢に乾燥水苔を敷き詰めた成育方法を採用した。よく花屋で売られている立派な胡蝶蘭は、実はプラスチックポットに植えられており、そのまま水を与え続けると根腐れを起こしてしまうこと、胡蝶蘭の原生は熱帯地方であり、その植生は大樹に寄生(と呼ぶのかは不明だが)しており、日光と温暖さは好むが、栄養と水はそれほど与えなくて良いことをこのたび初めて知った。

育て始めるとついつい手をかけてしまいがちとなり、結果的に必要以上の水と栄養を与えてしまい、もらったうちの二株がそのために根腐れを起こしてしまったことを知った。ある動画の中で、投稿者が「胡蝶蘭の生育には、手をかけ過ぎず胡蝶蘭と会話しながら育てるのが良い」と、私のような初心者には格言となるようなコメントをされていた。目下この格言を肝に銘じながら、胡蝶蘭を眺めて楽しんでいる。

さて、生き残った株は、季節が進み暖かくなるにつれてその花茎が順調に生育し、やがて4つ程度の花を付けて開花した。店先に並んだ立派に花を生え揃わせることはできませんでしたが、それでもその佇まいは野生の植生を思わせる風合いもあり、しばらくの間私を楽しませ、時に慰めてもくれた。その花たちも終わりに近づいてくると、なんだか寂しくもあり、もっと胡蝶蘭の株を集めて楽しみたくなった。YouTubeに投稿している愛好家の中には、花屋から花の終わった胡蝶蘭の株を分けてもらう、あるいは安価に買い求めている人もいると知り、私もその手を使ってみようかと思った。

実際に、そのつもりで買い物の折などに花屋を覗いてみると、花が終わりかけた蘭が、その店の端に人目を引かず静かに置かれてあった。しかも手ごろな値段(1000円以下のものが多かった)で。そのような蘭を見ていると、「そうか、アンタ、オレのうち来る?」と心の中で呟いてしまうのだが、はたから見ると、おっさんがにやにやしながら盛りの過ぎた蘭を眺めて思案しているのは、気持ち悪く映っただろう。結局、これまでにそのような蘭を5株買って、それぞれに購入するとタイミングを見ては素焼きの鉢に植え替えをしていきました。植え替えのコツもあるのですが、細かいことなのでここでは割愛する。


そして、これまで合計6株の鉢を毎日眺めてはその生育状況を楽しんできた。夏場は室温が35℃を越えそうであれば、冷房の効いた部屋に移動させ、また直射日光がきつい様であれば、窓際からずらし、水はたっぷりとやりながらもその間隔は1週間程度開けて、湿潤と乾燥状態にメリハリをつけるように心がけた。

しばらくすると、それぞれの株から根(air root)が着実に生え始めて順調に生育しているようであり私を安心させたのだが、その後この秋はなかなか花茎が生えず私を心配させ、もう1年は待たないといけないのだろうと諦めていた。

それが私にとっては意外にも、12月上旬に、まずは二株から、そしてもう二株に花茎が生え始めていることを確認できた。6株中4株でついに花茎が伸び始めたのだ。




「バラが咲いた」というフォークソングではないが、この密やかなる喜びは言葉に尽くしがたい。例え、家族や知人にこの喜びを伝えたところで、分かってもらえないだろう。まるで、この1年の私の苦労や頑張りを静かに慰めてくれるような「ちょっとした喜び」となった。このまま、この冬を乗り越えて、来春に開花するまでそれぞれの株の生育状況を確かめながら、その生育過程を楽しみたいと思う。

2024年12月14日土曜日

バカ親父の武蔵国物語~大いにシュリンクするの事・その2~

 翌朝、私は長男の「オヤジ、もう8時になったよ」という声で目を覚ました。前夜、早起きをして近所の有名なパン屋で買い出しをし、朝食を摂ったら出かけようという予定を長男と話し合っていたのだが、不覚にも寝坊をしてしまった。これまで、彼のアパートに泊まった翌日は、いつまでも起きてこない長男のために朝食の買い出しや簡単な部屋の整理をしてやるのが習慣となっていたのだが、その日はそれをしそびれてしまった。長男が「朝食のパンをとりあえず買ってくるから、その間にシャワーでも浴びとけよ」と言い残して出かけた。

