2020年12月21日月曜日

11月から12月にかけての私的出来事アラカルト~その2~

 3.寒夜の訪問者

122日の夜は、職場の留守番当直だった。それまで比較的暖かな秋を過ごしてきたが、月が替わると同時に肌寒くなった。間近に迫った職域業務監査の準備のために、夜遅くまで建物内を右往左往。“こんなコロナ禍で日本国中バタバタしている時に、全くもう~!”と独り愚痴りつつも、dead lineが動くことも中止になる筈もなく、未整理の書類をボチボチと仕上げていった。夜中の12時になり、“取りあえず今日はここまでにしておくか”と、書類を所定の位置に戻すために居室を出て引きあげようとしたところ、そういえば居室の暖房を消し忘れたわいと戻り暖房を消して居室を出ようとしたら、椅子の上に見慣れぬボロ毛布が見えた。


“あれ?”と近づいて覗いてみると、野良猫一匹が椅子の上に丸まって寝ている。“いつの間にコヤツはここに居たのか?ボロ毛布と形容したのは悪かったが、それにしても綺麗とは言えない。こんな寒夜に追い出すわけにも行かず、仕方ない、暖房はつけておくままにするから、今晩はこのままここで休んで行きなされ”と暖房を再度つけて、居室を離れたのであった。

 

翌朝午前9時に居室に出勤すると、昨夜の野良猫はどこともなく立ち去っていた。

その後、その野良猫、ほぼ日が暮れると我々の居室に入り、その椅子で寝て行くようになった。そのうちに、イチロウ氏から夕食を振る舞われるようになり、益々ここが気に入った様子。「寒夜の訪問者」と呼べば何となく詩情を感じされるが、いつの間にか夜の住人・居候になっちまいやがったw。仕方なし、それも許そうか。ただし、仲間は連れて来るなよw


 

4.宇宙イモ

イチロウ氏が、地方の美術館訪問の帰りにどこかの道の駅で購入したとお土産に「宇宙イモ」なるものを買って来た。イチロウ氏曰く「むかご(山芋の蔓に出来る実)の一種で、東南アジア原産の巨大むかごらしいよ」「おまえむかご好きだろw、買って来たぜ(笑)」とのことだった。

さて、この巨大むかごをどうして喰ってやろうか?イチロウ氏によると、ネット上にはこの宇宙イモの料理レシピに色々と上がっているとのことだったので、早速ネット検索してみると、ふむふむ、山芋焼き(関西焼き風)、天麩羅など載っている。山芋に準じて調理すれば良さそうだった。

ただ、私としてはあのむかごの風味を生かすにはもっと良い方法はないかしらと思案。むかごの皮ごと食べた時の皮の苦味と優しい実の味をなんとか生かしたい・・・、やはりバターソテーが良いな、出来たら肉と合わせて食べたいと思った。

126日にそのチャンスは訪れて、家内が「久しぶりに牛肉が食べたい」と言うので、間髪入れず、それでは副菜に宇宙イモを一緒にフライパンで炒めて頂戴とリクエストを出した。宇宙イモの大きさは、中型のジャガイモ程度の大きさだったが、思ったよりも皮が厚い。レシピにも書いてあった通り、皮は剥いた方が良さそうだった。ピーラーで皮を剥き始めると、身から山芋特有の粘り気が出て来て、意外にも皮むきに一苦労を要したが、それを一口大に切って10分程度塩ゆでにし、それを牛肉をソテーした後に残った油で弱火にかけたフライパンで焼き色が付くまで炒めた。バターを少々に塩コショウで味を調えた。


実際に食べてみると、ほくほくとした食感で、ジャガイモほどの土臭い風味はせず、あっさりというか優しい味がした。誠に旨かったけれど、この食べ方では宇宙イモの特色を生かし切れてなかったか?次回は、別の調理方法を考えねばと少々反省をした。

それでも、丁度その日ははやぶさ2号が小惑星から持ち帰ったサンプルの入りのカプセルが無事回収された日で、宇宙イモを喰うにはなんとも絶妙なタイミングだった。宇宙イモには、宇宙を感じされるどころか、地球の大地が育んだ味がしたけれど、地球という惑星の成分を意識して味わうには相応しいような気がしないでもなかった。

翌日、イチロウ氏に報告をしたうえで、同氏はどのようにして宇宙イモを食したのか聴いてみると、彼曰く「オレは買わなかった。オレあんまりむかご好きでないから」と。

 え?喰わなかった・・・・?オレだけ喰ったの?

 むかごを紹介したのも、宇宙イモを紹介したのもイチロウ氏だったのに。なんともキツネにつままれた様なというか、どうも腑にしっくりと落ち着かない気分がしばらく宙を漂ったw

 

5.ハンバーガーって、旨い食べ物だったんだね、のこと

 12月のある日曜日に、私の職域に関する講習会があり、半日ほど参加した。コロナ禍での対面式講習会であったので、緊張しながらの出席となったが、事務局の方々の努力というか配慮はきちんとなされており、検温、手指消毒、ソーシャルディスタンスに配慮した座席間隔とか、休憩時間のアルコール消毒とか、一連の会議のプロトコールに沿ったもので安心して講習に集中することが出来た。事務局の皆様、ありがとうございました。

 さて、昼食をどうするかという問題が残り、流石に昼食までは会場に用意されていないため、会場の近くにコンビニがあればそこでおにぎりでも買って、何処かのスペースで食べようかと、昼休みに戸外に出てみた。

 暫く穏やかな冬の昼下がりのオフィスビル街を歩いてみると、ある一画にバーガーショップを発見。あ!ハンバーガーをテイクアウトするのも良いなと思いつき、店内を覗いてみると、来客も少なく、座席もがら空きだった。では、その店で食べても大丈夫そうだわいと思い、結局のところカウンターでハンバーガー1個とホットコーヒーを注文して、片隅の座席についた。

 

よくよく考えてみると、前回ハンバーガーを食べるのはいつの頃だったか?自分の記憶を辿ってもこの2‐3年は食べていなかったのではないか。基本的に外食する機会も減り、休みの日に夫婦で買い物外出した折の昼食もハンバーガーを選ぶことはまずない。だから、ハンバーガーなる食べ物を口にしたのは、このブログで振り返ってみると、どうもイチロウ氏と20175月に三次でワニバーガーを食べて以来と思われる。

この場合の「ワニ」とは、サメのお肉です。

 

運ばれたハンバーガーを何気なく一口口の中に入れて咀嚼していると、肉パテから肉汁と油が口の中に広がり、自分で驚くぐらいに旨くて感動してしまった。そう、肉パテがこんなに旨いと感じたことはかつてなかったな。ああ、ハンバーガーってこんなにも旨かったんだw。思わず、自分が齧ったハンバーガーの断面をまじまじと眺めてしまった、本当に旨い。普段どんな食事をしてるんや!とツッコミが入りそうだけれど、この感動は全くの脚色なしw

