2020年4月28日火曜日

2020年4月の私的エピソードアラカルト 


エピソード 1

4月に入り、春らしい陽気に照らされて春の草花が次々と咲き誇り、野山には新緑が映え、見る者を楽しませてくれている。例年に比べて空が青く空気が澄んでいるように感じるのは、世の中の活動が停滞している故だろうか。

20204月は、covid-19が全世界に蔓延し、各国の人々の営みや国際関係に大いなる災いをもたらしたと書き残しておかなければならぬ。感染が報告されて以来3か月も経っているのに、我が国においてはその収束の目処は未だ立たず、経済へのダメージは強まり、やがて世界大恐慌並みの大不況となるだろうと予測する者もいる。

そんな状況なものだから、能天気な事をこのブログに書く気にもなれなかったのだが、後に振り返って歴史教科書に残るであろう世界的事件が進行中の下、我がおバカ思考の断片を書き記しておくのも悪くないと考え直し、以下にこの月の私的エピソードを書き連ねておこうかと思う。



43日(金)の午後、次兄の家族と私の家族で亡父の17回忌を執り行う。東京在住の長兄は、covid-19の感染拡大に伴い帰省を自粛した。当初は、兄弟3人でお寺にお参りし、久しぶりに兄弟だけで会食でもしようと企画していたのだが、「3密を避ける事のお達しやら飲食店での感染例が問題になる中(そういえば法事の集まりで感染したケースもあった)で、私たちも会食をすることは自粛しようということになった。誠に残念である。オトコ兄弟という関係性は、年を経るにしたがって夫々の仕事や家庭の事情などにより疎遠になりがちなものだから、兄弟3人水入らずの時間を持つ機会はそうそうなく、これからもあまり持てそうにない。

父が亡くなり早くも17年が経った。時の流れは本当に早いもので、生前は色々な葛藤を感じる存在であったのが、今では懐かしく思い出される存在となった。住職の読経を聴きながらその後の17年間を振り返り、いつの間にか父が居ない事が日常になった意味を考えながら亡父への感謝を念じて焼香をした。

410日(金)午後、元同僚の3回忌に合わせて墓前にお参りする。墓所に向かう車中でガラス越しに明るい陽射しの中で満開となった沿道の桜を眺めていたら、突然軽いめまいを感じた。この感覚は、2年前の春に彼女の入院先に向かった時にも感じた感覚で、急にあの時の心境がフラッシュ・バックした。

彼女は、私にとっては同僚というよりもむしろ同志のような存在で全幅の信頼を寄せていた。その急逝による喪失感は、ちょっと言葉に出来ない。あれから2年、私の職場は色々な困難を生じて来たが、それまでであれば、真っ先に相談していたはずの相手が居なくなったのものだから、その度に途方にくれたものだった。幸いにして、他のスタッフと共になんとか態勢を立て直しながら、その都度トラブルを乗り越えて来たのだった。



そしてこの度のcovid-19の課題。どういう展開になるか今の段階では先が読めないが、最善を尽くして乗り越えようと職場の士気が維持されており、その事を大変有難く思っている。

明るい陽射し、変わりゆく花々、そしてうぐいす、雲雀、セキレイなどの野鳥のさえずりなどの春の到来は間違いなく私の心を愉しませてくれる筈なのに、現実生活にはcovid-19という目に見えぬ災いが私の心を暗くさせている。この心理的ギャップをどういう心持ちで処理すれば良いのかしばらく戸惑っていた。



“来春は、どんな気持ちでこの二人の命日を迎えることになるのだろうか?”。

こんなペースでこの疫病が蔓延を続けるとしたら、いずれ私もそう遠くない将来にこの疫病につかまってしまうのだろう。来春の花を見る前に私もこの世から居なくなってしまうことも十分にあり得る。そうか、そう思ってしまえば『この1年間も私なりに目の前の事に最善を尽くして行けば良いのだけなのだ』『この1年間を大切に生きてみようか』と思い至った。

そう心が定まれば気分も随分軽くなるような気がした。改めて生きるモチベーションを確認した次第である。



エピソード 2

4月某日 次男と電話でやり取りする

大学生活2年目を迎え、新しく通うキャンパス近くのアパートに引っ越したものの、新学期がなかなか始まらなかった。なんでも、新学期スタート直前にその街にcovid-19感染者が確認され、用心を期して新学期開始が延期になったとのこと。学生は自宅(下宿)待機となり、ランダムに安否と健康チェックのために学校に呼び出されることになったとのことだった。次男にいつその順番が回ってくるのか分からないので、下宿を離れる訳には行かなくなったとのことだった。

私が「なんだか、下宿に軟禁状態で可哀想だな」と伝えると、次男曰く「こんなことを言うと不謹慎だと思うが、結構今の生活を楽しんでいるのだ」とのこと。朝早く起床してアパート周囲を散歩。朝食を済ませて、午前中は4時間ピアノ弾き、午後は3時間程度勉強(好きな本を読んで、気になった箇所を大学ノートにメモしている)、それから1時間程度チャリ、夜はまた好きなだけ本を読んで、午後10時に就寝、なのだそうな。「オレ、今の時間を大切にしたいと思うのよ」とのこと。「大いに今の時間を楽しめ」と返答して電話を終える。