「起きなければな」と上体を起こし座り直して改めて部屋を見回すと、相変わらず雑然とした状態で、奴らしく思わず笑ってしまった。「相変わらず汚い部屋だな」。だけれども、長男の友人は平気でこの部屋に泊まりに来るのだとか。汚いけれどどこか気分が落ち着くところがあり、それは私の学生時代の部屋と似通った雰囲気だと思った。ずぼらなところは血が争えぬw。「ああ、今日の予定を全部キャンセルして、この部屋で長男とゆっくり過ごせれば」と思ったが、せっかく長男が出かけるために準備を始めてくれているため、少しでも有意義に過ごさねばと気を取り直し、私はシャワーを浴びることにした。

シャワーを浴びて居間に戻ると、長男がテーブルの上に買ってきたパンと淹れたコーヒーを用意して待っていた。「オヤジは、朝は甘いパンとコーヒーでよかったよな」「うん、それで充分だ、ありがとう」。

長男と私は、午前中の行動予定を多少練り直し、午後からはそれぞれの予定で動くことを確認。とりあえず新宿まで出てブラブラと見物し、正午過ぎに分かれることになった。

午前10時前に長男のアパートを出て、最寄りの私鉄駅まで数分歩く。駅までの道は商店街となっていて、パン屋、肉屋、魚屋、花屋、乾物店などが並ぶ道路でそこを数百メートル歩く。その商店街から駅の傍にある古刹の境内までは、落ち着いた雰囲気があり私自身気に入っている風景だった。どこか私が住む街に似通った雰囲気があり、長男も随分気に入っている様子だった。「オレ、できたらここから離れたくないんだよな」。その気持ちは、とても理解できた。私はその話を聞くたびに「じゃあ、お前、頑張らないとね」と判で押したように返すのであった。改めて思い返すと、長男がこの街に移り住んでちょうど5年経ったことになる。月日が経つのは早いもので、彼がこの街の暮らしに馴染んでいることを親として喜ばしく思うが、地方者が伝手の少ない都会の片隅で暮らし続けることも大変なことだろう。本人の頑張り次第というところだろうか。

私鉄に乗って、新宿3丁目の駅に到着したのは午前10:30頃だった。私は、この駅に降り立つのは初めてだった。新宿そのものには何度か来たことがあったが、JR新宿駅とこの駅の位置関係がさっぱりと分からない。地図アプリで確認したいところであったが、長男が先に歩きスタスタと行ってしまうものだから、その余裕もなかった。駅の改札を通りそのまま地下道を歩いていると、彼が「ここから伊勢丹に直接入ることができるからね」と言い終わらないうちに、伊勢丹の地下入り口に到達。

前日に、私が「なんかさ、ぱりっとした服買ってやるよ。普段はリモートワークが多いからそれほど必要ないのだろうけれど、それでもいざという時のために一着ぐらい持っておけよ」と伝えると、長男は「オレは別に要らないから。オヤジが見たいのだったら付き合うから一緒に行こう」と曖昧な応答をしていた。じゃあ、まあ伊勢丹新宿店のメンズ館を冷やかしてみるかということになったのである。

伊勢丹新宿店内では、外国訪日客や所謂「leonオヤジ」の恰好をした先輩(恐らく70代)たちが多数いた。私が東京を「日本語の通じる外国」と捉えるようになって久しいが、田舎者のオヤジとしては正しく異文化を眺めているような気分だった。長男に「好きなものがあったら買ってやるぞ」と声をかけたが、長男は私が知らないブランドの服を次々に手に取って眺めながらも「別にオレは要らないぞ」とにべもなく断った。長男は精神的ばかりでなく経済的にも父親に頼らなくてよくなっている様子だった。

私は、その日午後から業務上の用事を済ませるために駒込に向かう必要があり、伊勢丹新宿店を離れた後、残りのわずかな長男との時間をカフェで過ごした。そこでも長男が先に立ちオーダーから席の確保までしてくれたのであった。特別な会話はなかったが、このままもう少しゆっくりと長男との時間を楽しみたいとも思った。しかし、この辺りの按配は難しいもので、長ければ良いというものでもなく、案外短い交流時間の方がお互いに親子関係を安定させるのに良いものかもしれないとも思えた。

