2026年8月22日土曜日

題:「心晴れやかお守り」・還暦オヤジの夏 7.

7.岡山へ



後のことはIと病棟スタッフにお願いし、午後2時過ぎに病院を出た。多少後ろ髪を引かれる思いはあったものの、気持ちを切り替えて次へ進むことにする。

午後4時過ぎの新幹線に乗り、一路岡山へ。車内は乗客でほぼ満席だったが、幸運にも座席を確保できた。無事に定刻通り発車した新幹線のシートに、深く身をゆだねる。

「マサキちゃん、60歳は意外と乗り越え難いよ」 そう言っていたのは、一回り歳上の従兄だった。彼は60歳手前で大動脈解離に見舞われ、続いて脳動脈瘤が見つかり、術後合併症の髄膜炎も重なって、健康を取り戻すまでに1年近くを要した。

幸い自分の場合は大きな病気こそないものの、還暦を迎えた頃から公私ともに大小のトラブルに見舞われ、少々疲労が溜まってきている。まとまった休みが必要だと……いや、切実にそれを望んでいた。

私を乗せた新幹線は定刻通りの午後5時頃、岡山駅に到着した。駅前には妻と次男が車で出迎えに来てくれていた。私が助手席に乗り込むや否や、次男が堰を切ったように語りかけてきた。

「あのさ、今日さっそく半休をもらって現場検証に行ってきたんだ。車の傷も写メしておいたよ。警察から『示談にしたらいい』って言われて相手の電話番号をもらったから、すぐに電話したんだ。そしたら相手も『買ったばかりの車だったから頭に血が上って警察に届けちゃって……ごめんね』って言ってくれてさ。素直に謝って、修理代の請求書を送ってもらうように伝えたよ。ディーラーに見てもらう手配も頼んだ。上司にも報告したら『災難だったね。よくあることだよ』って笑って理解してくれたし、もう解決に向かっているから安心して!」

ふむ、了解。ご苦労さん。

大きくため息をつき、助手席と後部座席で交わされる妻と次男の雑談に適当に相槌を打ちながら、妻の実家へと向かった。

岡山市街地を抜けると、周囲には青々とした水田が広がる。田んぼには夏の午後の強い陽射しを浴びて、稲が風に揺れていた。若い頃から眺めてきたこの景色は、どこか優しく心地よい。それでも、その水田地帯を侵食するように住宅地や郊外型の店舗が立ち並び、景色を少しずつ変えていた。もう30年近く経つんだな、としみじみと思う。

妻の実家に到着すると、義父と義弟が出迎えてくれた。義弟とは数年ぶりの再会だ。 「マサキちゃん、スゲ〜歳とったな(笑)。そんなに痩せちゃって、姉貴に苦労させられてるんじゃないの?」と笑っている。 「いやいや、そっちこそ歳取ったじゃん(笑)」

義弟は相変わらずテンションが高く、「不景気だ」と愚痴りつつも近況を陽気に語ってくれた。若い頃はやんちゃだったらしいが、その面影を残しつつも、一家の大黒柱として実家の慶弔事にもしっかり気を配り、頼もしく人生を歩んでいるようだ。

すでに義母の誕生日会の準備は整っており、席に促されると義弟の音頭で賑やかに乾杯となった。宴を取り仕切る義弟は、私に何度もビールを注いでくれる。

真向かいに座った義父が笑顔で、「ばあさんは相変わらず厳しくてなぁ。マサキちゃん、なんとかならんかね」「歳を取って益々性格がキツくなったよ」と最近の苦労話をこぼす。 「なんとかならんよ」と思いながらも口には出せず、苦笑いしながら聞き流すしかなかった。

結婚したばかりの頃、お盆や年末年始には妻方の親族が集まって賑やかな宴会が開かれたものだ。当時、一回り年上の男性が二人いて、顔を合わせれば「マサキちゃん」と輪に入れてくれ、一緒にお酒を酌み交わした。30年という歳月が流れ、残念ながらそのお二人も今はもういない。

