2020年3月22日日曜日

長門国への旅路

314日(日)、ふと気が付き手元の腕時計を見るとa.m.7;15を過ぎていた。前日、家内が不在であることを良い事に少々呑み過ぎてしまったようだった。慌てて、洗面を済ませクローゼットに走り、普段着を適当に着込み、スマホでyahoo乗換案内で電車の発着時間を確認し、自宅を飛び出て最寄りの在来線駅に向かったのは、a.m,7:30だった。

“しまった、予定よりも1時間遅れてしまったわい”。この頃は着実にジジイ化が進み、めっぽう朝に強くなっていると過信した己を呪いつつ、最寄りの駅に向かって歩を速めていた。

家内は、3日前から愚息2号(次男)の大学進級に伴う引越しの準備に彼の下宿先に滞在していた。その日の前日に次男の新年度から通うキャンパス近くのアパートへの荷物を入れて、引越しの荷物を解き、整理整頓・掃除を始めている筈だった。

彼女から、「14日には、アンタも新しい部屋に来て色々と手伝ってよ」と厳命され、「あいよ」と応じたものの、たった休日1日だけで果たして役に立つものなのかどうか疑問に感じたのではあったが、セレモニーとして父親も手伝ったということにするのは後々の展開を考えると悪くはなかった。

最寄り駅a.m7;58発の在来線に乗る前に、lineで家内にこれから出る事、現地駅の到着予定時刻を告げて、電車のヒトとなる。疫病の影響で各交通機関の利用客は減少したとニュースで伝わっていたのだが、私の想像よりも乗客が多いのには少々驚いた。お互いのマナーとして、なるべくヒトの少ないスペースに立つ。朝飯を食べる暇がなかったので、広島駅で何を買おうか? あー、むさしの若どり弁当が良いか?いやいや昨晩は深酒してついついあれこれ食べ過ぎたから、コーヒーとパン程度にしておこうか?など、早くもお気楽一人旅気分を全開に、車窓を眺めた。

広島駅にa.m.8:06着。そこから、新幹線に乗るべく改札口横の切符売り場に近づくと、窓口の3人の駅員さんが同時に立ち上がり深々とお辞儀をして「いらっしゃいませ」と私に声をかけた。“わー、JR西日本のホスピタリティー”ってここまで来たのかと、旧国鉄を記憶するオッサンとしては素直に驚いた。これから向かう山口県宇部新川駅は、これまで利用したことがなく現地までの行程に私には不安内であったものだから、自動券売機よりも窓口で確認したほうが手っ取り早そうだった。その旨窓口係の女性に伝えると、テキパキと発券をしてくれて大変気持ち良かった。“ありがとう”と伝えると、明るい笑顔で「いってらしゃいませ」と応じてくれた。“ああ、時代が変わったんだな”と旧国鉄を知るオッサンは再度感心してしまった。

a.m 8:25発 こだま837号博多行き自由席に乗り込むまでの多少の時間を利用して朝食を物色したが、前日の食べ過ぎを考慮して、コーヒーショップでホットコーヒーとサンドイッチを購入した。ゆとりを持ってプラットホームに上がったつもりが、東京方面のそれに上がってしまい、慌てて博多方面乗り場に移動する。この辺り二日酔いで頭がボケていたわいw

こだま837号は、500系の車両だった。しばらくこの車両を見なかったが、こだま号として活躍していたんだな。この車両は、ドアが狭く客室内の頭上高も低く狭苦しい印象があるのだが、その姿がコンコルド(ああ、これも今はないね)を思わせてとても好きだったな。思わぬ再会に更に気分は良くなって、ガラガラの2号車の左側三列シートの窓際に座った。

家内へ再度lineで無事に予定通り新幹線に乗車したことを伝えると、駅までクルマで迎えに来るとの返事、そこまでは良かったのであるが、どこそこまで来てほしいと、全くもってローカルな店舗の名前を挙げている。次男の大学受験の際にこの度のキャンパスまでクルマで迎えに来たこと、新しい下宿先を探すのにこの界隈まで再度来たことはあったが、ローカルな店舗を挙げられても全く見当が付かなかったし、私としては駅から徒歩圏内の次男の下宿先まで歩いたほうが気持ちも良さそうだった。歩いたほうが更に街のオリエンテーションがついて好都合なのになと思ったのだが、家庭内での決定権は家内に移って早や四半世紀、ここで争っても折角の旅行気分が萎えると想い適当に了解の旨返答する。