ニュースによると、この疫病による経済苦境で学費や生活費が賄えず、大学生の13人に1人が大学を辞めることを考えているとのアンケート調査結果が出たのだという。子どもたちに、そんな辛い選択をさせて良い筈がない。大人がなんとか守ってあげる方策を考えないといけない。各学校の新学期開始も遅れ、covid-19の蔓延が収束しない限り1学期どころか今年度の年間プログラム履行が不可能になるのではないか。この1年間は、学校プログラム停止の代わりに学費も全額減免にして、2020年度はそのまま翌年に持ち越しにしても良いのではないかと思ったのだが、そういう措置を取ると何か不都合が生じるのだろうか? 可能な範囲での自由登校、芸術・スポーツ、社会奉仕、高等教育であれば自由課題に取り組むのも良さそうだ。子ども達に安心して今という時間を楽しんでもらえる仕組みを考えないとね。



4月某日 長男と電話でやり取りする。

長男は、今春都内の某企業に就職した。例年であればグループ会社合同の入社式が都内のホテルを借りて行われることになっていたのであるが、この度は出社初日に新入社員が配属先の各部署に集まり、WEBで社長の挨拶と訓示を聴き、その後諸々の庶務手続きを行ったのみで、翌日からテレワーク・自宅待機となった。毎朝9時から午後630分までパソコンを前にWEBによる初期研修を受けているとの事で、それは大変苦痛であるとの事。長男は、本来であれば、仲間とやりとしながら作業を進めて行くのが好きなのであるが、この状況下では上司・先輩とも同輩の者ともコミュニケーションが限られ、新人同士で懇親会を開くことも出来ないとなれば、本人としてもさぞ不本意な事だろうと察しているが、今のところ本人からは「なんとかやっているからさ」とのみで、愚痴めいた言葉は発せられていない。

長男は、「オレ本来はオフィスファシリテート部門に行きたかったのに、何故かITマネージメントに回されて、ITなんかまったく興味ないのになあ。仕方ないから、ここにいる間に取れるだけの資格を取って、おさらばするわあ」なぞと言う内容のわりにはのんびりとした口調で話していた。その言葉の中でオフィスファシリテートが何をして、ITマネージメントがどんな業務を担うのかは、門外漢のオヤジには皆目見当が付かぬのではあったが、「ああそうか」「まあ、がんばれや」としか返答の仕様がない。


不景気が本格化しつつある中で、親にとっては子どもが無事就職出来たのは大変有難い事ではあるのだが、彼らの世代が就職してすぐに在宅勤務になり、休日も外出もままならず、友人にも思うように会えない状況はちょっと酷のような気がしないでもない。私が「休みの日ぐらい、学生時代の友達と短時間でも会えば気分転換になるのではないか?」と聴いてみると、やや口ごもりながら「やっぱりヒトと会うのは遠慮しておいた方が良いよな」と返事した。更に「GW暇だな、何しようかな?」と言ったが、私には妙案がなく「それはオレも同じなんだよ」としか答えようがなかった。

彼ら若い世代にとって、covid-19によってもたらされた災難がその心に刻まれていくのだろう。彼らは彼らなりのしなやかな思考や行動でもって乗り越えていくものと思われるが、その過程で彼らはどんな新しい文化や価値を形成していくのであろうか。そういう若い人たちの生き様をオヤジたちはこれからも静かに見守っていけたら良いなとなぞと、薬にも外にもならない他愛もないことをふと思ったりした。

2020年3月22日日曜日

長門国への旅路

314日(日)、ふと気が付き手元の腕時計を見るとa.m.7;15を過ぎていた。前日、家内が不在であることを良い事に少々呑み過ぎてしまったようだった。慌てて、洗面を済ませクローゼットに走り、普段着を適当に着込み、スマホでyahoo乗換案内で電車の発着時間を確認し、自宅を飛び出て最寄りの在来線駅に向かったのは、a.m,7:30だった。

“しまった、予定よりも1時間遅れてしまったわい”。この頃は着実にジジイ化が進み、めっぽう朝に強くなっていると過信した己を呪いつつ、最寄りの駅に向かって歩を速めていた。

家内は、3日前から愚息2号(次男)の大学進級に伴う引越しの準備に彼の下宿先に滞在していた。その日の前日に次男の新年度から通うキャンパス近くのアパートへの荷物を入れて、引越しの荷物を解き、整理整頓・掃除を始めている筈だった。

彼女から、「14日には、アンタも新しい部屋に来て色々と手伝ってよ」と厳命され、「あいよ」と応じたものの、たった休日1日だけで果たして役に立つものなのかどうか疑問に感じたのではあったが、セレモニーとして父親も手伝ったということにするのは後々の展開を考えると悪くはなかった。

最寄り駅a.m7;58発の在来線に乗る前に、lineで家内にこれから出る事、現地駅の到着予定時刻を告げて、電車のヒトとなる。疫病の影響で各交通機関の利用客は減少したとニュースで伝わっていたのだが、私の想像よりも乗客が多いのには少々驚いた。お互いのマナーとして、なるべくヒトの少ないスペースに立つ。朝飯を食べる暇がなかったので、広島駅で何を買おうか? あー、むさしの若どり弁当が良いか?いやいや昨晩は深酒してついついあれこれ食べ過ぎたから、コーヒーとパン程度にしておこうか?など、早くもお気楽一人旅気分を全開に、車窓を眺めた。

