8月11日から同月13日まで、岡山市内にある嫁の実家に帰省。帰省に関してはこの新型コロナ感染拡大の状況において多少の躊躇いがなかったわけではないが、ほとんどクルマでのdoor to doorの移動で、帰省中もヒトが集まるところに出かける予定もないから、まあ大丈夫だろうと思い定めた。
8月12日は、避暑を兼ねて蒜山から大山へドライブ。下界は気温35℃を越えているのに山の上は25-27℃で大変涼しく誠に気持ち良し。昼食は、途中スキー場の駐車場でお弁当を食べた。大山寺界隈は、例年であれば登山客で大変な賑わいを示すはずなのだけれど、駐車場は閑散としており、人影もまばらで多分5‐6割程度の来客ではなかっただろうか。大山寺界隈から見下ろす米子市内~日本海の景色はいつ見ても素晴らしく、助手席に乗った次男と思わず口々に「暗夜行路」と呟いたのには笑ってしまった。大山寺から米子への坂道をいつか逆方向に米子市内から大山寺まで自転車で登坂してみたいとの野望を持っているのであるが、この度その道を降りてみると私が記憶していた以上に勾配がきつく尚且つ距離もありそうであった。この坂道は、健脚に自信のあるチャリダーじゃないと登坂できそうになく、私の脚と心肺機能ではとても無理そうだった。あまりそんな野望を軽はずみで口にしないようにと心に誓った。
翌日8月13日は、特に外出予定がないとのことであったでの一計を案じ、朝5時30分に起床。家人を起こさぬようにそろりとベッドを抜け出し、持って来ていたMR-4を玄関外で組み立て始めた。ここで早くもトラブル発生。折りたたんだMR-4を輪行袋から取り出して展開しようとしたところ、ブレーキワイヤ-がペダルに絡んで展開出来なくなった。ペダルを廻して絡んだワイヤーを外そうとするも、ワイヤーがきつく締まりペダルが廻せない。仕方なく後輪タイヤを外しにかかるも、今度はワイヤ-が閉まっている故にブレーキパッドがタイヤを締め付けている状態でタイヤが外せず・・・・。大粒の汗が早くも全身から吹き出てくる状態となり、MR-4を駆り出すことを断念するのかと声にならぬ唸り声を出していたところ、なんとか後輪が外せて、フレームを展開出来た。それから後輪を嵌めにかかるが今度は後輪をどのようにチェーンに掛けたら良いものか独りで難渋する。両手を油で汚しながら、なんとか後輪をはめ込むことが出来た……。いやはや、出発までに1時間も要してしまい、AM6:30に嫁の実家を漸く出発。
嫁の実家の裏道を吉備津彦神社を通り、吉備津神社を抜けて県道270号線へ向かう。途中地元のチャリダーに数人出会う。こちらから「おはようございます」と声をかけると、驚いたように地元チャリダー達も挨拶を返す。声をかけられたことに驚いたのか、おっさんがMR-4でしゃかしゃかと走っているのに驚いたのか。兎も角も愉快ではあった。
県道270号線は、備中国分寺跡前を通りそのまま高梁川へ延びる道で、なだらかなアップダウンがあり、走行していて誠に気持ちが良い。備中国分寺、作山古墳を見ながら順調に走る。小高い山を登って降りると左手に清音村の田園と民家が見えた。
清音村;ひょっとしたらこの付近に住まう人以外の岡山県の皆さんもあんまり知らないところかもしれない。倉敷市と総社市の間に位置していて、広い田園以外にランドマークになりそうな施設がなそうなのだけれど、私には個人的な大変想い出のあるところ。学生時代にアパート暮らしを始めた頃、階上に住んでいたイチロウが、ある休みの夕暮れにやって来て、「すげえところを見つけた」と満面の笑みを浮かべた。「清音村というところのスーパーに、なんと鮒寿司を売ってたのよ(笑)。鮒寿司だよ」「このあたりでも食べる習慣があるんだな。」
