2020年8月14日金曜日

2020年夏休みの備忘録として

 811日から同月13日まで、岡山市内にある嫁の実家に帰省。帰省に関してはこの新型コロナ感染拡大の状況において多少の躊躇いがなかったわけではないが、ほとんどクルマでのdoor to doorの移動で、帰省中もヒトが集まるところに出かける予定もないから、まあ大丈夫だろうと思い定めた。

 812日は、避暑を兼ねて蒜山から大山へドライブ。下界は気温35℃を越えているのに山の上は2527℃で大変涼しく誠に気持ち良し。昼食は、途中スキー場の駐車場でお弁当を食べた。大山寺界隈は、例年であれば登山客で大変な賑わいを示すはずなのだけれど、駐車場は閑散としており、人影もまばらで多分5‐6割程度の来客ではなかっただろうか。大山寺界隈から見下ろす米子市内~日本海の景色はいつ見ても素晴らしく、助手席に乗った次男と思わず口々に「暗夜行路」と呟いたのには笑ってしまった。大山寺から米子への坂道をいつか逆方向に米子市内から大山寺まで自転車で登坂してみたいとの野望を持っているのであるが、この度その道を降りてみると私が記憶していた以上に勾配がきつく尚且つ距離もありそうであった。この坂道は、健脚に自信のあるチャリダーじゃないと登坂できそうになく、私の脚と心肺機能ではとても無理そうだった。あまりそんな野望を軽はずみで口にしないようにと心に誓った。


 翌日8月13日は、特に外出予定がないとのことであったでの一計を案じ、朝530分に起床。家人を起こさぬようにそろりとベッドを抜け出し、持って来ていたMR-4を玄関外で組み立て始めた。ここで早くもトラブル発生。折りたたんだMR-4を輪行袋から取り出して展開しようとしたところ、ブレーキワイヤ-がペダルに絡んで展開出来なくなった。ペダルを廻して絡んだワイヤーを外そうとするも、ワイヤーがきつく締まりペダルが廻せない。仕方なく後輪タイヤを外しにかかるも、今度はワイヤ-が閉まっている故にブレーキパッドがタイヤを締め付けている状態でタイヤが外せず・・・・。大粒の汗が早くも全身から吹き出てくる状態となり、MR-4を駆り出すことを断念するのかと声にならぬ唸り声を出していたところ、なんとか後輪が外せて、フレームを展開出来た。それから後輪を嵌めにかかるが今度は後輪をどのようにチェーンに掛けたら良いものか独りで難渋する。両手を油で汚しながら、なんとか後輪をはめ込むことが出来た……。いやはや、出発までに1時間も要してしまい、AM6:30に嫁の実家を漸く出発。

 嫁の実家の裏道を吉備津彦神社を通り、吉備津神社を抜けて県道270号線へ向かう。途中地元のチャリダーに数人出会う。こちらから「おはようございます」と声をかけると、驚いたように地元チャリダー達も挨拶を返す。声をかけられたことに驚いたのか、おっさんがMR-4でしゃかしゃかと走っているのに驚いたのか。兎も角も愉快ではあった。


 県道270号線は、備中国分寺跡前を通りそのまま高梁川へ延びる道で、なだらかなアップダウンがあり、走行していて誠に気持ちが良い。備中国分寺、作山古墳を見ながら順調に走る。小高い山を登って降りると左手に清音村の田園と民家が見えた。

 

清音村;ひょっとしたらこの付近に住まう人以外の岡山県の皆さんもあんまり知らないところかもしれない。倉敷市と総社市の間に位置していて、広い田園以外にランドマークになりそうな施設がなそうなのだけれど、私には個人的な大変想い出のあるところ。学生時代にアパート暮らしを始めた頃、階上に住んでいたイチロウが、ある休みの夕暮れにやって来て、「すげえところを見つけた」と満面の笑みを浮かべた。「清音村というところのスーパーに、なんと鮒寿司を売ってたのよ(笑)。鮒寿司だよ」「このあたりでも食べる習慣があるんだな。」


