2018年9月22日土曜日

初秋に東周防国旧山陽道を辿る旅

916日、イチロウと共に山口県東部の旧山陽道を往復120㎞程度自転車で走る。大竹市にあるスポーツサイクルショップウエキを出発し、折り返し地点は下松市で片道60㎞前後であった。前項で触れたように私は新しいギアコンポを組み替えた試走を兼ねていた。

午前8時過ぎにイチロウ宅までクルマで迎えに行ったのであるが、イチロウはクロスロードバイクを持ち出していた。前回イチロウと山道を走行した折に、その重量故に山坂道に難渋しているように見えたので、彼がこのバイクを持ち出してきたことに、私は一瞬怪訝な表情を浮かべたと自覚したのだが、ここしばらくの彼との自転車にまつわるやり取りから、今のイチロウの気分としてはゆっくりと景色を楽しみながら走行したいモードなのだろうと勝手に察しをつけた。ここしばらく二人とも好んで山坂道を選択してきただが、この度の道程では、然程の標高を獲得するようでもなかったので、イチロウの選択もある意味合理的ではあった。

午前930分に、私のバイクをお店で受け取り出発。そのまま大竹市内の旧山陽道を探しながら、新しいギアコンポの感触を確かめつつゆるりと走行を開始したのだが、私の自転車の後輪がブレーキパッドに微妙に当たっているようなノイズがするため、直ぐにお店に引き返し、ブレーキパッドの微調整を依頼。店長さんが素早く応じてくれて、再出発したのは午前10時前頃だったか。天候は薄曇りで、気温は24℃前後であり、サイクリングを行うには絶好のコンディションだった。

国道2号線と並走するように大竹市街地の中央を旧山陽道(らしき道)が走ってい、私は普段この辺りは工業地傍の国道2号線を通過するくらいであったので、南北に旧市街地が広がっていることを知らず、この街の国道2号線沿いとは違う落ち着いた表情に新鮮な印象を覚えた。

しばらくすると、県境の川にかかる橋を渡り山口県に入ったが、直ぐに山塊に突き当り、一度国道2号線に出ざるを得なかった。岩国市街地に入るまでのこの辺り旧山陽道の痕跡を見つけるのが困難であり、あくまでもゆるりと進んで行く按配であった。

イチロウは事前に地図で検討を付けていた道路と実際に走行しているコースの確認を確認しながら、私は後輪から発せられるシュルシュルというノイズに注意を払いながら走行していた。

先ほどお店でブレーキパッドの調整をして貰って、ペダルを廻す際の抵抗感もなくなり、またホイールの回転の伸びも自然な感じになっているのだが、後輪から発せられるノイズがかすかに聞き取れ、それがどこから発せられるノイズなのか大いに悩ましかった。

私とイチロウは、国道2号線から山手側に入った道路をゆっくりと進み、途中国道2号線に再び合流し、そして錦帯橋に向かう県道1号線へ進んだ。




しばらく進むと錦帯橋に到着。県道1号線を右折し北西に進路を取り、錦帯橋の北側に掛けられた現代の橋で少しばかり休憩。実は自転車でここを訪れるのはこの度が初めてであった。自転車を降りて、辺りをゆっくりと眺めてみる。錦川にかかる3段のアーチ橋は見事であり、視線を転じて西側正面の小高い山に天守閣が見える様はなんだか広々としたおおらかさが感じられて、誠に良い風景だと思った。

これまでも自宅からここまで日帰りで自転車に乗ってやって来ることを何度か考えたりもしたが、交通量の多い国道2号線を通てくることが面倒に思え敬遠した。イチロウと何度か走っているうちに国道2号線沿いの裏道の知見も増えてきたので、これからはその裏道を駆使してここまでやってくるのも有りかもしれない。


小休止の後、その橋を渡って錦川西岸沿いを新岩国駅に向かって走行開始。新岩国駅前を通過ししばらく錦川沿い旧道を西に向かって進む。次第に左右に谷間を形成する花崗岩のむき出しになった険しい山塊が眼前に迫ってきた。岩国という地名通り名は体を表すとは言ったものである。やがて私たちは国道2号線と合流し緩やかなるも長い峠道に差し掛かった。復路で気が付いたのであるが、この辺りで国道を交差するように旧道が東西に走っているのであるが、往路では見逃してしまい、そのまま交通量の多い国道2号線を登坂してしまった。

私は、ギアコンポのペダルから両脚に伝わってくる感触を確かめながら登坂、イチロウはやや遅れてゆっくりとしたペースで上っていった。ピークを過ぎるとトンネルがあり、追い越す車両から警笛を鳴らされて少しばかり緊張した。そんなに無茶な走りはせず往来を邪魔しないように左側端を走行していたのに、クラクションを鳴らす必要ないのになあ。ドライバーから見れば自転車が邪魔であることは重々承知しているのであるが。

長い下り坂を降りたところで歩道に自転車を停めて後続のイチロウを待つ。少しばかり待ったか。“いくらクロスバイクで走行しているとはいえ、イチロウ遅いな”と思う頃にイチロウが追いついてきた。「どうも重いな。これが道端に落ちていてね」と笑顔で10数個の栗をジャージのバックポケットから取り出して私に見せた。

“へー、イチロウにしては珍しい。一度走り出すと余り辺りの景色には目もくれず、遮二無二バイクを転がす野郎なのにw”。クロスロードバイクに乗ると、気分がそんなにも変わるものなのか……

今年度は、お互いに公私ともに色々な事情があって、色々なサイクリングイベントにエントリーをしたものの、実際には出られず仕舞いであった。他方で気分的に“もうそろそろそういったサイクルイベントに出なくても良いのではないか、もっと自分たちで計画したコースを自分たちのペースで走れば良いのではないか”と思うようになっていた。その流れで、イチロウは速さを求めることに一区切りつけて、ブルぺなどのロングツーリングに関心対象が移行しているようであった。

それにしても、このヒトはつい数か月前までは何かに憑りつかれたようにガンガンに走るヒトだったのに、何時の間にかノンビリと走るようになっていて、雑談の折に私に冗談とも本気とも取れるような口調で「次はマサキもクロスロードバイクを買えよな」などと言っている。彼のその興味関心の振幅の大きさ・スピードには微笑ましくも驚いてしまう。


さて、私たちはその長い峠道を乗り越えたところで、山口県玖珂郡に下りてきていた。旧山陽道は、国道2号線よりも南側に南西方向に向かって伸びており、短い休息を終えると再び旧山陽道を進んで行った。玖珂続いて周防高森地区にはそれぞれ旧山陽道沿いに古い街並が残されていて穏やかな佇まいが我々を楽しませてくれた。街道沿いの建物は、現代的な住宅が立ち並んでいたが、所々に古い名残を示す木造建築物(商家、商店、役所)が散在し、古き良き時代を忍ばせた。私たちは、自転車の速度を緩め、左右の建物を楽しみながら進んで行った。

