2019年11月17日日曜日

イチ・マサの心の旅~秋の作州路を走る~(2)

私達は、しばらく両側に広い畠を眺めながら北に向かって走る平坦な道を走行した。その道は国道53号線に突き当り、その三叉路を左折ししばらく国道53号線を津山市方面に走行するとほどなくして奈義町の中心部に差し掛かったようであり、十分な敷地を有した低層の建物が立ち並ぶ落ち着いた街並みが続いた。




イチロウが「そろそろの筈なんだがなあ」と言うか言わないかの間に、目的地の奈義町立現代美術館(NagiMOCA)が右手に見えた。国道53号線を横切る二車線道路がなだらかな丘陵地に向かって延び、その左手にその建物があった。国道53号線を右に横断して、その道路を正面に見ると、前方に小高い稜線を有した山系があり、なだらかな上り勾配の道路が真っ直ぐ走っていた。その左手前方に2階建てくらいの高さの現代美術館の建物、それに接して人の背丈の2倍~3杯程度の円柱状のモノが斜面に突き刺さるように設置されている。




イチロウの解説によると、この美術館は磯崎新が設計したもので、展示物の建物が一体となっているとのこと、施工費は竹下内閣時代の「ふるさと創生」による補助金が利用されているとのことであり、イチロウと私の感想は、異口同音で「当時の町長さんええ仕事をしましたな」というものだった。



しばらく同美術館の片隅で、休息を取り、館内を見学。


エントランスホールを進み、受付で見学料を払って、右手の常設展示コーナーへ。宮脇愛子氏制作の「池」、続いて展示室「大地」を暫し眺める。いずれもループが織りなす表象に見惚れる。もう少し天候が良くて光が差し込めば、もっと違った印象を得ることが出来るだろうなと思われたが、そのニュートラルなイメージがその時の私の心象に優しく何かを投げかけてくれているようで心が安らいだ。(その時は随分疲れていたのかもしれないw)。


続いて更に奥に。作者は失念したけれど、白い壁面にアニメーションが映し出されていた。私は、この展示物は軽くパスw。つづいて、展示室「太陽」に向かう。この作品は、荒川修作とマドリン・ギンスの共作で、先ほど外から見えた大きな筒状建築物の内部。
筒状の内部は、入り口から向かって斜めに添えつけられていて、両サイドには京都の古刹にある石庭を模したようなものがあり、床には椅子、その先にシーソー、そして鉄棒が配置、円筒の端には合成樹脂のようなもので作られた幕が張られており、そこから光が内部に薄明りをもたらしていた。

他の参観者が思い思いにその内部の様子を眺め、そして配置されているシーソーや鉄棒に触れたり遊んだりしていた。円筒型の内部にシンメトリカルに造形された造形物が施され、鑑賞者をして未来的なスペースコロニーを思わせるようでもあるし、東洋的な輪廻転生を表しているようでもあり、何れにしても内部にいるものに何らかの心理的な自由さや開放性、ある種の浮遊感、そして無条件的な遊び心を刺激しているような雰囲気があった。私は、他の観覧者も居合わせたこともあり、入り口側に配置されたベンチに座り、それらの造形物を眺めていた。しばらく遅れてイチロウがやってきて、イチロウも四方を眺めながらある種の感情性の高まりを言葉にしていた。私はしばらくそれを眺めていた。私たちは夫々に、円筒形の内部で閉鎖された空間に居ながら、精神の自由さを夫々に楽しんでいたように思う。他の観覧者がその空間を離れた後、どちらが言い出したとでもなく、その空間に設えられたシーソーに乗った。




50過ぎのオトコが遊具に乗り合わせるのは多少気恥ずかしさを感じたが「ギットンバットン」とシーソーを漕いでいるうちに、ここにおいても時間や属性を忘れた個と向き合っているような、自我そのもの同士で空間を漂っているような錯覚に陥った。向き合っているひとつの自我に対してどこまで知り得ているのかは分からない・心許なさもあるのであるが、どうしても相対している一方の個・自我を感じざるを得ず、イチロウというひとつの自我に向き合う感覚があった。これまでの人生を振り返ってみるに、彼の自我と触れ合う事なし私は社会常識の範囲で、世間を渡りぬくことが出来たかったように思えていた。

これまでの関係性において、互いに
決して世間的常識を振りかざして・或は物知り顔で相手に対して忠告や助言めいたことを言い合うこともなかった。時折在りのままに己の事を語り、その事を通じて世間一般から逸脱しそうな自己と適応的な自己とをシーソーのようにバランスを取っていたような気がする(これは、あくまでも私からみたイチロウとの関係性を振り返ってみただけのことなのであるが)。更に極言すれば、私はずっとイチロウという表象を借りて、私自身を見つめていたのかもしれないと思えた。

もうひとつ、シーソーに揺られながら感じたことは、時間と自我のことであった。この円筒形の内部で私の中の時間は止まっていた。「時間や属性を忘れた自我」と「表象としてのイチロウ」との間で遊びを通じて交歓している感覚があった。この感覚はいつでも随意的に「遊び」という状況を設えることによって、容易に再現できそうであった。