 たったそれだけの話だったのだけれど、なんだか遠くの異国にやってきたような気分になり、とても面白かった。「それで喰ったのか?」と聞き返すと、「ちょっと怖くて流石に手が出なかった」と奴が笑った。海育ちの私には、鮎や鰻は食べたことがあったが、鯉も食べたことがなければ、ましてや鮒も口にしたことがなかった。

 私は、高校時代にイチロウ達に誘われて生物部に所属し、彼らの発案で淡水魚班として活動した。春から秋にかけて学校の周りの用水路や高梁川の支流に入り、地下足袋を穿き、網を持って淡水魚を追いかけたものだった。イチロウやエイキチは顧問の先生とあくまでも学術的な思考で淡水魚を追いかけていたのであったが、私は云われるがままに水と戯れるだけの存在であった。それでも私にとっては淡水魚班での活動が、高校時代の楽しい思い出で、大学に入った後もそうした山や川を愉しむ気分が色濃く残っていたのだった。

 このイチロウの発見の後、私たちは県道270号をクルマで走らせ、清音村界隈がドライブで頻回に訪れる(或は素通りする)コースになった。尤、鮒鮨を初めて口にしたのはその30数年後のことになるが。

 この日は、県道270号線を清音村前の交差点で右折し、総社市街地に入った。ランドマークとしてのJR総社駅を確認し、国道180号線に入り高梁市方面に進む。


 しばらく進むと、ヤマザキの工場を左手に見て高梁川沿いを走る。次第に高校時代の事を想い出し胸が高鳴る。豪渓という名勝地の道路標識を確認し、国道180号線を右折し県道57号線に入る。高梁川の支流沿いのなだらかな上り勾配の道をゆっくり進むと、ありました!

 名も無き川の堤防。今も変わらずにその堤防はあった。高校1年の初秋、顧問の先生が運転するシビックに乗せられてやってきたところ。往きの車中では、シャンソンが流れていて「この先生風貌に似合わずカッコええな」と思ったものだった。道脇にクルマを止めて、「この辺りで、試してみますか」と声をかけれて、体操着に地下足袋を穿いて、バケツと網を携えて、この堤防に降り立った。ああ、今思い出したのだけれど、その日の目的は「高梁川に生息する淡水魚を調査する」という立派なお題があったのだった。そして辺り雑草だらけの川岸に沿って、一方に網を構え、片足でゴソゴソと網に向かって踏み入れいるー見えない獲物を追い込むようにしてーという作業を繰り返した。


 私はそれまでそうした作業をやったことがなく、草むらから蛇やクモが出てきそうで怖く、おっかなびっくりの所作で取り掛かっていたのであった。その様子を見てイチロウが、「こうするんだよ」と笑いながら指導してくれたっけ。


それでもビギナーズラックで、私がオヤニラミという珍しい魚をゲットした時にはとても嬉しかったな。イチロウとエイキチに随分褒められたな。

 水に浸かっているうちに体操着がびしょ濡れとなり、後はお構いなしにと水中にもぐったり、本来の目的を忘れて大いに川遊びに興じた。それでもニゴイ、ドジョウ、ギイなど捕まえて、成果としても十分なものが得られたようだった。

 その時に、顧問の先生に撮ってもらった一枚のモノクロの写真が映像として心に焼き付いている。イチロウが水の中でやや前かがみで立っていて、その後ろの堤の上で、エイキチ、私、プーさんが上半身肌で座っている。4人とも幼げな面持ちに屈託のない笑顔を浮かべて本当に幸せそうな様子だった。あの写真、実家のどこかに仕舞っている筈なのだが、どこにやったけ。考えてみれば40年前のことだった。

それからも何度かここを訪れたのだけれど、私の思春期の原風景となっている。

そのような事を、水とカロリーメイトを摂取しながら、あの頃と変わらない川面を眺めながら思い出した。そういえば顧問の先生に高校卒業以来不義理してしまったけれど、お元気でお過ごしなのだろうか?随分なお年となられただろうな。