広島駅にa.m.8:06着。そこから、新幹線に乗るべく改札口横の切符売り場に近づくと、窓口の3人の駅員さんが同時に立ち上がり深々とお辞儀をして「いらっしゃいませ」と私に声をかけた。“わー、JR西日本のホスピタリティー”ってここまで来たのかと、旧国鉄を記憶するオッサンとしては素直に驚いた。これから向かう山口県宇部新川駅は、これまで利用したことがなく現地までの行程に私には不安内であったものだから、自動券売機よりも窓口で確認したほうが手っ取り早そうだった。その旨窓口係の女性に伝えると、テキパキと発券をしてくれて大変気持ち良かった。“ありがとう”と伝えると、明るい笑顔で「いってらしゃいませ」と応じてくれた。“ああ、時代が変わったんだな”と旧国鉄を知るオッサンは再度感心してしまった。

a.m 8:25発 こだま837号博多行き自由席に乗り込むまでの多少の時間を利用して朝食を物色したが、前日の食べ過ぎを考慮して、コーヒーショップでホットコーヒーとサンドイッチを購入した。ゆとりを持ってプラットホームに上がったつもりが、東京方面のそれに上がってしまい、慌てて博多方面乗り場に移動する。この辺り二日酔いで頭がボケていたわいw

こだま837号は、500系の車両だった。しばらくこの車両を見なかったが、こだま号として活躍していたんだな。この車両は、ドアが狭く客室内の頭上高も低く狭苦しい印象があるのだが、その姿がコンコルド(ああ、これも今はないね)を思わせてとても好きだったな。思わぬ再会に更に気分は良くなって、ガラガラの2号車の左側三列シートの窓際に座った。

家内へ再度lineで無事に予定通り新幹線に乗車したことを伝えると、駅までクルマで迎えに来るとの返事、そこまでは良かったのであるが、どこそこまで来てほしいと、全くもってローカルな店舗の名前を挙げている。次男の大学受験の際にこの度のキャンパスまでクルマで迎えに来たこと、新しい下宿先を探すのにこの界隈まで再度来たことはあったが、ローカルな店舗を挙げられても全く見当が付かなかったし、私としては駅から徒歩圏内の次男の下宿先まで歩いたほうが気持ちも良さそうだった。歩いたほうが更に街のオリエンテーションがついて好都合なのになと思ったのだが、家庭内での決定権は家内に移って早や四半世紀、ここで争っても折角の旅行気分が萎えると想い適当に了解の旨返答する。

こだま837号の自由席2号車は、私以外の乗客は2-3人。こだま号という新幹線の各駅停車故に普段から利用客は少ないのだろうけれど、この休日にこの少なさはやはり疫病によるものかと思えた。気持ちがやや曇るが、気を取り直して先ほど買った珈琲並びにサンドイッチを袋から取り出し、窓外を眺めながら朝食を摂った。窓外からは春めいた明るい陽光が射し、この1年ですっかり馴染みになった山口県内の山々や街の風景が眺められた。縁とは全く不思議なもので、私の人生の中で山口県を頻回に訪れることになろうとは子どもが同県に進学することになるまで全く想像が出来ていなかった。次男が1年前に同県内に進学したことをきっかけに、私は定期的にドライブがてらに彼の下宿を訪れることになり、少しずつオリエンテーションがつき始めると、それなりに愛着の湧く場所になりつつあった。

山口県は、その名のごとく大小の山々が連っており、その稜線間の土地を開墾して出来た田畑が広がっている区域と沿岸部では干拓地が広がり現在では工業地帯が連なる区域がある。次男が大学の教養部で習ったところによると、そういう開墾や干拓を進めて農作地を造成することを「開作」と呼ぶらしく、mapを眺めてみると同県内の各所の字にこの「開作」という名前が残っている。

司馬遼太郎のエッセイを読んでいると、関ケ原の合戦で毛利の殿さまが120万石の太守から、長門周防国2か国24万石程度に減封されるにあたり、それまでの家臣団を養うために領国内の開墾・干拓を覆い奨励したらしい。江戸末期には実際の石高はその倍程度にはなっていたそうだから、江戸時代の山口の人々は相当頑張ったということになる。そういう目で眺めてみると、長年に亘ってこの土地のご先祖様が、この土地を懸命に切り開いてきた名残が各所に残っているようでちょっとした感慨を覚える。


a.m.9:12 に新山口駅に到着。同駅でJR山陽本線に乗り換え4駅先の宇部駅まで。日曜日午前9時過ぎに乗ったJR山陽本線の車両はガラガラで、この驚くほどの乗客の少なさが普段の状況と変わらないのか、疫病による外出・活動自粛の影響によるものかは、来訪者としては判断がつきかねた。a.m.09;18に新山口駅を出発し、線路は北西側に向かって半弧を描きながら宇部駅へ向かう。左右には低い丘陵がいくつも現れて間に挟まれた土地には手入れの行き届いた田畑が見えた。そして緩やかにアップダウンを繰り返しながら線路を並走する或は横切る道路が認められていた。“ああ、折り畳み自転車で輪行してこの辺りをのんびりと走っても面白そうだ。今度イチロウを誘ってみるべ”などとのんびりとした感想を抱きつつ、小気味よく揺れる車両に身を任せながら初めて見る景色を眺めた。

a.m.09:41に宇部駅着。下りた駅構内の雰囲気はちょっと閑散としていてローカル感たっぷりの風情あり。勝手に旅情に浸っているオッサンとしては、悪くない。ただ、昨晩無理して宇部に来ようとしなかったのは正解だったかもしれぬ。夜に見知らぬ土地のこの駅に降り立つのは少々心細くなるかもしれない(地元の皆さん、多少表現に差しさわりがあるような気がしますが、あくまでも旅慣れぬ初老のオトコの主観体験なので、ご容赦願います。)。


宇部駅からa.m.09:50発新山口駅行きの宇部線に乗り換える。宇部駅に降り立った時には、既にその隣のホームに2車輛編成のディーゼル車は静かに止まっていた。急いで先頭車両に乗り込むと、23組の地元の女子高生のグループと地元らしき初老の女性がいた。先ほどの山陽本線よりも乗客数は少し多めであることに多少不思議に想いつつも、他の客と間を開けて座る。出発時間が近づくと、車内アナウンスで「これは宇部線の新山口駅行きだよ。これはワンマンカーだから、降車の際には運転手横のドアから下りてね」が知らされた。