ふいに義弟が言った。 「マサキちゃん、これからは定期的に集まろうよ。俺たちもいい歳になったんだからさ、会う習慣作ろうよ」

確かにその通りだ。いい歳になった。あのお二人(男衆)がかつて私たちを温かく迎えてくれたように、今度は義弟と私が若い世代を見守っていく番なのだろう。そういう年齢になったのだ。

「うん、いいね。そうしようや」

その後も義弟のハイテンションな仕切りのもと、義母の誕生日会は終始和やかに終了した。義弟家族が帰り、静けさが戻ったところで、「オレ、明日朝吉備津神社に行ってくるよ」と妻に告げた。

普段なら理由を根掘り葉掘り聞き出してくる妻だが、今回は「うん、わかった。行っておいで」と笑顔で送り出してくれた。

よし、行ってくるぞ!オレ。





題:「心晴れやかお守り」・還暦オヤジの夏 6.

6.Iの提案





オレはIの勧めに従い、バスで出勤することにした。普段なら満員の路線バスも、今日は乗客が少なく無事に座席を確保できた。交通量が少ないためスムーズに進むものの、バスは安全速度を守りながらゆっくりと目的地へ向かう。

車窓からの景色は一見いつも通りだったが、歩く人も走る自転車も普段より圧倒的に少ない。

(世間は盆休みなんだよな。何やってんだろ、オレ……)

ぼんやりと外を眺めているうちに、街の微妙な変化に気づいた。 「あれ? あのレストランがなくなって更地になってる」「ここにあったガソリンスタンドも消えた?」「いつの間にこんな店が?」

20数年間、ほとんど同じルートを行き来してきたのに全く気づいていなかった。毎日決まった時刻に出勤し、職場と家を往復するだけの日常。その裏で、街の景色は時間とともに静かに移り変わっていたのだ。

(ふーむ、そうなんだよな……)

普段の倍の時間をかけて揺られながら、少しずつ思考を仕事モードへ切り替えていく。

病院の受付を通ると、職員から「I先生がお待ちです。何か相談があるとのことですよ」と声をかけられた。 むむ、患者さんに何かあったか?

嫌な予感を打ち消しながら医局に入ると、Iはのんびりとした様子で椅子に腰掛けていた。 「よう、おはよう。大変だったな」と笑いながら迎えてくれる。 「心配かけてすまん」と応じ、昨夜からのアクシデントを手短に話すと、Iはニッコリと頷いた。

「オレ、さっきから作戦を考えてたんだよ。今日は病院の軽自動車を借りて帰れ。その車に冬用タイヤとジャッキ、十字スパナを積んでおく。連休明けの朝5時30分にお前の家に行ってタイヤ交換をしてやれば、あとは自分の都合で修理工場へ持ち込めるだろ?」

いつものように論理的で完璧な解決策だった。

(むむ……その手があったか!)

昔から彼は論理的に解を導き出すのが得意だ。一方の私は知よりも情が勝り、目の前の感情や状況に囚われがちになる。自分のトラブルを頼るのは申し訳なかったが、今の状況でこれ以上の名案はなく、提案をありがたく受け入れることにした。

その後、病棟で心配だった2人の患者さんの容態を確認した。幸い小康状態を保っており、追加指示を出してご家族へ説明を行った。

医局に戻ってIへ申し送りを終えると、ようやく胸のつかえが下り、安堵感が広がっていった。

Iは穏やかな笑みを浮かべ、 「あとはオレに任せときゃええから、しっかり休んできんさい。しかし最近のお前、いろいろ重なるなぁ(笑)。ちょっとお祓いでもしてきたら? 困った時の神頼みだな」 と、普段の彼らしからぬ口調でからかってきた。

冗談と分かってはいるものの……岡山にあるあの神社へお参りするのは良いかもしれない。神頼みではなく、神の前で自分自身に誓うのだ。「何があってもこの還暦イヤーを乗り越えてみせる」と。

そうだ、人生の節目節目でお参りしてきた吉備津神社に行こう。

どうする、オレ。行くでしょ、オレ!