 なんだかこの堤を離れがたい気分ではあったのだけれど、次の目的地に向かうため、更に川の上流に向かって自転車を進める。

 しばらくなだらかな上り勾配の県道57号線を進む。県道76号線足守方面の道路標識が見えて来て右折、山道の76号線に入り足守地区に向かう。76号線は“立派な(笑)”山道で勾配がきつそうであり、“いっちょやったるか”と覚悟を決めて登坂を開始したところで、ロードバイクに乗ったチャリダーが勢いよくその坂道を降りて来た。お互いに会釈をしてすれ違ったが、「そうか地元でもちゃんと山道を攻めているチャリダーがいるのか」と妙に嬉しくなる。

 左右の木立に覆われた山道はひんやりとした湿気を有し走っていて誠に気持ち良し。“ここまで来て良かった”と思った。


 山道のピークを過ぎると狭い盆地になっていて、水田があった。日本の里山は美しいなと思う。どうして美しいのか? “それはオイラがその風景を美しいと思う日本人だから、か”と愚にも付かない答えが頭を過ぎり、独り笑う。その盆地を過ぎるとちょっとした急勾配となり、両脚が少々悲鳴を上げそうになるが、MR-4良く出来ていて無理なく進んでくれた。その道の狭い曲がりくねった急勾配を過ぎると、そこからは谷間の水田地区を眺めながら自由落下状態、しばらく周囲の山々を見渡しながら足を休めつつ降りていく。

 県道76号線は、やがて国道429号線に突き当たった。右折し国道429号線を総社方面へ足守地区を目指す。このあたりは、学生時代にホタルを見にやってきたり、そのままこの国道を北上し山間の道を津山方面に抜けられて、県北に向かうドライブコースだった。

 この日のもう一つの目的地は、この道を総社方面に向かったところにある足守地区だった。


足守地区は、豊臣秀吉の正室ねねの親族である木下氏が治めた旧足守藩の陣屋が置かれた場所であった。それをはじめて知った学生時代に、このようなところにそういう血筋の一族が大名として、ある意味ひっそりと生きながらえていたことに大変驚いたものだった。岡山の大名と云えば池田氏の名前がすぐ浮かぶのだけれど、岡山市から見るとその平野の北西部の一画に2万6千石の小さな大名が居たなんて。そしてそれを伝える遺跡が現代までひっそりと歴史の片隅に棲むように存在していたなんて、ある種の感動を覚えたものだった。

 私は学生時代に、試験がひと段落して頭を休めたい時に、何度かこの足守の陣屋跡の一画にある近水園という小さな庭園を訪れてぶらぶらとしたものだった。岡山市にある後楽園と比べるべきほどのものではないが、それでも小山を背にした古い小さな庭園にはしずかな趣があり、誰も知らない秘密の園みたいな感じで好きだった。



 この度改めて訪れてみると、陣屋跡を中心にちょっとした観光地化がなされていた。以前はぶらりと庭園内に入れたのに、どこが入り口だったか、この度は園内に入ることが出来なかった。ただ、これらの整備は地区の教育委員会や商工会の人たちの努力によるものだと思われ、やや私の心象風景に残っていたものとは異なるものの、それはそれで好感が持てた。この度初めての発見なのだけれど、あの緒方洪庵さんもこの地で生まれたとのこと。やるな足守藩!

 水入れを兼ねて文化地区の中に或る駐車場で小休止を取って、その地区から再び国道429号線を総社方面に向かった。足守地区から総社市を通る国道180号線までは、ほぼ直線の道、空は広く左右には水田の緑が広がっていた。ああ、誠に気持ち良し。思い付きで発案したツーリングコースだったけれど、予期していた以上に、色々と心が動かされたツーリングだったな。

 走行距離約50㎞ 出発時間AM6:00、帰着時間AM9:40

 帰着後に、家人から「何処を走ってきたのか?」と問われ、どこそこだよと答えたら、「そりゃあ、岡山県民でもなかなか知らんでえ」と大笑いされた。

 

「うん、超個人的な心の夏休みだもの、誰も知らなくて良いのよ。それで良いのだ(笑)。」と言葉にせずに飲み込んで微笑み返した。

おわり

2020年8月5日水曜日

吉備路~倉敷~児島~玉野への自転車旅(2)