たったそれだけの話だったのだけれど、なんだか遠くの異国にやってきたような気分になり、とても面白かった。「それで喰ったのか?」と聞き返すと、「ちょっと怖くて流石に手が出なかった」と奴が笑った。海育ちの私には、鮎や鰻は食べたことがあったが、鯉も食べたことがなければ、ましてや鮒も口にしたことがなかった。
私は、高校時代にイチロウ達に誘われて生物部に所属し、彼らの発案で淡水魚班として活動した。春から秋にかけて学校の周りの用水路や高梁川の支流に入り、地下足袋を穿き、網を持って淡水魚を追いかけたものだった。イチロウやエイキチは顧問の先生とあくまでも学術的な思考で淡水魚を追いかけていたのであったが、私は云われるがままに水と戯れるだけの存在であった。それでも私にとっては淡水魚班での活動が、高校時代の楽しい思い出で、大学に入った後もそうした山や川を愉しむ気分が色濃く残っていたのだった。
このイチロウの発見の後、私たちは県道270号をクルマで走らせ、清音村界隈がドライブで頻回に訪れる(或は素通りする)コースになった。尤、鮒鮨を初めて口にしたのはその30数年後のことになるが。
この日は、県道270号線を清音村前の交差点で右折し、総社市街地に入った。ランドマークとしてのJR総社駅を確認し、国道180号線に入り高梁市方面に進む。
しばらく進むと、ヤマザキの工場を左手に見て高梁川沿いを走る。次第に高校時代の事を想い出し胸が高鳴る。豪渓という名勝地の道路標識を確認し、国道180号線を右折し県道57号線に入る。高梁川の支流沿いのなだらかな上り勾配の道をゆっくり進むと、ありました!
名も無き川の堤防。今も変わらずにその堤防はあった。高校1年の初秋、顧問の先生が運転するシビックに乗せられてやってきたところ。往きの車中では、シャンソンが流れていて「この先生風貌に似合わずカッコええな」と思ったものだった。道脇にクルマを止めて、「この辺りで、試してみますか」と声をかけれて、体操着に地下足袋を穿いて、バケツと網を携えて、この堤防に降り立った。ああ、今思い出したのだけれど、その日の目的は「高梁川に生息する淡水魚を調査する」という立派なお題があったのだった。そして辺り雑草だらけの川岸に沿って、一方に網を構え、片足でゴソゴソと網に向かって踏み入れいるー見えない獲物を追い込むようにしてーという作業を繰り返した。
私はそれまでそうした作業をやったことがなく、草むらから蛇やクモが出てきそうで怖く、おっかなびっくりの所作で取り掛かっていたのであった。その様子を見てイチロウが、「こうするんだよ」と笑いながら指導してくれたっけ。
それでもビギナーズラックで、私がオヤニラミという珍しい魚をゲットした時にはとても嬉しかったな。イチロウとエイキチに随分褒められたな。
水に浸かっているうちに体操着がびしょ濡れとなり、後はお構いなしにと水中にもぐったり、本来の目的を忘れて大いに川遊びに興じた。それでもニゴイ、ドジョウ、ギイなど捕まえて、成果としても十分なものが得られたようだった。
その時に、顧問の先生に撮ってもらった一枚のモノクロの写真が映像として心に焼き付いている。イチロウが水の中でやや前かがみで立っていて、その後ろの堤の上で、エイキチ、私、プーさんが上半身肌で座っている。4人とも幼げな面持ちに屈託のない笑顔を浮かべて本当に幸せそうな様子だった。あの写真、実家のどこかに仕舞っている筈なのだが、どこにやったけ。考えてみれば40年前のことだった。
それからも何度かここを訪れたのだけれど、私の思春期の原風景となっている。
そのような事を、水とカロリーメイトを摂取しながら、あの頃と変わらない川面を眺めながら思い出した。そういえば顧問の先生に高校卒業以来不義理してしまったけれど、お元気でお過ごしなのだろうか?随分なお年となられただろうな。
なんだかこの堤を離れがたい気分ではあったのだけれど、次の目的地に向かうため、更に川の上流に向かって自転車を進める。
