2019年12月31日火曜日

2019年末の食事情

今年の年末は、仕事上の都合で28日の仕事納めに続いて、1229日から2020年元旦の朝まで職場の留守番をすることになった。この頃、職場の留守番に際しての夕食については、自炊することが面倒くなってい、大概コンビニ弁当・カップ麺で済ませることが多くなっていたのだけれど、この度の留守番に際しては多少時間のゆとりがありそうなので、昼食と夕飯は自分なりに拵えてみようかということになった。

とは言え、大した料理の腕前がある訳ではないので、手間暇かけずのものにしてやろうと思い定めていた。新年を迎えると2020年。ついこの前にノストラダムスの予言はどうなるんだろうと多少の不安を感じた19981999年末年始、2000年問題が生じやしないかと職場に詰めた19992000年末年始、「ついに21世紀かよ、ちっとも宇宙に庶民はいけそうな気配がないじゃん」と思った20002001年末年始。今の若い人から見たら、何それ?といわれそうなのだけれど、2000年を超えて早くも20年が経つことに、一人のオヤジとしてはちょっとした感慨を覚えてしまう。

てなことで、この年の瀬にどんなものを喰って過ごしていたのかをメモしておくのも悪くないかと思い、Beethoven: Missa Solemnisを聴きながら以下メモランダムを記しておこうかと思う。って、全然脈絡ないねw


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○昼食:がんすサンド、珈琲一杯。

がんすは、広島県内の食品会社が作る魚のすり身カツ。私自身幼少期からごく最近まで食したことがなかった。結婚後、家内が息子たちの弁当のおかずの一品として購入していた。これまで、酒のつまみ良さそうだとよく所望していたのであるが、何故か却下され続け今日に至る。先日イチロウと行った「県民酒場」にて、念願を果たす。このがんすをどのようにアレンジして食べるかが次なる課題となったのであるが、イチロウからの示唆として、「がんすサンド」「がんすの卵とじ丼」があった。

この度のがんすサンドは、市販のがんすをトースターで焼き、トーストした6枚切り食パンにカット野菜を添えて載せそこに野菜にはマヨネーズ、がんすには中農ソースをかけた。柔らかい食感のがんすとトーストパンの食感的調和はまずまずなのだけれど、味わいとしてはがんすが思いの外塩味が強く、中農ソースが余計で、レモン汁などで酸味を加えるだけ良かったような気がした。



○夕食;牛のもも肉ステーキ(160㎏)・白ネギ・パプリカソテー添え、白米0.5合程度

「最近あんまりステーキを食してなかったな。偶には食べて元気出すかいな」とスーパーの精肉コーナーを物色。差しの入ったサーロインに手を伸ばしかけたのだけれど、〝年なんだから赤身にしちゃいなという内なる声が聞こえて来たのと、肉厚で立派そうだったという理由で選んだ国産牛のもも肉160g。それと、世間の流行ではないのだけれど、しっかりと火を通して甘くなったパプリカが食べたくなり、添え物にこの野菜を選んだ。ネギを添えるのは私の中では定番。ソースは、焼き汁にバルサミコ酢少々、日本酒少々、バター少々と醤油をひと垂らしして一度過熱して作った。

これは不本意な出来になった。厚い肉だったので、レアにならずミディアム状態に持って行きたかったが、慎重になり過ぎて火が通り過ぎたのと、生の状態では分からなかったのであるが、ナイフを入れると肉の繊維が複雑で想定していたよりも硬い食感となってしまった。赤身独特の味わいは悪くなかった。途中から肉を細かく切って、ビーフステーキ丼に変更したけれども、最初からサイコロステーキにしてしまえば良かったんだ。付添えの野菜は、意図通りの味わいで文句なし。


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○昼食:焼きサバサンドとコーヒー1杯。

これは名前としては昨今よく聞くメニューである。当初、鯖缶を使おうかと思っていたが、イチロウよりコンビニの焼きサバが良いぞとの示唆があり、この度は素直にその助言に従う。レンジで温めたお惣菜である焼きサバをトーストした6枚切り食パンの上にカット野菜(半分量はベビーリーフを含め)と共に載せる。前日のサンドの酸味の物足りなさが脳裏にあり、野菜にはフレンチドレッシングを少々垂らした。その上からマヨネーズを垂らす。これは安定的な旨さ。焼きサバの塩分と酸味のバランスが良い。これは世間でウケるのがよく分かる。ただし、今後の課題として、ここにオリーブの実のスライスもしくはケッパーを加えたい。そうすれば、味わいとしてのアクセントと深みが付くような気がするのだけれど、でもそこまでやると手軽さが失われてしまうかも。



○夕食:がんすと生卵と九条ネギ載せチキンラーメン。

当初の予定では、2枚入りで購入したがんすを消費するために、残りの1枚で「がんすの卵とじ丼」を作る予定だったのだが、どうも胃袋の具合というかお腹が空かず、夕食としてはもう少し軽めに済ませたい気分には抗しがたく苦肉の策として考えたのがこのアレンジ。がんすはトースターで焼き直し、チキンラーメン上で四方に置き、その真ん中に全卵を静かに載せた。そこに熱湯を適量注ぎ、あとは3分間静かに待ち、最後に九条ネギ、黒コショウをかけた。