“はて、ワンマンカーというのは私が持っている切符はどこで渡せばよいのかね?運転手に渡すのかい、それとも各駅に切符回収ボックスなどがあるのかい?”そのようなことが多少気がかりになる。運転手は、恰幅の良い初老のオジサンで、運転席から出て車内後方を何度か確認し始めた。ちょっと強面の人物のように映った。

ディーゼル車は定刻にゴトリと動き出し、しばらくすると山陽本線脇から右方南東に向かってrの字をなぞる様に単線に引き込まれた。しばらく左右にガタガタと揺らせながら、休耕地を多く残す住宅地を進んだ。

ガタガタと身体を揺られながら、私の中でふと何かのスイッチが押されたように古い記憶が蘇った。

ある日の夕方に、私の父親が珍しくスーツを着こみ薄くなりかけた頭髪にポマードを付け、その匂いを残しながら玄関で「じゃあ行ってくる」と言い残し出かけて行こうとすると視覚的記憶だった。当時父親は40歳になりたての筈で、私は34歳の物心つき始めた頃だったと思う。私が「おとうちゃん、今回はお土産買ってきてよ」と後を追いかけるようにして訴えると、彼は苦笑いを浮かべながら「よっしゃ」と言い残し、待たせたタクシーに乗って出かけ行ったのだった。

その頃父親は自営業を始めて34年目だったが、大学時代の恩師からの推薦で、今次男が通う学部の教官をしばらく務めたことがあった。その勤務期間はほんの数か月だったかもしれない。彼がどういった想いでその仕事を引き受け、どういういきさつで辞めることになったのか、当時の私には全く分からなかった。今勝手に想像することは出来るのであるが、その事はここでは触れないでおく。

そのエピソードは今から50年も前の事であり、今となっては私の家族間の思い出話にもあまり上ることのない記憶となってしまっていた。当時は、高速道路もなければ、山陽新幹線もなかった。父親は、仕事がひと段落すると、1時間半程度かけて広島駅に出て、そこから山陽本線特急に乗り恐らくは2時間程度かけて日が暮れた宇部駅に降り立ち、そして単線の宇部線に乗ってここまでやってきたことになる。随分大変なことであったろう。図らずも、50年を経て能天気息子が、亡父の若かりし頃の行動の軌跡の一端をなぞっているようで不思議な感覚に襲われた。

40代前半の父がどんな気分でこの宇部線に乗っていたんだろう?意気揚々とか、それとも日常の仕事にぐったりとしながらか。改めてそんなこと想っていると、ああ、生前にもっと学部勤務時代の事を聴いておけば良かった。なんだかそこには父親なりの青春の残像風景がありそうで十分に語らせてあげたら良かったと思えた。

この4月でその亡父の17回忌を迎える。

さて、古い記憶に導かれてあれこれ考えている間に、私を乗せたディーゼル車は南東の海側に向かって小刻みに車体を揺らせながら進んでいた。住宅地を過ぎると前方の河口を挟んで大きな工場群が見え始めた。線路は海側に近づくと緩やかに左にカーブしながら進み無人駅に近づいた。二つ目の無人駅に停車すると、明らかに県外から来たと思われる旅装姿でキャリーバックを牽いている青年が、慌てた様子で車内を小走りに運転席傍のドアに向かった。切符を取り出そうとした弾みでペットボトルをポロリと落とし、それを急いで拾い上げて再度切符を運転手兼車掌役のオジサンに示そうとした。運転手兼車掌役のオジサンは、硬い表情を崩さず、「はい、さっさと下りて」「いいから、降りて」と繰り返し、その青年は戸惑いつつもそのまま車外に出たところで、そのディーゼル車は出発。

“わー、このおじさん、怖え~。この情景、なんだか旧国鉄時代の雰囲気そのままじゃん。”“オイラも、粗相しないようにしないとな・・・”と改めて、ポケットの中にしまっていた切符なり携帯を手探りで確認しなおした。

a.m.10:01私は、宇部新川駅に降り立った。幸いなことにこの駅は先ほどの宇部駅と同じ規模の有人駅であったので、何食わぬ顔でプラットホームに降り立ち、駅の改札で無事切符を駅員に渡すことが出来た。

同駅舎を出ると、ちょっとしたロータリーがあり、そこを左側に曲がって人通りの少ない閑散とした商店通りを学部方面に向かって歩いた。陽射しは相変わらず春めいた穏やかなものであったが、時折春嵐のような突風が私の身体を抑え着けるように通りを吹き抜けていった。

やがて
、家内と次男を乗せた見覚えのある車が停車しているのを発見。ドアを開けてシートに座るや否や早速家内が口早にこれからのミッションを喋り始めた。ちょっとした私の長門国への旅はここで終わり、再び現実生活に戻って行ったのであった。


おしまい

2020年3月21日土曜日

バカ親父の武蔵国物語・未完

このブログでは、政治・経済問題とか昨今の社会情勢、そして天変地異について触れて来なかった。むしろ意図的に避け、おバカで内向きの話題を敢えて書き連ねて来た。

ただ、20202月から3月にかけて、私の日常生活においてcovit-19という聞きなれぬウイルスによる疫病が多かれ少なかれ影響しており、これからしばらく間我々の心の片隅にこの疫病が暗い影を落とすことは必定となりつつあるために、このブログにも多少触れることになると思う。

