2017年4月26日水曜日

Reframing 2017②


これまでの己のチャリ道の航跡を振り返ってみるに、やはり脚力増強を図るには、ただ平坦路を走っているだけでは足りない、やはり山坂道でのトレーニングを取り入れないといけないのだと痛感。イチロウとの日頃の雑談の中でどうしたものかと投げかけてみた。



彼は、事もなげに「それならば、こんなコースがあるよ」とネットのルートマップを示しながら、あるコースを教えてくれた。



広島市西区己斐地区の山間部を抜けて、安佐南区沼田界隈に抜ける山道で、距離にして20㎞、想定走行時間2時間前後のコース。彼曰く、己斐側から上ると峠までダラダラとした上り道が続いて、ハードな勾配はないものの数十分は上り勾配が続くから良いトレーニングになるよ、と。



その話乗ったw。2時間であれば、休みの日に家の雑用に付き合う羽目になっても、昼間のどこかで確保可能な時間である。朝7時に出ても9時には帰還することだって可能だし。



422日日曜日、大きな家庭向きの予定もなく、しかも天気予報は晴れ、絶好の機会であった。ただ前日土曜日の昼休み時間に職場に持ち込んだ愛車のチェックーチェーンに潤滑油を差し、ギア動作の確認、タイヤの空気圧確認などをして、最後にペダルを廻してみると、どうも妙な雑音がする。速く回すとホールの軸付近からシュンシュンというノイズが発生する。イチロウに見て貰っても、彼も微妙な表情を作る。最終的に一度ウエキのおやっさんに見て貰った方が良さそうだんという事になった。うーん、せっかく楽しみにしていたトレーニングに出られるか微妙な雲行きになってきた。



422日、朝8時過ぎにクルマに愛車を積んで自宅を出てスポーツサイクル・ウエキに出向く。時間短縮のために、高速道路に進み西下する。日曜日午前9時前の春の日差しに輝く山陽高速は、それなりに交通量が多く、中にはオープンカーで気持ちよさそうにクルーズしているヒト、フェラーリ、ポルシェなどのスポーツカー族もちらほら見かけられた。




でもねえ、私の心はそんなスポーツカーや高級車を羨む気持ちには更々なく、この快晴の一日に果たしてチャリで出走できるか否かなのであった。イチロウではないが、もうクルマでドライブを楽しむ生活はどうでもいいでしょ、なぞと思うのだった。



予定通り、開店して間もないスポーツサイクル・ウエキに愛車を持ち込んで、店のおにいさんに愛車をチェックしてもらったところ、件のノイズの診断としては、全く問題なしとのことであった。チューブの空気を入れる金属部分の重量の影響で、構造上タイヤの重量がアンバランスのために生じるノイズで仕方がないのだと、これを解消するには元々そういう対策がなされているタイヤに変えるしかないーつまりはもっと上ランクのホイール・タイヤに交換するしかないとのことであった。そうだったかw、今までもノイズが出ている筈なのを全く気が付いてなかったのか。恥ずかしいが、エカッタw。




そんなやり取りをしていると、店の奥からおやっさんが登場して、「マサキさん、新しいフレーム来てますよ。ちょっとお見せしましょう」とうれしい提案をしてくれる。暫く待つと、まだ段ボール箱に収められたままのフレームを持って来てくれた。目の前で梱包を解き、フレームを取り出してもらう。おやっさん曰く「どうです?これ実際に見ると綺麗な仕上がりになってますねえ。驚きました。このフレーム随分評判いいですよ。」と。



見せて貰ったブラックのCinelli Super Starのカーボンフレームは、それはそれは美しいコーティングが施されていて、大変に感動。予算の都合上、フレーム以外のパーツは今の愛車のものを流用せざるを得ないため、同じメーカーのものを選んだのだけれど、想像以上に美しいフレームで大満足だった。ついうっかりと写メするのを忘れて、後刻イチロウに軽くブーイングされるw



その後、作業の取り掛かりなどの打合せをして、その店を辞した。



俄然やる気が出て来た。トレーニングをせねばw。



家に戻る道すがら、当日に家の者から課せられる雑用を想定。夕食の買い出しと庭の草取りを仰せつかりそうだから、各2時間ずつでそれらをこなしても夕食までに十分に時間がとれるw。