チキンラーメンの塩分とがんすの塩分が上手く調和し、卵がその塩分をまろやかに包む。これは、立派な一品となり云う事なし。

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○昼飯:鰊の姿煮(甘露煮)サンドとコーヒー一杯

さかな系サンドを続けたので、予定はしていなかったのだが、序でに鰊の姿煮をサンドして食べてみることを思いついた。今年の大みそかは、年越しそばを喰ってやろうと思い、半身がふたつ入り一パックを購入していた。トーストした6枚切りのパンにカット野菜(ベビーリーフを少量加え)を載せ、その上にレンジで温めた鰊の姿煮を置き、マヨネーズを垂らし、九条ネギを散らした。

これもなかなか旨し。七味唐辛子を少々振りかけたら尚良しだったのだが、生憎なかった。テリヤキバーガーを思えば、パンとの相性も悪くない筈であった。多少の反省点があるとすれば、この姿煮小骨が少々残っていて、油断していると口の中でもごもごとしないといけない。サンドにする際には、きちんと骨はチェックして取り除いておきたい。

実は、この昼飯。職場の諸々の事情で昼食時間が取れず、実際に食したのは午後5時過ぎ。テレビでは、NHKの紅白歌合戦の宣伝番組なんかが流れている。本来であれば、このページに同日夕食としての鰊そばを載せる筈だったのに、作って・食して・それを記す時間がなさそうである。止む終えず、年越しそばは午後11時くらいから始めようかと思う。ただ、先ほどの鰊サンドの腹持ちが良すぎて食べることが出来るかどうか。この年末一番の楽しみにしていたのに、ヤバい展開なってきた。

以上、そんな内なる焦燥を抱きながら大急ぎで書いたメモである。

ああ、あと3時間と余りで今年も終わり。ゆっくりと1年を振り返る暇もなく、やり残したことがあれこれと思い浮かべながら迎えた2019年の大みそかとなった。



どうか皆様お年をお迎えくださいませ。

2019年12月29日日曜日

2019年 年の瀬に

1122日から同月24日の高校同窓会を大いに楽しませて貰った後、いよいよ2019年末に向かって、最後の気合を入れる。12月某日に毎年恒例の職場への行政によるスーパービジョンがあって、11月末から12月中旬に向かってルーチン業務をこなしながら、その準備に力を注いだ。その甲斐あってか、普段の行いが良かったのか、スーパービジョンそのものは、幸いなことに大過なく終わりほっと胸を撫でおろす。


毎年スーパービジョンが終わるとその後は、ひたすら年末の仕事納めに向かってルーチン業務をこなしていくのだけれど、何故かこの時期文書の整理や諸々の雑務が舞い込んできて忙しくなり、そういう時に限ってトラブルが生じてそのトラブルシューティングに追われることになる。すべては年末・御用納めなどと時間を区切られるものだから、世の中もそれに向かって動いているし、職場内もそれに応じて慌ただしくなって、内も外もバタバタしてしまう。



個人的には、年末年始という時間の区切りがなければと思うのだが、そんなことをぼやいても仕方がない。


毎年そのような感じで慌ただしく年末に向かって過ごしているものだから、この師走も心の何処かで緊張感を抱きつつ過ごしていたのであるが、一方で例年に比べると暖かい天候のせいだったのか、それとも大きなトラブルもなかったせいか、はたまた昨年までの受験期の子どもに対するモヤモヤした気分を味わう必要がなくなったせいか、あまり冬・年の瀬を実感せずに過ごした。

12月の行事といえば忘年会なのだけれど、仕事関係の忘年会を2つこなした後、個人的な会を2件ほど行った。





ひとつは、親友でもあり職場の同僚となって久しいイチロウとの食事会だった。この頃は二人で外食を共にする機会がめっきりとなくなってしまっていた。いつの頃からか失念したのだが、彼は酒を飲まないので私が呑みに誘っても「面倒くさいな」と言い断るようになりそれで私も遠慮して誘わなくなったのであるが、次第に私自身もいつの間にか外呑み自体が面倒くさくなってしまってい、この23年は仕事上の付き合い以外は夜の街に出なくなっている。結局のところ私も齢を取ってしまったということなのだろう。




この度は、珍しく彼から飯を食べに行こうという誘いがあり、1223日に忘年会と称して外食を共にした。場所は、広島市中区にある「県民酒場」という居酒屋さん。広島県内の名物料理を提供してくれるお店で、県外からのビジネスで訪れるヒトを連れて行くには良いところだと思った。瀬戸内の魚の刺身や「がんす」「でべら」「ワニのフライ」「カキのフライ」「ホルモン天ぷら」等々の広島県各所の名物料理が供される。



彼は、ノンアルコールビールを注文、彼は「どうして身体に害毒があることが分っているアルコールが許されるのか?」というごもっともな意見を開陳し、それを受けて私は「全くその通りだ!」「そのうちタバコと同じようにどこかのNGOとかが禁酒運動を始めるよ」などと調子の良いことを言いつつ、彼の目の前で生ビールに手始めに地元銘柄の美味しいお酒を次々と注文した。


今年は、我々にとってちょっとした人生のひとつの節目を迎えた。夫々に子どもが大学に進学し親元を離れ、子育てがひと段落ついたと同時に夫婦二人暮らしとなった。最近の彼との雑談の主題になるのは、「子育てという役割が終わりつつある年頃となり、これからどんなふうに過ごしていくか」ということが多くなった。その度に結論めいたものは出ないのだけれど、その主題の背景には、少しずつジジイ化していく自分とどのように向き合うか・付き合っていくか?あるように思えるだが、そんなもの直ぐに良いアイデアを見出せるものではない。