 ハンバーガーなる食べ物は、お手頃で若い頃はよく食べたと思うのだが、ここまで感動していたかどうか。大学に入ってしばらくして、某ショップの「てりやきバーガー」なるものを食べて旨いと思ったことはあったけれど、この度ほどの感動ではなかった気がする。そもそもハンバーガーを真面目に食べて旨い!と思ったことがこれまでなかったかもしれないな。

 私とハンバーガーの出会いは、小学校の低学年で、田舎で生まれ育ったために近くに有名なハンバーガーチェーンはなかったのだが、米軍弾薬庫があって、知人の男性がある日その弾薬庫のPX(売店)で購入したハンバーガーを「マサキちゃん、食べな」と持って来てくれた時のことだった。そのハンバーガーは、ぱさぱさのバンズの間に分厚い肉パテと生のトマトの輪切り、すこしだけ火の通ったタマネギの輪切り、そしてキュウリのピクルスに、トマトケチャップがどっさりかけてあった。子どもが頬張るには分厚過ぎ、肉パテは肉肉しく、全体的には大味で、とても旨いと思える代物ではなかった。ピクルスと出会ったのもそれが初めてだったかもしれない。それをどう食べ進めたか記憶が定かでないのだが、途中でギブアップした。その後、そのオジサンは、何度かそのハンバーガーを運んでくれたのであったが、私はお礼こそ言ったものの、ハンバーガーには全く手を付けなかったのではなかったかと思う。今にして思えば、大変勿体ない事をした。今もし食べることが出来たら、あのハンバーガーはとても旨かったのではないかと思うのだ。アメリカンビーフで出来た肉の味たっぷりのパテに、半ナマのタマネギ、酸っぱ苦いピクルス。大味なトマトケチャップ。ひとつひとつの食材の個性がぶつかり合うシンプルなハンバーガーこそが「大人のハンバーガー」なのだろうな。

 今は、残念なことにそのやさしいオジサンも居なくなり、その米軍弾薬庫のPXにハンバーガーが置いてあるのかはどうかも分からない。弾薬庫の敷地に入れる許可証なんてどうやって手に入るのかも全く知らない。もう2度とあのハンバーガーは食べられないのだろうな。

 ああ、ハンバーガーは誠に美味し。しばらくあの幻の味への彷徨が続きそうである。

 

おしまい

2020年12月15日火曜日

11月から12月にかけての私的出来事アラカルト~その1~

1.トルコ産松茸をゲットし、堪能しました、の事

この秋は、国産松茸が豊作であるとのニュースをちらほらと見かけたのだけれど、家のおかか様にそれとなく水を向けても、「知らぬ知らぬ、そんな腹の足しにもならぬものは我が家には必要なし」とのつれない返事で、”ああ今年も松茸は我が家にはやってこないのか”と諦めていた。松茸、ああ、土瓶蒸しで食べたし、ああそのまま焼き松茸で食べるのも良いな、でもやっぱり誰も賛成しないだろうけれど、すき焼きに入れちゃうと旨いんだよなあなどと指を銜えて空想を繰り返すのみだった。そうこうしている間に、シーズンは進み、"今年も妄想で終わったわい”と完全に諦めていた。


11
8日(日)に、新しく来た車の慣らし運転を兼ねて、広島県北の道の駅を23か所廻ろうということになった。こう云っては大変失礼になるのだけれど、山間部の道の駅にはあるものは、新鮮な野菜と地元の農家さんが一生懸命拵えたお惣菜やお菓子、ジビエのお肉などと相場が決まっている。それでも道の駅の訪問を楽しみにされているお母様方は一生懸命に購入活動をしていらっしゃるし、うちのかか様もそういうひとりなので、私が偉そうなことを言ってはいけないーあくまでの私の心象風景だとお断りしておきますーが、すこし話を続けて、私は“あわよくば松茸を”と山菜・キノコ類コーナーをチラ見しては、外をぶらぶらするのを繰り返していた。私は、半ばあきらめで家のかか様の道の駅めぐりに付き合っていたのだけれど、意外にも2か所目の道の駅に、なんと見栄えの良い松茸が置いてあるではないか!ただしトルコ産で、3本で1000円! 
あまりの姿の良さに、迷わずに購入。ちょうど昼前で、道の駅の一画で、お弁当を購入し昼食を取りながら、スマホで検索してみると、数年前からトルコ産松茸は日本に入っていたらしいことを知った。なるほど、知らぬは我のみであったか……


早速、その日の夕食は、炭火での焼き肉とし、その具材のひとつとして松茸を焼いて喰ってみた。塩とスダチを付けて食べたところ、その匂い、歯ごたえとも日本産のものに限りなく近い。これは十分にいける。次回からトルコ産松茸でも十分だなと思った一夜だった。ああ、早く来年の秋が来ないかなw。


2.1129日、ウッドワン美術館訪問のこと

 どうも今年はcovid-19に始まり、covid-19で終わりそうな気配。ずっと人に遭うのにも遊びに行くにも、日頃の外出においても、自粛と警戒が続き、ストレスがかかり続けてしまい、終いにはどこか感情が麻痺しつつある今日この頃。この秋からは再び拡大傾向で、“これ以上の自粛をどのようにしたらええねん!我慢も限界でんがな。”と自暴自棄になりそうである。我が親友にして同僚のイチロウ氏は、ヒトの密集を避けつつも楽しみや気分転換を兼ねて、愛車を駆使して地方の美術館巡りを一足先に始めている。こんな地方にも小ぶりながら良い作品を収蔵している美術館が点在しているようで、彼ご推奨の美術館を何か所が教えてくれた。その中で、ウッドワン美術館は我々の住まう処からドライブがてら訪れるには程よい場所(広島県吉和町)にあり、彼の勧められるがままに、11月最終の日曜日に行ってみることにした。

 


その週末に差し掛かる頃、家内から「週末はどうするの?」と尋ねられて、どうもその問いの裏に隙あらば何か用事を言いつけようという魂胆が見え隠れしたものだから
/この辺りの我が夫婦間にある機微については、話せば長くなるから割愛w、毅然と「オレは、誰に何を言われようとも、遊ばせてもらうけんね」と宣言しておいた。どうもそれから家内も何かを感じたらしくw、日曜日の朝7時に私がむくっとベッドから起きて階下のリビングへ降りようとすると、いつもならまだ寝ている筈の彼女もそそくさと起き出したので、「まだ寝てても良いんだよ」と言うも、彼女曰く「いやあ、もう起きても大丈夫だ」と身支度を始めた。

朝食を終えた後、私が静かにしかし威厳を持って「実は、これからウッドワン美術館にドライブがてら行ってくる。昼過ぎには帰って来るからさ。」「あんたは付いて来ても良いし、家でお留守番でも良い。午後からは付き合ってあげることが出来るから」と云えば、家内曰く、「何言ってるの。私も行くに決まってるじゃん」などという。そうか、そんなら夫婦仲良く行きますか?ということになった。