私は、まるで笠智衆になった気分で、ジジイとしての自分を確認したような心持ちだった。そういう気分になったせいか、一人で新宿3丁目界隈からJR新宿駅に向かう自信がなくなり(次の目的地に到達しなければならない時間に余裕がなくなったこともあり)長男に駅まで案内してくれないかと頼んだ。「おれもその方が都合が良いから」との理由で、長男も快諾、新宿の雑踏の中を並んで歩き、JR新宿駅の入り口で「じゃあ」とお互いに言い合い、あっさりと別れた。

その後、私はJR山手線に乗り駒込駅で下車し、地図アプリを使って無事に目的地に到着した。5時間の研修を無事に終え、すっかり暮れてしまった街の中をJR駒込駅まで徒歩で戻り再び山手線を使って東京駅にたどり着いた。電車の中ではやはり外国人訪日客が多く、その中には若い親子連れが私の目に留まり微笑ましく感じられた。その頃には私は本来というか普段通りの心持ちに戻っていて、帰ってからの業務上の課題についてあれこれと思い浮かべていたのではあったが。

東京駅に到着後、いつものパターンで八重洲地下街を徘徊し、職場に渡すちょっとした土産物や新幹線車中で食べるお弁当・少々のアルコール類を物色し、19:39発ののぞみ87号に乗車。指定席に座ると、買ったお弁当を広げたところで、ホッとした気分となり、此度の長男とのやり取りを振り返った。

昨夜、長男がさりげなく「来年結婚する」と言った。私はさらりと応じたが、きちんと彼の考えを詳しく聞くべきだったかもしれない。つい「親しい人だけを招いてパーティー形式の披露宴にすればいいのではないか」と言ってしまったが、「親しい人」の中には誰が含まれるのか?彼が幼いころからとても可愛がっていた義理の両親(彼の祖父母)をちゃんと含めるだろうか?など、あれこれと考え始めてしまった。

そして、あることに気づいた時、私はちょっとした胸のざわつきを覚えた。「来年結婚するということは、こうやって上京した折に親子水入らずで楽しめる機会も、あと1-2回程度ではないか……。」

光陰矢の如し! 私たち家族としてのゴールデン・エイジもあっという間に過ぎ去ろうとしている。

私は、再び笠智衆のような気分になって、「かあさん、わし帰るけんのう」と心の中で呟くのであった。

おしまい

2024年12月11日水曜日

バカ親父の武蔵国物語~大いにシュリンクするの事~

業務上の急用が生じ、上京したのは12月7日土曜日の夜のことだった。東京オリンピックとその後のインバウンド需要により、都内のホテルの宿泊代は軒並み高騰しており、都内に宿泊する際には、都内在住の長男のアパートに泊まらせてもらうことになっていた。長男は、大学卒業後に都内に本社のある企業に就職し、5年目となっていた。知り合いの親御さんの話では、その子どもたちは親を自分のアパートに泊めることを嫌がる者も多い様子であるが、うちの長男の場合は不思議と親が彼の部屋に泊まることを嫌がる風でもなかった。事前に連絡すると、長男は「どこか旨いものを食べさせる店を予約しておくよ」と快諾。当日の午後7時に最寄りの駅前で待ち合わせることになった。

待ち合わせの時刻にその駅の正面口に出ると、長男が右手を上げて「やあ、お疲れ」と合図を寄越した。私も「済まんな、せっかくの休みの日にお邪魔して」と応じると、「いやあ、全然大丈夫」と答えた。予約した店に向かうべく、雑踏の中を向かってくる人を避けながら彼の向かう方向について行く。

「今から行くところは、フレンチレストランでね、前に○○さん(彼の伯父、即ち私の長兄)に連れて行ってもらってね。結構うまかったから、親父も連れて行こうかと思ってね」と問わず語りで喋っていた。私の長男と長兄は、同じ駅周辺に住んでおり、1年程度前から主に長兄から連絡を入れて、時折食事を共にするようになっていた。私が長男であれば、伯父と食事など疎ましく思えるはずだが、彼はそれを面倒に感じている風でもなかった。長男曰く「だって、旨いものご馳走してもらえるし、〇〇さん切り上げるのも早いし、助かるわ~」とのことだった。そんな駄弁りをしながら駅周辺の盛り場を抜けてある雑居ビルにある目的のレストランに到着。先に長男が入り、店の者に来店の旨を伝え、用意された二人掛けのテーブルに着席。全部で10数席分のテーブルが置かれ、シェフひとり、フロア係一人で店を回しているこじんまりとしたお店であった。