海岸沿いの県道から、港前三叉路になった展望台に向かう山道に入る。かつて若い頃は、この山道を反対側から渋川海岸に抜けるショートカットとしてこの道を使った。勾配は普段は知っている山道と比べてもそれほどきつくなく、登坂には難渋しないものの、曲がりくねった見通しの悪いカーブが続き、走り屋の四輪やバイクとの遭遇に注意が必要だった。私が登坂の最中にも、背後から何台かのバイクがせまり追い越して行った。

 それにしても我が愛車のGiant MR4はロードバイクよりもギヤが高めに設定しているようで、スピードは出ないもののこのような曲がりくねった登坂道を軽々とペダルを廻すことが出来、良く出来たチャリだと思った。

 20分程度で展望台に到着。展望台の建物前にはバイクツーリングの人達が集まって談笑していたが、自転車乗りは皆無。ここはチャリで上るには手ごろな坂道なんだけどな。なんだかちょっと勿体ないような。

 

記念写真を撮るべくMR4を担いで展望台の階段を上がる。展望台には幸い他の観光客が居ず貸し切り状態。誰にも憚ることなく、展望台の手すりにMR4を立てかけて、瀬戸内海の大パノラマを背景に記念写真を撮影。生憎どんよりとした曇り空ではあったが、瀬戸大橋から対岸の丸亀まできれいに見渡せた。

 今回の主たる目的である「渋川海岸にチャリを持ち込む、そして王子が岳展望台までの坂道を上がる」は無事終了。瀬戸の大パノラマをバックに愛車の写真を撮ることが出来、ひとり大満足に浸る。

 しばらく、大パノラマの穏やかな瀬戸内の風景を楽しんだ後、出発。来た道を下り、渋川海岸に戻り、そこから玉野市宇野港に向けてペダルを踏む。途中数人のロードバイク乗りに遭遇し軽く会釈をするが、何人も挨拶返さず。“まったく…..、近頃のチャリ乗りは…….”kの人達、恐らく岡山市内からやって来られたのだろう。このような平坦で交通量の少なく乗っていて気持ちの良いコースを持っている地元のチャリ乗りが羨ましい。我が地元ではこうはいかないものーどこかへ行こうとすると、必ず山坂道が立ちはだかる。平坦な道は交通量が多くて危なっかしい。

 なんてことを頭の中で呟きながら、先を急ぐでもなくMR4のペースで宇野港を目指した。

 宇野港は、瀬戸大橋・瀬戸中央道の開通と共に、四国へのアクセスポイントとしての歴史的役割を終えた。今では芸術の島・直島行きフェリーを利用する客の方が多いのではないか?


私が宇野港に到着した時には、港は閑散としておりのんびりとした空気が漂っていた。宇野港に着いたものの何もすることがなかったので、嫁が出かける際に袋に押し込んでいたミックスナッツを取り出して栄養補給にボリボリと咬んだ。塩味が効いたミックスナッツで美味しかった。嫁と義母は、総社市内の花屋に出かけているとのメッセージがLineに入っていた。“これからは、嫁の里帰りに付き合う時は、MR4を持ってきちゃおう。岡山県内をちょこちょこと走るべ……

 “さて宇野港からどうやって帰るべ”スマホのマップを取り出して帰り道を探索。国道30号線を岡山に向かい、適当なところで茶屋町方面を曲がり岡山児島線に入りたいと思った。そうするべく宇野港から国道30号線に合流するJR宇野線に沿った県道22号を走り、田井地区で国道30号線に入った。後はしばらく国道30号線を岡山市方面へ。このあたりから交通量が増えたため、広い歩道があれば積極的に歩道を走る。

 この道、学生時代には渋川海岸からの帰りや、就職後しばらくは仕事の都合でよく使った。特に岡山方面への帰路、眼前に広がる岡山平野・水田地帯の眺めが伸びやかで素晴らしく、本当に好きな道だった。特に倉敷川の橋を渡る頃、目の前に碁盤の目のように用水路が張り巡らされた水田地帯が視界に広がり、思わず頭の中でスメタナ作曲「My Country」が流れだしたものだった。

 