この辺りの旧山陽道は現在県道144号と呼称されているようであるが、しばらくこの道を辿り米川地区を通過。やがて広々とした田園が広がった地区を走る、灰色の雲が西から東へゆっくりと流れやがて霧雨が降ってきたが、雨宿りするほどの量ではないので、そのまま走行し、県道63号との交差点を右折し、63号に沿って下松市街地を目指した。

高台になっている葉山工業団地を通り抜ける左折すると、下松市街地までなだらかな下り坂になり県道63号に沿って市街地に入る。

ここまで来てやっと気が付いた。イチロウにはいわなかったけれど、柳井と下松は違うのだとw。広島県側から山口県の瀬戸内海沿いに、岩国、周防大島、柳井、光と続いていて、数年前にイチロウとMR4でこれらの街を走ったっけ。今回、何の準備もせずイチロウ任せだったから、東周防の名物なり歴史也はおろかオリエンテーションも何も頭に入ってなかったのだった。クダマツ、クダマツと唱えながら、頭の中は柳井市に来るものとばかり思っていた。旧山陽道を通りながら沿岸部をショートカットし光の先の下松まで来ていたのだった。

「下松は牛骨ラーメンで有名らしい。駅前に数軒ラーメン屋があるらしいから、何軒か食べ歩きするぞ、良いな、マサキ」とイチロウが本気とも冗談とも取れるような口調で話しかけて来た時、ふと私は見知らぬ土地にやって来たことを実感したのであった。



(つづく)


2018年9月20日木曜日

“違いがわかったオトコ……”

自転車の部品の話である。



この1年弱の間、登坂を始めるタイミングで、リア・ディレーラーでチェーンが外れる症状があり、気になっていた。さてこれから力を入れていこうという矢先にチェーンが外れてしまうと大いに気勢がそがれてしまい、自転車に乗る楽しさに水を差されたような気になるものだ。

症状の原因は、ディレーラーが後輪側(内側)に若干曲がっていることによるものと素人ながら察してがついていたのであるが、その調整判断はプロに委ねるしかないと思われ、更に色々考えていくうちに、現在のギアコンポを使って足掛け5年経ったのだから、そろそろ新しいコンポに組み替えて良いのではないかと思うようになった。



足掛け5年と言っても、ネットなどの情報を読むと、ひとつのギアコンポーネントは10,000㎞走行に耐えることが出来るようであり、己を振り返ってみるに、そこまで今のコンポを使いこんでいない。新しいコンポに組み替えるには勿体ない気がしないでもない。

これまで使用してきたコンポは、Shimano105なのだが、せっかく新しいコンポに組み替えるのであれば、同じ機種では芸がなく、いっそのことバージョンアップしてULTEGURAにしてはどうだろう?

ネット情報によると、昨年updateされたULTEGURAは、プロのインプレッションだと大変素晴らしく語られているものの、一般userの方々の意見によると「素人には105ULTEGURAも使用感においてその違いは分からない。両者の重量に大差もなく軽量化にも繋がらず、105ULTEGURAに変えたところで、別に速く走れるようになるわけではない。105からより高価なULTEGURA変える目的なぞ、他者に見栄を張ることくらいであろう」等の意見が述べられていた。

“ムムム、見栄を張るためだけに変えるのか……? ただなあ、オイラの場合見栄を張れる走り仲間がいないのよ。乗りバカ友と言えばイチロウしかいないのだが、彼は見栄張れる相手じゃないものなあw”

ULTEGURAにコンポへ組み替える走行上のメリットはなく、見栄を張る仲間がいないとなると、新しいコンポに変える理由が全く見つからなくなってしまった……

……、有ったw! “新しモノ好き”。そうだった、私め、新しモノ好きだったw。道具に拘る方ではないのだけど、適度に新しいモノを欲しがるオトコだった。賢い消費者ではないことは重々承知しているのだけれど、そういう消費の仕方も許されよう。

ということで、8月のある日曜日にサイクリングを兼ねてスポーツサイクルショップウエキを訪れてコンポの組み換えを相談してみた。

私が店長のオニイサンに「私のようなド素人が、コンポをULTEGURAに組み替えるのは生意気ですかね?どうも素人には105との違いは分からないって言う話なんですけど?」と問うと、オニイサン「良いんじゃないですかねえ。大丈夫ですよ」「今店に部品も揃えてありますから、今からでも変えられますよ」等と妙に乗る気になってらっしゃる。「マサキさん、道具ドーピングって言葉もありますからね。脚力ない分、道具で補えるってことです」等と言い添えて。

“道具ドーピング”なる言葉は初めて聴いたし、多少引っ掛からない訳でもなかったが、実力は兎も角として、良い釣り竿やゴルフクラブなど良い道具を欲しがる素人オヤジが世の中にはどこにでもいる訳で、そういう類のオヤジのひとりとして私が認定されていること、その線において極端で分不相応な選択をしているのではなさそうだということが分って多少安心した部分もあった。この論理展開は滑稽なのは十分に承知しているけれどw。

店長のオニイサンにコンポの組み換えについて、細かい部品などの調整(と言っても、オニイサンの質問に対して全面的にプロに任せますと返答しただけだったけれど)と組み立ての日程を決めてその店を辞した。因みに、ULTEGURAは電動式Di2が人気で話題になっていたのだが、個人的には電動化に気持ち的な抵抗感があったのと、予算的な限界もあり、機械式のものを注文した。



99日にお店に自転車を持ち込んで、納車して貰ったのが916日であった。

事前にイチロウと試験走行を兼ねてそのお店から山口県下松市までの往復路約120㎞、旧山陽道を辿って走ろうという事になっていた。

その日、午前9時の開店直後にふたりしてお店に出向き、予定通りコンポ組み換えが終わった愛車を受け取ることが出来た。

自転車を受け取る際に、店長のオニイサンからは「ULTEGURAに変えられて一番の違いは、ブレーキが思った以上に良く効くから、気を付けて乗って下さい」と言われたのだけれど、実際に乗り始めてみると確かにブレーキが良く効く。それから、乗って初めてからすぐに気が付いたことなのだけれど、両脚の力がペダルを通してギアに余すところなく駆動力として伝わっているようであり走りやすく、ギアを変えてもかっちりと入ってくれて大変気持ちよく、このコンポへの信頼感・安心感が強まった。




また、上り坂ではその駆動力が発揮されて、ペダルを踏み込んだ力が、ギアに余すところなく伝わっているようで、グングンと登坂して行ける感覚があった。実際に105よりもギアを落とさずとも十分に登り坂を漕いで行けるようだった。



