この度の高校同窓会では、内的葛藤の多かった私の高校時代の記憶がまた少しずつ修正と再組織されてゆくのが自覚されて、私にとっては心地よくも有難い内なる作業だったように思う。
ただ幾つになっても、私の高校時代の記憶の中で変わらぬ重要なパーツがあるとすれば、それは表象としての「ミサキ」だった。もっというと、私にとっては、彼が青春或は人生出発点の重要なアイコンのひとつだった。私の彼に対する想いは、ちょっと若い40代だったら映画「スタンドバイミー」に通じる心性だと答えただろうけれど、50過ぎたオジサンになった今では「心の原風景」と答えるだろう。
数年前に司馬遼太郎著「街道をゆく;台湾紀行編」を読んだ。この随筆作品中で作者が触れたエピソードのひとつに大変印象深いものがあって、それは、戦前の幼い頃に台湾で過ごしていた日本人の男の子がいて、終戦とともに日本本土に引き上げて成長したのだが、彼は幼き頃に過ごした台湾と現地の親切なヒト達が忘れられず、いつかはきっと台湾に戻って懐かしいヒト達と会いたいと思いながら成長したのだという。台湾への渡航は、その時の政治情勢の影響を受けてなかなか叶わなかったのだが、数十年を経て現地に渡航が可能になって、その男性が現地を訪れた際には、懐かしい街並をみて気分が高ぶり、思わず走り出してお世話になった町医者のお宅を訪ねたのだという。その時にはかつて優しく接してくれた老先生は既に他界されてしまっていたのだけれど、幼馴染であった息子さんとの再会を果たすことが出来、ふたりしてただ涙があふれて言葉にならなかったのだという。
(笑)えーっと、私の「ミサキ」に対する心情とは、そういう心性というか気分なのですw。
「なんのこっちゃ」と思われるかもしれないけれど、一言で言ってしまえば、まあそういうことなのですw えーっと、話を続けさせてもらいます。
私達の通った高校は、一学年50人弱の全寮制の学校だった。元気盛りの男子共が24時間寝食を共にして過ごす訳だから色々なエピソードがあったのだけれど、この度はそれらについては触れない。一緒に飯を喰って、一緒に裸になって風呂に浸かり、一緒に他人の屁や寝言を聴きつつ寝るわけで、今思えば楽しかったけれども、入学当初は大変面食らう事も多かった。
その中で私は、今思うと詮もなき思春期にありがちな悩みや葛藤を抱えつつ、表面的には〝普通“を装って過ごし、辛うじて適応していったのであるが、なんとなく自分の中でギクシャクとした感覚が残っていた。
時間は少し流れて、恐らく2年の後半から私が名ばかりの寮長に指名されて、部屋替えと同時に周囲の者同士でバーター取引をして、本来であれば一部屋2名ずつの配置だったところを、私だけ一人部屋にして貰った。そして、私の隣部屋になったのが、コウイチとミサキだった。
コウイチとは、その当時から音楽的な好みがが似ているところが多く、お互いに部屋を行き来しては、よく音楽の雑談をして過ごした。私が彼のところへ遊びに行くと、カシオペア、スペクトラムなどのサウンドを教えてくれたり、彼が当時嵌っていたSFノベルズを貸してくれてたりした。関西出身者特有のお笑い好きで、真面目な事を言っているかと思えば急にギャグや私に対するツッコミを入れては私を笑わせてくれていた。彼も私の部屋をしばしば訪れて「おい、マサキ何してんねん?」と弄ってくれるのであったが、今にして思うと笑いセンスがない私と良く付き合ってくれたものだ。
ミサキは、スポーツ好きで明るくてさっぱりとした気性を持ち、どこか自分に対して確信を持っている様子、その立ち振る舞いは大胆不敵に映った。当時、仲間内で彼のことを「瞬間湯沸かし器」とあだ名していたのだが、彼は何かあるとさっと怒って、その後1時間もしないうちに何事もなかったように穏やかな状態に戻った。