50歳を過ぎて暦年齢的にも否が応でも時間は流れを感じずにはいられないし、そこには体力的にも精神的にも衰えを自覚することになるのであろう。だけれどもイチロウと自転車に乗っている時或は共通する趣味に興じる時、時事問題などで何かの議論に白熱している時などには、お互いに時間や属性から解放された自我同士で向き合って来たし、恐らく体力的に自転車を転がせなくなった後も、何らかの遊びを通じて素の自我のままでつるんで行くのだろうと思った。

そのような事をシーソーに揺られながら考えていると、何だか生身の死に向かってゆく時間の流れについても、静かに受け入れられそうで、穏やかな気持ちになれた。

そのような事は、その時もその後もイチロウには語りはしなかったけれども、なんとなく私には腑に落ちたような気がした。

その後二人して、特別展を鑑賞した後に美術館を出て再び自転車に跨った。


イチロウが快活な笑顔を浮かべて、「美術館前のなだらかな坂をちょっと上ってみないか」と私を誘い、私も少し晴れやかな気分で「いいぜ」と応じた。距離にして登坂数百メートルだったか直線のなだらかな上り道を切りの良いところまで上がって、そこから折り返し、重力に任せて自由落下のごとく坂道を下ることになった。



なだらかな下り坂のその先に広々とした日本原の平原が広がっていた。イチロウが「行くぜ」というのを私が制止ながら23枚写メを撮る用意をした。私の合図で、イチロウが坂を自由落下のごとく下って行き、私がその後ろ姿を撮り終えて、私も続いて体を下り坂に身をまかせるように下っていた。考えてみれば、奴は奴自身で色々な属性の中で悩みを抱えつつ、いつも「何とかなるべ」という姿勢を私に示してくれてい、私はそれを一つの表象として捉え、その表象の後ろ姿を追いかけて来たような気がする。



私たちは津山市街地に向けて20㎞程南下した。途中、イチロウの企画で「作州の干し肉」を買い求め、もうひとつの楽しみとして津山名物の「ホルモンうどん」の老舗に立ち寄ったりした。ホルモンうどんの店頭で行列1時間待ちとなった頃、SNSで妻より「息子が最初の目的地マンチェスターに無事にたどり着いた」との知らせがあった。




“なんだかな。”1週間前に突然欧州を独りで旅行してくると告げた息子。旅費も自分で拵えて、旅行会社を介さず己一人でネットを通じて、航空会社も宿泊先も予約していた。親元を離れて数年経つが、親としての心配は変わりないのだけれど、本人は至ってマイペースであり、親の心配は全く意に介さない様子であった。私たち夫婦は、息子の無謀とも思える実行性と軽やかさに驚きつつ、その安否に心配をし続けるのであるが、時間と共に親子の関係性も緩やかに変わりつつあり、その関係性は親の意図で立ち止まったり、押し戻すことは当たり前だけれど出来ないことを悟りつつあった。



その感情は、先ほどNagi MOCAで観た展示物のループのようで、同じ悩みや歓びをループのように感じつつ着地点は少しずつ変わっていく。もう少し俯瞰してみると、人生の喜びも不安・心配も、対人関係も、もっと乱暴に言ってしまえば人生全てにおいて同じようなループを描きつつも決して元には戻らないものなのかなと店頭の行列の中で感じていたのであった。

イチロウが企画してくれた「ホルモンうどん」を美味しくたらふく食べて、私たちは再び自転車に跨りゴールのJR津山駅に向かった。残りは23㎞程度で交通量の多くなった市街地の中を先導するイチロウを追った。




黙して語らずのオトコだから、40年近く経った今での生身の奴をどこまで理解しているのか甚だ自信はないのだけれど、少なくとも表象としてのイチロウとは十分に交歓出来て来たし、これからも時間・属性を越えた自我としての関係性を続けていくのだろうと思えた。更に考えてみれば、このような対人関係性を持てたのは、幸せと呼ぶ外ないと思う。




やがて私たちは、津山駅にたどり着き、そこでMR4を畳み撤収し津山線から輪行した。先頭車両に乗り込んで他の客に紛れつつ、お互いの満足そうな顔を見て更に充足感を得、心地よい疲労感を覚えるのであった。



(おしまい)


2019年11月15日金曜日

イチ・マサの心の旅~秋の作州路を走る~(1)

イチロウから「今週末自転車に乗らないか?」との誘いがあり、久しぶりに二人でバイク旅をすることになった。

平成3011月に山口東部の旧山陽道を走って以来のことだから、約1年ぶりであった。

あれから互いに体調の事や子どもの巣立ちに伴う生活ペースの変化、仕事上のことなどが相俟って、二人でバイクツーリングをする機会がなかった。

二人でバイクに乗る機会が無くなると、私自身がバイクに乗る動機が低下し、この半年間バイクを漕がず仕舞いとなり、そのための脚力低下は否めず、慌てて前々日と前日にローラー台で1時間程度ペダルを廻して少しでも脚の感覚を取り戻すことに努めた。

コースは、岡山県和気町まで輪行、山陽本線和気駅でバイクを組み立て、そこから北上し同県奈義町まで50㎞程度、奈義町から折り返して同県津山市まで20㎞ほど走行。JR津山駅でバイクを撤収し輪行で広島まで戻ってくるというものだった。どうして彼が目的地を含めこの度のコースを設定したのか、事前に聴いた気もするが、軽く聞き流したようで、当日まで全く失念していた。