“全く……。違いがわからないといったヒトは誰だよう?。私のような素人オッサンでも十分に105ULTEGURAの違いが分かりました。”

それに付け加えるならば、120㎞走行し終えてみて、何時もに比べると疲労感が断然減ったような気がする。


やっぱり道具の違いってものはあるんだね。そうか店長ニイサンの言ってた“道具ドーピング”ってこういう効果もあるのかもしれない。



十分に、ULTEGURAの良さを堪能することが出来た。後は、道具に見合う己の実力をあげて行くのみかw。

2018年8月16日木曜日

夏の朝に自転車に乗る~その2 求道者編~

812日に極楽寺山で“朝のお勤めを終えた”とF.Bに投稿し、午前9時前に帰宅してみると、messengerにイチロウから「やっぱり明日オレもバイクに乗ることにした。一緒に行くべ」と連絡があった。

豪雨災害後の後、イチロウも私もロードバイクに乗るモチベーションがすっかり落ちて、何処にも出かけず仕舞いであった。一種の自粛ムードが漂っていたのであったが、晴天(酷暑ではあったが)続き、久しぶりにお互いの休みが取れるので、事前に私から冗談交じりに「バイクでどこかに出かけよう」と誘うも、彼は渋い表情で「行かね」と断っていた。冗談半分で、これだけ誘っているのだから「うん」と言ってみろと畳みかけるのだが、イチロウは否とのつれない返事。終いには、私が「それでも貴様は、ヒトの子か?」と半分冗談で言い募っても、彼は渋い顔をしたままであった。誰よりもロードバイクに嵌っている野郎が、こんなエサに喰いつかないのは珍しい、寡黙なオトコに対してその背景を慮ってはみたものの、邪推しても始まらねえ、そっとしておくのが一番と思っていた。

それがどういう風の吹き回しか分からねど、とにかく813日は一緒に出張るという。その後のやりとりで、どうも早朝出て半日かけてどこぞに行くつもりらしい。“あのね、この酷暑の中で昼日中にチャリで走っていると危険だよ”と間接的に伝えるも、今度は彼のモチベーションが私のそれより高まっている様子で、「まあとにかく朝6時に何時もの処で待ち合わせね」と返事を寄越した。

ということで、812日に私は午前450分に起床することになった。まだ薄暗く自転車で乗り出すのを躊躇ったが、何時ものように家族が起きないように、そろりとベッドを抜け出し、スポーツドリンクを200ml+アイスコーヒー200mlを摂取し、ジャージに着替えて洗面を済ませ、家を出たのはam5;15頃。起きた時はまだ薄暗かったものの、5時過ぎには急激に当たりは明るくなり夏の1日が始まった気配があった。

西広島バイパスの側道から田方の坂道を上がり、安佐南区大塚に向かう。早朝とはいえ、クルマの往来は活発であり、それぞれにスピードを出しているため、歩道をゆっくりと上がる。決めていたとはいえ、早朝から出てきてこれから向かう山坂道を走るなんて、家内に言わせれば“バカ道”ということになり、それはそれで当たってなくもないなと独り笑う。

前日“朝のお勤め”を終えて帰宅すると、めずらしく妻からどこかに連れて行ってくれろとの要望があった。このような場合適当に中心街にでてランチをした後ウインドーショッピングで時間を潰して双方ともに満足するパターンが多いのだけれど、この日はクルマで出発した途端に助手席で家内が「暑い暑い。街を歩くのもこれでは辛い」と言い出した。じゃあ、このままドライブで良いかと問うと、「うん」という。

せっかくだから、普段イチロウと走る道をそのままトレースし、彼女に広島の山間部をみせてやるかということになった。クルマで何時ものコースをトレースしてみると、ふだんロードバイクで走行中には気づかなかったが、意外にも勾配がキツイ。オートマのクルマを運転していると、何度もキックダウンして登坂している。

思わず私が「あれ?この坂道こんなに勾配がきつかったかなあ。自転車だとあんまり気が付かなかったけどな。」などと独り言のように呟いていると、隣で女房が「あんた達、本当におバカだよね、こんなところわざわざ自転車で走るかなあ。バカ道だわ」と笑って言うのだった。

ちょっと話が横道に逸れたけれど、これから向かう道のりは前日に女房とドライブした道と正しく同じコースを辿ろうとしている。前日の夫婦の会話を思い出し笑いしながら走行していると集合場所の大塚駅付近のコンビニにたどり着いた。到着時刻am5;45頃、約束時間までまだ少しあるので、バナナ一本+ウィダインゼリー1袋+ミネラルウォーターを購入し、朝食を取る。

やがて約束時間少し前にイチロウが「おお、早いの」と言いながらシクロス・バイクに乗って登場。

「オレはさ、今日はこれでのんびり行くから、マサキは遠慮なく先に行ってくれ」などという。まだ行先が確定しないので、彼に確かめると「まだ分かんないけど、取りあえず湯来町の三叉路まで行こうや」という。急いでそのコースの所要時間を頭で計算し、am10:00までには帰宅できそうだと判断しO.K.と返事する。

予定通りam6:00頃に出発、ゆるゆると大塚駅から団地「こころ」に向かう坂道を上り始める。この坂は片道2車線で両側に幅広の歩道を有する立派な道路なのだけれど、その坂がよそ者から見ると大変にキツイ。よくこの付近に住む中高生達が自転車で上り下りしているのを見かけるけど、彼らは子どもの頃から本当に鍛えられているんだなと思う。立派な足腰を持った大人になっていくのだろうな。イチロウと駄弁りながらも、そんなおバカな事を想いつつこの長い坂を上り終えると早くも全身汗びっしょりとなっている。

団地「こころ」の前の右曲がりカーブを進むと、なだらかな下り坂で暫し両脚を休め、そこから伴―戸山線に入ると、一気に激坂となる。ケイデンスをなるべく一定に保ちながら、登坂を開始。この度のコースで一番の難所で、ただ無心にペダルを廻す。何も考えず―ただ両脚の筋肉の軋みを感じつつ、ペダルを廻す。暫くすると、耳元に心臓の鼓動が聞こえ始め、鼻腔には鼻汁が溜って己の呼吸の邪魔をする。ふと、前日に家内が言った「そんなことして何が楽しいのやら。バカ道」の言葉が脳裏に蘇った。

“こんなキツイ坂を上って何が楽しいか?と聞かれても、その答えを言葉にするのはちょっと難しいものな……。今はキツイけど、後から楽しくなってくるんだから。ただ、楽しいと思えるには、それなりの準備は必要なんだけどな…..。それをバカ道と呼びたければ、呼んでくれ。『バカ道』って響き、まんざら悪くもないか….、な、イチロウ?”