同夜の彼は、「本来人付き合いの苦手な俺が、ヒト相手の商売をしているのが、今更ながらに矛盾を感じてしまうんだよ」などと話していたのだが、突然「俺は、もう同窓会には出ないと宣言したからな」と言い出した。私が思わず吹き出して、「おいおい、いつそんな宣言を誰に向かってしたんだよ」と応じたところ、彼曰く「今おまえさんにだよ。お前さんからみんなに広報すれば良いんだよ」という。〝ハイハイ官房長官だからね“ 同級生の幾人かはこのブログで知らせることになるだろうw


彼は幼き頃から昆虫好きで魚類好きの生物学大好き少年で、確かにそのまま生物学に進み、どこかの研究室で人生の大半を過ごせば幸せになっていただろうことは十分に共感出来るのだが、人生という営みにおいてそうはさせて貰えなかった。だからといって、それを彼は後悔していない筈で、全て納得済みで節目節目を乗り越えきたとのことだった。そう私と違い彼は、確信的実行者なのです。そうなると、今後の展開としては、養老孟司さんのように少し早めに今の仕事を引退し、自宅に小さな作業室を作って、昆虫の標本や水槽に囲まれて顕微鏡を眺めてはニンマリしつつ、何事かを書いているのが、彼らしい年の取り方のような気がする。


一方で私は、若い頃からそうであったように、大した趣味も持てず、目の前に現れる生活上の諸々出来事をその都度悩みながら過ごしていくことになるのだろうと思う。先月の同窓会に出て改めて十分に理解出来たことは、私は趣味のように物事に悩み、それなりに人生の節目を乗り越えてきたのだということだった。そう理解出来ると、なんだかすこし心が軽くなってい、これからの老いに向かう人生も楽しめそうな気がした(悩みながらw)。

年を越すと、ふたりともひとつ齢を拾って50代半ばに達する。つい最近50歳を迎えて、年を取ったと嘆息していたのに、あっという間に初老という声が聞こえるところまで来た。

私には、こんなくだけた語調で駄文を書いているという事実をして、暦年齢とは違う若く軽やかな気分が残っているのだという気分を確認しておきたいと思う。同夜は、イチロウが繰り出す話題を聴きながら、〝お互いに年は拾ってきたが、こうやって語らうことが出来る間は、気分的には年を取らなくても済みそうだな“と思えたのだった。


ふたつ目は、1225日に職場の税務・経理で長年お世話になっている会社の社長・ヒガシダさんとの会食。ここ数年私が彼に対する一年のお礼のつもりで12月末に食事会にお誘いしている。この度は、広島西区にある蕎麦屋「横川橋康次郎」さんにて食事会を催した。このお店は、そば懐石コースを用意してくれてい、蕎麦好き呑兵衛のオッサン共にとってはしっくりと来るシチュエーション。靴を脱いで畳部屋の個室に案内されてたのだけれど、ゆっくりと相手とお酒を酌み交わすなんざ、「忘年会」らしく個人的には大変好むスタイルなのだけれど、最早このような呑みのシーンは完全にold fashionなんだろうな。接待文化も廃れたし、今の若いヒトは、カラオケボックスに飲食物を持ち込んで忘年会を開く者が多いと聞く。おまけに若いヒトのアルコール離れも進んでいるというし。ああ、座敷で私と一緒に呑んでくれるヒトは、ヒガシダさんくらいになったのかもしれない(ああ、昭和世代なんだねw)。


ヒガシダさんは、お互いの職場の先代同士からの付き合いで、仕事上のことから家庭内の事情までよく把握してくれていて、公私ともに相談できる大変有難い人物であり、私にとっては職業上の取引以上に信頼の寄せている貴重な存在である。色々と雑談めいた相談をすると、世間知に富んだ助言を返してくださり、そして最後に「マサキさん、頑張るっきゃないですよ」「好きに生きたら良いんですよ」などとそっと背中を押してくれるようなセリフで締めくくられる。


彼の決まり文句は「儲けないとダメです、世の中は所詮金で回っているんですから」なのに、実際の行動では人情味ある物言いや他者への面倒見の良さが目立つ。お金関係以上に人間関係を大切にされているところがあり、私自身もこれまでにもプライベートな部分でも随分お世話になった。


同夜は、ふたりで少しずつ出される小皿の品をおつまみ代わりに、ぬる燗にしたお酒をチビチビと6合ほど飲んだか。お互いに程よく酔いが回って、いつも以上にくだけた雰囲気となり、これまで遠慮して彼のプライベートなことをお聞きしたことがなかったのであるが、酔いに任せて彼のプライベート生活も話の流れで尋ねてみた。かなり多忙な仕事生活を送って来られて来たのは承知していたが、そのせいか途中夫婦関係はぎくしゃくしたような内容だった。だからといって、家庭生活が破綻した訳ではない様子なので、あくまでも仕事人間にありがちな範囲内であり、奥様の住む自宅から職場に通われているとのこと(なんか変な表現w)。最後に「マサキさん、オンナは怖いですよう~」「よく考えて、これからの事を考えてくださいよ~」だったw。