「そんな主体性のないことで良いのか、マサキよ!?」と突っ込まれそうであるが、この頃になっては彼との何かをする時に目的・動機などは私にはどうでも良くなっているし、恐らく彼も私の主体性なぞは期待していないだろう。

今回用いたるバイクは24inch折り畳み自転車Giant MR4。輪行に便利だし、走行時の機動性も結構高い。本当に名車だと思う。このチャリに乗るのは、2年前にイチロウ、タカヒロと3人で鹿児島湾沿いを一周して以来のこと。このバイクも出発3日前に慌てて取り出して、バーテープの張り替え、チェーンに潤滑剤の塗付、脱着するパーツネジへのグリース付などを施した。

113日当日朝6:30にイチロウをクルマで迎えに行き、午前724分発の新幹線のぞみに乗り込む。朝飯には、むさしのおむすび弁当(ボクは山賊おむすび、彼は若どりむすび弁当)。新幹線は運良く広島始発であり、一号車はがらがら、意図通り最後尾席を確保し、輪行バッグはその後ろにしまうことが出来た。

天候は薄曇りで、風はおだやか。当日の最高気温は20℃前後となるはずで、自転車日和となりそうであった。


AM8:50頃に山陽本線和気駅に到着し、駅前のスペースでMR4を組み立て9:00少しすぎに同駅を出発。吉井川沿いの片上ロマン街道を吉井川上流に向かって走行。この道路は、廃線となった片上鉄道を利用して作られた自転車道であった。イチロウの解説によると、片上鉄道とは、この辺りで採石された鉄鉱石の運搬に使われていたらしい。イチロウは本当に物知りである。



所々に道路が横切っていて注意を要するが、道路には交通車輛がないため誠に気持ち良く走れる。近隣の方々が散歩する姿や、周辺の畑で作業をされており、すれ違う際には挨拶をする。朝の長閑な風情ではあった。




やがて住宅地は通り過ぎ、両サイドは畠が広がったが、ふと道端に花を風船のような白い花が咲いていた。ボクが思わず「ケシの花か?」と叫ぶと、イチロウ笑って「なわけないだろう。オクラでしょうが」と。そういえばそうそうwと笑い返す。

イチロウがふと「この辺りにも佐伯という名前が出てくるね」と呟いたので、ボクの断片的な知識を伝えると「流石は、マサキの歴史好き」などと笑いながら応じる。“いえいえ、ボクの断片的な知識なぞ、アンタの博識には及びませぬ”面倒臭いから口には出さず。

やがて、右側の斜面が近づいて来て、落ち葉が積もった箇所が増えてきた。2か所ほど駅舎が保存された箇所を通り過ぎる。ふたりはあくまでのそこそこのペースで進む。

吉井川を挟んだ両側の穏やかな稜線を持つ山々はすっかり秋の気配であるが、今年の気象の影響か、あまり紅葉が進んでいなかった。

川沿いの景色を眺めながら“中国地方の川沿いの道の景色って、似たり寄ったりなんだな”と思った。どうも理由が分からなかったのであるが、今回の旅、ボク自身に起こる感情が冷めている。いつもあれば、何を見ても感動全開になる筈なのだが。

片上ロマン街道は20㎞走行した時点で終わり、しばらく国道374号線沿いを進む。途中ドライブインで小休止。イチロウは「ちょいと見てくる」と売店の建物に入るが暫く出て来ない。

ボクはその間にSNSで家族とちょっとしたやり取りをしていた。一人旅に出た息子から連絡がないと妻がラインを寄越している。「まあ時差もあるからまあ待てよ」とやり取りするが、出無精両親から出て来たにしては行動派である息子のことをぼんやりと考えていた。

そのうちにニヤニヤとしながらイチロウが出てきて「店のおばちゃんと話し込んでいたが、いやあホントに面白かった」と詳細にその会話をボクに聴かせてくれた。その詳細はここには書かないでおく。いくらviewing数の少ないこのブログでも、他の方に迷惑がかかったらいけない。

それにしてもイチロウは、普段は愛想なしのオトコなのに、どうしてローカルなヒト達との交流は上手なのだろう、全く不思議な奴だと思う。どうもうちの息子の気性と重なる部分があるような気がするのだけれど、そんなことは余談の余談である。

再び国道沿いをゆっくりとしたペースで進んでゆく。イチロウが予告してくれていたように、多少のアップダウンはあるものの、この辺りの道路状況は視覚的には気が付かない程度の非常に緩やかな坂道で、走っていて全く苦にならない。

途中で、「地物松茸」の幟の立った露店に立ち寄り、イチロウと松茸を眺めその都度イチロウはニコニコとしているが、ボクは無視して先に進む。彼は、地元のあるお店で毎年ように松茸を買い求めてはその味覚を楽しみ、この頃では馴染みになったその店のおばちゃんとも仲良くなっているようである。“今年は豊作だったよ、或は“不作なんだよ”というそのやり取りさえ、彼にとっては季節を楽しむ情緒となっているようだ。彼にしてみれば、贔屓の店のものとそれらの露店の商品を密かに比べていたのかも知れない。