しばらくなだらかな上り勾配の県道57号線を進む。県道76号線足守方面の道路標識が見えて来て右折、山道の76号線に入り足守地区に向かう。76号線は“立派な(笑)”山道で勾配がきつそうであり、“いっちょやったるか”と覚悟を決めて登坂を開始したところで、ロードバイクに乗ったチャリダーが勢いよくその坂道を降りて来た。お互いに会釈をしてすれ違ったが、「そうか地元でもちゃんと山道を攻めているチャリダーがいるのか」と妙に嬉しくなる。
左右の木立に覆われた山道はひんやりとした湿気を有し走っていて誠に気持ち良し。“ここまで来て良かった”と思った。
山道のピークを過ぎると狭い盆地になっていて、水田があった。日本の里山は美しいなと思う。どうして美しいのか? “それはオイラがその風景を美しいと思う日本人だから、か”と愚にも付かない答えが頭を過ぎり、独り笑う。その盆地を過ぎるとちょっとした急勾配となり、両脚が少々悲鳴を上げそうになるが、MR-4良く出来ていて無理なく進んでくれた。その道の狭い曲がりくねった急勾配を過ぎると、そこからは谷間の水田地区を眺めながら自由落下状態、しばらく周囲の山々を見渡しながら足を休めつつ降りていく。
県道76号線は、やがて国道429号線に突き当たった。右折し国道429号線を総社方面へ足守地区を目指す。このあたりは、学生時代にホタルを見にやってきたり、そのままこの国道を北上し山間の道を津山方面に抜けられて、県北に向かうドライブコースだった。
この日のもう一つの目的地は、この道を総社方面に向かったところにある足守地区だった。
足守地区は、豊臣秀吉の正室ねねの親族である木下氏が治めた旧足守藩の陣屋が置かれた場所であった。それをはじめて知った学生時代に、このようなところにそういう血筋の一族が大名として、ある意味ひっそりと生きながらえていたことに大変驚いたものだった。岡山の大名と云えば池田氏の名前がすぐ浮かぶのだけれど、岡山市から見るとその平野の北西部の一画に2万6千石の小さな大名が居たなんて。そしてそれを伝える遺跡が現代までひっそりと歴史の片隅に棲むように存在していたなんて、ある種の感動を覚えたものだった。
私は学生時代に、試験がひと段落して頭を休めたい時に、何度かこの足守の陣屋跡の一画にある近水園という小さな庭園を訪れてぶらぶらとしたものだった。岡山市にある後楽園と比べるべきほどのものではないが、それでも小山を背にした古い小さな庭園にはしずかな趣があり、誰も知らない秘密の園みたいな感じで好きだった。
この度改めて訪れてみると、陣屋跡を中心にちょっとした観光地化がなされていた。以前はぶらりと庭園内に入れたのに、どこが入り口だったか、この度は園内に入ることが出来なかった。ただ、これらの整備は地区の教育委員会や商工会の人たちの努力によるものだと思われ、やや私の心象風景に残っていたものとは異なるものの、それはそれで好感が持てた。この度初めての発見なのだけれど、あの緒方洪庵さんもこの地で生まれたとのこと。やるな足守藩!
水入れを兼ねて文化地区の中に或る駐車場で小休止を取って、その地区から再び国道429号線を総社方面に向かった。足守地区から総社市を通る国道180号線までは、ほぼ直線の道、空は広く左右には水田の緑が広がっていた。ああ、誠に気持ち良し。思い付きで発案したツーリングコースだったけれど、予期していた以上に、色々と心が動かされたツーリングだったな。
走行距離約50㎞ 出発時間AM6:00、帰着時間AM9:40。
帰着後に、家人から「何処を走ってきたのか?」と問われ、どこそこだよと答えたら、「そりゃあ、岡山県民でもなかなか知らんでえ」と大笑いされた。
「うん、超個人的な心の夏休みだもの、誰も知らなくて良いのよ。それで良いのだ(笑)。」と言葉にせずに飲み込んで微笑み返した。
おわり
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