私としても「うちは大丈夫です!」と言い切る自信はなくw、笑顔を浮かべて「そうですよね」と応じる他なかったのであるが、確かに我が家の場合、今後どのような夫婦関係になっていくのが良いものか、私の中にも明確な形が出来ないでいる。家内は県外出身で、もう数年すると本格的な親の介護について考えなくてはいけなくなるだろう。その時に彼女自身がどうしたいのか、これまで話し合ってこなかった。彼女のことだから、しっかりと親の面倒を看なければ気が済まないだろうことは容易に想像出来る。そう云う状況になれば、私も自立したジジイになることを覚悟しないといけないだろうな。


帰りのタクシーの中で、〝そうか、オイラのこれからのkey wordは「自立したジジイ」だな“と思い定めたら、なんだか愉快になってきて帰宅したら、嫁に報告してやろうと思った。







それなのに……w ニコニコとしながら「ただいま」とリビングに入ったものの、家内の野郎、「なんで、電話をかけないんだ。最寄りの駅まで迎えに行ってあげるって言ったでしょ!」「酔っぱらっているんだから、さっさと風呂に入って寝なさい!」だってさ。

全くもう!噛み合わないねえw 



自分は取りあえず自立したジジイを目指すにせよ、今後の夫婦関係なんて成り行き次第で出たとこ勝負なんだよな……。と独り嘆息しつつ深い眠りにつくマサキであった。














2019年12月3日火曜日

小さな学校の小さな同窓会2019エピローグ

私は、これまで何度となく高校時代を思い出すことはあったのだが、それは自分の生活史上の時期によってその記憶が少しずつ変化してきたことを自覚してきた。

この度の高校同窓会では、内的葛藤の多かった私の高校時代の記憶がまた少しずつ修正と再組織されてゆくのが自覚されて、私にとっては心地よくも有難い内なる作業だったように思う。

ただ幾つになっても、私の高校時代の記憶の中で変わらぬ重要なパーツがあるとすれば、それは表象としての「ミサキ」だった。もっというと、私にとっては、彼が青春或は人生出発点の重要なアイコンのひとつだった。私の彼に対する想いは、ちょっと若い40代だったら映画「スタンドバイミー」に通じる心性だと答えただろうけれど、50過ぎたオジサンになった今では「心の原風景」と答えるだろう。

数年前に司馬遼太郎著「街道をゆく;台湾紀行編」を読んだ。この随筆作品中で作者が触れたエピソードのひとつに大変印象深いものがあって、それは、戦前の幼い頃に台湾で過ごしていた日本人の男の子がいて、終戦とともに日本本土に引き上げて成長したのだが、彼は幼き頃に過ごした台湾と現地の親切なヒト達が忘れられず、いつかはきっと台湾に戻って懐かしいヒト達と会いたいと思いながら成長したのだという。台湾への渡航は、その時の政治情勢の影響を受けてなかなか叶わなかったのだが、数十年を経て現地に渡航が可能になって、その男性が現地を訪れた際には、懐かしい街並をみて気分が高ぶり、思わず走り出してお世話になった町医者のお宅を訪ねたのだという。その時にはかつて優しく接してくれた老先生は既に他界されてしまっていたのだけれど、幼馴染であった息子さんとの再会を果たすことが出来、ふたりしてただ涙があふれて言葉にならなかったのだという。

(笑)えーっと、私の「ミサキ」に対する心情とは、そういう心性というか気分なのですw。

「なんのこっちゃ」と思われるかもしれないけれど、一言で言ってしまえば、まあそういうことなのですw えーっと、話を続けさせてもらいます。

私達の通った高校は、一学年50人弱の全寮制の学校だった。元気盛りの男子共が24時間寝食を共にして過ごす訳だから色々なエピソードがあったのだけれど、この度はそれらについては触れない。一緒に飯を喰って、一緒に裸になって風呂に浸かり、一緒に他人の屁や寝言を聴きつつ寝るわけで、今思えば楽しかったけれども、入学当初は大変面食らう事も多かった。

その中で私は、今思うと詮もなき思春期にありがちな悩みや葛藤を抱えつつ、表面的には〝普通“を装って過ごし、辛うじて適応していったのであるが、なんとなく自分の中でギクシャクとした感覚が残っていた。

時間は少し流れて、恐らく2年の後半から私が名ばかりの寮長に指名されて、部屋替えと同時に周囲の者同士でバーター取引をして、本来であれば一部屋2名ずつの配置だったところを、私だけ一人部屋にして貰った。そして、私の隣部屋になったのが、コウイチとミサキだった。

コウイチとは、その当時から音楽的な好みがが似ているところが多く、お互いに部屋を行き来しては、よく音楽の雑談をして過ごした。私が彼のところへ遊びに行くと、カシオペア、スペクトラムなどのサウンドを教えてくれたり、彼が当時嵌っていたSFノベルズを貸してくれてたりした。関西出身者特有のお笑い好きで、真面目な事を言っているかと思えば急にギャグや私に対するツッコミを入れては私を笑わせてくれていた。彼も私の部屋をしばしば訪れて「おい、マサキ何してんねん?」と弄ってくれるのであったが、今にして思うと笑いセンスがない私と良く付き合ってくれたものだ。

ミサキは、スポーツ好きで明るくてさっぱりとした気性を持ち、どこか自分に対して確信を持っている様子、その立ち振る舞いは大胆不敵に映った。当時、仲間内で彼のことを「瞬間湯沸かし器」とあだ名していたのだが、彼は何かあるとさっと怒って、その後1時間もしないうちに何事もなかったように穏やかな状態に戻った。

