2018年3月13日火曜日

この春と義理と~その2~


3月10日午後4時過ぎに、上司の退官記念祝賀会が開かれる倉敷国際ホテル前に到着。倉敷駅前通りを歩いたのは何年ぶりのことだったろう。随分と街の風景が変わっていた。通り沿いには何軒かホテルが立ってい、この街を訪れる観光客も随分と増えているのだろう。大原美術館を中心に美観地区を残そうとした大原さんはエライ。会が始まるまで少しあるので、美観地区の端を少しだけ歩く。



午後430分前に会場のホテルに入り、受付を済ませてロビーで待っていると、同じくその上司のゆかりのある方々-懐かしい先輩、同輩、後輩の姿があり、手短に挨拶を交わす。




午後430分より、第一部としてその上司の記念講演あり。20年前に赴任してこられたころと変わらない容姿と穏やかな語り口に接し、その当時の事を思い出す。その当時の苦い思い出や、楽しかった思い出が蘇り、感慨深いものがあったけれど、こうして20年経て現在の己を省みると、その上司に対する感謝の念が改めて込み上げてきた。



記念講演の後、記念写真撮影があり、懇親会へと進んだ。

その会の準主役たちは、来賓扱いのその上司の先輩や同輩の方々と現在の直接の部下たちのような雰囲気となっていたこともあり、その上司への挨拶を遠慮した方がよさそうに思われて、同じテーブルに着席した年代の近いヒト達と歓談する。どの面々も数年から10数年ぶりの再会でちょっとした同窓会となる。来賓からの祝辞は、どれもその上司の若かりし頃の興味深いエピソードが散りばめられてい、それらから察せられるその人柄は赴任後の立ち振る舞いと共通するところがあり、大変興味深かった。私なりに総括すると、優しい方ではあったが、青年期の気分を色濃く残しエネルギーに溢れた方だったのだと思われた。

 

 その上司が赴任されて定年を迎えられるまで20年、そのヒトにとっても一区切りとなられたのだと思うが、私にとっても何やら一区切りのような気がする。漠然と何らかの形で70歳くらいまでは働くつもりではいるのだけれど、これからの20年どのようにやっていこうか?

 因みに、その上司の後任は私と全く同じ年のIさんで、一緒に働く機会はなかったものの、私の恩師のお弟子さんーつまりは兄弟弟子みたいな存在だった。彼は若い頃から優秀の誉れが高くエース的存在だった。人柄も明るく周囲への目配りが行き届き、物事の処理にそつがなく、グループにおいてはリーダーシップの執れるヒトだった。その上司の後、その部門を率いるにはうってつけと思われた。同輩の私でも素直にそう思えていたので、彼の次期部長就任には心からの祝福を持ってそのニュースを聞いた。懇親会途中で、彼に接する機会が有ったので、「おめでとうございます」と挨拶をすると、「またー、マサキさん。」とむにゃむにゃと笑っていた。「ボクは力ないけど、私設応援団のつもりですから」と続けると、「分かった。分かった。」と更に笑っていた。彼や私の年齢からすると定年までは後10数年であり、彼の活躍を間接的に眺めていくことになるのだろうけれど、彼ならば大きな仕事をされそうで、心からその前途を祝したい気分であったし、私も『自分の居場所』で頑張らねばという気分を持つことが出来た。



上司の退官記念祝賀会は、和やかなうちにお開きとなり一同解散となったところで、その上司にご挨拶に赴く。「本当に楽しい思い出をありがとうございました。私の人生にとって宝物のような日々でした」と挨拶すると、その上司も「いや、マサキ君、ありがとね。楽しかったよ」と応じていただいた。

本当にどうもありがとうございました。



その会には2次会も設定されており、いつもだと2次会出席を遠慮していたのだが、最後だと思い、他のヒトについて2次会に向かった。美観地区界隈には落ち着いた暗闇の佇まいがあり、冷たく乾いた空気が心地よかった

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