午前10時頃に自宅に戻ると、早速家内から上記の用件を言われたので、内心苦笑する。まずは近所のスーパーに買い出しに出向き自宅に戻ったのが、午後0時前。その後、そそくさと庭に廻り、午後130分までに仰せつかった箇所の雑草取りを行い、目出度く無罪放免w。やや伸びたうどんを急いで肚に入れて、午後2時には出撃。



自宅の背後にある高台の団地を通って己斐峠に向かう県道に向かう。団地に上がるなだらかな勾配を自転車で上がるのは初めてであったが、両脚のウォームアップには丁度良かった。両脚のコンディションはまずまずのようであった。



己斐峠に向かう県道に入り、行き交うクルマに注意しながらゆっくりと「沼田分れ」の標識があるY字路まで進むと、右側の市道に入る。しばらくするとやや勾配がきつくなり進路がつづら折りとなっていくのであるが、なるべくペースが落ちないようにカーブに差し掛かるところでダンシングしてペースをキープ、カーブが終わるとダンシングを止めてなるべく一定のケイデンスを保つようにペダルを廻した。



延々となだらかな上り勾配が続くのであったが、取りあえずイチロウが言っていた某病院を目標にひたすらとペダルを漕いだ。いつもなら先に精神的にへこたれてくるのであるが、ローラー台でチャリを漕ぐときのイメージ:ペダルが回さないとすぐにローラーが留まってしまうので、ひたすら漕ぐしかないを浮かべていた。ローラー台の事を想うとこの上り勾配は楽だわー。ローラー台では1時間漕いでいたのだから、数十分ペダルを回すことには多少馴れてきていた。



行き交うクルマも少なく、あまり交通状況に気を遣う必要もなく、それも精神的に楽であり上り勾配のカーブではなるべく傾斜の少ない進路を選べるゆとりもあった。天気は、快晴で日差しはきつかったが、風は冷たく乾燥していて、出る汗も忽ち乾くようで身体的にも楽であった。



しまったな、沼田分れのY字路からタイムを計っておけばよかったのだが、しばらく(多分私の脚で40分程度かかったか)坂道を上るとイチロウが言っていた某病院に差し掛かったのであったが、そこに或るY字路を左に折れて行くところを間違って右側に進んでしまい別の林道に入り込んでしまった。暫く上ると路面の悪い下り坂に差し掛かり、右手に市街地を観ながら下って往く、一山越えるはずなのにどうも広島市街地が見えているようだ。暫く進むと地図の掲示板があって、場所を確認。完全に先ほどのY字路で道を間違えたことを確認し、再び下ってきた道を引き返し上っていった。大きなロスをしてしまったが、何故か楽しい。雑木林の中を上っていったのであるが、ちょっとした森林浴を味わえ気分が良かった。



再び某病院前のY字路に戻り、左にカーブした上り道を上る。そしてその病院を右に見ながら右に上るとしばらくはストレートの坂、このストレートが終わったら右に折れてくれたら峠のピークなのではないかという淡い期待を抱いたが、残念ながら左に曲がり更に上り勾配は続いている様子だった。流石にそのころから疲労を感じ始めた、もうそろそろ一息入れて水でも補給したい、でも最後まで上り切りたい、その葛藤が生じていたころ、山下に広島市街地とその先に広島湾が一望できる箇所に差し掛かった。もうここで休もう、一枚写メしとこうと決め、自転車を降りた。ガードレールに自転車を持たれかかせて一枚写メを取ろうとしたところに、独りのサイクリストが力強くやって来て通り過ぎた。




“やばかった、もう少し遅ければ、ちぎられているところだったw!”そうか、ここは猛者どものトレーニングコースになっている様子。今度から気を付けよーヘタレているところを見せられないわあ。



気持ちの良い景色を眺めて水を入れて、再スタートした。するとなんてことでしょう。それから2030m上がると峠のピークで、先ほどのサイクリストが一休みしていたw。



そのヒトに軽く会釈して後は左手に沼田界隈を眺めながら、ひたすら下って行った。一部路面が悪く、砂が散らばっているところ、湧水が流れているところなどあり、気を遣いながら慎重に下って行った。やがて、市立大学付近に差し掛かり綺麗な舗装道路に合流、ペダルをほぼ漕ぐことなく市立大学を通過し、広島高速4号線料金所付近に出て来た。その交差点を右折し更にしばらく下るー前方にツインタワーが見える。