彼とは、クラブも違えば普段行動を共にするメンバーが違っていたので、自宅通学の高校時代を送ったならば、ほとんど接点もなくあの時期を過ごし、私の中に鮮明な記憶も残さなかっただろう。先に述べたように私たちは寮生活で寝食を共にし、昼間だけでなく夜も就寝まで共に過ごすことになったので、多くの高校生が経験するような友人関係よりももっとの濃密な時間を過ごしていて、そういう環境が私と彼との関係性を深めるきっかけを与えてくれたと思える。

ある時、夜の時間帯に彼らの部屋を訪れると、ミサキは不在で、コウイチ一人だった。その時に何を話していたかは覚えていないのであるが、雑談のなかでミサキの事が話題になった。「これ知ったらミサキ、怒るんちゃうか?」と二人で笑いながら話しているところへ、突然ミサキが帰ってきた。私たちが慌てて笑いを堪えてミサキの方を見たら、彼が我々の笑い目に気が付いて「てめえら~、またオレの事言ってたんだろう!許さん~!」と真剣な顔で怒り出したので、コウイチと私は堪え切れずに大笑いになったのであった。ミサキは「ぶっ殺す!」と言い放ったのであるが、しばらくすると何事もなかったようにおだやかな調子に戻るのであった。私は、このエピソードでミサキのことが更に好きになったと言える。

ある夏の夜には、私が何事かしているところに、ベランダ越しにミサキが上半身裸短パン姿でふらっと現れて、「マサキ、ちょっと漫画読ませてくれ」と言ってきた。私が「ええよ」と返事をしたまま、自分の作業を続けていると、彼は部屋のチェアに座ったまま独りで漫画を読み続け、それが終わると「ありがとな」と言って帰って行った。

また、ある秋の夜には、私がミサキとじゃれ合いたくなり彼の帰室を見計らって、「ミサキ、サッカーしてくれないか?」と乞うと、彼は「よっしゃ、いっちょやったろう」と言い、サッカーボールを取り出してお遊びを共にしてくれた。

当時彼との間に深刻な対立・葛藤もなければ、行動を共にして愉快なことをしたなどもなく、特別なエピソードがあった訳ではなかった。ただ、彼の自由で快活で、どこかで己に対して確信を持っているが故に物事に対して大胆不敵な態度を取っている、夜間だけではあったが、そういう彼のキャラクターに接していると、こちらの中のモヤモヤとした詮もなき悩みがかき消されていくのが分かり、いつしか彼と過ごす時間が私の中ではとても楽しみなものになっていた。

大学受験期に入ると、それまで勉強に関してはチャランポランな態度を装っていたミサキが黙々と勉強をし始めた。弱音なし、どこかで確信を持って勉強に取り組む姿勢が窺われて、その姿から私も勇気を貰っていたように思った。

繰り返すが寮生活で一緒に過ごさなかったら、彼のキャラクターに接することは出来なかっただろうし、コウイチと云う仲介者・触媒の存在がなかったら、同じ寮生活を送っていたとしても、ミサキのキャラクターに十分に出会うことは出来なかったと思う。悩みと葛藤多き私(悩むことが趣味みたいだったw)にとって、青年期の門口でミサキに出会えたことは、大げさではなく私の人生の宝になった。〝ミサキ無くして、マサキなし!“

その後、私たち3人はほかの大半の同級生と共に同じ大学に進学した。そこでまた2年間の寮生活を過ごすことになり、偶然にも3人とも同じ寮に所属した。ただ大学生活に入ると、お互いの行動半径が広がり、同じ時間を過ごすことも減り、高校寮の時のような濃密な時間を共にすることはなくなった。お互いが個々の想いに向かって進んでゆく本格的な青年期そしてオトナの過程に入ったことを意味していた。

大学1年の一学期の定期試験が終わり夏休み初日の事だった。大半の同級生は、帰省のために大学寮を離れていたが、私は試験最終日の夜ももう一晩だけ夜遅くまで起きて運転免許の学科試験勉強をした。夏休み初日早朝に寮を出て、県内の運転免許センターに往き、なんとか運転免許試験に合格して、免許の交付を受けて午後3時頃に帰寮した。

帰寮後、私も翌朝帰省するべく準備を始めて、洗濯物を取り込もうと物干し場のある屋上に上がった。寮の屋上は、夏の強い西日が射してコンクリート屋根は相当な熱気を放っていた。洗濯機の備えられた部屋から、外を覗くとそこに偶然上半身裸短パン姿にタバコを蒸かせながら、簡易リクライニングチェアに座ったミサキが居た。

「おお、マサキ~なにやってたんだ?」と問うものだから「かくがくしかじか」と私が応じ、返す刀で「ミサキはここでなにやっているの?」と問い返すと、彼曰く「いや~な、オレ生白いだろ?これじゃあ海に行っても恥ずかしいから、今のうちに身体焼いてんねん」と愉快そうに笑った。そして、私の前を横切って、ホースを持って散水栓をひねり辺りに水を撒き始めた。一日中夏の強い陽射しを浴びて熱せられたコンクリートの床から湿った熱い空気が立ち上り、天然サウナのような状態になった。