倉敷川は、朝立ち寄った倉敷美観地区を源流としている、倉敷市街地を走る間は大きな用水路程度なのに、児島湖に注ぎ込む直前のこのあたりでは立派な川となっている。川岸にはうっそうとした葦が茂り、ゆったりとした流れを見せている。

 

この川を渡る橋に着くと、しっかりとこの辺りの風景を確認したくなり、自転車を止めてしばらく四方を見渡した。辺りの水田では水が引き入れられ田植えが行われているようであり、遠目にトラクターが何台か動いているのが見えた。“素晴らしい~” ぼんやりと左手の水田地帯や右手の児島湖方面を見渡していると、ふと眼下の倉敷川の水面にバシャンという音共に波の輪が広がった。“雷魚か、それとも鯉か….? ” 

 少しずつ気分が高揚し楽しくなり、国道30号から右手に広がる水田地帯の中を走りたくなった。橋を渡り、右手の農道に入り茶屋町・早島地区へ抜けるべく自転車を走らせた。しばらく径を適当に曲がりながらやがてはば56m幅の用水路に沿った直線の農道を走った。先にはいくつもの横切る小路があり、適当に右折と左折を繰り返していると次第に迷路に嵌ったようになった。国道30号線の右手に目指す早島地区がある筈なのだが、碁盤の目のように張り巡らされた用水路と脇の径が必ずしも30号と直角に交わっている訳ではないことが走っている間に気が付いたのだが、気が付いた頃には目的地の早島地区に抜ける径を通り過ぎたようだった。それでも心は軽やかだった。水田地帯を走っていると、あちこちで雲雀の囀りやカエルの啼ぎ声が聴こえて来て、ヒトや水田地帯に棲む生物たちの生の営みにも夏に向かって盛り上がっているようで、そうした生の営みから私自身もエネルギーを貰っているようでとても愉快で堪らなかった。

 

最近、なかなか自転車ツーリングに出かけることが出来なかった。あまり事前の準備が出来ぬままやってきた今回のツーリングだったが、想像以上に楽しいものになった。

 結局のところ、私と愛車は水田地帯で迷子になりかけて、国道30号線が岡山市街地に入る手前で、この道路に合流。見覚えのある岡山市街路をポタリングしながら妻の実家に戻ったのであった。

 

出発時間am7;00 帰着時間pm 1;40頃、走行距離94㎞強。ごちそうさまでした。

(おわり)


2020年8月4日火曜日

吉備路~倉敷~児島~玉野への自転車旅(1)

少し時間が空いてしまったが、去る621日に表題のごとく、岡山市北区~倉敷市・玉野市~岡山北区をチャリ走行した。用いたる自転車は、Giant MR4であった

 前日、嫁の実家に泊まらせて貰い、同日朝7時に嫁実家を出て715分頃に岡山市北区にある吉備津彦神社前をスタート地点とした。しばらく山のすそ野に沿った径を辿り、吉備津神社前を通過。


 吉備津神社は、吉備津彦神社と共に桃太郎伝説所縁の神社であり、特に前者は古来より学問の神様としても祀られていた。私は学生時代に倉敷市で過ごしたのだが、自らの受験の際にはお参りに来たし、家庭を持った後も、初詣、子どもの受験合格祈願にもたびたび吉備津神社に参拝した。私は信仰心の乏しい野郎なのであるが、ここは唯一大切にしている場所であった。

 しばらく国道180号線を右手に睨みつつ、同神社の門前の住宅街の径を抜け、そして総社市にある備中国分寺跡に続く県道に入る。この道は、個人的には大変懐かしい道路で、左の丘陵地を越えると私が学生時代に住んでいた倉敷市城東地区がある。休みの日にはその地区にあったアパートを出てイチロウと共にこの道を経由し、西に向かえば総社市から高梁市方面へ、この道を横切って北に向かえば、足守地区~吉備高原都市~湯原温泉方面へ、東に向かえば…岡山を通り北に向かって津山へ、時には遠く鳥取県にドライブするのに使った道だった。当時はこの道を挟んで田圃が広がっていて、長閑な風景が広がっていたが、今では建物が道沿いに出来ており、少々趣が変わってしまっていた。