彼とは、クラブも違えば普段行動を共にするメンバーが違っていたので、自宅通学の高校時代を送ったならば、ほとんど接点もなくあの時期を過ごし、私の中に鮮明な記憶も残さなかっただろう。先に述べたように私たちは寮生活で寝食を共にし、昼間だけでなく夜も就寝まで共に過ごすことになったので、多くの高校生が経験するような友人関係よりももっとの濃密な時間を過ごしていて、そういう環境が私と彼との関係性を深めるきっかけを与えてくれたと思える。
ある時、夜の時間帯に彼らの部屋を訪れると、ミサキは不在で、コウイチ一人だった。その時に何を話していたかは覚えていないのであるが、雑談のなかでミサキの事が話題になった。「これ知ったらミサキ、怒るんちゃうか?」と二人で笑いながら話しているところへ、突然ミサキが帰ってきた。私たちが慌てて笑いを堪えてミサキの方を見たら、彼が我々の笑い目に気が付いて「てめえら~、またオレの事言ってたんだろう!許さん~!」と真剣な顔で怒り出したので、コウイチと私は堪え切れずに大笑いになったのであった。ミサキは「ぶっ殺す!」と言い放ったのであるが、しばらくすると何事もなかったようにおだやかな調子に戻るのであった。私は、このエピソードでミサキのことが更に好きになったと言える。
ある夏の夜には、私が何事かしているところに、ベランダ越しにミサキが上半身裸短パン姿でふらっと現れて、「マサキ、ちょっと漫画読ませてくれ」と言ってきた。私が「ええよ」と返事をしたまま、自分の作業を続けていると、彼は部屋のチェアに座ったまま独りで漫画を読み続け、それが終わると「ありがとな」と言って帰って行った。
また、ある秋の夜には、私がミサキとじゃれ合いたくなり彼の帰室を見計らって、「ミサキ、サッカーしてくれないか?」と乞うと、彼は「よっしゃ、いっちょやったろう」と言い、サッカーボールを取り出してお遊びを共にしてくれた。
当時彼との間に深刻な対立・葛藤もなければ、行動を共にして愉快なことをしたなどもなく、特別なエピソードがあった訳ではなかった。ただ、彼の自由で快活で、どこかで己に対して確信を持っているが故に物事に対して大胆不敵な態度を取っている、夜間だけではあったが、そういう彼のキャラクターに接していると、こちらの中のモヤモヤとした詮もなき悩みがかき消されていくのが分かり、いつしか彼と過ごす時間が私の中ではとても楽しみなものになっていた。
大学受験期に入ると、それまで勉強に関してはチャランポランな態度を装っていたミサキが黙々と勉強をし始めた。弱音なし、どこかで確信を持って勉強に取り組む姿勢が窺われて、その姿から私も勇気を貰っていたように思った。
繰り返すが寮生活で一緒に過ごさなかったら、彼のキャラクターに接することは出来なかっただろうし、コウイチと云う仲介者・触媒の存在がなかったら、同じ寮生活を送っていたとしても、ミサキのキャラクターに十分に出会うことは出来なかったと思う。悩みと葛藤多き私(悩むことが趣味みたいだったw)にとって、青年期の門口でミサキに出会えたことは、大げさではなく私の人生の宝になった。〝ミサキ無くして、マサキなし!“
その後、私たち3人はほかの大半の同級生と共に同じ大学に進学した。そこでまた2年間の寮生活を過ごすことになり、偶然にも3人とも同じ寮に所属した。ただ大学生活に入ると、お互いの行動半径が広がり、同じ時間を過ごすことも減り、高校寮の時のような濃密な時間を共にすることはなくなった。お互いが個々の想いに向かって進んでゆく本格的な青年期そしてオトナの過程に入ったことを意味していた。
大学1年の一学期の定期試験が終わり夏休み初日の事だった。大半の同級生は、帰省のために大学寮を離れていたが、私は試験最終日の夜ももう一晩だけ夜遅くまで起きて運転免許の学科試験勉強をした。夏休み初日早朝に寮を出て、県内の運転免許センターに往き、なんとか運転免許試験に合格して、免許の交付を受けて午後3時頃に帰寮した。