生憎、一人分の布団が天日干しをするべく手すりに掛けられていたのであるが、その布団がその所有者の望み通りの状態で回収されたのかは知らない。ただそんなことよりも、ミサキの大胆な行動と彼の心から愉快そうな笑いを見ていると、こちらまで愉快になって、しばらく私も大笑いをしながらミサキの放つ水が作った虹を眺めていたのだった。

その後、思い切ってミサキを誘い、翌朝もう一人エイイチと共にレンタカーを借りて帰省の途に就いた。私は前日に免許を取ったばかりなので、内心ヘタな運転をしてミサキに怒られるのでないかと懸念しつつの運転だったのだが、案の定、2度ほど後部座席に座ったミサキから「貴様あ、危ないだろ!」との激を受けてしまったのだったw。



この曲は、その当時私がとても気に入っていたロックアルバム「aja/ Steely Dan」に入っている「Black Cow」というナンバー。このグループの雰囲気がなんだかあの時の大胆不敵のミサキに通じるものを感じている。今でも、梅雨が終わりかけの本格的な夏が始まる頃になると無性に聴きたくなって、毎年のようにその時期にこのアルバムを聴くのが半ば習慣になっている。真夏の夕方通り雨が降った後に、アスファルトから立ち上ってくる蒸気と焦げた臭い匂いを嗅ぐと、私の頭の中でこの曲と上半身裸になって水を撒きながら愉快そうに笑っているミサキの映像が蘇るのだ。

この度同窓会が終わり帰路に着く際に、私はタカヒロ、オノ、そしてミサキを広島駅まで送ったのだが、私は車中で、ミサキに「あの夏一緒にレンタカーを借りて一緒に帰った事覚えてくれているか?」と尋ねたら、彼は「ああ、覚えているよ」と返事してくれた。その後話題は他方に流れたが、彼があの夏に共有してくれたひと時を記憶してくれていることが分り、私にはそれで十分だった。

その後は、ぽつりぽつりと出てくる彼らの話題に耳を傾けながら、別のことを考えていた。私の中では、高校時代の記憶のアイコンとして「ミサキ」が在り続けてきたのだけれども、彼だけでなくタカヒロやコウイチも、オノも、イチロウや男子たちも、その他の女性陣も私にとっては大切な存在なのだと。そして高校の同級生なくして今の私はあり得なかったし、どうやら私も彼らの思考の片隅にあり続けさせていただいていたのだと、今頃になってしみじみと気が付いた。

数年前に、タカヒロが「同じ釜の飯を喰った仲間は、ファミリーだから」と何の躊躇いもなくサラッと言った。その時は、そういうことがさらりと言えるタカヒロの気性を好ましく思うばかりであったのだが、私自身も漸く同じセリフを躊躇いなく言えそうな気がした。

考えてみるに、皆それぞれにあの時からの40年近くを夫々の居場所でそれなりの苦労を味わいながら頑張って生きて来た訳で、「俺たちひょっとして今夜来るローマ教皇に祝福されても良いんじゃないか、なあ、みんな!」とおバカなセリフを口に出しかけたのだけれど、今の私には、残り少なくなった彼らとの時間の方がより愛おしくて、黙って彼らの言葉に耳を傾けるのであった。



おしまい




小さな学校の小さな同窓会2019~同窓会本編(2)~


同窓会1次会は楽しくも和やかな雰囲気のうちに終了し、続いて私たちはホテル最上階のラウンジに設けられた2次会会場に移動した。

私は4人掛けのテーブルにトウヤマ、ミカ、チエたちと座った。トウヤマとは前夜際の続きで彼の近況を聴いていた。ちょっとのんびりとした彼の物言いは高校時代のものと全く変わってなかった。彼の話からは、時折一般生活者が経験する心配や苦労が伝わってくるのだけれど、彼のおっとりとした語り口からは、本人がそれほど深刻に受け止めている様子はなく、ありのままに物事を受け止めて前向きに物事に取り組んでいるように映った。思えば、彼は高校時代から良い意味で楽天的なヒトで、年を重ねるに従って味わいのある50代のオトコになっているようだった。


チエ。彼女は高校時代から、もの静かだけれどしっかりとした女の子だった。このヒトの可愛らしい物言いに、こちらがつい油断して喋っていると、時折鋭いツッコミが入ることがあった。それでも、あとで全然嫌な気分にならなかった。後年同じ大学に進み低学年の実習試験前に「マサキは、基本がなってない」と穏やかに諭されるように言われて、なんだか勉強だけではなく自分の本質を突かれたようでちょっと驚いたのだけれど、それでも全然嫌な気分にならなかったのは、彼女の人徳ゆえだ。彼女の近況を聴いていると、やはり彼女らしくしっかりとした考えを持って良妻賢母+ワーキングウーマンとして日々過ごしているようだった(これは、ここに集まっている女性たち皆に共通していることなのだけれど)。

ミカ。このヒトは同じ大学に進んだ後、大学時代の終盤に同じ実習グループで過ごした。ずっと可愛い女の子だったけれども、普段の態度から物事に対してひた向きに取り組む努力家だと思っていた。後年、ヒト伝いに聴いた彼女の活躍は学生時代の様子を彷彿とさせるもので、私は素直に感動したし元気を貰った。彼女に対しては内心ずっと尊敬してきた。