 この道を更に進むと田圃と桃畑が道沿いにあって、私個人には岡山を感じさせる懐かしい風景が続くのであるが、その道のなだらかなアップダウンを繰り返して、視界が伸びやかに広がる備中国分寺跡前に到着。

高校進学のために倉敷市に初めてやってきた当時、この風景を見て感動したものだった。正面に国分寺跡、そしてその奥の山の峰に鬼ヶ島伝説のもとになった鬼の城跡、そして左に視点を移すと近くに造山古墳があった。岡山という処は古代から物成りが良く大変リッチな国だったのだと。春の夕暮れなぞは、桃の花の香りが辺りを満たし、田圃の縁には蓮華の花、菜の花が咲いていた。その様はなんとも美しく、ガキの苛立った気持ちを慰めてくれたものだった。

その朝は、予定を変更してこの総社界隈をポタリングに切り替えるのも良いかと一瞬迷ったが、別所にも楽しみな景色が待ち受けているため、写真を数枚撮って再びチャリを漕ぎ始める。

 総社~生坂地区経由で倉敷市街地に続く県道を走る。備中国分寺跡の交差点を左折し、南に向かう。生坂に向かって緩やかな上り勾配をゆっくりと走る。このあたりに私が3年間過ごした高校寮があって、その緩やかな上り勾配を上がりピークを過ぎて下って行く途中に、林道の入り口があった。この林道は左手の山林に続く道で、その先を進むと私たちが過ごした寮の裏手に続いている筈だった。少し立ち止まり奥を覗いたのだが、なんだか高校当時の同級生たちが、大笑いをして歩いて出てくるような気がして少々感傷的な気分になった。高校時代の気分が蘇りつつ、その県道の緩やかな坂を下ると、山陽高速道倉敷インター出口前の交差点に差し掛かった。今では、山陽高速の高架、そして、その前方には岡山~倉敷間を結ぶ立派な県道が東西に走っているが、高校当時は、このような立派な道路はなく、ただ東西に広がる水田地帯が広がっていた。

水田には用水路が張り巡らされていて、高校時代には生物部淡水魚班に入り、イチロウたちとこの辺りの用水路で、鮒、タナゴ、ニゴイ、ドンコ、ライギョ、チョウセンブナなどを網で獲ったものだった。本当に懐かしい。今では用水路の護岸整備が進んでいて、魚たちが隠れるような水草や敷石はなく、あの当時いた魚は今でも生息しているのか心配だけれども、かれこれ40年近くの歳月が流れたものな、あまり期待できないか。

 再びチャリを漕ぎ始め、倉敷市街地に向かう。西坂~三軒茶屋町地区。高校時代にチャリで休日に倉敷に遊びに行くのに使った道。土曜日になると、チャリに乗って倉敷に出かけ、レコード店、喫茶店、本屋、ゲームセンターと飽きもせずに同じ行動を取ったものだった。

 

倉敷中央病院付近から倉敷市街地の径に入り、えびす商店街に出る。時刻はまだ820頃で、流石に人気はまばら。この度は自転車できたため、この商店街を全部通った訳ではないのだが、いつ来てもこの通りが好きだ。古びた雰囲気の中にもどこか清潔で洗練された趣がある通りで、岡山に帰省するたびに1度は理由を作ってぶらぶらと歩きたくなる。高校当時の賑やかさは無くなって来ているのだるけれど、この通りには落ち着ける風情が残っていた。

暫し、通りの奥の方を眺めた後、左に曲がり 商店街を抜けて美観地区に入る。大原美術館前の石橋で暫し休憩。

この大原美術館と美観地区を整備した大原さんは本当に偉い。戦後間もない時期にこの地区の景観をそのまま残そうと取り組まれた。財を成したヒトがこれだけの文化財を地元に残し、そしてその心意気が岡山という土地に学術的・文化的な財産を築く機運を残したのではないかと勝手に想像しているのだけれど、とても凄い事だと思う。今では日本でも有数の観光地になっている。街の興りって案外個人によってなされることが多いんだよな。そういう気概を持ったヒトが昭和時代までは日本の各所に居たんだよな。そんな事を想いながら、人気の少ない倉敷川のほとりをゆっくりとチャリを引きながら歩きこの街にそよぐ風を暫し楽しむ。

