ヒトは、己の人生を物語として理解し何がしかと意味づけをもたせるものなんだな。そして、勝手に紡いだ物語の中で、己自身に対して意識的にも無意識的にもある役どころを演じさせている。過去を振り返り、その文脈の中で意味づけし解釈を加え、そして将来に対してもあるストーリーを描く。悲観的に展望するヒトも居れば楽観的展開を思い描くヒトも居るだろう。いずれにせよ自我理想像を求めて、意識的にそちらの方へ進もうとする。自分の描いた物語の通りに辿れば満足し幸せに感じ、現実が自分の物語通りとならないと、嘆いたり不幸に感じてしまう。
そして現在とは、楽屋のようなもので、立ち止まって過去に自分が演じた役割を振り返り、その時々によってそれまで紡いできた物語の意味や解釈を書き換えて、将来の役割についてその台本を少しずつ書き換えて、その役処を少しずつ修正していく作業をする時間なのかもしれない・・・・。
先日、職場に少々無理を聴いてもらい出張し、大阪で開催された職業団体の会議に参加した。会議の内容については、割愛。新たな知識を深めた部分もあるし、物足りなかった部分~私のスケジュールの立て方が少々拙かったせいによる~もあった。
事前に、以前の勤めていた職場の先輩からメールで連絡があり、「同じ会議に出席するので、会議期間中のいずれの夕方に落ち合い、一緒に夕飯でも食べないか」とお誘いがあった。
一緒に働いていた頃、先方はどのように私の事を見ていたのか分からないが、私としては大の苦手な方だった。自分の専門とする分野に対して研究熱心な方であったが、非常に短気である部分頑固な方で、物事や他の同僚に対しての好悪をハッキリと言う方であった。酒席になると、ヒトに対する批評がよく出て、“付き合いづらい”と思っていた。当時、職場以外のオフにこのヒトと交わることはなく、心理的距離が遠い方だったのだが、どういうわけか、この度この方から、現在住んでいる京都を案内してあげたいから、「是非に」とのお誘いであった。
“どうするべきか?”と、はたと悩んだが、当方に特に予定なく先方が熱心に誘ってくださるものだから、「じゃあ、宜しくお願いします」と返答をした。
午後3時過ぎに、会議場の玄関で再会。その後、タクシーで梅田大阪駅に行き、そこからは新快速に乗って京都に移動。その間、その先輩の近況を伺っていた。10年近く単身赴任として京都で仕事を続けられ、昨年“永住”することになったとのこと。京都生活を満喫していらっしゃるご様子。朝鴨川沿いをジョギング、週末はサイクリングしておられるとのことだった。「齢を取ってきたから、健康に気を付けているんだよ、半年で10数キロダイエットしたよ。」と、ややスリムになり日に焼けた顔を綻ばせ、にこやかに語っておられた。
京都駅に着くと、もう一人の同行者と落ち合い、その先輩の案内で東山の高台院~八坂神社界隈を散策。生憎、その日は午後から雨が降り夕方に雨脚は強まり、散策するには足元が鬱陶しく、さっさとどちからの店に入りたい気もしないではなかったが、それでもその先輩がわざわざ私ともう一人の同行者のために、散策ルートをセッティングしてくださり、各所でで色々と説明をしながら案内してくださっている御気持ちは大変ありがたく、案内されるままに任せた。
「マサキを祇園に連れて行ってあげたくてねえ」と、八坂神社を抜けた頃に目的地を我々に告げて、祇園の界隈に入り、ある料亭に導いて下さった。
町屋作りの建物に入り、通されたのは2階の座敷。女将さんの挨拶があり、その後は仲居さんが一人ついてくれて、お酒と夏の京懐石が出された。
酒が進むにつれて、次第にその先輩の口が益々軽やかになって、あの当時の事が話題になった。「あの当時はねえ、本当に辛かったなあ。おまえもしんどかったろう?」と言われる。あの当時とは、私がその職場を去る前後にあった人事異動とそれに伴う“同胞葛藤”が生じていた頃の事で、私にとっては本当に社会勉強になったエピソードだった。
どのような職場でもある類の話であったし、今、時が経って離れた場所から振り返ってみるに、本当に平和的な話だったと思う。その葛藤によって、その職場が倒れるわけではなかったし、それで我々の命を絶たれるわけでもなかった。似たような年代の者が集まって、派閥を作りたがり、その派閥めいたグループ間でお互いが疑心暗鬼になっているだけの話だった。
当時私がその小さい集団の中でどんな役割を演じていたかと云えば、“ニュートラルな”立場という事になっていた。別に意識してそうしたわけではなく、そのグループ内の葛藤を上手く立ち回ること能力がないために自然とそうなっただけのことであるが、このニュートラルな立場というのが、他の者から見れば却って胡散臭く思われたり日和見と思われたりして、他者から思わぬ恨みを買ったらしい。当時も今振り返ってみても、全く馬鹿げた話だったが、一方で、自分自身が組織の中で働くにはそういう能力を著しく欠いた奴だとは十分に思い知らされた。