後になって振り返ると2020年は、この疫病が世界に蔓延し、世界規模で大きなダメージをもたらし、私の日常生活にも少なからず影響を及ぼした年になったと。

さて、私のごく私的な日常生活においても、これまでにもこの疫病による影響は多少出ていた。325日に挙行される予定であった愚息1号(長男)が通う都内の大学卒業式が中止になった。

2月上旬の時点で大学ホームページ上に卒業式・学位授与式の案内が出ており、バカ親父としては、この式典前日に奴の下宿先に泊り、親子で酒を酌み交わしつつ、祝いの言葉と社会人としての心構えのひとつやふたつを述べ、そして翌日の式典に最後列で臨み、長男の晴れ姿を眺めつつ我が内なる親子関係の整理・ある種の決別儀式をしよう、そしてその経緯なりを駄文にしたためて「バカ親父の武蔵国物語(完)」としてこのブログにのっけてしまおうという魂胆を持っていた。


大学ホームページで卒業式日程を確かめ早速長男にlineでその旨伝えたところ、なんと長男より「来なくて良い。遠慮する」「オレ、当日と翌日に謝恩会とかが在って忙しいから」との返事があった。このオトコ、成長するにつれて情緒のネジが一本足りないのではないかという疑念が湧いて来ていたのであったが、「親子のケジメ」なるものがちっともわかっていないではないか。返す言葉として、いちいち理を説くのも面倒くさいので「オレは、アンタと別行動になってもちっとも構わないから、何が何でも行くけんね」と返事をしておいた。

家内は早々と、「本人が来てほしくない」と言っているのだからと卒業式には行かないと私には表明してい、オヤジ独りが「子どもがいよいよ自立する節目なのだから」「親子間のケジメなのだから」と家内ならびに長男に向かって諭したのだが、その理が全くこの二人には通じず、「オレは絶対行くけんね」「これはオレのケジメだからね」などと何やら負け惜しみ、そして次第に哀願のような按配になって来ていた(笑)。

取りあえず、長男の卒業式に合わせて早々と職場と同僚にその予定を伝え、休日を確保。妻ならびに長男への卒業式出席の通達を済ませ、あとはどんな格好(スーツは春物か冬物か)で出るか、荷物はなるべく少なめにして・・・・などと思案していたところ、我が政府から「イベントの自粛要請」「各学校の休校要請」なるものが大々的にアナウンスされ、従って右に倣え文化のわが国民としては、一斉にその要請に従って各種イベントが自粛され、各学校の休校が決まって行った。そうなると、長男の属する大学当局も卒業式を中止するとの決定がなされ、その旨の連絡はがきが我が家に届いた。

全くもーである!

疫病だから、目に見えない敵との戦争中であるから、全国民が不自由を強いられている最中だから、同じように日本全国津々浦々の学校卒業生とそのご家族が晴れの式典が中止になり大変残念な想いをされているのだから、実際に罹患し大変な想いをされている方々がいらっしゃるのだから、物見遊山で出かけている道中でその疫病に自分がかかってしまえば、家族、職場に多大なるご迷惑をかけてしまうから…….

よーくそこのところの理は解っていますぞ。オイラも分別の付くオッサンの端くれだからね。でもなあ、親として子どもに付き合えるイベントって、もうこれが最後だったんだよ。

それは本当に理不尽なことであるのだが、受け入れねば仕方がない。折角、「バカ親父の武蔵国物語」完結編をこのブログに記載しようとしていたのに、その物語は「未完」に終わってしまった。

長男に「卒業式は正式に中止になったな。オヤジは休みを取ったままなので予定通り上京することも出来るのであるが、疫病流行中につきこの度はそれも止めておく」とlineで送ったところ、2日遅れてたった一言「あいよ」だと。この情緒のネジ一本足りない野郎がw!

3月上旬には、長男が入社予定となっている会社から入社式開催の中止の連絡があったとのこと、そして長男の友人たちの中には、入社予定日がGW明けになった者もいるらしいとの話が、本人と家内の雑談から伝わった。あちこちに疫病の影響が出ているんだなあ等と家内と話題にしていたのだが、その後、同月下旬に差し掛かろうとしているのに、長男の会社から初出勤日の通知が来なかった。ニュースでは疫病による経済活動のシュリンクにより、新卒者の内定を取り消した企業も出てきたという話題もあった。

二親の間で「ひょっとしたら長男の会社も採用取り消すことがあるのかもしれないのかね」「そうなったらそうなったで、今度こそ資格を取らせるべくどこかの専門学校に通わせるも良いか」「その間、ゼミの先生に頼み込んでゼミの雑用バイトをさせてもらうか?」などという会話が食卓に上がった。

肝心の本人からは何の連絡もなく、「流石に不安になっているのではないか?」「こちらを心配させないように連絡を寄越さないのか」と暫くの間二親なりに心配し気を揉んでいた。

320日に私から長男に対し、さりげなくlineを介しで他愛もない話題を振った後で「出勤日決まったか?」と聴くと、「41日から出社が決まった」と簡単な返事を寄越した。「良かったな。おめでとう。」と返信すると、彼は「41日から働かせられる。参ったw」と応じた。

このオトコ、情緒のネジが1本足りないだけでなく、状況分析力のネジも1本も2本も足りないことが判明。〝先が思いやられる……。″私が、「あのなあ」と続けて、これから世界恐慌並みの不景気が来るかもしれない状況で、きちんと職に有りつけたのはラッキーとしか言いようがないことを伝えると、彼は「それな。笑笑」だと。