 

美観地区を離れ、そのまま倉敷川沿いの道をそのまま南下。途中右手に市役所を確認し更に走行していくとやがて右手に田園風景が広がった。この道は、学生時代のドライブコースのひとつであり、道のイメージもうる覚えにも記憶があったのだが、この度走ってみると途中より左へ曲がっていく道とは別に直線の綺麗な道が新設されていた。
岡山って土地は、平地が多いせいか、色々なところに新しい直線道が出来るところのようだ。それは学生時代の当時も驚いたものだけれど、この土地に帰る度に驚かされる。どこからそんな金が出てくるのかよそ者から見ると不思議でもあり羨ましくもあった。

その道は歩道も広くのんびりと自転車を走らせることが出来たが、その道はやがて低い丘陵地に上がりトンネルに向かっていた。トンネルに向かう上り勾配から歩道が消えて自転車を走らせるには少々危険であったので、その丘陵地を東側に縁をなぞる様に迂回することにした。何処に出るのか分からなかったが、先は急がぬため多少迷子になっても良いかとも思った。

 幸いなことに、その丘陵地の迂回路を探していると、瀬戸内高速道高架が見えてその高架下の側道を辿っていくと、先ほどのトンネルに通じた道路に戻り、再び元のルートを辿ることが出来た。その後多少の上り勾配が続いたが、広島の坂道を走っているものからすれば特段の難所でもなく、ゆっくりと背後から追い越してゆく車輛に気を付けながら登坂しピーク越えた。

ピーク後の 緩やかな下り道はやがて岡山児島線に突き当り、その道路を横断して瀬戸中央道横を走る児島地区市街地に向かうなだらかな上り勾配の道に進んだ。やがて見覚えのある児島地区市街地に入った。岡山県児島地区は、ジーンズの街として最近注目を浴びているところ。

この道を進むと海岸にぶつかる手前に塩田開発で財を成した野崎さんの旧宅跡地があり、そこからJR児島駅に向かう商店街があり何店かのジーンズショップが連なっている。ジーンズは好きだけれど、マニアではないのでこの度は立ち寄らず。旧野崎邸前のコンビニで水分補給を兼ねて小休止。児島地区は学生時代にドライブ目的地に好んだ場所で、この界隈にはお気に入りだった喫茶店や地元の小魚を出してくれる食堂などがあったが、あくまでもローカルな浜辺の街であり、ジーンズの街として全国的に知られることになったのは随分後の話だった。

 水入れをして再び走り出す。海岸沿いの県道へ入り玉野市の方面に自転車を走らせ玉野市渋川海岸に向かう。やがてこの道は海岸に出て右手に瀬戸内海と対岸香川県を眺めることができるようになる。この度初めて自転車でこの道を走行したが、海風が身体に触れて大変気持ちが良い。ああ、もっと早く頻回にチャリで来れば良かったな。

このあたりから、対向車線にロードバイクに乗ったヒトに出会うようになった。地元のチャリ好きにも恰好の走行コースなのだろう。こちらは、すれ違いざまにすれ違うチャリ乗りに軽く会釈したのであるが、あちらはどの方も応答なし。あれ?チャリ文化が違うのかしら…...。まあ、いいか。

 岡山県渋川海岸は、海水浴とマリンスポーツのメッカ(古い表現w)である。私が学生時代の頃にも、同級生たちがヨット・ウインドサーフィンを楽しみにこの海岸を訪れていた。私はもっぱら古典的に(笑)、夏場に身体を浸かるだけの海水浴を楽しんだ。残念なことに女の子と海水浴を楽しむチャンスはなかったのだが、それでも夏―海水浴というのはその当時までは若いヒトにとってちょっとしたイベントだったし、この浜辺は夜のドライブコースとしても楽しめる場所だった。


 渋川海水浴場横にある漁港桟橋に到着し、しばし長めの休息を取る。まだ海水浴には早い時期だったが、それでも浜辺で遊ぶ家族連れの姿や、海ではジェットスキーを楽しむヒトたちがいた。右手に視界を移すと、はるか向こうには四国と本州を繋ぐ瀬戸内中央道や瀬戸内を行き交うタンカーや貨物船が見えた。懐かしくも優しい風景が広がり、しみじみと「ここまでやって来て良かったあ」と思えた。