その先輩の問わず語りの思い出話を聴きながら、その当時の自分の中で無意識に作った物語の中で演じていた役回りを独り思い出していた。
最後に、その先輩が「俺なあ、あの当時本当にしんどかったけど、今はすごく楽で幸せなんだ」と仰った。
その先輩の気性からして、そうだろうなと思ったのがひとつ。それからの年月を経たご本人が、その言葉を吐いたことに対して、“it’s so nice to you!” と心からの祝福の念を抱いたことが、ひとつ。
そして、その言葉に頷きながらもの、自分自身のそれからを振り返って“ボク自身もそうなのです”と心の中で思えた。あの時の事があるからこそ、今の自分がある訳であり、あの時のエピドードを時々思い出すたびに、その物語に対する意味付けは少しずつ変わってきていることを再認識した。
祇園の料亭で、しみじみした気分を味わい、ほろ酔い気分となったところで、大阪まで帰るために、一次会で酒席を辞して、先輩ともう一人の同行者と別れた。雨は相変わらず降り続いていたが、帰りの車窓から暗くなった景色をぼんやりと眺めた。
翌朝、再び会議場に出向いた。会議日程はこの日が最終日で私から見て魅力的な議題も少なくなっていて、いっそのことサボタージュして大阪見物をしようかとも思ったのであるが、なかなか捨てがたい演題がひとつあり、その一演題を聴きたいがために、魅力的に映る街の誘惑を断ち切って、会場入りしたのだった。
私が楽しみにしていた議題の演者はK.O.さんで、この方はある一定の年齢(50代後半)以上の日本人なれば知らないヒトは居ないであろう、名前は知らなくても彼の作詞した曲を耳にしたことはある筈である。若い頃はフォークソングで一世風靡して、その後も私と同じ職業の世界でも一流の専門家として多くの本を著していた。
私がこの仕事世界に入りたての新人で、この業界の右も左もまだオリエンテーションが付かない頃に初めて出させてもらった会議に、この方が司会やアドバイザーとして出席しておられた。キャリアの上でも、第一線に出ておられて颯爽としておられて大変カッコ良かった。
そのヒトが主催する会議を聴講した後で、その会議に一緒に参加していた別の親しい先輩に、「K.O.さんって、何処かで聴いたことある名前だなあ」と何気なく話しかけると、その先輩が「あのさ、マサキ。あのK.O.さんじゃあないか、あの曲とあの曲を作詞した(超有名なフォークソング)…….。」と驚いたように、そしてそんなことにも気が付いてなかったのかと半ばあきれるように教えてくれた。
“わー、そうだったのか”と己の無知ぶりを恥ずかしく思いつつも、一方でこの仕事についたことへの喜びが沸き起こったものだった。この分野で仕事をしていく事・知識を深めていくことに対しても楽しみを改めて思い抱いたものだった。
あれから四半世紀経って、再びその憧れのヒトが目の前の演壇に立って講演している。セッティングされた会場は満員で、人気を私なりに見越して30分前に会場入りしたのに、既に席が確保出来ず、やむを得ず後に立って講演開始を待っていたが、後から後から聴講者が増えて立ち見する者も鮨詰め状態となった。
講演内容は、K.O.さんが長年専門とされていた分野の総説であったが、例え話も大変面白く聴講者の心を見事に掴んでいた。四半世紀前の第一線で活躍されて颯爽とされていたご様子とは多少佇まいの趣がやや変わっていたが、それでも心の中に若々しいエネルギーを十分に保持されているような話しぶりで、大変刺激を受けた。
あの初めて聴講した頃から、憧れはするものの、流石に“あんな風になりたい”と思うには偉大過ぎる方で、同一化しようにも出来ない方”であり、25年後の現在の私を省みると「随分違ったところに来てしまったなあ」と苦笑いを浮かべずにはいられない。
ただ、四半世紀ぶりにそのヒトの講演(講義)を聴かせて貰って、フレッシュマンだったころの自分を少し思い出し、エンパワーメントしていただいたことに一方的に感謝する次第である。
K.O.さんの作詞したフレーズ~どこか青年期の孤独を軽やかに描いている~が好きで、これまでも時々人知れず口ずさむことが有ったが、これからも人知れず口ずさんで行こうと思う。少し自分のこれからの勝手に作り上げていく物語のコアの部分を再注入して貰ったような気がする。
この度の出張は図らずも、これまでの物語の解釈を少し修正し、そしてこれから紡いでゆく物語の台本を考える時間となったようであった。少しの間自分で勝手に作った物語の舞台から降りて、楽屋でふとこれまでの自分の役を眺めてこれからの物語の行方を思案する良い時間となったようであった。
K.O.さんの講演を聴き、同じ建物内にあるコーヒーショップですこしぼんやりとそんな事を考えてみたりした。
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