こだま837号の自由席2号車は、私以外の乗客は2-3人。こだま号という新幹線の各駅停車故に普段から利用客は少ないのだろうけれど、この休日にこの少なさはやはり疫病によるものかと思えた。気持ちがやや曇るが、気を取り直して先ほど買った珈琲並びにサンドイッチを袋から取り出し、窓外を眺めながら朝食を摂った。窓外からは春めいた明るい陽光が射し、この1年ですっかり馴染みになった山口県内の山々や街の風景が眺められた。縁とは全く不思議なもので、私の人生の中で山口県を頻回に訪れることになろうとは子どもが同県に進学することになるまで全く想像が出来ていなかった。次男が1年前に同県内に進学したことをきっかけに、私は定期的にドライブがてらに彼の下宿を訪れることになり、少しずつオリエンテーションがつき始めると、それなりに愛着の湧く場所になりつつあった。

山口県は、その名のごとく大小の山々が連っており、その稜線間の土地を開墾して出来た田畑が広がっている区域と沿岸部では干拓地が広がり現在では工業地帯が連なる区域がある。次男が大学の教養部で習ったところによると、そういう開墾や干拓を進めて農作地を造成することを「開作」と呼ぶらしく、mapを眺めてみると同県内の各所の字にこの「開作」という名前が残っている。

司馬遼太郎のエッセイを読んでいると、関ケ原の合戦で毛利の殿さまが120万石の太守から、長門周防国2か国24万石程度に減封されるにあたり、それまでの家臣団を養うために領国内の開墾・干拓を覆い奨励したらしい。江戸末期には実際の石高はその倍程度にはなっていたそうだから、江戸時代の山口の人々は相当頑張ったということになる。そういう目で眺めてみると、長年に亘ってこの土地のご先祖様が、この土地を懸命に切り開いてきた名残が各所に残っているようでちょっとした感慨を覚える。


a.m.9:12 に新山口駅に到着。同駅でJR山陽本線に乗り換え4駅先の宇部駅まで。日曜日午前9時過ぎに乗ったJR山陽本線の車両はガラガラで、この驚くほどの乗客の少なさが普段の状況と変わらないのか、疫病による外出・活動自粛の影響によるものかは、来訪者としては判断がつきかねた。a.m.09;18に新山口駅を出発し、線路は北西側に向かって半弧を描きながら宇部駅へ向かう。左右には低い丘陵がいくつも現れて間に挟まれた土地には手入れの行き届いた田畑が見えた。そして緩やかにアップダウンを繰り返しながら線路を並走する或は横切る道路が認められていた。“ああ、折り畳み自転車で輪行してこの辺りをのんびりと走っても面白そうだ。今度イチロウを誘ってみるべ”などとのんびりとした感想を抱きつつ、小気味よく揺れる車両に身を任せながら初めて見る景色を眺めた。

a.m.09:41に宇部駅着。下りた駅構内の雰囲気はちょっと閑散としていてローカル感たっぷりの風情あり。勝手に旅情に浸っているオッサンとしては、悪くない。ただ、昨晩無理して宇部に来ようとしなかったのは正解だったかもしれぬ。夜に見知らぬ土地のこの駅に降り立つのは少々心細くなるかもしれない(地元の皆さん、多少表現に差しさわりがあるような気がしますが、あくまでも旅慣れぬ初老のオトコの主観体験なので、ご容赦願います。)。


宇部駅からa.m.09:50発新山口駅行きの宇部線に乗り換える。宇部駅に降り立った時には、既にその隣のホームに2車輛編成のディーゼル車は静かに止まっていた。急いで先頭車両に乗り込むと、23組の地元の女子高生のグループと地元らしき初老の女性がいた。先ほどの山陽本線よりも乗客数は少し多めであることに多少不思議に想いつつも、他の客と間を開けて座る。出発時間が近づくと、車内アナウンスで「これは宇部線の新山口駅行きだよ。これはワンマンカーだから、降車の際には運転手横のドアから下りてね」が知らされた。

“はて、ワンマンカーというのは私が持っている切符はどこで渡せばよいのかね?運転手に渡すのかい、それとも各駅に切符回収ボックスなどがあるのかい?”そのようなことが多少気がかりになる。運転手は、恰幅の良い初老のオジサンで、運転席から出て車内後方を何度か確認し始めた。ちょっと強面の人物のように映った。

