コウイチの質問に対する返礼として
先日コウイチよりFBを介して「仕事で疲れたらどういう風にしていますか?今日はエネルギーが枯渇してしまったという状態だと…….。寝ること以外で。」なる質問を貰った。
“そうさねえ”と思う。
仕事で疲労困憊になった状況になった時、私ならば「酒飲んで飯食って寝る」こと以外に思いつかなかったので、その時にはそのように返事をしたのであったが、返事してしまった後で、“何とも芸のない返事をしてしまったものだ”と後悔し、何となくボンヤリと考え直している。
疲労困憊の態度にも依るのだろうけれど、身動き出来る程度の疲労であれば、去年の今頃までならば、何処か夜の街に繰り出したいと思っただろうか。
例えばこの初夏の時期なれば、ちょっと無理して日が暮れる間に何とか盛り場に辿り着き、仕事帰りのヒト達が嬉しそうに思い思いの店に向かう様子や出勤途中のお姉さま方を眺めつつ、開店直後のショットバーのドアを開けるだろうな。ジントニックを注文し、店主と簡単に時候の挨拶などをしつつ、独りで“さてこれから何を食べようかな”と思案するのだろうな。
そして十中八九は、行きつけというほどで通っている訳ではないが、ある割烹に席を移し、季節の野菜や魚を注文し、生ビールを1杯、冷酒を2合程度呑むのだろうと思う。そうして、日々の疲れを癒す…….。というのが、私に有りがちなパターンなのだろうと思う。
ただ、この初夏は全くそんな気持ちと云うか欲動が沸きを起こらず。寧ろ外呑みも外食も面倒くさくなってしまっている。
話はちょいと脇道に逸れるのであるが、以前同じ職場で働き今では転職している女性が時折LINEに一言二言入れてくることが有るのであるが~あのLINEって、色んな人がお友達に登録されるのって辛いなあ~、一昨日は「どうも私は最近ときめきが足りないようだ」とどう応じたら良いものかとこちらが困るようなことを書いて寄越した。プライベートでも仕事上でも充実している様子なので、“何のこっちゃ”と少々面倒くさく感じたので、深く話題に入るのを避けるつもりで何気なく深く考えもせずに、「こちらは、この年になるとときめきなんぞ、どうでもよくなっている」と返すと、すかさず先方から「老けるぞw」だと再度返してきた。
その時は“全く要らぬお世話である”と独り苦笑いしたのだが、改めに思い直してみるに“ときめく感覚なんぞはどうでも良い”と思う実感が己の内面には確かにあってそれはそれで良いのであるが、一方で、外呑みがどうでもよくなっていることにせよ、何がしかにときめくことに無頓着になっているのは、感受性や欲動が摩耗して精神的に老け込んでしまったのかしら、それとも慢性的疲労が知らぬ間に蓄積されて感情鈍麻になっているのかとふと考えたりした。
ただやはり昨今の己を振り返ってみると、さほど疲れは溜っていないように思える。私には、疲労を貯めないようにするためにちょっとした生活上の手配があって、それは“長い通勤時間”を確保することであった。これまで意識的に職場から通勤で30分以上かかるところに居住してきた。私の場合には、仕事モードから家庭モードに或はその逆に切り替えるのに、どうも30分は必要なようであり、特に帰宅時に、外の景色を眺めながら音楽を聴きながらぼんやりと過ごすのが、クールダウンになってい良いようである。ここ10数年は、職場から1時間10分程度の通勤距離で、これだとクラシックアルバムを丁度1枚程度聴き通すことが出来る。
例えば、今月始めなどはこんな景色に出くわした。
ふとクルマを停めて、初夏の夕暮れに光彩が刻々と変わっていく様子を眺めていると、カー・オーディオからは武満徹の「orchestra work: dream time, nostalgia, etc/ Iwaki Hiroyuki,
Melbourne Symphony Orchestra」などが流れてきたりして、知らぬ間に目の前に広がる景色と音楽が調和している状態に恍惚と気持ちに浸っている。“この世の中には、まだまだ美しいものが存在しているんだよな”と何時もの能天気な考えが湧いて来て、そうしていると先ほどまでの仕事上のごたごたやフラストレーションも何時の間にやら何処かに消えて、その日の疲れも癒されている。こういう状態になると自宅に辿り着くころには、何事もなかったような顔でまた家庭の日常に滑り込むことが出来るのである。
大体こんなところが無趣味なオトコのストレスおよび精神的疲労の解消法なのだけれど、こんなところで宜しいでしょうか? コウイチ殿w。
これ以上のストレスレベルが溜ると、買い物っていう行動もあるのだけれど、その件はまた何れにか……….w。
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