まったくコノオトコダケハ………

長男の能天気ぶりに呆れると共に、男親として正直なところやっと安堵する気持ちになれた。このオトコの成長過程においては、親の身勝手で過大な期待を裏切られることもあったけれども、大学に入り、本人なりに尊敬と信頼を抱ける恩師(大学ゼミ担当教授)に出会い、夢中になってゼミの課題と活動に取り組んでいたようだった。昨年の暮れに帰省した折、「オレな、大学受験上手くいかなかったけど、今の大学ゼミに入れて良かったわ。今凄く自分に納得してるんよ」「先生にな、『お前は目標設定が高過ぎるから、目標に到達出来ないことが多いんだよ』と言われたんだけど、でもな、オレは目標を高く設定せんと成長できんと思うんだけどな」などと問わず語りをしていた。

それを聴いた時に、私は彼に対してとても申し訳ない気持ちになっていた。「能天気」、「天真爛漫」(彼の中学生時代の担任教師が評した彼の性格)な子どもに対して、高い目標設定を課したのは親であった。幸いなことに、彼自身はその性格を大きく歪ませることなく、幾つかの挫折体験を乗り越えてここまで来た。これは彼には未だに足りないところが多々あれど、独特のキャラ故に乗り越えて来れたとも思える。

バカ親父には、これから彼がどんな航跡を描きつつ人生を進んでいくことになるのか想像がつかないし、独り立ちしてゆくオトコに相応しい言葉もかけてやれないのだが、「本人なりによく頑張った」とここに書き残しておこうと思う。

「バカ親父の武蔵国物語」は思わぬかたちで、そしてスッキリとしたオチのないまま終わりになるのであるが、それは我が家の親子関係を象徴しているようにも思われ、タイトルには敢えて「未完」を添えたのだった。




バカ親父からの卒業、おめでとうさん。



おしまい

2020年2月11日火曜日

萩往還~ちょっとさわりの部分を走ってみた~

202022日の前日に次男宅に泊めて貰う。次男は学年末試験を前日に終え、快く私の宿泊を了承してくれたのは良かったが、意外にも明日半日は遊んでくれろと言った。泊めてもらう身としては、多少なりともホストの希望にも応じざるを得なかった。

この度の宿泊目的は、前々から気になっていた『萩往還』と呼ばれる古道に沿った山道を自転車で走ってみようということだった。萩往還は、江戸時代中期以降に発達した藩の政庁が置かれた山口/山陽道と萩城下を結ぶ街道であったらしい。現代では、この古道にそって山口市街地から山間部を縫って萩市内へ通じる県道が通っている。以前家内と山口に来た折に萩を目指したことがあって、クルマのナビが指定した道がこの県道で、なかなかきつい勾配と曲がりくねった道なりが、自転車乗りにしてもバイク乗りにしても恰好な走行コースであるように思えたものだった。


可能な限り出来れば半日使って、この古道沿いの県道を走ってみたいものだと兼ねがね思っていたところ、この度妻が他用で不在となったため、この機会を使って、クルマに自転車を載せ山口までやってきた。


当日朝08;30頃に次男の部屋を出て、JR山口駅前に08;45頃に到着。そこから萩往還が通った県道62号線の峠道を目指す。国道9号線バイパスを横切り、重要文化財瑠璃光寺を左手に見ながら進むと、旧街道を思わせる街並が少し続く。やがてはその街並みを通り過ぎると、左にカーブし川沿いのなだらかな坂道に差し掛かった。

同伴者はいないので、ゆっくりと慌てることなくペダリング。自分の最適と思われるケーデンスをキープしながら慎重にギアをlowに落としていく。やがて進んでいくと左眼下にダムとダム湖があった。この辺りからはしばらくフラットな見通しの良い道が続いた。

しばらく進んでいくと、左右の斜面に数軒の人家が見えて、再び右に大きくカーブが見え、その正面に『萩往還』と書かれた標識があった。現代の道県道62号線は右に大きくカーブし、ここから勾配がきつくなり道幅も狭くなっていた。

周囲を林に囲まれた狭い道は、人影も行き交う車両もなく時折鳥の鳴き声が聴かれるばかりで静かであった。勾配は次第にきつくなり左右にカーブ、そしてつづら折りを繰り返し、ピッチは上がらねどもマイペースでペダルを廻した。

六軒茶屋跡地と書かれた道標を見て、県道を横切るように左右の急斜面に石畳の道がちらりと見えたあたりから両脚に疲労を感じ始めた。


「しかし、昔の長州藩藩士は大変だったのだろうな。山口政庁から萩城下に向かうのに、いきなりこの急峻な山道を越えないといけないものな。籠にしても、馬で越えるにしてもこの山坂道は大変だ。ましてや徒歩となると難儀なことだったろう。特に幕末の動乱期になると、この藩は勤皇派と佐幕派に分かれて大騒ぎになり、吉田松陰の安政の大獄、長州征伐の際には奇兵隊の活躍。その間、長州藩士がこの道を忙しなく行き来したのだろう」

六軒茶屋跡を過ぎて曲がりくねった登り坂を進んでいくうちに、頭上の視界が次第に開け、初春の青空が見えるようになった。あともう少しで峠のピークに達するだろう、あともうひと頑張り・・。大きく右へカーブすると、勾配11%距離にして大体300400mの直線があった。


“ひえ~、これが最後の難所かいな・・・・”心が折れそうになり、そろそろ両大腿部が攣り始める兆候が出現。静かな峠道に己一人。呼吸は荒くなり、両耳の奥で鼓動がぎゅっぎゅっと聞こえ始めた。ここらあたりで一休みするか?それとも登坂を続けるか、そのような逡巡を覚え始めた時、〝往時には国難を背負った藩士がこの険しい山道を息つく暇もなく上て行ったのだもの。現代のお気楽な中年男がこのくらいの難儀で弱音吐いてどうするの?“と思えた。そう思うと、密命を帯びてあるいは志を秘めてこの古道を登って行った長州藩士たちの激しい息遣いが聞こえてきそうな気がして、私はもう一度心を奮い立たせたのであった(なんて書くと、司馬遼太郎みたいでしょ?w)

