夏の印象
ある夏の日――大学1年の学期末試験が終わった翌日、ボクは運転免許の学科試験を受けるために、前日に引き続き徹夜で勉強をして、朝早くからひとりバスに乗り、街外れの運転免許センターに向かった。
恐らく、生まれて初めての社会手続きであり、初めて乗るバスで時間内に見知らぬ場所へ向かうことに、一夜漬けによる疲労も重なって、相当な緊張感を抱えていたことを覚えている。
少しでも緊張感を和らげ、気分を軽くしようとして、窓外の景色を眺めながら、その頃ハマっていたSteely Danの『Aja』をウォークマンで流していた。
バスは街の中心街から次第に郊外へ向かい、窓外の景色は、初めて見る海辺の風景に変わっていった。
時間内に免許センターに辿り着かないと、これからの計画がすべて水の泡になってしまう。この日、首尾よく運転免許を交付してもらえなければ、翌日、同郷の寮仲間とレンタカーを借りてドライブで帰省するという、今思うと少々無謀な計画が灰燼に帰すことになるのだった。
ボクは、この計画の一発勝負に挑んでいたのであり、やるせなくなるような内的な緊張感を覚えながらも、耳から聴こえてくるSteely Danの、どこか泥臭くも洗練された大人の男の世界観に気持ちを強くしながら、目的地へ向かったのであった。
幸いなことに、事前に調べたとおり、バスは受付時間内に目的地へ辿り着き、係員に誘導されるままに列に並び、手続きを済ませた。
待合で待っていると、ひとりの背の高い女の子が不安そうに佇んでいた。
「ああ、この子も運転免許試験を初めて受けるんだな。ということは、ボクと同じ年頃か……。やっぱり初めてのことで相当緊張してるんだ。ボクと同じじゃないか」
そして、しばらく周囲を見渡すと、受験者の誰もが不安そうに緊張した様子を示していた。
そんな様子を見ていると、ボクは「やるしかない」と腹を括ることができた。
運転免許の学科試験をなんとか終えたのは、午後1時過ぎだったろうか。
手応えはなんとも言えず、疲労困憊の状態で、合格発表があるまでの2時間程度を免許センター内で待たなければならなかった。
やることもないので、売店でコーヒー牛乳と菓子パンを買って、センターの道路向こうの海辺沿いの堤防に腰掛け、ぼんやりと海を眺めた。
あの時、何を考えていたんだろう?
免許試験の合否を気にしていたのか、その晩のメシをどうしようか、などと考えていたのか。今となっては全く記憶していないのだが、少なくとも、合否発表までの時間が長く、手持ち無沙汰だったことは間違いない。
待ちきれなくなり、合否発表の30分前にはセンター内の発表場所に戻った。
そこにはすでにたくさんの受験者が集まっており、どの顔も浮かぬ様子で、当てもなくその辺りをぶらぶらしていた。
ふと後ろを見ると、今朝待合で見かけた背の高い女の子が立っていた。
「ああ、あの子も不安なんだなぁ」
頭の中で、その子に声をかける自分の姿を想像しかけていたのだけど、よく見ると、その女の子のそばに中年の女性が寄り添っているのが見えた。
その女性は微笑んではいたが、どこか気恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
その2人の様子を見た時、ボクなりに状況を察し、その女の子に興醒めしたというか、一種の苛立ちにも似た感情を覚えた。
声をかけてみるというボクの淡くあまい期待は、青い夏空に消えたかのようだった。
ボクは、合格発表ボードに自分の受験番号を確認すると、誘導されるままに運転免許の交付を受け、再びバスに乗って大学寮に帰ったのだった。
ボクが大学寮にたどり着いた頃、太陽は西に傾きつつあったが、地面から上がってくる熱気と、辺りで競うかのように鳴り止まぬ蝉の声は、真夏のエネルギーがそこらじゅうに満たされたままのようであった。
寮内に入ると、多くの寮生はすでに帰省の途についたようであり、閑散とした様子で静まり返っていた。
「ああ、なんだか夏に乗り遅れてしまったなあ」
ボクは、西日の刺す居室に入ると、ホッとため息をついて、荷物をベッドに放り投げた。
そして、Tシャツ短パンに着替え、今度はLPレコードで『Aja』をかけ、クタクタになった身体をベッドに預けた。
「さて、これからどうしようか?」
「晩飯は寮メシはもう止まっているからな。誰がここに残ってるかな? 街に飯でも食いに出るか……」
などと当てもなく思案していたが、
「そうだ……」
と、まずは明日からの帰省の支度をしなければ、とゆるゆると起き上がったのだった。
まずは、屋上に干した衣類を取り込まないとな……。
ボクは、ぼんやりとトボトボと屋上に向かう階段を登っていったのであった。
ボクが屋上にある洗濯室を通って、外に設けられた物干場に向かおうとした時、突然、大音量でその当時流行っていたユーロビートが流れてきた。
一体誰だ!?