ロードバイクを数年前に初めて購入して、最初にイチロウに連れて来られた道が、ここだった。そもそも『バカ道』に導いたのはイチロウだった。

ふと、後方を走るイチロウを確認しようと振り返ると、数m遅れていた。“あれ、イチロウにしては、めずらしいこともあるものだね。暑さにやられたかね”などと思った。が、目の前には右に曲がるカーブの後に急勾配の坂が待っているので、声をかけるゆとりもなく取りあえずはペダルを廻し続ける。この伴―戸山線の山道で峠までの最後の200m300mが恐らく1213度程度の急勾配になっている。何も考えずただ左側に立っている電柱を数えてw、登って行った。

何とかその激坂を上り終えると、今度は戸山地区まで急勾配の下り坂。路面の凹凸に気を配りながら、一気に下っていった。戸山地区の三叉路まで降りてくると、イチロウが笑いながら「しんどいなあ、このまま下って行きたいw」と言っていたが、本心はそこにあらずw。三叉路を左折して、湯来・湯山街道に向かってなだらかな坂を再び登坂。なるべくインナーを使わずにケイデンスを一定に保つことを心がけながら登坂を続ける。ここでもイチロウがやや遅れ気味。“ホントに珍しいね。体調がどこか悪いのかしらん?”と思いつつ、その坂のピーク辺りでしばらく待ち、彼が追いつくと、なだらかな下り坂を下って行った。走行車両はほとんどなく、ブレーキを使わず、右に左にカーブをクリアしながら下って行くのは誠に気持ち良い。自然に笑みがこぼれる。

湯来・湯山街道に出会うと、そこを右折し湯来町を目指す。この街道と戸山線の三叉路から従来であれば、両側切り立った断崖の間を蛇行しながら走る箇所があったのだが、数か月前にその蛇行道左側の斜面にトンネル付きショートカット道が出来て、クルマには大変便利な道路になったが、自転車乗りには無味な坂道が出来てしまっていた。後ろを走るイチロウが「詰らねえ道をこさえたものだ」とぼやいている。確かにその通りで、そこそこの勾配の登り坂の上にトンネルの中を走らされるのは、離合するクルマにとっても自転車乗りにとっても危ない。イチロウの言うとおりである。

その坂道を上がる途中のコンビニで小休止を得て、ふたたび湯来・湯山街道を登坂。ピークに達したところの地区に、以前イチロウがネットで情報を得たジャズ喫茶があるとのことで、その国道から左側に暫し逸れて探索した。その界隈は左の山間からの斜面を造成し別荘地のようになっていたのは意外で大変興味深かったが、お目当てのジャズ喫茶はその看板さえも終ぞ見つからず、肩透かしを喰らったような気がしたものの、イチロウとの徘徊は目的よりもその過程が面白いので悪い気は全くしなかった。

ふたたび湯来湯山街道に戻り、後はイチロウが出発前に言っていた湯来町の三叉路まで、なだらかな下り坂を下って行った。ブレーキを使わず重力に任せて下って行くのは誠に気持ち良い。ふと最近のプロたちが下り坂でスピードを得るべく、前傾姿勢でサドルから腰を前方にずらしてトップチューブ上に跨る姿勢を試してみたい衝動にかられたが、“それは素人には危険で禁忌である”事を思い出し、自重した。それでも今回のコースの中でこの長い下り坂は圧巻で、これまでの上り坂での苦難が一気に報われる。

『バカ道』を目指す答えのひとつはこの下り坂の悦楽にあるのだと再確認する。

湯来町の三叉路にたどり着いた時に、イチロウに「これからどちらに向かうか」と確認すると、右折して加計街道(国道191)に向かうという。私の計画では、191号線に合流後、広島市街地を目指して帰るつもりでいたので、そのままO.Kと応じ共に加計街道を目指して走行した。この道は、南は廿日市市から極楽寺山を貫いて、一部区間湯来・湯山街道と俗称がついた国道433号の続きであって、北は一部国道191号と交じり加計を通り安芸高田市まで至っているようである。文章で説明するにはちょっと難しい。

ともかくも、その国道433号線を加計街道191号に向かってほとんど勾配に気が付かないほどの下り坂を走った。両側に高い稜線で視界が遮られた広い谷間を気持ちよく走行。緩やかな下り坂なので、ペダル全開に回しても脚への負担も軽い。気持ちよく流しながら、ふと空を見上げると、真っ蒼なキャンパスに飛行機雲が#の字を描いていた。

後ろを走るイチロウに「あの飛行機雲見ろよ。すげえ気持ちいいな」と声をかけると、「へえ、綺麗だな」と笑いながら応じてくれていた。『バカ道』を目指す理由のその2、このような朝の空気感を全身に感じられること、ゆっくりと周囲の景色を愛でる幸福感は、バイクや自動車では絶対に味わえないだろうと思う。

『バカ道』の極意とは、「己の肉体と会話すること、全身を包む空気と一体感になれ、周囲の自然に耳を傾けろ」ということか。




そんなことを思いながら、ひたすらペダルを廻して走っていると、なんだか家内へのエクスキューズを思いついたようで愉快であったが、こんなことを嫁子に説明したところで決して共感を得ることはないのだろうことも察しがついた。

後ろを走るイチロウが、何を感じながら走っていたかは分からないけど、彼には彼の感じるところがあったのだと思う。

加計街道にたどり着いたところで、イチロウにどうすると声をかけると、「俺はこっちに行く」と加計方面を指さす。私は「俺こっちに行く」と広島市街地方面を指し、じゃあと言って別れた。こういうのもあって良いかなと思った。夫々に目指す方向というのは違って当然だし、その方が軽やかで良い。




私は、その後、伴地区に出て再びアストラムライン沿いの道を田方方面に帰って行った。

帰宅後は、家内の要望に応じて山口県周防大島までドライブしたのだが、途中立ち寄った喫茶店でSNSをチェックしていると、イチロウよりダムの写真付きで「ここまで来たでえ」とのメッセージがあった。手元の時計を見ると、pm13;30だったか。レスポンスしてみると、「今加計まで帰ってきたよ」と。恐るべしイチロウ、当日の最高気温は35℃を超えていたはず、炎天下の中をまだ走っていたのか。タフネスおじさんである。

後日、職場に出勤したイチロウに確認してみると、彼の帰宅時間はpm 3;30頃で走行距離は128㎞であったらしい。「脚には応えなかったかったけど、暑さにやられたな」と何食わぬ顔で返事していた。その日は、当日乗っていたシクロスバイクで出勤していたので、昼休みに何気なくその自転車を持ち上げてみると、これが結構重い!私のロードバイクと比べても45㎏は重たかったような印象だった。

そうか….、あの日私がイチロウに比べて好調に思えたのは錯覚で、彼は重たい自転車に乗ってあの激坂を上っていたのか…….。しかも炎天下の中を私の倍以上走っていたとは。