午前815分頃に自宅を出発し、広島道~中国縦貫道などの高速道路を使わず、広島県大竹市内から県道を使って吉和町へ向かうルートを辿る。広島県西部に住みながら、このルートを走るのは全く初めてで、道幅は対面通行のワインディングロードなるも、走っていてなかなか楽しかった。現地に到着したのは午前1020分頃だったかしら。


ウッドワン美術館は、その名の通り製材と材木販売の会社を興したオーナーが集めた美術品を収蔵している美術館で、有名なところであればゴッホの「農婦」、岸田劉生の「麗子像」などを保有している。絵画の他にも、ガレのガラス工芸品とマイセンの陶器なども展示されている。実際に訪れてみると、その美術館はこじんまりと静かな佇まいを示していた。開館からまだ
30分も経っていなかったこともあるけれど、予想した通り他の来客者は居ないようで、我々ふたりがゆっくりと展示されている作品を眺めて廻ることが出来た。

展示されている作品はどれも素晴らしかった。上に書いた作品も良かったけれど、初めて知る日本人画家の作品にも見ごたえのあるものが沢山あって、これからも時々ドライブを兼ねて訪れてみたいと思える美術館だった。連れて来た家内もそれなりに楽しめていたようで良かった。





一通り館内をめぐったところで、美術館の横にある喫茶店で一休みする。特に注文した訳ではなかっただけれど、運ばれてきた珈琲の器がマイセンだったりして、ちょっと嬉しかった。「再訪必至、出来れば次回は新緑の頃に訪れてみようかしら」。そんなことを家内に言ったら、珍しく同意しているので、まあ本当に良いところだったんだわ。秋の休日を短い時間ではあったがリフレッシュ出来た行事でした。イチロウ氏紹介してくれてどうもありがとう。


2020年11月15日日曜日

ある感情記憶と時間

 この度は、Todd Rundgren/ A dream goes on foreverという曲に救われた。トッドさんどうもありがとう。

 


あまりにも超プライベートなことなので、詳細は省くのだけれど、11月のある夜に古い感情体験が蘇って、どうしようもなく悲しくも切ない気分になり立ち往生してしまった。50代半ばになって、このようなことを書くことに気恥ずかしさも感じるのだが、どうも自分はここ20数年職業人として家庭人としての役割を与えられて精神の平衡を保てていただけで、精神的には空疎なままの状態で成長して来なかったことに直面化させられたようだった。

 

どうしようもない未解決の感情記憶をきちんと再整理するか、このまま再度意識化された生の感情をそのまま抱いて行くか、再び未整理のまま前意識に納め込むか。どうも後者2つの選択は出来そうにもなくて、しばらくむき出しの感情記憶を抱えたまま悶々として過ごしていた(とは言っても、日常生活で与えられた役割は淡々とこなしていたのだけれど)。

 

一方で、9年ぶりにクルマを乗り換える事になって、日々のクルマ生活で聴く曲をどんなものにしようかとあれこれ考えていて、6070年代のアメリカのロック・ポップスあたりに対象を広げてみようかと思いつき、手持ちのTodd Rungrenのアルバムを少しずつ聞き返していたところ、ふと耳に留まったのが、上に挙げた楽曲だった。

 


恐らく私はある種の聴覚認知能力に欠陥があって、普段は音楽を聴いていて日本語も含めてあまり歌詞が頭に入ってこないのだけれど、このたびはこの曲の歌詞が断片的に耳に刺さった。ネットで検索しこの「A dream goes on forever」の歌詞を読みなおしてみたら、今の自分の心情にぴたりと当てはまるようで、色々とイメージが膨らんだのだった。

 

“恐らくこの曲は、Todd Rundgrenの個人的な感情記憶から生み出されたのだろう、彼はこの曲を取り上げるたびにその感情が蘇ってひどく辛くなるのではないか、artistって自分の身を削るようにし作品を生み、それを再生するごとにその感情と向き合わなければならないのだとすると、とてもしんどい商売だな”と何気なく思った。その時に、ふと自分の視界が広がったような気がした。“あー、そんなことはないか。”なんらかの心理的葛藤を克服したからこそこの素晴らしい作品に昇華されたはずなのだ”と。

 

そして思うようになった。記憶される対象は記憶する者が生き続ける限りその意識の中に永遠に存在しつづけるのだと。だからこそ生きている者はその事を忘れずに前向きに生きていけば良いし、それが生きる者の役割なのではいかと。生きている者は、記憶する対象を大切にしながら、その生の続く限り記憶しながら時間を過ごしていけば良いのだと。更に云うならば、その魂は、記憶する者の意識がある限りにおいて生き続けるのではないか。

 

そんな風に私なりにひとつの考えに達することが出来て心が軽くなり明るい気分になれた。このよう考えてみると、ひとつの感情記憶に対する私なりの役割が出来たようで、再び心の平衡を取り戻すことが出来たようだった。

 

1つの結論を得て気分は落ち着いたものの、よくよく考えてみると己の精神的空疎さは何も解決しないままであったw。その都度その都度、自分の役割を内省しながら生きていくしかないのだろうなw。

 

 

2020年11月3日火曜日

おっさんの休日の過ごし方

111日(日)は、どのように過ごしたものかと思案したところ、伸び放題になった髪をカットする事、クルマの内外の清掃、ここ1か月乗っていなかったロードバイクに乗ること等の行事が浮上。当日は、朝いつも通りに起床して、3時間程度チャリを漕いで、午前中に1000円カット、気温が上がったところで洗車、余った午後の数時間を夕食がてらの買い物と頭の中で計画が立ち、後は実行のみとなっていた。

 ところが、金曜日になり家内から「日曜日は、床のワックスがけに、長い間整理できていなかった書棚の整理ね、よろしく」と告げられてしまった。「最近は暖かいうちに年末の大掃除を済ませておくのが流行りなの」だそうな。

 “まったく、こっちにも都合があるのに”と不機嫌(あくまでも私の内的な体験として)な面をして、結局反論せずに黙っていたら、前日土曜日の仕事の合間にLineで同様のリクエスト(かなり命令に近い)を送って来やがったw。

 再度、チャリ~散髪~洗車~ワックスがけ~書棚整理を1日の中にどのように落とし込むかを思案。どう考えても、無理っしょということになり、土曜日の夕方・仕事終了後から活動開始とする。

 1031日仕事終了後5時ダッシュで帰路に着き、ネットで通勤路途中に或る1000円カットのお店を検索。都合が良い事に、ショッピングモール内にある年中無休・最終受付午後745分と謳ってあるお店を発見。午後630分頃に同店に到着、6人(約35分程度)待って、705分から15分程度でカットしてもらい、ついでに食品コーナーに立ち寄り夕食としてお惣菜を二人前購入し、そのショッピングモールを出たのが745分ころ。

 続いて帰路途中にあるガソリンスタンドに立ち寄り、自動洗車器にクルマを進めて洗車、そして同店内の清掃スペースにクルマを駐車させて、素早く濡れた車体を拭き取り、コイン掃除機を使って車内のマットやシート上のゴミ吸引をして取りあえずのクルマ清掃を終了し、帰宅のが午後820分頃か。