やがて二人は、湯郷温泉街に到達。この温泉街は、湯原温泉と並んで岡山県下で有数の温泉街。イチロウは意外にも初めて訪れたらしく、ちょっと「見てゆくべ」と国道を外れて温泉街の径に入る。食堂、○○シアター、スタンド等が立ち並び、温泉街にありそうなものがひと通りあって妙に安心する。朝という事もあり人影もまばらで静かな佇まい。温泉街の外れに、温泉街の女将さん達有志で作ったと謳っているスイーツのお店があり、イチロウが目聡くいちごジャム大福なるものを発見、“ちょっと喰っていくべ”ということなり一休み。

いちごジャム大福。上品な甘さのいちごジャムに、その周りにホイップクリームが施された大福餅。想像していたよりも上品な優しい味わいであったのと、餅がしっかりとした歯ごたえで期待以上のものだった。サービス期間中との事で、ひとつ大福を買うとおまけにもうひとつ無料でついてきた。何だか申し訳ないような気がした。




ふたたび二人は走り出して、やがて美作の中心街を通り過ぎた辺りから、多少坂の勾配がきつくなり始めた。登坂が始まると、私はイチロウから遅れがちとなりやがて彼の背中が視界から消え、しばらく進むとポイントポイントで彼が待っている、それを繰り返した。登坂で彼に遅れるのは毎度のことであり、その度に「もう少し練習をしておけば良かったな」と後悔するのであるが、いつものどおりの事がこの度は妙に嬉しいというか安心感があった。今日のイチロウの様子から、彼に一時訪れた心身のスランプからピーク時までとは行かないものの脱したようであった。

やがて国道374号線から左折して、奈義町に向かう道路に入ったのであるが、どうも道路名が分からない。イチロウが提示してくれたルートマップを見ながら、グーグルマップで確認したもののトレース出来ないでいる。読まれた方には大変申し訳ない。

この道路は、登り坂の勾配がきつくアップダウンを繰り返しながら進み、この度のサイクリングコースでの一番の難所で多少難渋した。勾配がきついと言ってもインナーのギアを使う必要がない程度の坂なのだから、その勾配は客観的にはそれほどでもないのだけれど、如何せん己の脚力が落ちているのだから仕方ない。イチロウがここでも先行したが、自分は自分のペースで上がれば良いのだからと無理に急がず登坂した。

それでも自分のペースを維持しようとペダルを廻していると、両太腿の限界・これ以上力を入れると足が攣るだろうなという臨界点に達する。その時ふと思ったのだけれど、必死で自転車を漕いでいると、その瞬間は自分の年齢を忘れていることに気が付いた。更に云うと自分の属性さえも忘れて自我意識そのものになっている。イチロウとバイクツーリングしている時は毎度ながら、これまでの時間の経過はどこかに消え失せていて、素の自我同士でつるんでいる感覚になっている。その時の自我意識・自我意識の関係性は完全に時間の関係性は、時間のファクターがないんだな。

峠道の登坂を終えるとなだらかな下り道を左右に広大な平原・盆地を眺めながら下って行った。

ああ、そういえば高校の頃にイチロウが前、私が後ろで二人乗りしてチャリでよく出かけたものだった。ある日、下り坂でチャリのスピードが増した時に車体が微妙に揺れて、恐怖から思わず私が声を上げると、“でけえ図体して何ビビってやがるんだ”と言わんばかりにイチロウが大声で笑っていたっけ。

あの時以来、お互いに年を取るにつれ色々な属性を引き受けて来たのだけれど、バイクツーリングに出てしまえば、あの時と変わらない関係性を確かめることが出来た。

再びイチロウと合流をしてほぼフラットな道を走りながら、日本原と呼ばれる平原に広がる畠の景色を眺めた。美しく手入れの行き届いた農作地にみるヒトの営みに深く感銘を受けながらも、今の私には旅景色を愛でるよりは自己確認作業に没入しがちであった。イチロウは、快活な笑みを浮かべながらその美しい景色に感嘆の声を上げ、旅そのものを五感を全開にして楽しんでいるようであり、そこには彼本来の快活さがあった。

(つづく))


2019年9月23日月曜日

オイラの武蔵国物語(下)

その不動産屋を辞した後、もうしばらく自由が丘界隈を散策し夕食をとって、息子の下宿に戻ろうという事になった。夕方になっても、人通りが多く、オシャレな女性や若いヒト達が目立った。細い路地には、可愛らしい洋菓子店やお洒落なブティック、飲食店が多く立ち並び、確かに女性や若いヒト達に人気のある街であることが察せられた。これらの商業地を少し離れると、瀟洒な住宅やお洒落な佇まいの低層高級マンションがある住宅地が広がっている。先ほどの不動産屋さんが所謂著名人の住まいや一般人には手が届きそうにない高級マンションがあるとのことで、正しく人気の高級住宅地となっているとのこと。私のような地方者には全く無縁の土地であり、現地に居てもどこか現実離れしたような感覚が抜けなかった。

家内から珍しく「腹が減った。焼き肉食べたい」との要望があり(緊張からの解放と共に疲れが出たのであろう)、彼女の希望に沿ってある商業ビル二階にある焼き肉店に入った。暫く待たされて、フロア1画のテーブル席に通されたが、周囲は満席状態である。

適度に飲み物や肉皿を注文してしばらくぼんやりとしていたが、少しずつ周囲の状況が分かってきた。周囲の家族連れの人達の出で立ちや年配のご夫婦の佇まいから察するに、このお店のお客たちはこの界隈の住人達が大半のようであった。