そう思うと、『バカ道』求道者として、一歩も二歩も先を往くイチロウに感嘆交じりの爽快さを感じがしたのであった。

(終わり)

2018年8月15日水曜日

夏の朝に自転車に乗る~その1~

811日から同月13日まで短い夏休みを取った。テレビなどの報道で帰省客や旅行客で日本各所が混雑しているなどのニュースが流れていたが、それを横目に私はどこにも行かず自宅でのんびりと過ごした。

ただ何もしないのは勿体なく、早朝からロードバイクに乗ろうと密かに目論んでいたのであったが、幸いにも天候に恵まれて目論見通り事は進んだ。

11日は、職場の留守番明け、雑務を朝済ませ、“暑さ慣らし”として、am11;50am 12:30まで職場付近の峠道を往復。恐らく気温は35℃まで達していたはずで、僅か40分の走行なれど暑さにやられてしまった。やはり、猛暑日の昼間に自転車で走るのは危険すぎることを実感。翌日からの自転車走行は、早朝から午前10時頃までが限界であることを悟った。

 8月12日、am 5:00に起床。窓外を見ると既に外界は明るくなっている。家族を起こさないようにそろりと起きて、スポーツドリンク200ml+アイスコーヒー200mlを流し込み体を覚醒させる。ゆっくりとジャージに着替えて、バイクのタイヤの空気圧を整えて、家を出たのは、am5;50頃か。



宮島街道沿いの裏道を使って西下し、廿日市の速谷神社付近のコンビニ辿り着いたのは、am6:20頃。そのコンビニで、ミネラル水+ビタミン炭酸水350ml+バナナ一本+ウィダインゼリー一本を購入。後者3つを補給し、水はボトルに入れて、am6:30頃に極楽寺山の峠を目指して登坂開始。



なるべくペースをキープすることを意識し、ギアを軽くすることをギリギリまで抑えてペダルを廻したが、意外にも好調で坂道を上がることが出来た。このコースはここ最近猛者どもの知るところとなり、毎回数人に遭遇するが、この度は早朝のためか、一人下ってくるヒトとすれ違っただけであまり見かけず、変なプレッシャーも感じずにマイペースで登坂を続けることが出来た。

それでも、センターラインが無くなり道幅が狭くなるころから勾配は恐らく123度となる箇所があり、その辺りから先ほどまでの好調感は失せて両脚、心肺への負荷が一気にきつくなった。どうもこの頃慢性副鼻腔炎にでもなっているのか、鼻腔内に鼻汁が溜って、それが呼吸を妨げることになってしまうのも厄介だった。

何とか200300m続く急勾配を上り終えると、木立に囲まれたつづら折りの坂道となり、ゆっくりと呼吸を整えながら登坂を続ける。毎回このつづら折りのカーブの数を数えるのだが途中で数え忘れてしまう。この度は数え忘れないようにと心がけるのだが、このつづら折りを上っていると、木立の湿気を含んだひんやりとした空気、静寂の中に聞こえてくるカッコウ、セキレイなどの鳥のさえずり、蝉の音などに意識が向いてしまいがちとなる。そのおかげでいつも雑念から解放されて、その時の己の状態に自然と向き合う事ができるのだが、この感覚が本当に気持ち良い。森と己が一体となっていくようで下界の雑念もどこかに消えさる。

つづら折りのカーブの数を数え忘れそうになったが、この度はしっかりと記憶を保ち、全部で7か所あったことを確認した。




坂道は、登ってきた国道433号と極楽寺山キャンプ場へ続く道の三叉路に差し掛かる。視界が左右の稜線がV字に切り開かれた先に宮島の弥山が遠望できる箇所に到着。ここから見る景色は何度見ても気持ちが良い。



廿日市市観光協会のホームページによると、極楽寺山は天平3年(731年)に行基が開山し聖武天皇が建立した真言宗の古刹寺があるのだそうな。下界からこの坂道を黙々と上がってくると精神が浄化されていく感覚があり、確かに古来人が霊験あらたかな山だと考えたのもよくわかるような気がする。

ただ現在の私は、弥山を遠望しながらも、早くも疲労困憊しへこたれている己と向き合っていた。このまま引返して下って行くか、当初予定していた極楽寺周回コースを進んで帰還するか。

ひさしぶりに極楽寺山に上って来て、随分疲れていた。国道を離れて極楽寺山キャンプ場へ続く山道を通って山の反対側に下って、再び国道433号に合流し、そこから再び国道433号線を廿日市方面への登坂道を上がり、今休息している三叉路まで戻って、そのまま廿日市市街まで下るコースをたどる自信が持てないでいた。

“どーしようか?”しばらく弥山を眺めながら思案していたのだったが、時間を確認するとまだam7:00を廻ったところ、何も急ぐことはないではないの、山を楽しめば良いのだし、途中でへこたれたら、休んで山の景色、葛原地区の山里風景を楽しめば良いではないか、そんな声が脳裏に浮かんできたのだった。


“行基様、そうさせていただきまする。ゆっくりと参りまする。”


心を整えると、あらたなモチベーションが湧いて来て、極楽寺山キャンプ場に向かう峠まで一漕ぎ、それからは山間の集落を縫う径を下って行った。集落を抜けると小川が流れる木立を抜ける。木立にはまだあまり日が届かず冷たい空気が全身を冷却してくれて誠に気持ち良かった。

その木立に囲まれた小路が終わると先ほど別れた国道433号に再び合流。そこを左折し、国道を登坂開始。道路標識によると平均勾配8度の緩やかなカーブの後に直線が続く坂道をただひたすらにペダルを廻す。そろそろ両大腿の筋肉に軽い痛みを覚える頃に、道幅が狭くなって左右の斜面に水田が広がる葛原地区に入る。水田には稲が朝日を浴びて青々と茂り目に優しい。集落を走っていると、地元のヒトが畦道の雑草を刈る準備をされており、挨拶をするとごく自然に「おはようございます」と返事をしてくれた。良いですね、夏の山里の佇まい。


しばらく集落を走るとふたたび針葉樹の木立に差し掛かり勾配がきつくなったのであるが、ここまでくればゴールに設定した国道433号の峠まで残りわずか。最後まで気を抜かずにペダルを廻し、am7:44にゴールに到着。一息入れる。

その峠からも眼下に廿日市市街地、その先に宮島弥山が遠望出来た。毎回このコースを走っていると、山の自然との一体感を得ながら己の雑念からの解放を得ているような、そんな気分を楽しめるのだ。この日も無事に“朝のお勤め”を終えたような充足感を得ることが出来た。