 休み前日の行程が思いの外順調にクリアしたため、私の気分は良く、幸いにして家内の機嫌も良く、ビール350ml+ウィスキーロック2杯、+おつまみ系中心のお惣菜をゆっくり食べつつ、嫁の世間話にテキトーに付き合って、就寝したのが午後1130分だった。

 111日午前6時に起床。窓外の景色はまだ暗く、室内の温度も肌寒かった(前日の天気予報では最低気温10度前後とのことだった)。家内を起こさないようにスルリとベッドを離れて、階下のキッチンへ降りてサイクルジャージに着替えて、暖かい珈琲牛乳とクッキーを二かけら食べて身体を覚醒ならびに暖める。

 午前635分に愛車のロードバイクに乗り出発。目的地は、極楽寺山国道433号線の峠としたが、昨今全国的にクマが行楽客を襲う事故がちらほらと聞こえてきており、23年前にも同じ山系でクマの目撃情報があったこともあり、ヤバくなったら途中で引き返そうと思った。

 春秋物のジャージ上下にウィンドブレーカーのいで立ちでは同日の朝は少々寒かったが、久しぶりのチャリは誠に気持ち良し。午前712分に極楽寺山の麓に着きそこから国道433号線に沿って登坂を開始。この山道コースは56日以来約半年ぶりのことだった。脚力の低下は否めず、ゆっくりとしたペースでペダルを漕ぐ。次第に道幅は狭く勾配もきつくなり国道と呼ぶには田舎道すぎているのだが、朝7時過ぎでもクルマ特にバイクの往来はそこそこあり、これだとクマさんも怖がって出没しないだろうと安心する。道は、更に狭まって木立の中をつづら折りのクルマの離合もギリギリの幅になる。朝の木漏れ日が木立を斜めに差し込み、遠くで野鳥の鳴き声がしている、全身から大汗が噴き出て、意識も肉体もこの朝の修行に集中している状態。出て来て良かった。



 午前758分に、アルカディアという施設に向かう峠に到着。自転車を降りて水入れと休息を取る。ここから見る宮島の景色は素晴らしい。その昔、山岳修行僧もこの景色を眺めて同じ感慨を抱いたのだろうな。自宅から約1時間30分の行程・自転車の練習には丁度良いコースだと思う。

 本当であれば、この峠を降りて更に先に進みたいところだけれども、後に色々予定が詰まっているので今日の練習はここまで、来た道を下ることにした。下り坂は最高であるが、その日は空気が冷たく大汗をかいた身には少々応えた。木立のつづら折り箇所を過ぎて、道幅広くなるとある地点から朝日が身体に当たりとても幸福な気分となる。朝日に包まれた人界に降りて来たのだと。

 更に降りていくと、あるちょっとした路肩スペースに違和感を覚える光景あり。サイクルジャージを着た10数名がたむろしている。更に下ると、10数名の団体がチャリで登坂してきているではないか。“ええっ!?このヒト達20数名の団体でこれから極楽寺山へ上るんか。”“我が修業の場の極楽寺山が、世俗化、観光地化されているんか。いくらチャリブームとは言え、こんなところまで進出してこなくても良いのに……。”“これは新たな修行の場を探さねばならぬわい”



帰宅したのが、午前910分頃。帰宅すると、家内が朝食を用意してくれていた。汗は完全に引いていたので、これからの作業を考えてシャワーは浴びず、洗面だけし直し着替えを済ませて、少々多めの朝食を済ませる。その後、庭木の水やり、メダカのエサやりを行い、屋内清掃の準備運動を行う。

 午前10時頃から、屋内のワックスがけを開始。掃除機がけから始め、簡単に床を水拭き。2階から寝室、廊下、リビングスペース、階段、1階のダイニングキッチン、脱衣室、トイレ、玄関、リビングルームなどフローリング部分を全部、ダイニングキッチンとリビングルームは2度塗りまでして、一連の作業を終えたのが午後1時過ぎ。朝飯が少々ヘビーだったので、昼ご飯はお茶とお菓子程度に済ませる。



 午後の部は、2階にある書棚の整理。午後140分くらいから作業開始。この書棚整理が想像以上に難儀ではあった。私の未整理のCD、単行本の再整理、古いAV機器やそのコード、文房具、そして雑誌類の廃棄。それらは黙々と実行すればよいだけのことではあるのであるが、途中から家内が割り込んできて、家のアルバムの整理、古い年賀状の整理なども横でし始め、邪魔で仕方がない。案の定古い子どもの写真を取り出して、「見て見て。この頃の子ども達可愛かったなあ。」「あ、これは誰々さんちの○○ちゃん、可愛いねえ。今頃なにしているんだろう」などのと話しかけてくるものだから、途中で作業を中断することになり、思うように作業が進まず。結局書棚の整理が何とか形になったのは、午後440分頃。

 そこから、夕ご飯用の買い出しに出かけたかったのであるが、家内が「もう疲れたから、夕ご飯は有るもので済ませる」と言って譲らず。“えー、オイラちょっとあそこのショッピングモールでついでに買いたいものがあったのに”と主張するも家内は譲らず、しばらく押し問答の末「じゃあ、アンタだけ行っておいで」と言われてしまい、“仕方ねえな”午後5時過ぎに1人で自宅を出てショッピングモールに行き、GAPで通勤用のチノパンツと薄手のセーターを購入。帰宅時間は午後710分頃。



 当初計画したものはほぼ完了。残るは、クルマのシートの汚れを落とす作業が出来なかったことくらいだった。 

 だらだらと書いてしまったけれど、おっさんの休みの流儀としての結論。それは限られた自由時間に如何に己の体力と気力を注ぎ込み、色々な活動を盛り込んで充実感を得るかということなのだけれど、考えてみれば少々精神的貧乏臭くもあるか()

 

おしまい

2020年8月14日金曜日

2020年夏休みの備忘録として

 811日から同月13日まで、岡山市内にある嫁の実家に帰省。帰省に関してはこの新型コロナ感染拡大の状況において多少の躊躇いがなかったわけではないが、ほとんどクルマでのdoor to doorの移動で、帰省中もヒトが集まるところに出かける予定もないから、まあ大丈夫だろうと思い定めた。

 812日は、避暑を兼ねて蒜山から大山へドライブ。下界は気温35℃を越えているのに山の上は2527℃で大変涼しく誠に気持ち良し。昼食は、途中スキー場の駐車場でお弁当を食べた。大山寺界隈は、例年であれば登山客で大変な賑わいを示すはずなのだけれど、駐車場は閑散としており、人影もまばらで多分5‐6割程度の来客ではなかっただろうか。大山寺界隈から見下ろす米子市内~日本海の景色はいつ見ても素晴らしく、助手席に乗った次男と思わず口々に「暗夜行路」と呟いたのには笑ってしまった。大山寺から米子への坂道をいつか逆方向に米子市内から大山寺まで自転車で登坂してみたいとの野望を持っているのであるが、この度その道を降りてみると私が記憶していた以上に勾配がきつく尚且つ距離もありそうであった。この坂道は、健脚に自信のあるチャリダーじゃないと登坂できそうになく、私の脚と心肺機能ではとても無理そうだった。あまりそんな野望を軽はずみで口にしないようにと心に誓った。