隣のテーブルに着いた家族連れは、40代の夫婦に中学生の娘さんだったが、お父さんはTシャツに短パン姿。テーブルについてしばらくすると、知り合いの家族を認めたらしく、「子ども達だけでここのお店に寄越したのかと思ったよ。流石セレブなんだね。」などと、大声で軽口を叩いている。それが済むと、これまたよく聞こえる音量で、自分の娘に対して、恐らくは仕事上の難しい話を熱心に語って聞かせている様子だった。

そこからは私が勝手に想像するに、この御仁、この界隈に生活の根を下ろし、仕事も順調なのだろう。この土地の住人になったこととその生活を維持している事に強い自信をお持ちなのだろうと感じた。

目の前に座った家内の話に耳を傾け、地方言葉を交えてその話に応じつつ、時々焼けた肉を彼女の皿に取ってやりながら、ふと私は、昔学生時代に読んだ曽野綾子氏の「都会の幸福」というエッセイを想い出していた。そのエッセイの中で、同氏が地方の良さも認めつつも、都会で暮らす者(特に山の手に住む者)の生活の在り方について語られていた。都会にあって、元気で自己主張をする者は大体が外部出身者であって、元々都会で生まれ育った者はあまり自己主張しない。近所付き合いや対人関係においては一定の距離を保ち、地方の者から見えれば淡白にも孤独にも見えるかもしれないが、それはお互いの生活を尊重しているに過ぎないのだと。そしてヒトに見られているので、いつも背筋を伸ばして生活している等々。私の勝手な記憶と感想なのだが、彼女のエッセイからは、都会の生活者が、どこか凛とした精神の張りと自由さと奥ゆかしさがあるような気がして、地方で暮らす若い私にはどこか羨ましいような憧れのようなものを感じたものだった。

先ほど取り上げた御仁が、どのようなヒトなのかは実際には知らない。家内も先ほどの御仁が気になっていたらしく、帰りの電車の中で、小声で彼女なりの感想を述べて、私に近しい感想を抱いていたことがわかり可笑しかった。ただし、私としては他方で、その御仁が私にはない生活者としてのバイタリティーや能力を持たれているようで、そのことを肯定的に認める気持ちもあった(これらは、全部勝手な私の空想に過ぎない)。

果たして、どこか私の気性の一部を受け継いだらしい愚息がこれから都会でどのように生きてゆくことになるのか。数年のうちに夢破れて都落ちをしていくことになるのか、或はそれなりに生き延びることが出来て、多くの方がそうであるように都内を離れて近県に居を構えることになるのか。どちらにせよ、それはそれで良いような気がした。ただ、どちらにせよ、「親としては静かに見守っていくしかあるまい」と。車窓から暗くなった住宅地に無数の灯った景色を眺めながら、小声で「母さん、そろそろ家に帰らんか?」と呟いてみたものの、家内には届かなかったようであった。



(終わり)

オイラの武蔵国物語(上)

愚息が来春都内の企業に就職することになり、今秋の間に通勤に便利な都内に引越すことになった。現在彼の下宿先から都内の新宿や渋谷までは電車で1時間強であり、最寄りの駅界隈は適度に飲食店やコンビニが散在する住宅地であり、暮らしやすそうな環境ではあった。

私のような地方者には、現在の下宿の賃貸契約を来年度以降も継続し、都内のオフィスに通勤しても良さそうに感じたのであるが、愚息曰く、「今後の通勤手段になるであろう東急田園都市線の通勤ラッシュ時の混雑ぶりが今から思いやられる」「若い時期に一度は都内に住みたい」とのこと。かつての私を振り返ると、奴の願望も分からないでもなく“ああ、そうか”と肯定も否定もしなかった。

ただ、果たして新卒の初任給で、しかも住宅手当はつかないとの条件で、都内の物件の賃貸料が賄えるのか甚だ疑問ではあり、県境を越えて都内に通勤される方も沢山おられるだろうから、彼の願望は彼の現実を無視したものであろうと思われた。

夏の終わりごろから、愚息と家内が其々に都内の賃貸物件情報をネットで調べ始めていたがやはり想像通り高値であり、とても新卒者が月々の家賃を払えそうではなかった。印象としては、都内の賃貸物件の家賃は、同じ間取りで比較すると地方の2倍から2.5倍程度であった。

それから、愚息と二親の間で情報戦を絡めつつのちょっとした攻防(越境する・しない、多摩川を越える・越えない、通勤路線をどこにするか等)があったが、最終的に就職後もしばらくは家賃の半分を親が負担することで決着することになった。子どもが社会人になった後も、親が仕送りすることについて、親バカ・過保護の気がしないでもない。私の中でも多少の迷いがあったのであるが、私自身のこれまでを振り返ってみるに、私も社会人になった後も親から有形無形の援助を受けて来たわけで、因果応報と言うべきか、少なくとも私が育った家族文化においては自然な事なのだろうと思い定めた。

さて、9月のある連休に休みが取れたので、家内の提案で愚息の下宿を根城にして、都内の賃貸物件を探しつつ東京見物をすることになった。事前に家内が目黒区内で条件の合う物件をピックアップしており事前予約なしで不動産屋に行くことにしていたが、ついでにこれまでも知名度は高いが一度も訪れたことのない自由が丘というところに立ち寄ってみようという事になった。