ああ、この辺りから段々酔いが回って来て、記憶が断片的になっている。


その後、皆それぞれにテーブルを行き来し、旧交を温め合っていた。私は、ユミコとどういう脈絡だったか、彼女から私の近況を聴かれて「息子二人がいるが、それぞれ別に暮らすようになり。現在、家では夫婦二人の生活になったこと。なんだか夫婦二人でご飯を食べるのが、気まずいというか手持ち無沙汰というか……」てなことを話したところ、ユミコはしたり顔で「そんなところあるよね~」と妙に共感されてしまった。このヒト日本人離れしたルックスと生活スタイルを有しているようなのに、日本のおっちゃんにありがちな話をして彼女の共感を得られるとは思わなかった。私は内心びっくりとしたのだけれど、このヒトもええオナゴやなあと思った。

この後は、どうやって2次会が終わったのか分かりませんw。気が付いたら、幹事のモトムラから「2次会を終了し、この後は呉市内のスナックで3次会をします」と告げられたので、彼の元に行き「ああ、もうオレ、限界に近づいて粗相をしそうだから、ここで失礼させてもらうよ。」と申し出た。そうしたら彼が毅然と「マサキ何言ってるの!、次は○○ビルの○○というスナックだからね。みんなを連れて行ってよ。」と返されてしまった。〝うーん、そうか…..“と幹事の指示を聴いてドロップアウトを諦め、彼が教えてくれた○○ビルの○○というスナックを頭の中でリピートしながらホテルの玄関へ移動。

ホテルの玄関を出たところで数人が集まってい、近づくとカイタがこれから関西の自宅へクルマで帰るのだという。1次会の近況報告で、彼は急激に体重を絞ったのだと報告したのだが、その理由はまたサーキット走行を再開させたからだとのこと。高校当時は〝カイボン“とのあだ名が付くくらいのぽっちゃり体型で、時折ユーモラスなポーズを作っては周囲の笑いを誘っていた。高校卒業後、別の大学に進み詳しい消息は知らぬままなのだけれど、若い頃はクルマのスポーツ走行を趣味にしたとのことだった。恐らくその後仕事や家庭生活で多忙となり、一時期はクルマのスポーツ走行に時間を割くことが出来なかったのだろう。やっとこの頃自分の時間を確保し趣味を再開したんだね。私たちは、やっと自分自身に向き合える時間を持てるような年代に入ってきたのだよね。カイタ・カイボン気を付けて帰ってね。

一体何時に3次会が始まって、何時に終了したのでしょうかw? モトムラに教えて貰ったスナックに入ると、カウンターをコの字取り囲むようにみんなが座って、またそれぞれに各々賑やかに楽しそうに語らっていた。両側にタカコ、タカヒロが座ってくれていたのだけれど、何を私はしゃべっていたのでしょうかw?後日、モトムラが撮ってくれていた写真を見ると、私は誰とも喋っていなかった様子w ただみんなの顔を眺めながら幸せ・満足気分に浸っていたような気がする。周りの楽しいノリに付いて行ってない「マサキ、キホンガナッテナイw!」

この時はかなり酔いが回って頭が働いていなかったのだけれど、自分の中に籠るこの気性は、実はあの頃から成長できていない部分なのだろうな。


それでも断片的に、男性陣が歌い出したのは記憶していて、元バンドの面々、そしてヒサシが謳って更にその場の雰囲気が大いに盛り上がったのは十分に理解出来ていた。皆それぞれに歌が上手かったけれど、やはりハイライトはミサキが歌った「雨上がりの夜空に/ RCサクセション」だった筈。当時この曲は、男子が皆好きだったし、あの時代の空気を象徴する曲だった。そして彼らのバンドが学園祭でこれを演奏して大盛り上がりだった。実は、ミサキと事前に短いやとりをして、「この曲を歌ってくれ」とリクエストしようかどうしようかと迷っていたのだけれど、実際にミサキの歌う「雨上がり~」を聴けた時には目頭が熱くなり感無量だった。〝ああ良いもの聴かせて貰った“。もう幸せ過ぎて、ワタシハコノママショウテンシタカッタw


なんだかこの感情を発露したくて、思わず隣に座っていたタカヒロの頬に「本当にアンタはええ奴じゃ」などとむにゃむにゃ言ってチューを2回してしまった。タカヒロはただ彼独特の人懐こい笑顔を浮かべていたっけ。タカヒロありがとねw

それでその後どうなったんだったけ?モトムラから3次会の終了を告げられて解散となり、各自自由行動となったのだけれど、もう私は力が残っていなくて、ホテルに数人のタクシーに乗り合わせて帰った。その中にオノが居て宿泊部屋が同じ階だったので、もう少しだけ駄弁ろうかという事になった。

オノ。彼とは高校時代から親しく付き合ってきた。高校時代には絵の才能があって彼の画力に驚かされたことが何度もあった。もの凄く真面目で優しくてユーモラスなところがあって。ついつい私が彼に甘えてぞんざいな態度を取っても嫌な顔をしたことがない。高校時代に付き合っていて不思議に感じていたのは、彼がご両親の方針に反抗する様子もなく、従順にその期待に沿って過ごしているように見えたことだった。そういうオトコを傍から見ていて彼の態度なり考え方は、当時の私には全く不思議に思えて仕方がなかったのであるが、ずっとその後彼の人生行路を眺めていると、ある時から実は一貫した立派な考えを持っている奴だったことに気が付かされた。その時以来私は当時の不明を恥ずることになったのだけれど、彼は本当に凄いオトコだと思っている。