 翌日8月13日は、特に外出予定がないとのことであったでの一計を案じ、朝530分に起床。家人を起こさぬようにそろりとベッドを抜け出し、持って来ていたMR-4を玄関外で組み立て始めた。ここで早くもトラブル発生。折りたたんだMR-4を輪行袋から取り出して展開しようとしたところ、ブレーキワイヤ-がペダルに絡んで展開出来なくなった。ペダルを廻して絡んだワイヤーを外そうとするも、ワイヤーがきつく締まりペダルが廻せない。仕方なく後輪タイヤを外しにかかるも、今度はワイヤ-が閉まっている故にブレーキパッドがタイヤを締め付けている状態でタイヤが外せず・・・・。大粒の汗が早くも全身から吹き出てくる状態となり、MR-4を駆り出すことを断念するのかと声にならぬ唸り声を出していたところ、なんとか後輪が外せて、フレームを展開出来た。それから後輪を嵌めにかかるが今度は後輪をどのようにチェーンに掛けたら良いものか独りで難渋する。両手を油で汚しながら、なんとか後輪をはめ込むことが出来た……。いやはや、出発までに1時間も要してしまい、AM6:30に嫁の実家を漸く出発。

 嫁の実家の裏道を吉備津彦神社を通り、吉備津神社を抜けて県道270号線へ向かう。途中地元のチャリダーに数人出会う。こちらから「おはようございます」と声をかけると、驚いたように地元チャリダー達も挨拶を返す。声をかけられたことに驚いたのか、おっさんがMR-4でしゃかしゃかと走っているのに驚いたのか。兎も角も愉快ではあった。


 県道270号線は、備中国分寺跡前を通りそのまま高梁川へ延びる道で、なだらかなアップダウンがあり、走行していて誠に気持ちが良い。備中国分寺、作山古墳を見ながら順調に走る。小高い山を登って降りると左手に清音村の田園と民家が見えた。

 

清音村;ひょっとしたらこの付近に住まう人以外の岡山県の皆さんもあんまり知らないところかもしれない。倉敷市と総社市の間に位置していて、広い田園以外にランドマークになりそうな施設がなそうなのだけれど、私には個人的な大変想い出のあるところ。学生時代にアパート暮らしを始めた頃、階上に住んでいたイチロウが、ある休みの夕暮れにやって来て、「すげえところを見つけた」と満面の笑みを浮かべた。「清音村というところのスーパーに、なんと鮒寿司を売ってたのよ(笑)。鮒寿司だよ」「このあたりでも食べる習慣があるんだな。」


 たったそれだけの話だったのだけれど、なんだか遠くの異国にやってきたような気分になり、とても面白かった。「それで喰ったのか?」と聞き返すと、「ちょっと怖くて流石に手が出なかった」と奴が笑った。海育ちの私には、鮎や鰻は食べたことがあったが、鯉も食べたことがなければ、ましてや鮒も口にしたことがなかった。

 私は、高校時代にイチロウ達に誘われて生物部に所属し、彼らの発案で淡水魚班として活動した。春から秋にかけて学校の周りの用水路や高梁川の支流に入り、地下足袋を穿き、網を持って淡水魚を追いかけたものだった。イチロウやエイキチは顧問の先生とあくまでも学術的な思考で淡水魚を追いかけていたのであったが、私は云われるがままに水と戯れるだけの存在であった。それでも私にとっては淡水魚班での活動が、高校時代の楽しい思い出で、大学に入った後もそうした山や川を愉しむ気分が色濃く残っていたのだった。

 このイチロウの発見の後、私たちは県道270号をクルマで走らせ、清音村界隈がドライブで頻回に訪れる(或は素通りする)コースになった。尤、鮒鮨を初めて口にしたのはその30数年後のことになるが。

 この日は、県道270号線を清音村前の交差点で右折し、総社市街地に入った。ランドマークとしてのJR総社駅を確認し、国道180号線に入り高梁市方面に進む。


 しばらく進むと、ヤマザキの工場を左手に見て高梁川沿いを走る。次第に高校時代の事を想い出し胸が高鳴る。豪渓という名勝地の道路標識を確認し、国道180号線を右折し県道57号線に入る。高梁川の支流沿いのなだらかな上り勾配の道をゆっくり進むと、ありました!

 名も無き川の堤防。今も変わらずにその堤防はあった。高校1年の初秋、顧問の先生が運転するシビックに乗せられてやってきたところ。往きの車中では、シャンソンが流れていて「この先生風貌に似合わずカッコええな」と思ったものだった。道脇にクルマを止めて、「この辺りで、試してみますか」と声をかけれて、体操着に地下足袋を穿いて、バケツと網を携えて、この堤防に降り立った。ああ、今思い出したのだけれど、その日の目的は「高梁川に生息する淡水魚を調査する」という立派なお題があったのだった。そして辺り雑草だらけの川岸に沿って、一方に網を構え、片足でゴソゴソと網に向かって踏み入れいるー見えない獲物を追い込むようにしてーという作業を繰り返した。


 私はそれまでそうした作業をやったことがなく、草むらから蛇やクモが出てきそうで怖く、おっかなびっくりの所作で取り掛かっていたのであった。その様子を見てイチロウが、「こうするんだよ」と笑いながら指導してくれたっけ。


それでもビギナーズラックで、私がオヤニラミという珍しい魚をゲットした時にはとても嬉しかったな。イチロウとエイキチに随分褒められたな。

 水に浸かっているうちに体操着がびしょ濡れとなり、後はお構いなしにと水中にもぐったり、本来の目的を忘れて大いに川遊びに興じた。それでもニゴイ、ドジョウ、ギイなど捕まえて、成果としても十分なものが得られたようだった。

 その時に、顧問の先生に撮ってもらった一枚のモノクロの写真が映像として心に焼き付いている。イチロウが水の中でやや前かがみで立っていて、その後ろの堤の上で、エイキチ、私、プーさんが上半身肌で座っている。4人とも幼げな面持ちに屈託のない笑顔を浮かべて本当に幸せそうな様子だった。あの写真、実家のどこかに仕舞っている筈なのだが、どこにやったけ。考えてみれば40年前のことだった。

それからも何度かここを訪れたのだけれど、私の思春期の原風景となっている。

そのような事を、水とカロリーメイトを摂取しながら、あの頃と変わらない川面を眺めながら思い出した。そういえば顧問の先生に高校卒業以来不義理してしまったけれど、お元気でお過ごしなのだろうか?随分なお年となられただろうな。

 なんだかこの堤を離れがたい気分ではあったのだけれど、次の目的地に向かうため、更に川の上流に向かって自転車を進める。

 しばらくなだらかな上り勾配の県道57号線を進む。県道76号線足守方面の道路標識が見えて来て右折、山道の76号線に入り足守地区に向かう。76号線は“立派な(笑)”山道で勾配がきつそうであり、“いっちょやったるか”と覚悟を決めて登坂を開始したところで、ロードバイクに乗ったチャリダーが勢いよくその坂道を降りて来た。お互いに会釈をしてすれ違ったが、「そうか地元でもちゃんと山道を攻めているチャリダーがいるのか」と妙に嬉しくなる。