土曜日の夜遅く、愚息の下宿に入り、翌日曜日午前9時過ぎに出て、横浜線から田園都市線を使い、溝口で東急大井線に乗り換えて自由が丘へ。溝口から東急大井線に乗り換えると、二子玉川を経て多摩川沿いの左右に緩やかな丘陵地の間を線路が走っている様子である。その丘陵地にびっしりと戸建てや低層の集合住宅が見えるが、緑が多く残っているせいか落ち着いた雰囲気が感じられ、都内に住まいを求めるヒトたちにとって、この地域が人気の土地柄であろう事が、よそ者の私にも判るような気がした。

自由が丘駅に降りて、駅前のロータリー近くにある喫茶店で小休止し、家内とちょっとした作戦会議を開く。家内としてはこの界隈の不動産屋に入り、私共の希望する条件に合う物件をいくつか見たいとの事。私には、愚息や家内が期待するような物件に当たることはないだろうと思われたが、物件巡りをする事でこの界隈を散策できるだろうという目論見があり、家内の提案に乗ることにした。

小休止の後に、自由が丘駅近くのある小さな不動産屋さんに入った。店内には若く可愛らしい女性が一人居て、来訪の主旨を伝えると、ニコニコとした笑顔で応対を始めてくれた。家内が希望する価格帯や間取りを述べ、事前にピックアップしていた何軒かの物件を伝えると、その女性がその資料を準備し始めた。それを待っていると店主の男性が帰ってきた。改めて妻から希望条件とピックアップしていた物件について述べると、その男性が先ほどの女性が取り出してくれていた資料を眺め、早速それらの物件について管理会社に確認の電話を入れてくれた。ネットで調べた物件の大半が既に契約成立済みであったため、新たにその不動産でこちらの希望する条件にある物件を取り出し、夫々の物件について別の管理会社に内見が出来るか否かを問い合わせてくれた。忽ち、4軒の物件の内見が出来ることになった

いずれも駅から徒歩10分程度の処であったため、その男性に連れられて、各物件を歩いて観て回ることになった。

最終的には、その不動産屋が徒歩で案内してくれた物件について当方の希望に合う物がなかったが、観て回る過程で、その男性からこの界隈の情報が得られたことは大変勉強になったし、ちょっとした観光にもなった。

その男性は50代半ばに見えたが、とても親切かつ親しみやすい性格のようであり、当方が息子の就職後も家賃を半分仕送りするつもりであることを伝えると、「へー」と純粋に驚いたような表情を作った。それから、彼と色々と話しているうちに、彼自身の家族について問わず語りを始めた。「やっぱり子どもっていくつになっても可愛いよね」と言い、初対面にしては立ち入ったプライベートな内容も語った。彼の話している内容から、どうも彼の親の代で東京に出てきたようだった。結局途中の昼休憩を挟んで、夕方4時過ぎまでその不動産屋に付き合ってもらったのであるが、最後に紹介してもらった物件の内見を済ませてそのお店に戻った時に、彼のお母さんも店内に居られた。ニコニコとした笑顔と、きさくな物言いをする親しみやすい女性であった。家族的な雰囲気と人情味のある店主が営む良い不動産屋のようであり、そのお店を辞した後で家内と出来ればこの不動産屋にお世話になりたいものだと語り合った。



(つづく)

2019年7月10日水曜日

神様からの贈り物



ボクが、彼の作品群の中で、ipod classicに入れて常日頃携行しているもの。

Getz/ Gilberto

Getz/ Gilberto #2

The Best of Two World

Amoroso

Brasil

Eu Sei Que Vou Te Amor

Joao

Joao Gilberto

Joao Gilberto: Parado Pereira de Oliveira

Joao Gilberto en Mexico

Joao Gilberto in Tokyo

Joao Voz E Violao

The Legendary Joao Gilberto

The Live At The 19th Montreux Jazz Festival

Live At Umbria Jazz



(制作年度は順不同)



77日に、SNSで彼の訃報を知った時にはホッとしたのが正直な気持ちだった。なぜなのだろう?上手く言葉に出来ないが、「彼の消息を知り得た」という感覚だった。

10代の終わりに、FMで彼の演奏を始めて耳にして以来35年のお付き合いだった。世間では「ブラジル音楽の法王」とか「ブラジル音楽の神様」などと形容されてきたヒトだったけれど、ボク個人にとってはそのような世間的な評価はどうでも良かった。

彼の音楽無くして、ある一時期のどうしようもない孤独に耐えられなかっただろう。彼の音楽と出会った時にはイチロウとは既に交友していたが、彼の音楽がなければ、イチロウやジロウとの交わりにおいて深く共鳴を覚えることはなかっただろう。このヒト達と出会っていたとしても、Joaoの音楽がなかったら、淡白で色彩の乏しい交わりに留まっていたのではないか。或はコウスケを知り、お互いの人生を交差させることは絶対有り得なかった。

そう云う意味において、確実にJoaoの音楽はボクの人生において他者との交流を深めてくれたし、多くの幸福をもたらしてくれたのだと思わざるを得ない。

ああ、そうだったのか。彼の音楽はボクの人生に深みや色彩をもたらしてくれた、謂わば福音/ 神様からの贈り物だったのだ。

車窓からしとしと雨が降る景色を眺めながら、彼の音楽に耳を傾けていると寂しくはあるけれど、静かな充足感を感じ得たような気がした。これからも時々想い出しては彼の演奏に耳を傾けるのだろう。

