この度の宿泊目的は、前々から気になっていた『萩往還』と呼ばれる古道に沿った山道を自転車で走ってみようということだった。萩往還は、江戸時代中期以降に発達した藩の政庁が置かれた山口/山陽道と萩城下を結ぶ街道であったらしい。現代では、この古道にそって山口市街地から山間部を縫って萩市内へ通じる県道が通っている。以前家内と山口に来た折に萩を目指したことがあって、クルマのナビが指定した道がこの県道で、なかなかきつい勾配と曲がりくねった道なりが、自転車乗りにしてもバイク乗りにしても恰好な走行コースであるように思えたものだった。
可能な限り出来れば半日使って、この古道沿いの県道を走ってみたいものだと兼ねがね思っていたところ、この度妻が他用で不在となったため、この機会を使って、クルマに自転車を載せ山口までやってきた。
当日朝08;30頃に次男の部屋を出て、JR山口駅前に08;45頃に到着。そこから萩往還が通った県道62号線の峠道を目指す。国道9号線バイパスを横切り、重要文化財瑠璃光寺を左手に見ながら進むと、旧街道を思わせる街並が少し続く。やがてはその街並みを通り過ぎると、左にカーブし川沿いのなだらかな坂道に差し掛かった。
同伴者はいないので、ゆっくりと慌てることなくペダリング。自分の最適と思われるケーデンスをキープしながら慎重にギアをlowに落としていく。やがて進んでいくと左眼下にダムとダム湖があった。この辺りからはしばらくフラットな見通しの良い道が続いた。
しばらく進んでいくと、左右の斜面に数軒の人家が見えて、再び右に大きくカーブが見え、その正面に『萩往還』と書かれた標識があった。現代の道県道62号線は右に大きくカーブし、ここから勾配がきつくなり道幅も狭くなっていた。
周囲を林に囲まれた狭い道は、人影も行き交う車両もなく時折鳥の鳴き声が聴かれるばかりで静かであった。勾配は次第にきつくなり左右にカーブ、そしてつづら折りを繰り返し、ピッチは上がらねどもマイペースでペダルを廻した。
六軒茶屋跡地と書かれた道標を見て、県道を横切るように左右の急斜面に石畳の道がちらりと見えたあたりから両脚に疲労を感じ始めた。
「しかし、昔の長州藩藩士は大変だったのだろうな。山口政庁から萩城下に向かうのに、いきなりこの急峻な山道を越えないといけないものな。籠にしても、馬で越えるにしてもこの山坂道は大変だ。ましてや徒歩となると難儀なことだったろう。特に幕末の動乱期になると、この藩は勤皇派と佐幕派に分かれて大騒ぎになり、吉田松陰の安政の大獄、長州征伐の際には奇兵隊の活躍。その間、長州藩士がこの道を忙しなく行き来したのだろう」
六軒茶屋跡を過ぎて曲がりくねった登り坂を進んでいくうちに、頭上の視界が次第に開け、初春の青空が見えるようになった。あともう少しで峠のピークに達するだろう、あともうひと頑張り・・。大きく右へカーブすると、勾配11%距離にして大体300~400mの直線があった。
“ひえ~、これが最後の難所かいな・・・・”心が折れそうになり、そろそろ両大腿部が攣り始める兆候が出現。静かな峠道に己一人。呼吸は荒くなり、両耳の奥で鼓動がぎゅっぎゅっと聞こえ始めた。ここらあたりで一休みするか?それとも登坂を続けるか、そのような逡巡を覚え始めた時、〝往時には国難を背負った藩士がこの険しい山道を息つく暇もなく上て行ったのだもの。現代のお気楽な中年男がこのくらいの難儀で弱音吐いてどうするの?“と思えた。そう思うと、密命を帯びてあるいは志を秘めてこの古道を登って行った長州藩士たちの激しい息遣いが聞こえてきそうな気がして、私はもう一度心を奮い立たせたのであった(なんて書くと、司馬遼太郎みたいでしょ?w)
なんとか勾配11%の直線を上り切ると、程なく峠ピークに達したのであった。到着時刻09;55くらい。
このまま、この道を下ることも考えたのであるが、前夜の次男との約束もあり、昼までに帰着する自信がなかったので、このピークから来た道を引き返すことにした。ゆっくり下りながら、何枚かの写真を撮った。市街地に戻ると瑠璃光寺の境内を外から眺め、立派な作りの山口県庁舎を眺めつつ、次男のアパートを目指す。10;45頃に帰着。
午後から、息子のリクエストで萩市へドライブ。午前中上った県道を今度はクルマで走行する。険しい上り坂に差し掛かると、次男曰く「ここをチャリであがったんか?バカだねえ~」と一言。“そうだよ、ただの坂バカだよw”と返す。
萩に着くと、松下村塾と指月城跡を見学。吉田松陰を祀った神社があったが、司馬史観に影響を受けているせいか、多少の違和感あり。彼はただ純真一途なヒトで思うがままに行動した青年だったのではないかと。若さゆえのある種の美しさはあるけれど、神社に祀るようなヒトだったのかな?(関係者の皆様、すみません。単なる主観的な想いであって、彼の事績を貶めたいわけではございません。)
その後、萩城(指月城)跡を次男ふたりで散策する。日本海につき出した小山にそのお城はあった。そのそばには碁盤の目に区画された城下町跡があって、美しい街並が残っていた。江戸時代も今と変わらぬ静かな街だったのだろうな。なんだか山陽表の忙しなさから隔絶されたような静かな城下町がそこにはあったような気がした。
(おわり)