2018年6月20日水曜日

カルボナーラにおける超個人的な記憶

       6月某日、職場の夜当直をするにあたり、夕食にコンビニで買い求めたカルボナーラを食す。昨年ごろまでは、簡単な副食を作って当直日の夕食としたものであったが、段々と面倒になってしまい、当直日の朝出勤前にコンビニに立ち寄り弁当を買ってその晩に食することが習慣となってしまった。ただ、コンビニの冷蔵棚に並べられている惣菜なり、弁当も頻回に食べていれば飽きてしまうもので、この春以降はパスタ→うどん→冷麺など食べやすいものがローテーションの中心になっており、物ぐさもここに極まれり、である。この頃は、どうも何か旨いものを食べたいという欲求さえも減退してきているようである。

さて、当日に買ったカルボナーラ、レンジで2分間暖めて食べ始めたのであるが、どうも納得が行かなかった。そのコンビニが提供するカルボナーラが問題というわけではなく(パスタ専門店とか高級イタリアンレストランで食べている訳ではないので、当日食べたものの出来不出来を問題するつもりは全くなし)。カルボナーラというパスタ料理が、卵と生クリームのソースがそれこそクリーミーに麺に絡んでいる状態というのが、私にはどうもしっくりこなかったのである。


麺をひと固まり口の中で咀嚼しながら、「私がカルボナーラというパスタ料理を初めて知ったのは何時頃だったかしら?」とつらつらと記憶を手繰り寄せていると、ふとある一場面が脳裏に蘇ったのであった。



私の大学時代の終わり頃、確か秋の頃だったと思うのだが、ある休みの日にクルマ好きのコウイチが私の部屋にやってきて、「この前雑誌を読んでいたら、F1のミナルディーというチームでは、レース期間中にサーカスでチームメンバーに提供されるカルボナーラが名物料理らしくて、それが物凄く好評らしい。大雑把に作り方も書いてあったから、試しに作ってみたら、美味しかった。マサキにも今度食わせてやるからな」というのであった。

カルボナーラなるパスタを食べたことがなく、その名を聴くのも初めてで、「へー」と返事をしたきりだったと思う。それから然程時を置かず、ある日曜日の昼前にコウイチからまた連絡があって、「今から作るから、食べにおいで」という。私は、コウイチの好意が素直に喜んで彼の部屋を訪れたのであった。部屋に入ると、彼は既に調理に取り掛かっていて、フライパンでカリカリに炒めたベーコン、生クリームと全卵、黒コショウと塩をかき混ぜてソース状態になったものを入れたボウルなどがキッチンに並べられ、大きな鍋でパスタを茹でている最中であった。彼曰く「このパスタの量とソースの分量の調整が難しくてな、その雑誌には作り方は簡単に書いてあるんだけど、分量までは書かれてなかった。まだ試行錯誤の状態なんだけどな」と。

しばらくしてパスタがアルデンテ(そう、この頃初めてアルデンテなる言葉も知った)に茹で上がると、鍋から笊に移して素早く水分を切り、オリーブオイルをのの字にたらしてひと交ぜすると、ソースの入ったボールに入れて、更に素早くソースと絡めた。

出来上がったパスタは、今から思うとソースの分量が足りず、パサパサしたものに仕上がった。コウイチは、「ちょっとぱさぱさしたかな。ソースの分量がむずかしいな」と言いつつも、出来上がったそのパスタを皿に盛り付けてくれて、それにパルメザンチーズをたっぷりと振りかけて、私に渡してくれた。

それが、私にとっては初めて食するカルボナーラであった。ホークで麺を巻いて一口頬張ってみると、カリカリに炒めたベーコンの香ばしいしょっぱさ、パスタに濃厚に絡んだ卵とクリームには十分に卵感が残り、そして時々口に当たる黒コショウのアクセントは程よい刺激があり、そのパスタにはコクがあり十分にパンチが効いていてそれはそれは大変美味しいものだった。作り方はシンプルだけどこんなに美味しいパスタがあるのかと思ったものだ。

ああ、そうだった。その頃の時代背景として、ちょうど90年代の初頭で、世の中にはイタリアン・ブームだの、エスニック料理だの、それまで一部のヒトしか知らなかった各国の料理が広く大衆に知られつつあり、大変ポピュラーになりつつあった頃だった。私は、それまでパスタといえば、ミートソース・スパゲッティくらいしか知らなかったっけ。

その後、流行に疎い私でさえ、バジルソース、アラビアータだの、ボンゴレビアンコ、和風キノコソースだの、ゴルゴンゾーラソースだの、パスタ料理のバリエーションを知ることになった。

これらのパスタソース外食の機会の度に知っていくのだけれど、最終的にどのパスタが好きかと尋ねられたら、一番にカルボナーラだと思うようになった。ただ大変残念なことに、個人的に大満足を得られるカルボナーラにそれから今日に至るまで出会ったことがなかった。外食でカルボナーラを注文して失敗だったなと思うことはなく、夫々にそれなりに美味しいと思うのだけれど、どこかで物足りなさを感じていた。

そう、やっぱり私が一番だと思うカルボナーラは、あの日コウイチが作ってくれたぱさぱさとはしていたけれど、卵感の残るパンチが効いたものなのだ。誰がなんといおうが、味覚音痴と笑われようが、そう感じるのであるから仕方がない。味覚の記憶というものは、超個人的なものなのである。

目の前のコンビニパスタを食べながら、そんなことをツラツラと思い出していたら、またコウイチ’sカルボナーラが無性に喰いたくなってしまった。私の理想のカルボナーラは、記憶の断片とともに、心の片隅に存在しているのであった。