後は、国道433号の廿日市市街に向かって下って行くのみ。ペダルを廻さず、適宜ブレーキを入れて重力に任せて下って行くのみ。空気を切り裂いて下って行くのは、自転車に乗る最大のご褒美か。上がってきたつづら折りカーブを対向するクルマに気を付けながら下りていくと、猛者どもが其々に上がってきた。単独の者、ペアで上がってくるもの、皆何かを求めて入山しておるの、お疲れさまでござる。軽く会釈してすれ違うのだが、私はなんだか先達者としてどや顔になっていたかも知れぬw。




やがて道幅は広くなり、山すそまで降りていくと、陽射しがきつくなり蒸し暑い空気と街の雑音が私の全身を包んだ。人間界への帰還、そして私の日常に戻って行ったのであった。

(つづく)

2018年8月7日火曜日

2018年無知の旅

7月のある夕餉時に、向かい合って座っている愚息(19歳浪人生)が、唐突に「オヤジは現代音楽の中で誰が好きか?」と尋ねた。突然の質問だったので多少面喰いながらも「やっぱ武満徹が良いな」と応じると、「リゲティを知っているか?」と問う。

リゲティ?そんなヒト知らんなと言うと、愚息曰く「あのヒトの管弦5重奏良いよなあ」と。しばらく会話が別の方向に変わり、愚息と家内がやりとしている間に、テーブルの下でスマホを使ってリゲティを検索すると、スタンリー・キューブリック作品「2001年宇宙の旅」で彼の作品が挿入曲として使われていた事を知った。

“ああ、あれか!確かモノリスと人類が接触するシーンで不気味とも荘厳とも形容されそうなコーラスが挿入されていたな”

「リゲティって、2001年宇宙の旅の挿入曲に使われていたヒトか、わかった。」と愚息と家内の会話に無理矢理入っていくと、愚息「そう。じゃあアトモスフェールくらいは知ってたか?」などとやや上から目線で応えた。

愚息の上から目線っていうのが、少々悔しくて。とは言っても、この頃ではクラシック・現代音楽分野における知識量では、音楽オタク化した愚息には全くかなわなくなっているのでそんなに深刻な問題なのではないのだけれど、それでも映画/小説「2001年宇宙の旅」が好きであると思っている中年オヤジにとっては、迂闊にも挿入曲の作曲者を知らないでいたことに直面化させられ軽いショックと気恥ずかしさを感ぜざるを得なかった。

翌日、通販サイトでリゲティ作品を検索し彼の作品を俯瞰するべく何枚かの企画ものアルバムをポチって、そのCDが昨日手元に届いた。


それらのCDを仕事の終わりにi-tuneに取り込んでいると、横のイチロウが覗き込み「ああ、リゲティか、2001年宇宙の旅の」なぞとさりげなく言った。「あんたも知ってたのか?」と問うと、彼曰く「まあね、チェロ・コンチェルトとか聴いてたからね」と穏やかな声色で返した。



“なぬ~、みんな知ってたのか?知らなかったのはオイラだけか…….

この場合の“みんな”とは、私が普段の日常会話で音楽話が出来る、愚息とイチロウ、そしてコウイチという狭いサークルを指すのだけれど、コウイチは映画にも通じているからわざわざ確かめなくてもどうせ知っているに違いない。それにしても己の無知ぶりに軽いショックを受けた。

まったく……、これじゃあ“2018年無知の旅”じゃないのよ.....。という事で、奴らに追いつくべく、リゲティを昨晩から聴き始めたところである。





追記;所謂現代音楽あるいはそれに影響を受けた音楽というものは、実は50代のオトナにとっては、その子どもの頃60年代から70年代、例えそれを現代音楽だと知らなくても、その頃の映画やテレビドラマを通じてよく耳にしていたのではないかと思う。リゲティを聴き始めても、音の塊や不協和音、楽器の異色とも思える取り合わせを違和感を全く感じずにすーっとその世界に入っていくことが出来る。聴いていてとても楽しい。

つい愚息に、「こういう音楽って、オヤジの子どもの頃に何気に耳にしていたな。ほら音の塊がぐあーんと流れてくるやつとか」と言ったところ、奴は涼しい顔をして「ああ微分音のことね。微分音というのはね……」とスラスラと説明するではないか。

また、一本取られてしまったw。

2018年7月30日月曜日

ソース好き世代


コウイチとSNSでやり取りをしているなかで、私たちの父親が生前食事の折に、おかずになんでもソースをかけて食べていたことが話題になったことがあった。

私の父親(多分彼の父上君も)は、昭和一桁世代に属していたが、食事において、トンカツはもちろん、魚介のフライ、ビフテキ(この呼称が昭和しているw)、カレーライス、餃子そして天ぷらにまで、ウスターソースをたっぷりかけて食していたものだった。おそらくコウイチの父君もこれに似たような感じだったのではないかと思われる。



コウイチとふたりして、「昭和世代の味音痴」と笑い合ったものだ(SNS上のことだけど)。私たちの父親世代は戦中戦後と育ち盛りに食糧難を経験し、食べるものや調味料には事欠いた経験を持っていたはず。昭和の終わり頃、昭和一桁世代のヒトが成人病などを基礎に血管障害で相次いで倒れるニュースが話題になったのだが、それは彼らが成長期に栄養障害をきたしていたのもひとつの要因なのではないかと指摘されていたものだった。



戦後の食糧難が解消して食卓の食材も豊富になり、その中で洋食ブームなどがありそれと共にウスターソースの需要が増した。その頃に成長した昭和一桁のオトコどもがウスターソースと出会った味覚体験が忘れられずいつの間にか習慣化したのではないかと勝手に推論していた。



それにしてもねえ、なんでもかんでもソースかけて食べるなんざ、なんたる味覚音痴なんだろうか?折角の食材が台無しにならないか?餃子にソースはギリギリセーフにしても、天麩羅までソースはちょっとなあと私が思い始めたのは、思春期のころで、その頃から父親が相も変わらず何でもソースをかけて食べる横で、私は餃子は醤油に辛子、天麩羅は塩か醤油をつけて食べ始めるようになった。ただ残念ながら、私の味音痴はどうも父親からの遺伝のようで、その後なんでも醤油をかけて食べることが習慣化してしまい、自宅で作って食べるカレーの味が物足りないと、妻の目を盗んで醤油をひとたらししてしまうことがある。




さて、先日台風12号が東側からやって来て、西側の九州に抜けていく稀なコースをたどったが、各報道を通じて「これまでの経験が通じない台風だから、気を付けろ」というアナウンスがあった。折角の休みで自転車に乗ろうと計画していたのに、それも叶わず、自宅で大人しくすることになった。結局のところ、予期していたほどの暴風雨はやって来ず、被害も発生せずに事なきを得たのであったが、あまりにも退屈だったので、台風の中心が去ったのを見計らって本屋に出かけてみた。しばらく本棚をぶらぶらと物色していたところ、この本のタイトルがふと目に飛び込んできた。思わず中身を確かめず、購入してしまったのだけれど、表題の「天ぷらにソースをかけますか?」については第1章に掲載されて、一読して物凄く目から鱗状態となった。