 岡山に帰省するチャンスは年に12度あるのだけれど、ここまでやってくるチャンスはそうそうなかった。個人な想い出や感傷に付き合ってくれる奴もそうそう居ない訳であった/嫁子もオヤジの想い出に関心ないしね(笑)。

 しばらく若い頃の夏の想い出をあれこれ思い出しながら体を休め、この度の自転車行のハイライトとしていた王子が岳展望台への坂道を登坂を目論む。道路標識によると、渋川海水浴場から展望台まで4㎞と記されてあった。

(つづく)

2020年8月2日日曜日

梅雨は明けども

730日、例年に比べると約10日ばかり遅れて私が住む地方は漸く梅雨明け宣言が出た。この数年は、梅雨の時期になると日本各所で豪雨被害が伝えられて、その度に胸が痛む思いをしている。以前は梅雨と云えば、ムシムシとした空気としとしと降る雨をイメージしていたのに、この23年は「線状降雨帯」なるものが豪雨をもたらして、この言葉がすっかり定着してしまった。私の住まいの西側には急斜面があって、大雨が降るごとに土砂崩れの恐れがあり警報が出るたびに避難するべきが否かを悩むことになる。

職場の留守番と大雨の夜が重なるたびに、妻に対して「どこかに避難すれば?」と勧めるものの、本人は「私は大丈夫。運が強いから」などと言い拒む。そして、彼女は西側斜面とは反対側にある家屋2階の寝室に所謂垂直避難し一夜を過ごしていた。

 大雨警報と私の帰宅日が重なったある日、早々に夕食を済ませ(アルコールも控えめに)寛いでいると、妻が私に「一応いつでも避難できるように、衣類・洗面道具、スニーカーをひとまとめにしてベッドの横に置いておけ」という。「わかった。いざという時に(寝室前の)ベランダから降りられるように梯子かロープになるものを用意しておくか?」と応じると、妻曰く「そんなものは要らない。いざという時は、屋根から飛び降りたら良いのよ」などと言った。「私はそれで大丈夫だけれど、あんたはどんくさそうね」「一応、現金と通帳とハンコは袋に入れて私が持って出るからね」だと。

 このオナゴの腹積もり垣間見えましたぞw。自分ひとり生き延びることを想定しているらしいw。あくまでも運が良いのは本人のみで、夫の運までは考慮していない様子。まあええけど。

 うーむ、毎度雨季になる度に、大雨に戦々恐々としなくてはいけないことになり、どこかに引越すか、避難用の部屋でも借りた方がよさそうなのだが、私にはそれを決意する根性と資金が懐になし。今後も生涯にわたって梅雨と台風・秋雨時期に思い悩むことになりそうだが、これも我が宿命と受け入れるか。

 それとこの梅雨時期は、新型コロナの感染再拡大と重なった。6月後半から、連日のように日本各所でコロナ陽性確認者数が増加の一途。マスコミを通じて各首長が、「注意喚起」「特別警戒警報」とか発表しているけれど、PCR検査数が増えたから、重傷者の割合が低いから、医療機関の受け入れ状況がまだ逼迫していないから等々の理由付けでもって、我が国政府はロックダウンなどの強力な対策を施そうとしない。

 このように感染確認者が増加の一途だとロックダウンしなくても、例えGo to キャンペーンを実施しようとも、一般国民は危なくて市中に出て消費活動、或は旅行に出かけようという気にならないのだけれど。今の状況だとロックダウンしようが今のままで行こうが経済活動には大いなる支障を来す訳だから、国民の生命・健康を第一優先として再び期間限定で外出自粛要請と各企業に対する休業要請を出した方が良いと思うのだけれど如何なものだろうか?

 

これから本格的な夏がやっと始まるが、夏らしいイベントは出来そうにもなく、オイラは3密を避けて山にチャリ漕ぎに出かけることくらいしか今のところ夏の楽しみを見出せないのであった。