なんとか勾配11%の直線を上り切ると、程なく峠ピークに達したのであった。到着時刻09;55くらい。


このまま、この道を下ることも考えたのであるが、前夜の次男との約束もあり、昼までに帰着する自信がなかったので、このピークから来た道を引き返すことにした。ゆっくり下りながら、何枚かの写真を撮った。市街地に戻ると瑠璃光寺の境内を外から眺め、立派な作りの山口県庁舎を眺めつつ、次男のアパートを目指す。1045頃に帰着。

午後から、息子のリクエストで萩市へドライブ。午前中上った県道を今度はクルマで走行する。険しい上り坂に差し掛かると、次男曰く「ここをチャリであがったんか?バカだねえ~」と一言。“そうだよ、ただの坂バカだよw”と返す。

萩に着くと、松下村塾と指月城跡を見学。吉田松陰を祀った神社があったが、司馬史観に影響を受けているせいか、多少の違和感あり。彼はただ純真一途なヒトで思うがままに行動した青年だったのではないかと。若さゆえのある種の美しさはあるけれど、神社に祀るようなヒトだったのかな?(関係者の皆様、すみません。単なる主観的な想いであって、彼の事績を貶めたいわけではございません。)


その後、萩城(指月城)跡を次男ふたりで散策する。日本海につき出した小山にそのお城はあった。そのそばには碁盤の目に区画された城下町跡があって、美しい街並が残っていた。江戸時代も今と変わらぬ静かな街だったのだろうな。なんだか山陽表の忙しなさから隔絶されたような静かな城下町がそこにはあったような気がした。



(おわり)

ケースレポート/「変わりあんパン」に見る、ある中年夫婦の機微について


症例;Mさん53歳男性


主訴:「この先私は、今後の夫婦関係をどうすれば良いでしょうか?」

既往歴:特記事項なし

家族歴:現在、妻と二人暮らし。挙子二人(いずれも男児)。子どもは二人とも進学に合わせて、本人宅を離れた。

嗜好歴;アルコールは何でも好き。週4回飲酒。喫煙(-)

人格的傾向;本人談 「優柔不断だけれど、頑固。いつもニコニコしているが、ヘラヘラとしていると他者から言われる。恐妻家」

経過:

 X1月のある週末に、Mさんは妻と一緒にあるショッピングモールで買い物。その日の夕食食材を買い物している時に、妻から「明日の朝食用にパンを買って帰ろう」と提案された。Mさんは、その食品売り場にあるベイカリーの人気商品である「あんバターパンをひとつ買ってくれろ」と応答。しかし、夫婦ともに他の事に関心が移り、朝食用パンならびに『あんバターパン』は買わず仕舞いだった。

 その翌日夕食が終わり、Mさんがしばらくそのままテーブルで寛いでいると、妻が「これ朝食用に持って行き」と紙袋を渡した。Mさんは、中をあらためず「わかった、あんがと」と言い、通勤用バッグにしまい込んだ。翌朝、職場でその包みを広げると、『あんパン』ひとつが入っていたので、缶コーヒーと共にそのパンを朝食として食べた。

 同日晩に、夕食後いつものごとくMさんはテーブル席で寛いでいたところ、妻が「ああ、そうだ。忘れないうちに」と言い、紙袋をマサキさんに渡した「明日の朝食用」と。マサキさんは中身をあらためず、「サンキュー」と言ってその袋を通勤バックにしまった。翌朝職場でその袋を開けると、前日とは違うメーカーの『あんパン』がひとつ。前日のごとくそれを朝食とした。

 その晩、Mさんが夕食後に寛いでいると、妻はひとしきり喋った後、「これ、明日のパンね」とMさんにビニール袋を渡した。Mさんが何気に中を見ると、また別のメーカーの『あんパン』らしきものが見えた。

Mさんは、基本的に妻の出す食事は「何の注文も、クレームも言わない主義」なのだが、流石に3日連続の『あんパン』はちと辛く、思わず「ええ~、またあんパンなの~?」と妻に聴いた。彼女曰く「だって、『あんパン好き』って言ったじゃん!」と返答。Mさん:「ちゃう、ちゃう」「俺が食べたいと言ったのは、『あんパン』じゃなくて、『あんバターパン』!」「似たようで、全然違うのよ・・・・」

それに対して、妻は「そんなの知らんわ」と応じ、そのままMさんの前に“ずいーっ”
とその包みを押し返した。Mさんは仕方なく、その包みを通勤カバンに入れて、翌朝三日連続の『あんパン』を朝食として食べた。

4日目の夕食後、妻が「じゃあ、これね」と言ってMさんに渡したのが、『つぶあん&マーガリン/ 黒糖ふーみロール』なる菓子パン。マサキさん:「ムムム・・・」と内心唸りつつ何も言わず。翌朝朝食にして食べたところ、〝甘すぎて無理っす“と途中でギブアップしてしまった。


※あくまでもご本人の主観的感想であり、この商品の優劣を述べているものではありま

せん

5日目の夜、妻「今日、知り合いの奥さんと外出した時に、有名なパン屋さんがあったから」としてMさんに渡したのが、『りんごあんぱん』。Mさん;「こ、これは・・・・」と再び密かに唸ったまま、何も発せず。翌朝喰ったところ、「全くのノーマーク。でも、結構イケている。」と内心ホッとした。