帰寮後、私も翌朝帰省するべく準備を始めて、洗濯物を取り込もうと物干し場のある屋上に上がった。寮の屋上は、夏の強い西日が射してコンクリート屋根は相当な熱気を放っていた。洗濯機の備えられた部屋から、外を覗くとそこに偶然上半身裸短パン姿にタバコを蒸かせながら、簡易リクライニングチェアに座ったミサキが居た。
「おお、マサキ~なにやってたんだ?」と問うものだから「かくがくしかじか」と私が応じ、返す刀で「ミサキはここでなにやっているの?」と問い返すと、彼曰く「いや~な、オレ生白いだろ?これじゃあ海に行っても恥ずかしいから、今のうちに身体焼いてんねん」と愉快そうに笑った。そして、私の前を横切って、ホースを持って散水栓をひねり辺りに水を撒き始めた。一日中夏の強い陽射しを浴びて熱せられたコンクリートの床から湿った熱い空気が立ち上り、天然サウナのような状態になった。
生憎、一人分の布団が天日干しをするべく手すりに掛けられていたのであるが、その布団がその所有者の望み通りの状態で回収されたのかは知らない。ただそんなことよりも、ミサキの大胆な行動と彼の心から愉快そうな笑いを見ていると、こちらまで愉快になって、しばらく私も大笑いをしながらミサキの放つ水が作った虹を眺めていたのだった。
その後、思い切ってミサキを誘い、翌朝もう一人エイイチと共にレンタカーを借りて帰省の途に就いた。私は前日に免許を取ったばかりなので、内心ヘタな運転をしてミサキに怒られるのでないかと懸念しつつの運転だったのだが、案の定、2度ほど後部座席に座ったミサキから「貴様あ、危ないだろ!」との激を受けてしまったのだったw。
この曲は、その当時私がとても気に入っていたロックアルバム「aja/ Steely Dan」に入っている「Black Cow」というナンバー。このグループの雰囲気がなんだかあの時の大胆不敵のミサキに通じるものを感じている。今でも、梅雨が終わりかけの本格的な夏が始まる頃になると無性に聴きたくなって、毎年のようにその時期にこのアルバムを聴くのが半ば習慣になっている。真夏の夕方通り雨が降った後に、アスファルトから立ち上ってくる蒸気と焦げた臭い匂いを嗅ぐと、私の頭の中でこの曲と上半身裸になって水を撒きながら愉快そうに笑っているミサキの映像が蘇るのだ。
この度同窓会が終わり帰路に着く際に、私はタカヒロ、オノ、そしてミサキを広島駅まで送ったのだが、私は車中で、ミサキに「あの夏一緒にレンタカーを借りて一緒に帰った事覚えてくれているか?」と尋ねたら、彼は「ああ、覚えているよ」と返事してくれた。その後話題は他方に流れたが、彼があの夏に共有してくれたひと時を記憶してくれていることが分り、私にはそれで十分だった。
その後は、ぽつりぽつりと出てくる彼らの話題に耳を傾けながら、別のことを考えていた。私の中では、高校時代の記憶のアイコンとして「ミサキ」が在り続けてきたのだけれども、彼だけでなくタカヒロやコウイチも、オノも、イチロウや男子たちも、その他の女性陣も私にとっては大切な存在なのだと。そして高校の同級生なくして今の私はあり得なかったし、どうやら私も彼らの思考の片隅にあり続けさせていただいていたのだと、今頃になってしみじみと気が付いた。
数年前に、タカヒロが「同じ釜の飯を喰った仲間は、ファミリーだから」と何の躊躇いもなくサラッと言った。その時は、そういうことがさらりと言えるタカヒロの気性を好ましく思うばかりであったのだが、私自身も漸く同じセリフを躊躇いなく言えそうな気がした。
考えてみるに、皆それぞれにあの時からの40年近くを夫々の居場所でそれなりの苦労を味わいながら頑張って生きて来た訳で、「俺たちひょっとして今夜来るローマ教皇に祝福されても良いんじゃないか、なあ、みんな!」とおバカなセリフを口に出しかけたのだけれど、今の私には、残り少なくなった彼らとの時間の方がより愛おしくて、黙って彼らの言葉に耳を傾けるのであった。
おしまい
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