題:「心晴れやかお守り」・還暦オヤジの夏 5.

 

5.一筋の光明



翌朝6時に目が覚めた。ぼんやりと朝空を眺めながら、昨夜決めた行動計画を頭の中で反復する。

まずは8時ちょうどにガソリンスタンドへ電話をかけ、タイヤ交換が可能か、そして自分の車に合う在庫があるかを確認すること。

頭が冴えてくるにつれ、昨夜からの重苦しい気分が再びもたげてきた。

しばらくしてダイニングに降りてきた妻が、私の顔を覗き込んで「大丈夫?」と声をかけてきた。「ああ」と力なく返事をし、自分なりの予定を話し始めたとき、携帯の着信音が鳴った。

「おはよう。メール見たぜ」 同僚のIからの電話だった。 「で、お前はどういう計画なんだ?」「その計画だと何時頃に終わる見込みだ?」「病院に出てくるっていうが、それは何時になるんだ?」 口調こそ柔らかいが、いつものように的確な質問を投げてくる。ざっくりとした見通ししか返せず、口ごもる自分が情けなかった。

最後にIが言った。 「じゃあ、ディーラーやカー用品店の予約が確実に取れる連休明けじゃないと解決しないな。それなら、とりあえずバスでもタクシーでもいいから、いつも通り病院に来て用事を済ませて休みに入れよ」

ああ、そうだ……。もう割り切るしかない。

本来なら今日からの盆休みを利用し、妻の実家へ里帰りする予定だった。昨日の仕事の件で「長男夫婦を先に行かせ、自分は後から向かう」と予定を組み直したものの、自分が立てた計画では何時に着けるのか見当もつかない状態だったのだ。

本当なら何もかも放り投げてタイヤパンクの解決に全精力を注ぎたかったが、還暦オヤジは様々なものを抱えている。そう簡単にはいかないのだ。トホトホ。

だが、Iの言葉でようやく腹がくくれた。優先事項は決まった。昨日の急変患者の容態確認とIへの申し送り。それが終わったら、妻の実家がある岡山へ新幹線で向かう。

傍らでやり取りを聞いていた妻が、頷きつつも不安げな表情で尋ねてきた。 「本当に来られそう?容態の悪い患者さんがいたら、いつものように泊まり込むんじゃないの? でも今回は来てね。母の80歳の誕生祝い、うちの家族と弟家族で一緒にする約束なんだから」

参ったな、鋭い。夫の行動パターンや弱点を完璧に把握している。目の前に患者がいればそちらへ集中してしまう夫の習性に、しっかりと釘を刺してきた。 もし病院に着いて、昨日の患者さんが危篤状態になっていたら、自分は病院を離れることができるのだろうか?

その時、オレはどうする——?

題:「心晴れやかお守り」・還暦オヤジの夏 4.

4.さらに混迷は深まる



何も決められないまま、「どうしよう、オレ」と呟いてはみたものの、まだやっておくべきことが残っていた。時間はすでに日付を跨ぎ、頭もろくに働いていないが、明朝からの段取りだけはつけておかなければならない。

お盆連休でも営業していそうなカー用品店か、タイヤ交換に対応してくれそうなガソリンスタンドを決めておく。搬入先さえ決まれば、先ほどのロードサービスを呼んでそこまで搬送してもらう。……よし、この手順で行こう。

大手のカー用品チェーン店の営業時間を調べると、午前10時開店とある。少し遅いが背に腹は代えられない。腹を括ってWebサイトを見ていると、「タイヤ交換のネット予約が可能」との表記を発見した。「おお、これは助かる!」と画面を進めると、すぐに「ネット予約には会員登録が必要です」と表示される。「まあ、そりゃそうか」と四苦八苦しながら会員登録を済ませたのだが、その直後に突きつけられたのは非情なシステムだった。