長男が私に「どうする」と言いながら、ワインリストを寄越したので、迷わずグラスでサーブされるシャンパンを注文。その後、早速長男の近況について話を促した。長男曰く、仕事のペースはまずまず、今年度の業務上のノルマは達成の見込みが立ったとのこと、ほんの少しだけ給料が上がったことだった。


  そんな話をし始めていると、その日のコースメニューが運ばれ始めた。コース料理が運ばれる度に私たちの会話は中断を挟みながら、やがて彼の大学時代の同級生の結婚が相次いでいたことに繋がりその一つ一つがその同級生の個性が反映されていて大変興味深かったことなどが語られた。私が、つい(というか、自然な流れで)長男は今交際している彼女とはどうなっているんだ?いつ結婚するんだ?などと話を向けると、彼曰く「月一程度で会っている。先方が資格試験の準備と普段の仕事で忙しい。来年結婚するから」とさらりと言ってのけた。私もさらりと「そっか。ふーん。」と応じると、すかさず長男が「最大の関門は、おふくろさんなんだよな」と笑っている。
父親にとって全くもって不思議なのであるが、この長男にせよ、次男にせよ、それぞれに現在交際している女性の噂話を母親にしている様子なのである。長男の場合、彼がもたらした情報の結果、母親(妻)が彼らの結婚について多少の不安を抱いており、それを長男本人に伝えていた。それ故の、先の長男の発言なのであるが、私なぞは最終的に本人の決めることなのであり、本人の性分からして二親に何を言われようが自分の決めたことは曲げないことは明らかだった。だからこそ、私は賛成も反対もしない、決めたらちゃんと挨拶に来いよの姿勢を取っている。無論、家内もそのことはよく承知しており、長男に熟考を促しているだけであり、本人が決めるのであればそれ以上いうことはないと私には語っていた。

その後、長男は結婚式どうしたらいいだろうね?などと世間話風に聴いてきたが、形式ばったものが嫌なのであれば、ここのようなレストランを貸し切って、親しい人だけを招待したパーティ形式も良いのではないの?とこれまた世間話風に返したのであった。彼の結婚話は、そんな風に世間話風にさらりと流れていったのだった。


その後は、彼が同僚と来年ヨーロッパに旅行に行く計画を立てているという話題になった。イギリスにプレミア・リーグを観に行くとのこと。今のうちに独身時代を楽しんでおけと伝えておいた。

用意された料理は、シーフード料理が多くどのお皿の具材も新鮮であり大変美味しく、グラスで頼んだワインが進んだ。適度な酔いと美味しい料理で腹が満たされ穏やかな気分となった。正面に向かい合わせた長男の様子を見ていると、すっかり社会人となり、仕事もそこそここなしているようであり、また余暇もあちこち出かけるなどしているようで、自律的に青年時代を楽しんでいる様子だった。そこには父親が口を出す余地など全くなかった。


コース料理は、デザートが運ばれて終了。長男に「良いレストランを予約してくれてありがとな。オヤジ大満足だ。また、おふくろさんや弟を連れて来てやってくれ」と伝え、シェフとフロア係にもお礼を述べて、その店を後にした。店を離れ、長男と並んでアパートに向かったが、長男が道すがら「あのレストラン旨かったけれど、ちょっと物足りなかったな。まだもうちょっと食べたかったんだよな」と話した時には、多少驚いたが、若い野郎の独り暮らしでは碌なものを食べていないことは想像でき、付き合ってやろうと思った。「オヤジは、もう食べられないけれど呑むことは出来る。付き合うぞw」

アパートまでの途中に私が彼のところに泊めてもらう折にはしばしば利用する居酒屋があり、そこに寄ることにした。その店でも長男が先に入り店の者と掛け合い、席を確保した。彼は、湯葉と、刺身の盛り合わせと下仁田ネギの炉端焼き、そしてビールを注文。私はそれらを少しツマミにさせてもらって、2合ほどの熱燗を注文した。


私はそこそこに酔いが回り始め何を話したのかあまり記憶に残っていないのであったが、次第に当夜の彼の店での振る舞い、そして言葉や態度に滲む私への気遣いにある種の戸惑い、気遣う者と気遣われる者の立場の逆転をしみじみと感じざるを得なかったのである。それは己の老いへの自覚とその気後れともいうべきものだったかもしれない。

つづく