結論から言うと、「天麩羅にソースをかけて食べる文化」は、日本列島を西と東にわけるフォッサマグナで別れていて、西日本がその中心であった。そうだったのか、これは昭和一桁世代(仮説ウスターソース好き世代)がやっていた食習慣ではなくて、地域的な要因だったのか……




「天ぷらにソース」の食習慣が、コウイチや私の親世代の味音痴のなせる業ではなかったのだと知ると、なんだか彼らの汚名を少しだけ晴らしてあげたようで、一人笑いが込み上げてきたのだった。

おわり

2018年7月24日火曜日

大雨後日照り






76日から翌7日にかけての大雨による西日本各所で起こった災害は本当に酷かった。私の職場がある地域でも土砂災害により被害を受けた方が知る限りでも数軒あったし、災害発生直後から約10日間つづいた断水、物流の低下は、私の職場の仕事への多大な影響があった。




災害直後から寸断された道路網の整備、水道の復旧作業により、17日に職場はほぼ大雨災害前の業務レベルに復帰し一息つくことが出来たのであるが、それでももっと甚大な災害を受けた地域や被害者の方々のことを思うともろ手を挙げて喜ぶ気持ちにはなれない。










ただ、私や私の職場の事を心配してくださった方々、SNSを通じて心配の連絡をくれた友人たちには本当に感謝の気持ちでいっぱいである。

また、災害直後には通勤困難なった同僚に代わって、無理なシフト態勢で出勤してくれていた同僚、断水直後から猛暑の中給水作業をしてくれた同僚、普段に比べて負担が多くなった作業を黙々とこなしてくれた同僚には本当に頭が下がる想いがした。多くのヒトに支えられて仕事や日常の生活を送れている事に改めて気が付いた。




季節は、大雨が過ぎ去った後、“しれっと”“あっけなく”梅雨明けし、その後は2週間以上にわたって晴天・酷暑が続いている。連日最高気温が35℃~37℃となり、天気予報ではこの暑さを“命にかかわる危険な高温”と形容しており、実際に連日のように熱中症にかかるヒトが多数出ているようである。




本来であれば、真夏の晴天の日に自転車に乗って大汗をかきたいと欲するところなのだけれど、「命にかかわる高温であるぞ」と言われてしまえば、そんな折にチャリを漕いでいるのはおバカな様であると言われそうな気もするし、そもそも身近に大災害を受けて傷ついたヒトや復興に尽力しているヒト達がいるのに、のこのことチャリを漕いでいるところを世間に晒すのも気が引けて、チャリに乗る気も失せてくる。ただ、密やかにyou tubeでツールド・フランスのダイジェストを眺めては、ローラー台に付けた自転車のペダルを廻しながら、時間の空いた夜を過ごしている状態である。



どうもこの夏は、気分的にも身体的にも調子が上がって来ないね。何もせずに、このひと夏を過ごそうか?




2018年7月23日月曜日

神戸の夜は優しい味がしたよ、の事

623日、24日にかけて、私が所属する職業団体の年次総会に出席するために、神戸に出かけた。23日午前6時過ぎに自宅を出て神戸ポートランドにある会場にたどり着いたのは840分頃だったか。それから午後3時過ぎまで、色々なセッションを聴講し、午後4時過ぎに三宮駅近くのビジネスホテルに投宿した。




事前の天気予報では、曇り時々雨とのことであったが、幸いにも雨は降らず蒸し暑い夕方であった。部屋に入るとクーラーをかけて身に纏っていた服を一度脱いで汗ばんだ体を冷やした。



同夜は、高校時代の同級で現在神戸在住のヒサシ、そして大阪在住のコウイチと会食することになっていた。同日の2週間前にコウイチに連絡を取り「会わないか?」と誘ったところ、コウイチの返事では彼は彼の所属団体の総会が梅田である予定であり、ちょっと難しいとのことであった。それはそれで仕方なく「では、次の機会に会おう」と話を終わらせたのであったが、その後彼から「適当にやりくりして神戸まで来る」と言ってくれて、「神戸の事なら、ヒサシに連絡を取ってみる。彼なら良い店を知っているだろうから、彼に予約して貰おう」と提案してくれた。その後、コウイチからヒサシに連絡がつながり、ヒサシも快諾してくれたようだった。



ホテルの部屋でパンツとシャツ姿になって涼を取りながら、彼らとの待ち合わせ時間の午後630分まで"さて何をしたものか"と思案していた処、ふとサイドテーブルの上に設置されている鏡で己を見ていたら、頭髪が伸びに伸びて小汚くなっていることに気が付いた。“そうだ、せっかくオシャレな神戸に来たのだから、せめて髪ぐらいさっぱりと小綺麗にしておこうか”と思い立った。三ノ宮駅周辺であれば、カットだけで客を回転させている最近どこでも見かけるようになった理髪店があるだろうと予測し、善は急げとばかりふたたび服を着てホテルを出たのは午後5時前後だった。

ホテルから三宮駅界隈に戻り、駅ビル横の大型ショッピングセンター地下に私が目当てにしていた“高回転型”理髪店を見つけたのが午後510分頃、しばらく待つにしても午後6時過ぎにはカットを終えることが出来るだろうと踏んで店内に入ると、私の前に10人ほど順番待ち客が居た。理髪師は総勢6人居て夫々に順番の来た客を捌いていたのであるが、中にはパーマや染髪をオーダーするオッチャン達もいて、私がイメージしていたほど高回転ではなかった。ジリジリとした気持ちで順番を待っていたのであるが、時間は無情にも過ぎていき、やがては午後6時に差し掛かろうとしていた。どうも、約束の時間に間に合いそうにないので、ヒサシにmessengerで「2030分くらい遅れるかもしれぬ」と連絡を入れると、しばらくして彼から「了解。ただ小さい店だから、あんまり開始が遅れると店に迷惑をかけるかもしれないから、なるべく早く来てね」と応答があった。私はこの彼の応答になんだか感心してしまった。“ああ、ヒサシもしっかりとした大人になったんだなあ”。優しさがありながらも、店側に対しても私に対してもしっかりと気配りできるんだ。

結局私の順番が回ってきたのは、午後610分くらいで横と後ろの部分を揃えて貰って終わったのが、625分頃。担当してくれた理髪師のヒトがなんだか鋏は余り入れず、講釈ばかり述べてくれて作業は終了。“もう!”とも思ったが、この場合短く切り上げてくれた方が、ヒサシに迷惑がかからないのでむしろ好都合だった。