「前日までの予約が可能なのはゴールド会員のみです」

……は? オレのような登録したての「ブロンズ会員」は、当日の予約しか取れない仕様だったのだ。

わざわざ会員登録に費やした、あの四苦八苦の数十分を返してくれ! この時のオレは、本気で壊れかけていたと思う。行き場のない怒りと虚しさを飲み込むのがやっとだった。

結局、明日営業予定の近所のガソリンスタンドに、朝イチの8時に電話をかけてタイヤ交換が可能か直接確認するのが一番確実だ、という結論に至った。

次に、職場のメールを使って、明日から日直・当直を担当する同僚であり学生時代からの親友でもあるIへ、朝7時指定の予約メールを作成した。

  • 前日に急変した患者さんの病状確認のため、半日ほど出勤するつもりでいること。

  • ただし、自身の車のタイヤトラブルとその対応のため、正確な出勤時間が現時点では読めないこと。

  • 急変患者さんの件で判断に迷うことがあれば、遠慮なく電話してくれて構わないこと。

よし、ここまで段取りを整えて、ようやくオレの長い一日が終わった。もうこれ以上、脳ミソが働かない。疲れ切った体を重々しく動かし、やっとの思いでシャワーを浴びた。

“オレって本当にドジだなあ……。だからこそ、ずっと慎重に生きてきたつもりなんだけどな” “でも、人生にはどうしても抗えない事態ってのがあるんだよな” “ホンマに運が悪いヤツだわ、オレ” “そう言えば若い頃も、自分は運が悪い人間だって思い込んでたっけ……。実際は運が良いか悪いかsetErrorなんて、捉え方次第なんだけどね”

“解決策は明日見つける。今日はもう寝よう”

温かいシャワーを頭から浴びながら、ぶつぶつと独り言を呟く。 しかし現実には、何ひとつ問題の解決策は見つかっていないのだった。

大丈夫なのか、オレ……?

題:「心晴れやかお守り」・還暦オヤジの夏 3.

3.夜更けになっても解決の糸口は見いだせない



オレは気持ちの整理もつかないまま、冷めきった夕食を口に運んでいた。今日一日の怒涛の疲れが押し寄せ、思考がどんどん鈍っていくのがわかる。目の前で楽しげに会話を交わす長男と妻の声も、全く頭に入ってこなかった。

タイヤのパンクはどうしたものか……。もう今夜はこのくらいにしておいて、明日、いや連休明けまで棚上げにしてしまおうか。一度頭を空っぽにすれば、フレッシュな思考で良い解決策が思い浮かぶかもしれない。

よし、もう風呂に入って寝てしまおう。そう思い始めた頃、ポケットの携帯電話が鳴った。画面を見ると、保険代理店のおっさんからの着信だ。

「もしもし? あ、先生? どうされました? すみませんねえ、ちょっと町内会の寄り合いに出てまして電話に出られませんでした……」

どうにも声色が妙に明るい。こりゃあ一杯入っているな。おっさんは続けて楽しげに言った。

「あ、そうでしたの。大変でしたねえ。それね、今加入している保険会社のロードサービスセンターの電話番号をお伝えしますので、そこに連絡を入れてみてください。ね、大変でしたね。じゃあよろしくお願いします……」

こやつ……完全に他人事だな。まあ、実際他人事なのだろうが。以前からこのおっさんの対応にはどこか物足りなさや苛立ちを感じることがあったが、いまは夜遅い上に明日からお盆休みだ。誰だって面倒なことに巻き込まれたくはないのだろう。