 左右の木立に覆われた山道はひんやりとした湿気を有し走っていて誠に気持ち良し。“ここまで来て良かった”と思った。


 山道のピークを過ぎると狭い盆地になっていて、水田があった。日本の里山は美しいなと思う。どうして美しいのか? “それはオイラがその風景を美しいと思う日本人だから、か”と愚にも付かない答えが頭を過ぎり、独り笑う。その盆地を過ぎるとちょっとした急勾配となり、両脚が少々悲鳴を上げそうになるが、MR-4良く出来ていて無理なく進んでくれた。その道の狭い曲がりくねった急勾配を過ぎると、そこからは谷間の水田地区を眺めながら自由落下状態、しばらく周囲の山々を見渡しながら足を休めつつ降りていく。

 県道76号線は、やがて国道429号線に突き当たった。右折し国道429号線を総社方面へ足守地区を目指す。このあたりは、学生時代にホタルを見にやってきたり、そのままこの国道を北上し山間の道を津山方面に抜けられて、県北に向かうドライブコースだった。

 この日のもう一つの目的地は、この道を総社方面に向かったところにある足守地区だった。


足守地区は、豊臣秀吉の正室ねねの親族である木下氏が治めた旧足守藩の陣屋が置かれた場所であった。それをはじめて知った学生時代に、このようなところにそういう血筋の一族が大名として、ある意味ひっそりと生きながらえていたことに大変驚いたものだった。岡山の大名と云えば池田氏の名前がすぐ浮かぶのだけれど、岡山市から見るとその平野の北西部の一画に2万6千石の小さな大名が居たなんて。そしてそれを伝える遺跡が現代までひっそりと歴史の片隅に棲むように存在していたなんて、ある種の感動を覚えたものだった。

 私は学生時代に、試験がひと段落して頭を休めたい時に、何度かこの足守の陣屋跡の一画にある近水園という小さな庭園を訪れてぶらぶらとしたものだった。岡山市にある後楽園と比べるべきほどのものではないが、それでも小山を背にした古い小さな庭園にはしずかな趣があり、誰も知らない秘密の園みたいな感じで好きだった。



 この度改めて訪れてみると、陣屋跡を中心にちょっとした観光地化がなされていた。以前はぶらりと庭園内に入れたのに、どこが入り口だったか、この度は園内に入ることが出来なかった。ただ、これらの整備は地区の教育委員会や商工会の人たちの努力によるものだと思われ、やや私の心象風景に残っていたものとは異なるものの、それはそれで好感が持てた。この度初めての発見なのだけれど、あの緒方洪庵さんもこの地で生まれたとのこと。やるな足守藩!

 水入れを兼ねて文化地区の中に或る駐車場で小休止を取って、その地区から再び国道429号線を総社方面に向かった。足守地区から総社市を通る国道180号線までは、ほぼ直線の道、空は広く左右には水田の緑が広がっていた。ああ、誠に気持ち良し。思い付きで発案したツーリングコースだったけれど、予期していた以上に、色々と心が動かされたツーリングだったな。

 走行距離約50㎞ 出発時間AM6:00、帰着時間AM9:40

 帰着後に、家人から「何処を走ってきたのか?」と問われ、どこそこだよと答えたら、「そりゃあ、岡山県民でもなかなか知らんでえ」と大笑いされた。

 

「うん、超個人的な心の夏休みだもの、誰も知らなくて良いのよ。それで良いのだ(笑)。」と言葉にせずに飲み込んで微笑み返した。

おわり

2020年8月5日水曜日

吉備路~倉敷~児島~玉野への自転車旅(2)

海岸沿いの県道から、港前三叉路になった展望台に向かう山道に入る。かつて若い頃は、この山道を反対側から渋川海岸に抜けるショートカットとしてこの道を使った。勾配は普段は知っている山道と比べてもそれほどきつくなく、登坂には難渋しないものの、曲がりくねった見通しの悪いカーブが続き、走り屋の四輪やバイクとの遭遇に注意が必要だった。私が登坂の最中にも、背後から何台かのバイクがせまり追い越して行った。

 それにしても我が愛車のGiant MR4はロードバイクよりもギヤが高めに設定しているようで、スピードは出ないもののこのような曲がりくねった登坂道を軽々とペダルを廻すことが出来、良く出来たチャリだと思った。

 20分程度で展望台に到着。展望台の建物前にはバイクツーリングの人達が集まって談笑していたが、自転車乗りは皆無。ここはチャリで上るには手ごろな坂道なんだけどな。なんだかちょっと勿体ないような。

 

記念写真を撮るべくMR4を担いで展望台の階段を上がる。展望台には幸い他の観光客が居ず貸し切り状態。誰にも憚ることなく、展望台の手すりにMR4を立てかけて、瀬戸内海の大パノラマを背景に記念写真を撮影。生憎どんよりとした曇り空ではあったが、瀬戸大橋から対岸の丸亀まできれいに見渡せた。

 今回の主たる目的である「渋川海岸にチャリを持ち込む、そして王子が岳展望台までの坂道を上がる」は無事終了。瀬戸の大パノラマをバックに愛車の写真を撮ることが出来、ひとり大満足に浸る。

 しばらく、大パノラマの穏やかな瀬戸内の風景を楽しんだ後、出発。来た道を下り、渋川海岸に戻り、そこから玉野市宇野港に向けてペダルを踏む。途中数人のロードバイク乗りに遭遇し軽く会釈をするが、何人も挨拶返さず。“まったく…..、近頃のチャリ乗りは…….”kの人達、恐らく岡山市内からやって来られたのだろう。このような平坦で交通量の少なく乗っていて気持ちの良いコースを持っている地元のチャリ乗りが羨ましい。我が地元ではこうはいかないものーどこかへ行こうとすると、必ず山坂道が立ちはだかる。平坦な道は交通量が多くて危なっかしい。

 なんてことを頭の中で呟きながら、先を急ぐでもなくMR4のペースで宇野港を目指した。

 宇野港は、瀬戸大橋・瀬戸中央道の開通と共に、四国へのアクセスポイントとしての歴史的役割を終えた。今では芸術の島・直島行きフェリーを利用する客の方が多いのではないか?