三宮駅から徒歩10分程度スマホのルートマップを使って中山手通のその店に着いたのが、640分頃だった。店の方に店内奥にあるカウンター席に案内されるとヒサシが居て「やあ久しぶり」と挨拶を交わす。ヒサシが「僕みたいな者と付き合ってくれて嬉しいわ、声かけてくれてマサキありがとう。」などという。“僕みたいなモノ”とはなんぞや、それはこっちのセリフでわざわざ忙しい時間を割いて付き合ってくれて大変有難かった。

早速ビールで乾杯し再会を祝す。コウイチは1時間程度遅れて到着すると聞いていたので、事前にヒサシが予約してくれていた料理を始めてもらうことにした。ヒサシとは高校時代の同級生であったが、所属した部活が違ったことや普段交わる友達が異なったこと、私自身が然程社交的でなかったこともあり、これまでゆっくりと話す機会がなかった。

彼が挨拶を交わす時に用いた“僕みたいなモノ”という表現には、どうもある種の彼自身に対しての、そして私に対しての“偏見”が介在していたようであるが、その偏見については述べない。誰しも若かりし頃は己や周囲に対して思い込みや偏った味方があるもので、それは私も彼もあったのだと思う。




コウイチが到着するまでの間、せっかくのチャンスと思いながら彼の"それからの人生の経過"を聴いた。高校時代の彼は明るくひょうきんな性格で今の言葉で云えば“いじられキャラ”、誰からも好かれていた。その後大学に進んで社会に出た後、彼なりの苦労とそして努力を重ねてきたようであった。その過程で随分孤独を感じた場面もあっただろうと想像できたのだが、青年の雰囲気を色濃く残しながらも随分と落ち着いた彼の風貌を眺めていると、私以上にしっかりとした歩みを重ねてきた様子が伝わって来て嬉しい気持ちになれた。

そのお店は、すっぽん料理を名物とする和食店で同夜は懐石コースが運ばれてきたが、つき出しの皿から、お造り、椀物、琵琶湖の鮎の焼き物などどれも品が良く優しい味がした。店主も調理・盛り付けなどの忙しい作業の傍らに、我々にも丁寧に応接してくれて、店全体に店主の人柄が出ているようなおだやかで品の良い空気があった。

ヒサシの話を聴き、運ばれてくる料理に舌鼓を打っていたら、優しい気持ちに浸ることが出来て神戸までやって来て良かったと思い始めていた。




午後7時前後に、コウイチが到着。想像していたよりも早い到着で、嬉しい誤算であったが彼の配慮は大変有難かった。彼は相変わらず引き締まった容貌をしていたが、柔らかい笑顔を浮かべて「総会で切り上げて来たのだが、会場で日頃世話になっているヒトに挨拶が出来たから、十分目的を達することが出来ぞ」と、彼の当初の予定を変えてしまった私に対する配慮の言葉をかけてくれた。

彼を交えて再度乾杯して料理を楽しみつつ、話題は自然と同窓会の事などに移ったのだが、コウイチなりの仲間に対する思いやりがわかり、それはそれなりにコウイチの人柄を再認識することが出来て楽しかった。日頃からコウイチとはSNSで混じっているため、改めて新しい話題が出てくるということもないのであるが、ただ直に会うのは2年ぶりとなり、その姿を見て時間を共有しただけで目的が達したような気持ちになり、やはり彼に会うことが出来て良かった。彼とは近しい友人なのでいつでもその気になれば会って駄弁ることが出来そうなのであるが、そんな間柄でも日常の諸事に時間を割かれてしまい実際に会ったのが2年ぶりなのだから、やはり意識して会う時間を作る必要があるのだと再認識した。




コウイチがやってくると、その場が盛り上がって気分が更に高揚し、ヒサシと語らって地元のお酒を注文。3銘柄を注文したが、どれも口当たりが良く大満足であった。“流石灘のお酒の出どころだわい”と思ったが、同夜に出されたお酒が兵庫県産であるものの果たして「灘の酒」と呼んでよいのかどうか分からなかった。



料理は、更に続いて終にすっぽん鍋が運ばれてきた。実は、すっぽんを食べるのはこれが初めてであり、この頃は味覚が保守的(老化)となり、普段食べ馴れないものに手を出すことをしないのだけれど、ヒサシが私たちのためにせっかく紹介してくれたのだからと想い、四の五の言わず楽しみにいただくことにしていた。実際にいただいてみると、だし汁は澄んで濃厚なうま味があるのに全く雑味なし、すっぽんの肉も柔らかい弾力があり、(恐れていた)臭みは全くなし。これも優しく上品な味わいで、大変感動してしまった。

この店は次回神戸に来る機会があったら、是非また訪れたいと思った。




書き遅れてしまったけれど、このお店は「料庵 有とみ」という処。料理も、店主を始めとする店員さんの応接も大変素晴らしく、優しく気持ちになれる良いお店でした。絶対再訪するぞと心に決めて、他の二人とその店を辞した。



2軒目は、ヒサシの馴染みのBarに連れていてもらう。店奥のテーブル席に通してもらって、3人でウイスキーなどを飲みながらしばらく雑談していると、神戸美人のママさんが着物を着て登場。コウイチも私もどう取り繕ったらよいものか分からずにいると、ママさんは挨拶程度で退席。しばらくするとヒサシも居なくなってどうやらカウンターで店のヒトと話を始めたようだった。この後、コウイチと雑談を続けたようであったが、前の店で飲んだ冷酒が効き始めていたようで、今振り返ると何を彼と話したのか全く覚えていない。先にも書いたけれど、コウイチの顔を見たら何やら満足してしまい、会話はどうでも良くなっていたのは事実であった。

あ、そうだった。コウイチとは同窓会を別にして一年に1度は顔を合わせたいものだと伝えると、彼曰く「広島―大阪間はやはり遠いな。ちょうど中間の岡山くらいだったら、もう少し融通が効くな」とのことだった。物理的にも丁度中間地であることや、お互いに若い頃のひと時を過ごし思い出多き街であるから、それも丁度良いなと想えた。そういう企画に、翌日の自転車ツーリングを付け加えればイチロウも喜んで乗って来そうな案だった。




午後11時過ぎに終電の時間が迫り、2軒目を辞し、三ノ宮駅まで3人で歩く。神戸の街は、田舎から来た者にとっては華やかな賑わいが印象的な街であったが、その夜は穏やかな雰囲気も感じられた。夜の帷が降りた盛り場の路地に少々湿ってはいたが、優しい風が吹いていた。前を行くふたりの背中を眺めながら、同夜のオトコどもとの邂逅も、酒も飯も、どれもが優しい味がしたなとふと思うのだった。

おわり

(追記)このたびは、ヒサシに随分ご馳走になった。次回彼らに会う時には、このお返しをせねば.....。