オレはむっとする気持ちを押し殺し、「夜分にどうもすみませんでした」と静かに電話を切った。苛立ちの反動か、いつになく慇懃な言い方になってしまった。

教えてもらった番号へすぐに電話をかける。最近はどこもそうだが、電話が繋がるとまずは機械の音声ガイドだ。オペレーターに繋がるまでの手順がなんともまどろっこしい。カード会社でも保険会社でも、何か頼もうと電話をかけると「〇〇の方は1を〜」と指示してくる。その通りにボタンを押して進んでも、「ただいま回線が混み合っております」と切られることも日常茶飯事だ。

こちらは困り果てて電話しているというのに、この機械的な対応にはいつも以上に苛立ちが募る。だが、今回はこのチャンスを逃すわけにはいかない。はやる気持ちを懸命に抑えながらガイダンスを突破し、ついにオペレーターへと繋がった。

「もしもし、〇〇が承ります」 「まずご契約者の確認をさせていただきます」 「はい、お車ナンバーは確かに登録されていますね。では、どうされましたか?」

ここまでは極めて事務的だった。オレが状況を説明し終えると、オペレーターの女性は急に感情豊かに、しかし手慣れた様子でテキパキと答えてくれた。

「お客様のおられる地点でしたら、60分以内にレッカー車を向かわせることができます。ご指定の修理工場まで無料で搬送いたしますよ。どこへ運べばよろしいでしょうか?」

……え? 修理工場はこっちで探して指定しなきゃいけないの……? 今はもう深夜で、明日から全国的にお盆休みだぞ。今から修理工場なんて決められるわけがないじゃないか!

何も決められないまま、何の解決策も出ないまま、時間だけが虚しく過ぎていく。そうしている間にも、車庫のタイヤからは「シュー」と空気が抜け続けている。

オペレーターのおばちゃんの力強い言葉に丁寧にお礼を述べ、途方に暮れながら電話を切った。

どうしよう、オレ……。

題:「心晴れやかお守り」・還暦オヤジの夏 2.

 2.夏の夜に七転八倒



オレはしばし「シュー」と空気が漏れ続けるタイヤを眺めていたが、解決の妙案など浮かぶはずもない。モヤモヤとした気分のまま自宅に入り、ダイニングのドアを開けた。

テーブル席でテレビを見ていた帰省中の長男が、間延びした笑みを浮かべて振り返る。 「よっ、お帰り。お疲れさん」 挨拶を交わす元気もなく、「やあ」と気のない返事をするのが精一杯だった。

おおむね夕食の準備を終えつつあった妻が、顔を上げてこちらを見つめる。 「患者さんのことで遅くなるとは聞いてたけど、それにしても遅かったねえ。どうしたの?」

不審そうな表情のふたりに、帰宅途中のトラブルをかくかくしかじかと話した。するとふたりは異口同音に吐き捨てる。 「次男なんて、こっちからLINEしても既読無視ばかりのくせに、都合が悪くなるとすぐオヤジに連絡してくるんだから。もう社会人なんだし、自分で解決させればいいのよ。放っておきなよ」

“しかしなあ……苦境に陥って途方に暮れているヤツを、親として放っておけるわけないだろう” 心の中でそう思いつつも言葉にできずにいると、妻が追撃をかけてきた。 「それより、自分のクルマのパンクはどうするのよ? そっちが先でしょ。JAFに来てもらう?」

その言葉に、オレは思わず苛立ってしまう。 「あのさ……以前JAFに入ろうとした時、年会費がかかるからやめとけって言ったのママじゃん。だから入ってないよ!」 語気を強めてから、ハッと反省した。いかんいかん、ここで余計な争いを作って状況を悪化させてどうする。即座に思い直して言い直した。 「……ごめん。法人で入っている保険屋に相談してみるよ」

ふたりに先に食事を始めるよう告げ、隣のリビングから保険代理店に電話をかけた。しかし、2度鳴らしても繋がらない。 “そうだよな、もう夜だし明日からお盆休みだ。出るわけないか……” 諦めてダイニングに戻り、「保険代理店のおっさん、出ないわ」と状況を説明して夕食につき始めた。