私が宇野港に到着した時には、港は閑散としておりのんびりとした空気が漂っていた。宇野港に着いたものの何もすることがなかったので、嫁が出かける際に袋に押し込んでいたミックスナッツを取り出して栄養補給にボリボリと咬んだ。塩味が効いたミックスナッツで美味しかった。嫁と義母は、総社市内の花屋に出かけているとのメッセージがLineに入っていた。“これからは、嫁の里帰りに付き合う時は、MR4を持ってきちゃおう。岡山県内をちょこちょこと走るべ……

 “さて宇野港からどうやって帰るべ”スマホのマップを取り出して帰り道を探索。国道30号線を岡山に向かい、適当なところで茶屋町方面を曲がり岡山児島線に入りたいと思った。そうするべく宇野港から国道30号線に合流するJR宇野線に沿った県道22号を走り、田井地区で国道30号線に入った。後はしばらく国道30号線を岡山市方面へ。このあたりから交通量が増えたため、広い歩道があれば積極的に歩道を走る。

 この道、学生時代には渋川海岸からの帰りや、就職後しばらくは仕事の都合でよく使った。特に岡山方面への帰路、眼前に広がる岡山平野・水田地帯の眺めが伸びやかで素晴らしく、本当に好きな道だった。特に倉敷川の橋を渡る頃、目の前に碁盤の目のように用水路が張り巡らされた水田地帯が視界に広がり、思わず頭の中でスメタナ作曲「My Country」が流れだしたものだった。

 

倉敷川は、朝立ち寄った倉敷美観地区を源流としている、倉敷市街地を走る間は大きな用水路程度なのに、児島湖に注ぎ込む直前のこのあたりでは立派な川となっている。川岸にはうっそうとした葦が茂り、ゆったりとした流れを見せている。

 

この川を渡る橋に着くと、しっかりとこの辺りの風景を確認したくなり、自転車を止めてしばらく四方を見渡した。辺りの水田では水が引き入れられ田植えが行われているようであり、遠目にトラクターが何台か動いているのが見えた。“素晴らしい~” ぼんやりと左手の水田地帯や右手の児島湖方面を見渡していると、ふと眼下の倉敷川の水面にバシャンという音共に波の輪が広がった。“雷魚か、それとも鯉か….? ” 

 少しずつ気分が高揚し楽しくなり、国道30号から右手に広がる水田地帯の中を走りたくなった。橋を渡り、右手の農道に入り茶屋町・早島地区へ抜けるべく自転車を走らせた。しばらく径を適当に曲がりながらやがてはば56m幅の用水路に沿った直線の農道を走った。先にはいくつもの横切る小路があり、適当に右折と左折を繰り返していると次第に迷路に嵌ったようになった。国道30号線の右手に目指す早島地区がある筈なのだが、碁盤の目のように張り巡らされた用水路と脇の径が必ずしも30号と直角に交わっている訳ではないことが走っている間に気が付いたのだが、気が付いた頃には目的地の早島地区に抜ける径を通り過ぎたようだった。それでも心は軽やかだった。水田地帯を走っていると、あちこちで雲雀の囀りやカエルの啼ぎ声が聴こえて来て、ヒトや水田地帯に棲む生物たちの生の営みにも夏に向かって盛り上がっているようで、そうした生の営みから私自身もエネルギーを貰っているようでとても愉快で堪らなかった。

 

最近、なかなか自転車ツーリングに出かけることが出来なかった。あまり事前の準備が出来ぬままやってきた今回のツーリングだったが、想像以上に楽しいものになった。

 結局のところ、私と愛車は水田地帯で迷子になりかけて、国道30号線が岡山市街地に入る手前で、この道路に合流。見覚えのある岡山市街路をポタリングしながら妻の実家に戻ったのであった。

 

出発時間am7;00 帰着時間pm 1;40頃、走行距離94㎞強。ごちそうさまでした。

(おわり)


2020年8月4日火曜日

吉備路~倉敷~児島~玉野への自転車旅(1)

少し時間が空いてしまったが、去る621日に表題のごとく、岡山市北区~倉敷市・玉野市~岡山北区をチャリ走行した。用いたる自転車は、Giant MR4であった

 前日、嫁の実家に泊まらせて貰い、同日朝7時に嫁実家を出て715分頃に岡山市北区にある吉備津彦神社前をスタート地点とした。しばらく山のすそ野に沿った径を辿り、吉備津神社前を通過。


 吉備津神社は、吉備津彦神社と共に桃太郎伝説所縁の神社であり、特に前者は古来より学問の神様としても祀られていた。私は学生時代に倉敷市で過ごしたのだが、自らの受験の際にはお参りに来たし、家庭を持った後も、初詣、子どもの受験合格祈願にもたびたび吉備津神社に参拝した。私は信仰心の乏しい野郎なのであるが、ここは唯一大切にしている場所であった。

 しばらく国道180号線を右手に睨みつつ、同神社の門前の住宅街の径を抜け、そして総社市にある備中国分寺跡に続く県道に入る。この道は、個人的には大変懐かしい道路で、左の丘陵地を越えると私が学生時代に住んでいた倉敷市城東地区がある。休みの日にはその地区にあったアパートを出てイチロウと共にこの道を経由し、西に向かえば総社市から高梁市方面へ、この道を横切って北に向かえば、足守地区~吉備高原都市~湯原温泉方面へ、東に向かえば…岡山を通り北に向かって津山へ、時には遠く鳥取県にドライブするのに使った道だった。当時はこの道を挟んで田圃が広がっていて、長閑な風景が広がっていたが、今では建物が道沿いに出来ており、少々趣が変わってしまっていた。

 この道を更に進むと田圃と桃畑が道沿いにあって、私個人には岡山を感じさせる懐かしい風景が続くのであるが、その道のなだらかなアップダウンを繰り返して、視界が伸びやかに広がる備中国分寺跡前に到着。

高校進学のために倉敷市に初めてやってきた当時、この風景を見て感動したものだった。正面に国分寺跡、そしてその奥の山の峰に鬼ヶ島伝説のもとになった鬼の城跡、そして左に視点を移すと近くに造山古墳があった。岡山という処は古代から物成りが良く大変リッチな国だったのだと。春の夕暮れなぞは、桃の花の香りが辺りを満たし、田圃の縁には蓮華の花、菜の花が咲いていた。その様はなんとも美しく、ガキの苛立った気持ちを慰めてくれたものだった。

その朝は、予定を変更してこの総社界隈をポタリングに切り替えるのも良いかと一瞬迷ったが、別所にも楽しみな景色が待ち受けているため、写真を数枚撮って再びチャリを漕ぎ始める。

 総社~生坂地区経由で倉敷市街地に続く県道を走る。備中国分寺跡の交差点を左折し、南に向かう。生坂に向かって緩やかな上り勾配をゆっくりと走る。このあたりに私が3年間過ごした高校寮があって、その緩やかな上り勾配を上がりピークを過ぎて下って行く途中に、林道の入り口があった。この林道は左手の山林に続く道で、その先を進むと私たちが過ごした寮の裏手に続いている筈だった。少し立ち止まり奥を覗いたのだが、なんだか高校当時の同級生たちが、大笑いをして歩いて出てくるような気がして少々感傷的な気分になった。高校時代の気分が蘇りつつ、その県道の緩やかな坂を下ると、山陽高速道倉敷インター出口前の交差点に差し掛かった。今では、山陽高速の高架、そして、その前方には岡山~倉敷間を結ぶ立派な県道が東西に走っているが、高校当時は、このような立派な道路はなく、ただ東西に広がる水田地帯が広がっていた。