本当に長い間ありがとう。これからもよろしく。


2019年3月24日日曜日

超個人的クルマ生活の断片



この頃、所有8年目に突入したミニバンをどうしたものかと考えるようになった。買い替えるべきか、それともまだまだこのクルマと付き合うか。




排気量3.0Lのガソリン車で子どもの成長とそれに親世代の高齢化を見据えて、3世代が一緒に乗れるクルマとして選択し購入したのであるが、想いや期待に反して子どもの進学とその課外活動の影響で共有できる時間は圧倒的に減り、専ら私の通勤用車としてこれまでの時間の大半を過ごした。



購入したのは、二人の息子が中学に入り落ち着いた頃で、近県にドライブ旅行に出る機会が増えるだろうと期待していたのであったが、長期休みはそれぞれにクラブ活動の予定が入り、私の休暇とかみ合わず、それどころか家族そろって外食に出かける機会さえもめっきりと減ってしまった。ましてや、盆暮れに私の隣県に或る家内の実家に家族そろってクルマで帰省する機会さえも減り、一体何のために3ナンバーのミニバンを購入したのか!?と慨嘆することもしばしばであった。



先日、3年前に進学と共に親元を離れた長男が、次男の大学合格発表日に合わせるかのように帰省した。本人曰く地元企業への就活として知人の紹介を伝手に会社訪問するのが主たる目的であったらしいのだが、どこか心の片隅で弟の受験の成り行きを気にしていたものと見える。いつものごとく、直前になって帰省する旨を伝えて来たものだから、私との勤務予定は合わず、ゆっくりと一緒に過ごすことが出来ない12日の短い滞在であった。会社訪問予定日の前夜遅く帰省し、翌朝弟の合格発表に立ち会い、午後から訪問し、その日の晩午後9時過ぎの飛行機で帰京する慌ただしい日程であった。



親にしてみれば、せっかく弟の合格というめでたい日なのだから、もう一晩泊まって4人で旨いものでも食べようと提案したのだが、彼は翌日も午前から在京企業の説明会を受ける予定との事で、その予定は変えたくないとのことであった。



結局私が仕事から帰宅後、東京に変える長男を空港までクルマで送っていくことになったのであるが、誰からともなく4人揃うのは久しぶりだから、彼を空港に送りがてら4人でドライブすることになった。4人揃ってドライブするなど、本当に数年ぶりのことだった。



一般道と高速道路を使って片道1時間強の道程。ウィークデイの夜にしては、交通量は多く、また23か所で工事のための交通規制あり、道路状況に気を配りながらゆっくりとクルマを進めた。



普段家族4人が揃うと、話題の中心は長男になるのであるが、彼はやや口下手で話に落ちがなく、そこを口達者な家内と弟に突っ込まれて、話題の中心は次男か家内に移ることが多かった。車中の中では、そのようなことが長年重なったせいか、長男はもっぱらゲームやスマホをいじることが主になった。次男も、長男にならって車内の音楽を自分の好みに選曲したり、兄に釣られてスマホやゲームをいじるのであった。前に座った私と家内は、普段出来ない会話を当てもなくし、それが我が家の車中での光景であった。



ただこの夜は、長男は相変わらずもっさりとした口調であったが、就活のエピソードを彼なりに面白おかしく語り、残りの3人もそれを笑顔で黙って聞いていた。長男の話が一通り終わると、今度は次男が浪人仲間の近況や既に高校時代の同級生の消息を熱心に語り始め、それを残りの3人が静かに耳を傾けていた。私にとって、そして恐らくは残りの3人にとっても満たされて穏やかな時間であり空間であったように思われた。



長男と私の関係性は、彼が親元を離れた頃から変化が生じていた。私の知らない世界を進む彼に対して、私はただ見守るだけで何も口を挟まなくなったし、彼は彼で父親を疎ましく感じる様子も示さなくなっていた。車中においても、「オヤジは今度いつ上京するのか?また旨いものを喰わせてくれろ」と別れ際に行った。次男は、長男に比べてやや感情表出の豊富なオトコで、二親に対してやや天邪鬼な態度を示すことが多かった。ずっと長男を後追いするような気持ちもあった様子であるが、彼は彼なりの趣味や進む道を見出し、長男をライバル視するような態度はなくなった。受験がひと段落したこともあり、自信と落ち着きを得たようであり、私に対する物言いも素直なものになっていた。長男を見送り、帰りの車中で次男は「S(長男)は本当に良い奴だな。人間性は俺よりは数段上だな」等とボソリと言うのだった。



先に述べたように、このミニバンを購入して8年弱の歳月が流れた。家族それぞれにも同じだけの時間が流れ、車中で家族4人が同じ目的地、時間、空間を共有することを何度か経験してきたのだが、その夜に車中に満たされた空気感はそれまでは感じられなかった子どもたちの成長と家族として成熟と落ち着きを示していて、しみじみとした感慨を抱かざるを得なかった。



そう云えば、昨今クルマのテレビコマーシャルも減ったし、そのコマーシャルに登場するキャラクターも個人が多く、家族をテーマにしたものはあまり見かけなくなった。かつて昭和の時代には、家族が揃ってクルマに乗って幸せ感を演出するもの(日産サニーw)が多かったような気がする。近頃は若いヒトがクルマにあまり興味を示さなくなったと聞くが、平成も終わりになるこの頃では、家族そろってクルマに乗ってどこかへ行く生活スタイルが廃れつつあるのだろうか?