だが、食事をしながら思い出した。そういえば次男に「後で電話する」と言って切ったきりだった。「放っておけ」と言うふたりを制し、スピーカーホンにして再度電話を入れる。

次男はすぐに電話に出た。事情を聞くと、その件は1ヶ月前に起こったことらしい。 朝のカンファレンスに出るため普段より早く自転車で出勤した際、アパートの駐車場に停めてあった黒のクラウンの脇を通ったときに接触したようだ。本人は全く覚えていなかったが、持ち主が警察に相談し、アパートの防犯カメラ映像から次男が特定されたらしい。

街の中心部にあるアパートの駐車場に停められた、黒塗りのクラウン……。時代が時代なら、少々柄のよろしくない方が乗っていてもおかしくない。かなり厄介な案件だ。ましてや、本当に警察からの電話なのか? 特殊詐欺の可能性はないか? ふたりの前で不安を煽りたくはなかったため、胸の中に渦巻く疑念は伏せておいた。

家族4人で話し合った結果、方針を決めた。 職場に事情を話して半休を取り、昼間に警察の求めに応じて現場検証に臨むこと。変に争う姿勢は見せず、穏便に示談をお願いすること。弁償はきちんとするが、修理は正規ディーラーで行ってもらい請求書を確認させてもらうこと。

次男は珍しくしおらしくなり、「ありがとう。そうするわ。また報告する」と言って電話を切った。 次男の件はひとまず方向性が見えたが、相手のあることだけにまだ予断は許さない。

……あ、そうだ。 オレ自身のパンクの件、1ミリも前に進んでないぞ。 

どうなるの、オレ……?



題:「心晴れやかお守り」・還暦オヤジの夏 1.

 1.ことの始まり



それにしても還暦の夏は色々起こるもので、お盆連休の前日に担当患者さんがふたり同時に容態急変。なんとかご家族へ連絡を取り治療方針を立ててひと段落したのが午後8時。当直医に申し送りを済ませて職場を出たのは、午後8時30分だった。

多少の疲労を覚えながらも帰路につき運転していると、携帯の着信音が鳴った。路肩にクルマを停めて確認すると、次男からの着信履歴。ヤツからの電話は珍しく嫌な予感がして掛け直すと、声色は重苦しく深刻な様子だった。自転車での通勤途中に停車中の高級車に接触してしまい、オーナーが警察へ届け出て現場検証に呼び出されたらしい。「あゝ」と思ったが、帰宅途中でもあり「帰ってから詳しく聴く」と告げて再びクルマを走らせた。

数分後、ある交差点に差し掛かった際、クルマの後方で「パコン」という音が響いた。強い衝撃はないものの、その直後からカタカタと異音が聞こえ始める。再び路肩に停めてタイヤを確認すると、右後輪の接地面から側面にかけて、10cmほどのボルトが刺さっているではないか!

「あら〜、やっちまった……」

どうするべきか。取りあえずまだ開いているガソリンスタンドを探して相談することにした。10分ほど走り、ようやく一軒のガソリンスタンドを発見。車を辿り着かせ、店員に事情を説明すると、そのお兄さん店員はのんびりとした笑顔を浮かべた。

「これはいけませんね。この具合だと補修は無理でタイヤ交換になりますよ。あいにく修理担当は帰宅したので今晩は無理です。後日どこかの修理工場に頼んでください」

“むむ……、明日と言われても明日から盆休みではないか。このクルマにスペアタイヤは積んでいないし、どうやって修理工場に運び込むんだよ……”

ひとまずパンクしかけているタイヤに空気を補充し、トボトボとクルマを走らせてなんとか自宅にたどり着いたのは午後9時半頃だった。車庫に入れてタイヤを確認すると、「シュー」という漏出音が響いており、空気は着実に減っている。明朝にはすっかり空気が抜け、走行できなくなるだろう。

どうするのよ、オレ……。