そう思って洗濯室を出ると、右手前方の手摺りに身体をもたせかけ、屋上から遠望できる街を眺めているヤツがいた。
ボクは、その男が誰であるか分かると、たぶん笑顔満面で、
「いやあw! まだいたの? そこで何してるの?」
と声をかけた。
ヤツはこちらへ振り向き、ふてぶてしいのだけど少年のような笑みを浮かべ、
「マサキじゃないか? おまえこそ何してんだ」
と、タバコを咥えたまま器用に答えた。
ヤツとは、同級生のMだった。
彼はウェイブのかかった茶髪にサングラスをかけ、上半身は裸の短パン姿であった。細身の身体は色白であったが、露出した肌は陽射しを浴びて、やや赤みを帯びて輝いていた。
彼の足元には、サンオイルのボトルと大型のラジカセが置いてあった。
咥えていたタバコを吸い終わると、薄いタバコケースからもう一本取り出し、親指の上でタバコの吸い口をトントンと叩く。それを口端で咥えると、短パンの後ろポケットからジッポのライターを取り出し、ややしかめ面をしながらタバコを燻らせた。
ふー。
ボクはさらにニコニコした表情で待ち、Mの質問に答えた。
「おお、そりゃ良かったじゃないか……w」
「ようやった」
と、大人が子どもを褒めるような態度や物言いで、Mは応じた。
「で、Mはここで何してるのさ?」
というボクの問いに対して、彼はちょっと不良ぶった笑みを浮かべた。
「ほら、マサキもオレがウィンドサーフィン始めたの知ってるだろう? マサキ! もう夏だぞw。サーフィンやってるのに、こんなにヒョロついた身体になまっちろかったらカッコ悪いし、第一オンナにモテんだろうw? だから、さっきから焼いてるんだよ!」
ボクは内心、彼の肌質であれば、彼が望むような小麦色の肌にはなれないだろうなと思い、真っ赤になったMを想像すると可笑しさを覚えた。
だが、ボクが何かを抑えているのを察した彼は、ちょっとキッとした表情を作り、
「マサキ、オマエ何が可笑しいんだ?」
と聞いてきた。
ボクは堪えきれなくなって、でも遠慮気味にウフフと吹き出してしまった。
彼はぷいとまた手摺りの方を向き、タバコを燻らせながら、辺りの景色を眺め始めた。
Mとはいつもこんな感じで付き合っていた。
Mの性格は、根っこは真面目なところがあるのに、その行動は大胆不敵に映り、当時の流行り言葉である「ツッパリ」風の態度を好んだ。
ボクとはあまり行動をともにしなかったが、時々ボクの居室にふらりとやってきては、ボクと音楽の話やコミックの話をした。
そして、彼の言動におかしみを感じてボクが微笑むと、彼は瞬間湯沸かし器のように立腹したように、
「何笑ってんだ! 帰るわ!」
と言って去っていく。
そんな交流を繰り返していた。
その時もいつもの調子で、彼とボクは話していたのだった。
太陽はさらに傾き、西陽はボクとMの身体に容赦なく突き刺さり、話しているうちにその暑さに耐えられなくなっていた。
「じゃあ!」
とボクが踵を返し、洗濯室に再び入ろうとした直後だった。
Mは刹那に、
「あはは!」
と嬌声をあげ、ホースを持ち、散水栓を全開に開いて、辺りに猛烈な勢いで水を撒き散らし始めた。
「マサキももう少しここにいろよw! ほら〜天然サウナだぞ〜w!」
「ああ、M、今晩一緒に飯食わないか〜?」
と問いかけるも、彼はまだキャッキャと笑いながら、
「この俺様を放っておくオンナはいないだろw! デートだよ、先輩のセリカを借りたんだ! 海までドライブw。そのあとは雰囲気次第w。すまんw」
と、水蒸気の立ち上る様子に満足そうな笑みを浮かべていた。
ボクは、
「確か、寮則では、寮生のクルマの運転は禁忌なんだけどなあ」
と、翌日の自分の計画はどこか棚に上げて、Mの予定を揶揄したくなったのだが、
「Mだもんなw」
と愉快な気分になり、居室に戻ったのであった。
その夜、翌日にドライブを共にする予定のTと打ち合わせをし終えると、ボクは居室に戻り、ビールを呑みながら夕方の続きで『Aja』を聴き直していた。
消灯直前にMが突然入ってきた。
ボクが「あれ?」という顔をしていると、彼は問わず語りに、
「ナンパに失敗して、あてが外れたので、門限前に寮に帰ってきた」
と苦笑いを浮かべていた。
ボクも「そうなんだ」と笑顔で応じ、次の日からTとドライブしながら、途中までMも乗って帰らないかと誘うと、彼は意外にも渡りに船と言わんばかりに、
「その話に乗った」
と応じた。
結局、翌日レンタカーを借り、3人で交代しながら国道を岡山から広島まで4時間かけて帰ることになるのだが、普通であれば、ここから『スタンド・バイ・ミー』的な珍道中が始まりそうなのだが、実際はそうならなかったw。
最初にTが運転し、次にボクの番が回ってきたのであるが、自動車学校以来4ヶ月の間クルマに触れたことのなかったボクは、クラッチの接続にドタバタしてエンストを起こすわ、坂道発進を失敗するわ、キープレフトしすぎて、路肩をヨタヨタ歩いているばあさんに接触しそうになったり。
後部座席にどっかり座っていたMの、
「おい! マサキ!」
との怒声が飛び出し、そのうち我慢ができなくなったMが、
「お前、クビだ! オレに運転変われ!」
とのことで。
ボクのドライブデビューは、ものの30分で終了。
ボクはしょんぼりと後部座席に退場させられたのであったw。
その後、このドライブはTとMにより無難に進行し、ボクらは広島駅で解散し、それぞれの家路についた。
ボクにとってMとの濃密な交流――それは寮の屋上での僅か10数分程度のものであったはずだが、夏の強い陽射しに焼きつけられたように、ボクの心の中にこの記憶の断片がいつまでも貼りついている。
毎年、梅雨前線が北上し、太平洋高気圧が辺りに充満したその日、強い陽射しを浴びて路上から立ち上る埃混じりのすえた匂いを孕んだ空気を吸い、辺りで一斉に鳴き始めた蝉の声を聴いていると、ふと脳裏にあの夏の日の屋上のシーンが蘇るのだった。
そして、ボクは、その夕方は決まって『Aja』をかけながらクルマを運転し、帰路につくのだった。
おわり
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