2016年4月13日水曜日

Sの青春・その序章

入学式に文字通り花を添えてくれた桜も散り、本格的な春を迎えている。

Sは少しずつ独り暮らしにも馴れ始め、大学のオリエンテーション期間も終わって、本格的な講義も受け始めていた。

 入学オリエンテーションで顔見知りとなった新入生仲間とも馴染み、数人のグループが出来た。彼らと出会い始めの頃、Sの言葉の端々に出てくるお国訛りの物言いにを好意的に珍しがられ、そのお国訛りと本人ののんびりとした態度を彼らに受け入れて貰ったらしい。休みの日には、数人の仲間と郊外から都心まで遊びに行くなど、楽しい学生生活を満喫し始めている様子である。

 高校時代の先輩が同じ大学に通っていて、その伝手を頼って文科系サークルに入会することを決め、はたまたSが入学当初から目論んでいた教職課程の講義に数人の仲間と共に登録した。時折連絡を寄越す母親に対しては「新しい生活は、めっちゃ、楽しい。」と応じるなど、ここまではSが想像し目論んでいた通りに物事は順調に滑り出したようだった。

 その日、Sはもう一つの目論見であった家庭教師のアルバイトの事始めの日で、午後6時まで大学の授業を受けた後、派遣会社から指示された家庭に顔合わせに訪問することになっていた。大学キャンパスの最寄り駅から乗り換えで二駅目の近くにその家庭があり、まだ行ったことはないもののなんとかいけそうな気がしていた。午後6時までの講義を終えて空腹と疲労を感じながらも、Sは最寄駅から電車に乗り、約束の7時までにはそのお宅に辿り着ける筈であったが、いざそのお宅近くの駅に降り立ち事前に貰った地図を頼りに歩き始めると、全く方角が分からなくなり立ち往生してしまった。そのお宅は郊外の住宅地にあり決して寂しい立地ではなかったが、大通りから径に入って往かねばならず、目印となるものらしきものはなく、すでに辺りは街灯のなく暗くなっており、Sとしては知らぬ暗がりの径に入っていくには躊躇われた。
 

約束の7時を過ぎてしまったので、やむを得ず、先方のお宅に道に迷ったことを伝えるべく電話を入れると、父親らしき男性が出て、Sの断りの弁に対して「はあ?おまえは方向音痴か?」と不機嫌そうに言い放った。

Sが申し訳なさそうに「地方から出て間もないので、この辺りのオリエンテーションがまだつかなくて済みません」と返答すると、先方の男性「仕方ない。どこそこを目指して来い」と返事をされて、やや一方的に電話を切られた。Sは、そのランドマークに指定された「どこそこ」についても辺りが暗くなっていて探すことが出来ず、通りがかりのコンビニエンスストアで店員さんに教えを乞い、結局約束より20分程度遅れて目的のお宅に辿り着いた。

 
そのお宅に到着後、ダイニングリビングに通されて子どもに対面することになった。その父親から、3人の男兄弟のうち、小学5年と2年のオトコの子の勉強を1時間程度見ることを告げられたのだが、Sが「どのように勉強を見ていけば良いのか?」と父親に尋ねたところ、その父親が云うに「中学受験は特に考えてない。特に教材は指定しない。兎に角、子どもが勉強する習慣を身に付けるようにしてくれ」とのオーダーであった。
 
「勉強をする習慣を身に付けるように指導しろ」と言われても、S自身を省みるに自分自身がこれまでに勉強をする習慣を果たして身に付けてきたかどうか甚だ疑問であって、「はて、それはどうやったら良いものか?」と考えあぐねてしまった。Sが戸惑いながらも「何か指定の教材があったら、別途費用はかかるが、何か用意してきましょうか?」とその父親に恐る恐る尋ねると、「そんなものは要らぬ」とけんもほろろの応答であった。気を取り直して、男の子二人に「じゃあ宿題を一緒にする?授業で分からないところはある?」と問いかけると、二人とも「宿題は自分でできるもん。わからないところはないし。」と言われてしまう始末で、のんびり屋のSも流石にこのアルバイトの前途に立ち込める暗雲を思わずにはいられなかった。

 
顔合わせの日は30分程度の面談のみとの契約であり、父親から「30分経ったから、もう良いぞ」と言われたが、Sとしては折角見始めた子どもの勉強を断ち切るわけにもいかず、1時間子どもたちに付き合ってしまった。午後8時30分に顔合わせ面談が終わる頃には、Sとしては「ここの家との契約はないな」と初めてのバイト機会を失う覚悟を思い定め始めていたが、その家を辞する時にその父親がさりげなく「じゃあ、宜しく頼む」と言われ、却ってその父親の一言に面喰いながら、暗がりの径を駅までとぼとぼと帰ったのであった。

 
“ありゃ、ないわあ。お母さんは一度も顔を見せなくて、下の子どもなんか途中で居眠りを始めて・・・・。それにお父さんが、四六時中付きっ切りで横からどんどん口を挟んでくるし・・・・。”“この話ないよなあ・・・・。だけど、別れ際にオトウサンが「また頼む」と言ってたよなあ。あっちがO.K.だしたら、こちらとしては必ず引き受けんといけんのかな?それも辛いなあ”“ただ、折角有りついたバイトの口を逃すのも悔しいし・・・”

 午後9時過ぎに、アパートで独り、帰宅途中で買ったコンビニ弁当を頬張りながら、想い悩むSであった。呑気で楽天的なSも初めて社会の厳しさに触れて、これからの大学生活が必ずしも自身が思い描いた通りのバラ色に物事が進んで行かない部分があることを感じずにはいられない夜であった。

どういう理由であの男親が、相手が未成年の学生とはいえ、初対面の者にあのような厳しい態度に出るのか、そして全く母親が我が子のことなのに全く関心を示さなかったのか、それが土地柄故なのか、その家庭独特の雰囲気なのか、布団の中に入った後も気になって仕方が無かったが、Sには分からないことだった。

 そして、ほんの少しだけ「我が家って、まだマシな方だったのかもしれないな」などと思うのだった。

これまで世間知らずであったSの青春が、今始まったのである。

 
 

(あとがき)
あくまでも空想上の物語なのであって、事実を書いたわけではないことをお断りしておきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