ディーゼル車は定刻にゴトリと動き出し、しばらくすると山陽本線脇から右方南東に向かってrの字をなぞる様に単線に引き込まれた。しばらく左右にガタガタと揺らせながら、休耕地を多く残す住宅地を進んだ。

ガタガタと身体を揺られながら、私の中でふと何かのスイッチが押されたように古い記憶が蘇った。

ある日の夕方に、私の父親が珍しくスーツを着こみ薄くなりかけた頭髪にポマードを付け、その匂いを残しながら玄関で「じゃあ行ってくる」と言い残し出かけて行こうとすると視覚的記憶だった。当時父親は40歳になりたての筈で、私は34歳の物心つき始めた頃だったと思う。私が「おとうちゃん、今回はお土産買ってきてよ」と後を追いかけるようにして訴えると、彼は苦笑いを浮かべながら「よっしゃ」と言い残し、待たせたタクシーに乗って出かけ行ったのだった。

その頃父親は自営業を始めて34年目だったが、大学時代の恩師からの推薦で、今次男が通う学部の教官をしばらく務めたことがあった。その勤務期間はほんの数か月だったかもしれない。彼がどういった想いでその仕事を引き受け、どういういきさつで辞めることになったのか、当時の私には全く分からなかった。今勝手に想像することは出来るのであるが、その事はここでは触れないでおく。

そのエピソードは今から50年も前の事であり、今となっては私の家族間の思い出話にもあまり上ることのない記憶となってしまっていた。当時は、高速道路もなければ、山陽新幹線もなかった。父親は、仕事がひと段落すると、1時間半程度かけて広島駅に出て、そこから山陽本線特急に乗り恐らくは2時間程度かけて日が暮れた宇部駅に降り立ち、そして単線の宇部線に乗ってここまでやってきたことになる。随分大変なことであったろう。図らずも、50年を経て能天気息子が、亡父の若かりし頃の行動の軌跡の一端をなぞっているようで不思議な感覚に襲われた。

40代前半の父がどんな気分でこの宇部線に乗っていたんだろう?意気揚々とか、それとも日常の仕事にぐったりとしながらか。改めてそんなこと想っていると、ああ、生前にもっと学部勤務時代の事を聴いておけば良かった。なんだかそこには父親なりの青春の残像風景がありそうで十分に語らせてあげたら良かったと思えた。

この4月でその亡父の17回忌を迎える。

さて、古い記憶に導かれてあれこれ考えている間に、私を乗せたディーゼル車は南東の海側に向かって小刻みに車体を揺らせながら進んでいた。住宅地を過ぎると前方の河口を挟んで大きな工場群が見え始めた。線路は海側に近づくと緩やかに左にカーブしながら進み無人駅に近づいた。二つ目の無人駅に停車すると、明らかに県外から来たと思われる旅装姿でキャリーバックを牽いている青年が、慌てた様子で車内を小走りに運転席傍のドアに向かった。切符を取り出そうとした弾みでペットボトルをポロリと落とし、それを急いで拾い上げて再度切符を運転手兼車掌役のオジサンに示そうとした。運転手兼車掌役のオジサンは、硬い表情を崩さず、「はい、さっさと下りて」「いいから、降りて」と繰り返し、その青年は戸惑いつつもそのまま車外に出たところで、そのディーゼル車は出発。

“わー、このおじさん、怖え~。この情景、なんだか旧国鉄時代の雰囲気そのままじゃん。”“オイラも、粗相しないようにしないとな・・・”と改めて、ポケットの中にしまっていた切符なり携帯を手探りで確認しなおした。

a.m.10:01私は、宇部新川駅に降り立った。幸いなことにこの駅は先ほどの宇部駅と同じ規模の有人駅であったので、何食わぬ顔でプラットホームに降り立ち、駅の改札で無事切符を駅員に渡すことが出来た。

同駅舎を出ると、ちょっとしたロータリーがあり、そこを左側に曲がって人通りの少ない閑散とした商店通りを学部方面に向かって歩いた。陽射しは相変わらず春めいた穏やかなものであったが、時折春嵐のような突風が私の身体を抑え着けるように通りを吹き抜けていった。

やがて
、家内と次男を乗せた見覚えのある車が停車しているのを発見。ドアを開けてシートに座るや否や早速家内が口早にこれからのミッションを喋り始めた。ちょっとした私の長門国への旅はここで終わり、再び現実生活に戻って行ったのであった。


おしまい

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