  あくまでもご本人の主観的感想です。この商品の優劣を述べているものではありません。ただ、Mさんは、アップルパイやアップルパンが幼少期より好きだっただけのことです。

 6日目の夜は、幸いにして「朝食用パン」なるものは妻から支給されず。Mさん内心ほっとして就寝。翌朝は気持ち早めに家を出て通勤途中にコンビニに立ち寄ると、その名もずばり、『あんバターフランス』なるパンを発見。喜び勇んで、そのパンをひとつと缶コーヒーを購入してカバンにしまい込み、職場に着いて改めて包装の文字を読んでみると、〝バター入りマーガリン“と書いている。Mさんは、大変がっかりした。 

※あくまでも本人の主観的感想です。Mさんはマーガリンが多少苦手なだけで、商品そのものに文句は全くありません。


7日目の夜。夕食後妻から音沙汰なく、Mさん〝しめしめ”と思いながら就寝。翌朝も気持ち早めに出勤し、通勤途中でとあるベイカリーに立ち寄った。そこで、Mさんの目に飛び込んできたのが、「塩バター・・・」ここまで読んでMさん悦びに満ち溢れた表情を浮かべ、そのパンをトングでつかみレジへ。それと、テイクアウト用にホットコーヒーを注文。商品を手渡されると笑顔で「ありがとう」と言い残し、クルマに戻って、早速パクリとやってみた。生地は、“バターの塩分にちょっとインパクトがあって旨し、だけど、アンが出て来ない・・・”。

「あー!」「こ、これは『塩バターパン』だ。『塩バターあんパン』ではない!」


※話は経過の最初に戻るが、Mさんが「バターあんパンが食べたい」と言った時に思い描いていたベイカリーが供するパンは、正確には『塩バターあんパン』で、クロワッサンの形状で生地は塩味が効き食感はフランスパンのような硬さを有したものだったのです。

 その時、Mさんが口にしているのは、食感といい塩加減といい、Mさんが思い描いていたパンの生地と類似しているのだけれど、そこに当然ながら餡が入っていなかっただけのこと。

 Mさんは、そこで己の早合点ぶり軽率ぶりに苦笑いを浮かべざるを得なかったが、己の間抜けぶりと共に、この一連のエピソードが最近の夫婦関係を如実に反映しているようで、しじみと省みざるを得なった。夫婦間の微妙なすれ違いが生じていることである。

 Mさんは、しばらく言葉にならない感情を冷めかけたコーヒーと共に飲み込んで職場に向かったのだった。


それから2週間が経った2月上旬の日曜日に、Mさんは、買い物の用事で出たついでに、時々利用するベイカリーに立ち寄り、目出度く本人がこれだと思う『あんバターパン』をひとつ購入。

翌朝、職場に着き、「いざ!」とばかりに喜び勇んで朝食としてそのパンを食べたのだった。この『あんバターパン』は、パン生地はフランスパンのような硬さで若干塩味が効いている、粒あんは甘さのコントロールが良く上品。厚さ2㎜程度のバターが餡の上に載せられている。粒あんの甘さと、バターの塩味が絶妙。
朝のエネルギー摂取と元気を出すのに最適!・・・の筈だった。ただ残念なことに、ちょっとその朝の体調加減のせいか、バターが重たかった。「ああ、オイラはもうこのパンを食べこなせない年になっちまっているのか」「むしろ、今後は塩バターパンくらいにしておこうか」と、Mさんは薄ら寂しさを感じたのであった。



(考察)

たかが『あんバターパン』ひとつを介した夫婦間のやり取りを記したケースレポートなのだが、そこには平凡な中年夫婦の抱える機微、中年夫婦の危機の兆しが内包されている。論点は、色々側面から指摘され得るが、

ひとつは、そもそもMさんが本人の求める菓子パンをその妻がその通りに購入してくれるのが当然だとしている前提が見え隠れしている点。昨今のテレビコメンテーターであれば、「オッサンが、そんなことでごちゃごちゃいうなよ」「そんなに欲しければ自分で買えば済む話じゃないか」と一刀両断で終わる話である。

ふたつ目は、それまでの経過の中では、妻が夫の朝食を気にすることがなかったのに、最近になって朝食を考慮し夫に菓子パンを買い与え始めている点。子育てが終わって多少なりとも夫に関心が向けられていると受け止めることが可能であるが、果たしてその再接近を夫がちゃんと気が付いていたかということ。そして、気が付いていたにせよ、果たして夫がその再接近に対して、多少なりとも気が重く感じてはいなかったかどうか。

3つ目、その夫婦関係の再接近過程において、それまでの四半世紀経った家族文化なり夫婦関係の積み重ねの中で一度完成した関係性を、どのような方法なり思慮を持って修正し解決させていくかという課題が今後も残るであろう事。これはなかなか言葉で云うほど簡単とは思われない。最近メディアを賑やかせている男女のゴシップに似た経過を辿るかもしれないし、〝第2のハネムーン”なぞとカウンセリング本に書かれているような経過を辿るかもしれない。要は、Mさんの心構えひとつに負うところ大で、果たしてMさんにそんな気力があるのかどうなのか。



等々と、己の日常的な葛藤を極力客体化してごちゃごちゃ考えていたら、マサキはとても面倒くさくなって、しまいには「夫婦間関係なんていっぱいそれらしい本も出ているし、テレビコメンテーターの人たちならしたり顔でごもっともそうな事を言うだろう。だけどね、結局のところなるようにしかならないけんね。」と思うのだった。

そして「いっそのこと、オイラはこれから『変わりあんパン評論家』にでもなろうかしら。」と、詮もなき新たな展望を見出そうとするのであった。


(おわり)