その時の話題は、同窓会に出席しないエイイチの事だったのだけれど、〝うーん次回はオノと二人で少しプッシュしてみようかな。オノは今でも時々交流しているらしいから。どうやったら、アイツが同窓会に出てくるか作戦を練らないといけないな…….?“などと色々思案しようとしたのだけれど、既に私の中では心地よい酔いが体中を駆け巡っていて、頭は思うように働かず今にも気絶しそうだった。

「オノごめん、オイラもう限界…..」と言葉を発した直後に、私は深い眠りのなかにオチたのであった。


翌朝、気が付くと既に8:00前後になっていた。「さて今日の予定はどうするんだったけ?」と、前夜の数人との約束を思い出しながら、体を目覚めされるべくシャワーを浴びた。普段は深酒をした次の日はあまり朝食を取らないのだが、「コーヒーでも飲むかいな」と思い洗面と着替えを済ませて、部屋を出た。エレベーター前でオノの出くわしふたりで1階のレストランに行った。ビュッフェ形式のメニューの中から、自分としては珍しいのだけれど、何故か和食のものをチョイスした。

テラス側のテーブルに向かうと、そこにサトエとタカコが居た。ふたりとも薄曇りの柔らかな朝日を浴びてリラックスした雰囲気だった。「やあ、おはよう」と声をかけて私は隣のテーブルに座ったのだけれど、まだよそよそしく振る舞っている自分が気恥ずかしくなり、結局同じテーブルに座らせて貰った。

「なんだか、気恥ずかしいね」と彼女らに話すと、サトエが「マサキは人気あったじゃないのうw」とにっこりと笑ってくれて、タカコは優しく微笑み「うんうん」と頷いてくれていた。「そうなんだ」と応じ、隣り合ったタカコに「あの頃タカコさんも可愛かったよね」とポロっと言葉にすると、彼女は「へえ、マサキ、そう思ってくれていたんだ」と。

あのう、いい年こいたおっさんがこの行を書き記すなんぞ、バカバカしいと笑われるかもしれない。だけど、後年段々と「女性恐怖症w」が顕著になっていったオトコからすれば、こんなこともさらりと言えるようになったのは「女性恐怖症」完解の証なのですぞw この度このヒト達全員〝S.O.L親戚おねえちゃんリスト入りさせたからには、次回からはもっと色々駄弁れるはず、楽しみだあw

サトエ。このヒトには学生時代にあまり喋ったことがなかったけれど、本人には直接関係のないエピソードがあった。大学時代の終盤の頃に、イチロウが「サトエちゃんは、めっちゃ可愛いことに気が付いた」とぽろっと私に言ったことがあった。当時、イチロウと行動を共にすることが多く、彼との間の会話の中心は、音楽や文学やクルマや雑学めいたことなどで、どこか浮世離れした内容のことが多かった。だから、彼がそんなことをポロっと漏らしたのは私にとっては大変意外で、〝このオトコいつの間に色気づきやがったw“とそちらの方に気を取られてしまっていた。

後年、同窓会で彼女と会うようになって初めて、若い頃と変わらない若々しいその容姿と立ち振る舞いに彼女の〝可愛らしさ”があることに気が付いたのだった。なんと気が付くのに30年以上も遅れてしまい、我ながら自分の鈍感力に改めて気が付かされる想いだった。マサキ、キホンガナッテナイw カシワギとサトエ、良い夫婦です。そしてしみじみ思うよ、〝カシワギ、ホンマいい仕事してますw”と。

タカコ。当時私から見ると静かなヒトで、笑うと目じりが下がって可愛らしくどこかかしこそうな女の子だった。横に座った彼女を見ていると、今も当時と変わらない優しそうな笑顔を浮かべて、周囲の話をおだやかに聞いている。このヒトとも次回会う時はもっと駄弁ろうっと。

そのうちに、トウヤマやタカヒロがやって来て同じテーブルに座り、続いて背後の席にコウイチ夫婦がやって来きて、静かにあれこれとしゃべっていたのだけれど、なんだかその様子が、高校寮の食堂でみんなと駄弁っていた頃を思い出させるもので、とても懐かしい気分に浸れた。

松林に囲まれた高校寮での生活の中で、私は朝の時間が一番好きだった。特に初夏の山間のひんやりとした空気のなかで、カッコウや山鳩やうぐいすが鳴いていて、その中を半分寝ぼけた頭で、渡り廊下を下って食堂棟まで歩いて行った。渡り廊下で、周りの木々が柔らかい陽射しを浴びて静かに一斉に呼吸を始めたような・すこし湿り気のある爽やかな空気感を私はこよなく愛していたのだった。

名残は尽きなかったけれども、皆それぞれの現実生活に戻る準備は始めならず、最後にその場にいた数人と共にロビーで記念写真を撮影し、お互いに「またね」と言って三々五々分かれていった。

この度、幹事役のモトムラが用意してくれた仕掛けが絶妙で、我々に高校時代の生活を追体験させてくれるものになった。一人ひとり旧交を温め合って、お互いに心ゆくまで楽しめたのだと思う。私にとっては、青春というか人生のとばくちに彼らと出会って、人生の夏の終わりに再び彼らに出会い、己の中の記憶を改変させ、彼らとの間で新たな交流が始まりそうな予感を持てる・大変楽しくて有意義な体験だったように思えた。

最後にもう一度彼にお礼を言う。〝本当にモトムラいい仕事をしてくれてありがとねw


(本編;おしまい)