水田には用水路が張り巡らされていて、高校時代には生物部淡水魚班に入り、イチロウたちとこの辺りの用水路で、鮒、タナゴ、ニゴイ、ドンコ、ライギョ、チョウセンブナなどを網で獲ったものだった。本当に懐かしい。今では用水路の護岸整備が進んでいて、魚たちが隠れるような水草や敷石はなく、あの当時いた魚は今でも生息しているのか心配だけれども、かれこれ40年近くの歳月が流れたものな、あまり期待できないか。

 再びチャリを漕ぎ始め、倉敷市街地に向かう。西坂~三軒茶屋町地区。高校時代にチャリで休日に倉敷に遊びに行くのに使った道。土曜日になると、チャリに乗って倉敷に出かけ、レコード店、喫茶店、本屋、ゲームセンターと飽きもせずに同じ行動を取ったものだった。

 

倉敷中央病院付近から倉敷市街地の径に入り、えびす商店街に出る。時刻はまだ820頃で、流石に人気はまばら。この度は自転車できたため、この商店街を全部通った訳ではないのだが、いつ来てもこの通りが好きだ。古びた雰囲気の中にもどこか清潔で洗練された趣がある通りで、岡山に帰省するたびに1度は理由を作ってぶらぶらと歩きたくなる。高校当時の賑やかさは無くなって来ているのだるけれど、この通りには落ち着ける風情が残っていた。

暫し、通りの奥の方を眺めた後、左に曲がり 商店街を抜けて美観地区に入る。大原美術館前の石橋で暫し休憩。

この大原美術館と美観地区を整備した大原さんは本当に偉い。戦後間もない時期にこの地区の景観をそのまま残そうと取り組まれた。財を成したヒトがこれだけの文化財を地元に残し、そしてその心意気が岡山という土地に学術的・文化的な財産を築く機運を残したのではないかと勝手に想像しているのだけれど、とても凄い事だと思う。今では日本でも有数の観光地になっている。街の興りって案外個人によってなされることが多いんだよな。そういう気概を持ったヒトが昭和時代までは日本の各所に居たんだよな。そんな事を想いながら、人気の少ない倉敷川のほとりをゆっくりとチャリを引きながら歩きこの街にそよぐ風を暫し楽しむ。

 

美観地区を離れ、そのまま倉敷川沿いの道をそのまま南下。途中右手に市役所を確認し更に走行していくとやがて右手に田園風景が広がった。この道は、学生時代のドライブコースのひとつであり、道のイメージもうる覚えにも記憶があったのだが、この度走ってみると途中より左へ曲がっていく道とは別に直線の綺麗な道が新設されていた。
岡山って土地は、平地が多いせいか、色々なところに新しい直線道が出来るところのようだ。それは学生時代の当時も驚いたものだけれど、この土地に帰る度に驚かされる。どこからそんな金が出てくるのかよそ者から見ると不思議でもあり羨ましくもあった。

その道は歩道も広くのんびりと自転車を走らせることが出来たが、その道はやがて低い丘陵地に上がりトンネルに向かっていた。トンネルに向かう上り勾配から歩道が消えて自転車を走らせるには少々危険であったので、その丘陵地を東側に縁をなぞる様に迂回することにした。何処に出るのか分からなかったが、先は急がぬため多少迷子になっても良いかとも思った。

 幸いなことに、その丘陵地の迂回路を探していると、瀬戸内高速道高架が見えてその高架下の側道を辿っていくと、先ほどのトンネルに通じた道路に戻り、再び元のルートを辿ることが出来た。その後多少の上り勾配が続いたが、広島の坂道を走っているものからすれば特段の難所でもなく、ゆっくりと背後から追い越してゆく車輛に気を付けながら登坂しピーク越えた。

ピーク後の 緩やかな下り道はやがて岡山児島線に突き当り、その道路を横断して瀬戸中央道横を走る児島地区市街地に向かうなだらかな上り勾配の道に進んだ。やがて見覚えのある児島地区市街地に入った。岡山県児島地区は、ジーンズの街として最近注目を浴びているところ。

この道を進むと海岸にぶつかる手前に塩田開発で財を成した野崎さんの旧宅跡地があり、そこからJR児島駅に向かう商店街があり何店かのジーンズショップが連なっている。ジーンズは好きだけれど、マニアではないのでこの度は立ち寄らず。旧野崎邸前のコンビニで水分補給を兼ねて小休止。児島地区は学生時代にドライブ目的地に好んだ場所で、この界隈にはお気に入りだった喫茶店や地元の小魚を出してくれる食堂などがあったが、あくまでもローカルな浜辺の街であり、ジーンズの街として全国的に知られることになったのは随分後の話だった。

 水入れをして再び走り出す。海岸沿いの県道へ入り玉野市の方面に自転車を走らせ玉野市渋川海岸に向かう。やがてこの道は海岸に出て右手に瀬戸内海と対岸香川県を眺めることができるようになる。この度初めて自転車でこの道を走行したが、海風が身体に触れて大変気持ちが良い。ああ、もっと早く頻回にチャリで来れば良かったな。

このあたりから、対向車線にロードバイクに乗ったヒトに出会うようになった。地元のチャリ好きにも恰好の走行コースなのだろう。こちらは、すれ違いざまにすれ違うチャリ乗りに軽く会釈したのであるが、あちらはどの方も応答なし。あれ?チャリ文化が違うのかしら…...。まあ、いいか。

 岡山県渋川海岸は、海水浴とマリンスポーツのメッカ(古い表現w)である。私が学生時代の頃にも、同級生たちがヨット・ウインドサーフィンを楽しみにこの海岸を訪れていた。私はもっぱら古典的に(笑)、夏場に身体を浸かるだけの海水浴を楽しんだ。残念なことに女の子と海水浴を楽しむチャンスはなかったのだが、それでも夏―海水浴というのはその当時までは若いヒトにとってちょっとしたイベントだったし、この浜辺は夜のドライブコースとしても楽しめる場所だった。


 渋川海水浴場横にある漁港桟橋に到着し、しばし長めの休息を取る。まだ海水浴には早い時期だったが、それでも浜辺で遊ぶ家族連れの姿や、海ではジェットスキーを楽しむヒトたちがいた。右手に視界を移すと、はるか向こうには四国と本州を繋ぐ瀬戸内中央道や瀬戸内を行き交うタンカーや貨物船が見えた。懐かしくも優しい風景が広がり、しみじみと「ここまでやって来て良かったあ」と思えた。

 岡山に帰省するチャンスは年に12度あるのだけれど、ここまでやってくるチャンスはそうそうなかった。個人な想い出や感傷に付き合ってくれる奴もそうそう居ない訳であった/嫁子もオヤジの想い出に関心ないしね(笑)。

 しばらく若い頃の夏の想い出をあれこれ思い出しながら体を休め、この度の自転車行のハイライトとしていた王子が岳展望台への坂道を登坂を目論む。道路標識によると、渋川海水浴場から展望台まで4㎞と記されてあった。

(つづく)