3月後半から急激に気温が上がり、山々や自宅の庭にも様々は花が咲き始めた。
今年の桜は、3月下旬から開花し、みるみる間に満開に咲き誇りあっという間に散った。その開花の速度の勢いが例年にも増して強く、それを眺める側にしてみれば圧倒されるような想いを抱いていた。
日本人は、桜が本当に好きで、その花に春の訪れの喜びや自然の生命力、ひいては人の生命や死生観を投影してきたのだと思われる。
私は、これまでは桜の花よりも春先に冷気の中で凛と咲いている梅の花の方が好きであると周囲の者に言ってきたものだが、本格的な春到来を告げる桜が嫌いなわけではない。やはり、桜の花を眺めると色々な感情やその時々の想いが高まってくる事を自覚している。
若い頃には、この花を見るたびに意味もなく喜びや華やぎ感じたものだが、半世紀も齢を重ねてくると実に様々な感情を持って眺めるようになった。
この春は、この花を寂しいく悲しい気分で眺めることになってしまった。
こんなに寂しい気持ちで桜を眺めるのはどのくらいぶりだったろう。
3月下旬に同僚が病に倒れ、先日旅立った。彼女はこれまでに本当に私の事を支えてくれて来たヒトだった。病室に見舞いに向かう度にそのような想いを抱きつつこの花を眺めた。もう一度、彼女にこの花を見せてあげたいと思ったものだが、私の願いは叶わず、そのまま逝ってしまった。ご家族からの訃報を受け取った際には、今後どのようにやって行けばよいのかしばらく途方に暮れる想いを持ったが、そのヒトの亡骸を前にしばらく時間を過ごしているうちに、生前の彼女の笑顔が脳裏に浮かび、何事かで彼女に相談した折に私の愚痴を一通り聞いてくれた後で、彼女が「やるっきゃないでしょう」と私の背中をそっと押してくれるように言ってくれたことを想い出した。
いつまでも悲しみに暮れていてはならない。
これからも何事か困難なことに悩み立ち往生した時に彼女の事を思い出し、彼女の笑顔と生前私を励ますように言ってくれた「やるっきゃないでしょう」という言葉を思い出すことになるのだろうと思う。そして後に残された者は、彼女の想いや願いを胸に残りの人生を全うしていくことが、彼女に対する最大限の恩返しなのだ、そんな風に気持ちを整理したら、少し覚悟が定まったように思えた。
4月上旬に、コウスケからメッセンジャーを通じて、「第一子女児が誕生した」と誠にめでたい連絡があった。その後しばらくは「愛児が可愛くて仕方ない」などのツイートを連発し、早くも子煩悩ぶりを披露している。これまでの彼の言動を思うと、彼の豹変ぶりには驚いてしまうのだが、それはそれで微笑ましく彼がこれまで経験したことのないような幸福感に浸っていることを想像すると、こちらまで幸せのお裾分けを貰ったようなやさしく穏やかな気分になることが出来た。これからも時折呟くであろう彼の新米パパぶりをこちらも楽しませて貰おうと思っている。
全くこの春は。
この世を去る命もあれば、この世に誕生する命もあり、季節に合わせるように野山の花が移り行く様を眺めながら、生きとし生けるものの有り様、冷厳な命の営みを想うとき、自然と己の居住まいを正さざるを得ないような心境になった。
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