経済紙などによると、昨今のクルマの商品化コンセプトはCASEなのだそうな。Connected, Autonomous, Shared, Electronic メカ音痴なおっさんにとってはあまりピンと来ない。これらのkey wordで市場に登場するクルマが、かつて私たち世代が若い頃に抱いたようなワクワクとした気分を抱かせてくれるのだろうか?或は、クルマを色々な角度から「ああでもないこうでもない」と語り合えるような文化をもたらしてくれるのだろうか?



確かに安全で便利な乗り物がこれからも市場に出てくるのだろうけれど、親しいヒトと同じ目的地を目指して、時間、空間を共有し、そこに楽しむ悦びをもたらすもの、それは正しくクルマ文化だと呼びたいのであるが、このCASEなるコンセプトでは、クルマを文化的存在価値として謳わなくなっているように感じられ、私のような普通のオッサンにはこのコンセプトに沿った商品化されたクルマにはあまり魅力を感じられないのかもしれない。




しばらく今のミニバンに乗り続けてみようかと思う。ガソリンはよく喰うし、狭い道での対向車との離合には気を遣うし、家族4人揃ってこのクルマで出かける機会は恐らくはないのであろうけれど。



望んだ形での目的は果たせなかったクルマだけれど、それなりに家族との歴史も刻み車内に流れる空気感にはそれなりの愛着を感じているのも確かなのであり、今のところは、まだ私がこのクルマに投影した感情をしばらく大切にしておきたいと思う。




2019年3月12日火曜日

サクラ サク

本日昼前に、あるご婦人からひとつのe-mailをいただいて、私はすこし華やいだ充足感に満たされた気分を味わうことが出来た。




愚息・次男の大学受験合格に対する祝意と我がことのように喜んでくださっている様子がその文面からは窺えて、大変有難くもあり感激したのだった。



この度、次男は、2年の浪人生活を経て第一希望の地方の国立大学(理系)に合格したのだが、現役受験の際には親から見ても明らかに学力不足であったし、一浪を経た受験の際にもまだその実力はそのレベルに達していないと思われた。一浪時代は、何人もの同級生と共に予備校に通うことが出来、学校生活の延長のような雰囲気で、然程に孤独感も感じずに済んだのであろうが、2浪目ともなると流石に本人も孤独感を感じずにはいられなかっただろう。

傍目で見ていても、2浪目から本人の顔つきや態度が変わってきたようだった。時折、“1浪の後輩から予備校内で「○○さーん!」と向うから大声で呼ばれるのは気まずいんだよな”とこぼし二親を笑わせていたが、その一方で本人も期するところが当たったらしく、浪人生活2年目の春過ぎから模試の結果もそれなりについてきたようだった。



12月の最終模試の結果では、明るい見通しを持てる結果を得たが、後で本人が語るところによるとセンター試験、2次試験はこれまでにない緊張感の中で臨んでいたらしい。傍目で見ている親にしてみれば何もしてやれることはなく、いつもの家庭の雰囲気を維持することに専念していたのであるが、2次試験後の本人の様子(手ごたえを確信できない様子/ これはどの受験生にとってもそうなのであり、ましては2浪生にとってはなおさらそうなのだろう)を眺めていると、こちらとしてもかなりの心配をしたものだった。



38日午前に、本人から私にLine通話で「オヤジ、合格したぞ!これまで色々心配と迷惑かけたけど、やっと結果を出したぞ」との知らせを受けた時は、喜びよりもやっと肩の荷を降ろすことが出来るとホッとした気分の方が強かった。これでやっと我が家の子育て時代がひと区切りついたと。



大学受験は、子どもの成長にとってひとつの大きな関門であることに間違いないのであるが、こどもの精神的な成長過程はそれぞれのペースがあり、ましてや次男のように専門課程に進む者にとっては、学力と共にこれから専門の道に進む上での覚悟や自覚が必要になると思われる。特別に優秀な頭脳を持ち合わせていない次男にとって、この2年間のモラトリアム期間が一人の大人として、専門職に進む者として必要な準備期間であったように思う。



その成長準備期間を見守る立場にあった二親としては、色々な感情を味合わせて貰ったのだが、総じて人さまよりも2年多く子育て期間を楽しませて貰い幸せであったとしみじみと思っている。



この4月から、次男は家を離れて独り暮らしを始める。私としては出来得るならば長期休みを貰って、巣立っていく次男との残りの時間を楽しみたい欲求があるのだが、現実生活ではそうも行かず、帰宅後の数時間を妻伝手に巣立つ前の次男の様子を聴き楽しむほかない。




おそらく先のご婦人も、数十年も前に同じ経験をされ同じような感情体験を味われたのだと思う。人生の先輩から後輩に向けての優しくも愛情に満ちたその文章を読んでいると、私の中でやっと“嘗ては子供嫌いだったオトコ”が人並みに子育てを全う出来たという素直な喜びを感じることが出来たのであった。

(終わり)