まるで挑戦に成功した者を迎える凱旋門のようにも見え、独り気分が盛り上がるw。チャレンジに成功して良かった。



その後は、西広バイパスに繋がる県道を辿り、自宅に帰還。



手元のrunstatic dataによると、走行距離 23.4㎞、時間01:38:45、獲得標高742m となっていた。途中休息も入れると2時間程度かかっており、当初イチロウが予測通りの2時間コースであった。




丁度良いコースで、これだと家の者からのクレームもないだろう。今後もトレーニングコースとして使えそうだ。



ふと、あの“凱旋門”を眺めながらちょっとした高揚感の中で思いついたのだけれど、チャリ道も人生と同じで、峠をいくつも越えてみて初めてわかる境地ってものがあるんだなあ。



子育てがそろそろひと段落して、これからの余った時間に何をして過ごそうかとぼんやりと考えていたのだけれど、チャリを使って己と向き合うのも良いかもしれないなと、早い晩飯を食べながら思った。

そう丁度人生をreframeする時期なんだと。




おわり

2017年4月25日火曜日

Reframing 2017①  

3月の「びわイチ」を乗り終えて、何となくだけど、少しチャリ道のステップアップを図っても良いのではないかと思うようになった。平坦路であれば、140㎞程度はそこそこ走り切れるようになったと実感できたのであるが、問題は山坂道。2016石見グランドフォンドの惨敗感が蘇って来て、いつかは雪辱を果たさずにはチャリ道を卒業できないと思うようになった。




そのまま日常生活に戻っては、上記の決意もいつの間にか有耶無耶になりそうで、イチロウと雑談している折に「そろそろチャリをカーボンフレームのものに変えようかしら」と投げかけてみると、イチロウ「それも良いじゃないの」という。問題は予算であって、おいそれと出費できる金額ではない。じゃあ、今乗っているものと同じメーカーCinelliのフレームにして、その他のパーツは今使っているものを移植してもらう事は出来ないだろうか?と問うと、イチロウ「出来んじゃねえの。ウエキのおやっさんに相談してみたらどうだ?」と返す。




49日日曜日、幸いにして天候は晴れたので朝の時間を使って、自宅から愛車に乗って宮島街道を下り「スポーツサイクル・ウエキ」に赴く。びわイチの感想をウエキのおやっさんに報告し、早速本題に入る。事の次第をおやっさに伝えると、おやっさん満面の笑顔で「マサキさん、それ出来ますとも。ちょっと、ネットで国内にあるか調べてみましょうね」と。

しばらくして、「ああ、危なかった。最後の一台分が残っていましたよ。予約のクリックしたら、完売のサインが出ました」と。



あれよあれよと話はまとまり、GW開けから新しいCinelli Super Starのフレームを使って組み立ててもらう事になった。余りの話の進み具合に、一抹の罪悪感を覚えたが、完成車を購入するよりも10万円程度出費を抑えられるので、良い買い物をしたと思うことにした。



おやっさん「マサキさん、良かったですねえ。国内最後の一本だったし、ちょっと迷って雑談している間に、なくなっちゃうこともあるんですから……



そ、そうね。そう思う事にしよう。思い立ったが吉日、運が良かったのだと。しばらく、節約のために外呑みはせずに過ごそうか….



笑顔でおやっさんと別れて、来た道を再び戻り、往復55㎞の平坦道の約3時間サイクリングを終える。



それからしばらくは気分的には楽しい時間を過ごしていたが、ふとマシンはカーボンフレームになり約2kgの減量することになるのに、己自身が変わらないでいるのは勿体ない、この度の投資に見合うだけのことは己に課さないとお天道様は許しちゃくれないだろうと思い始めた。己自身もゆっくりと3㎏程度の減量し、ある程度の脚力の向上を図らなければ。



そうこの度/ これから1年間のコンセプトは”reframing”なんだよ、と己に言いきかせる。



1.早速、翌日よりウィークデイの晩酌は止める(寝酒することはあるけどw)、腹八分目を意識した食事を心がける、間食は厳禁。



2.トレーニング方法としては、1)イチロウが職場に持ち込んでいるローダーを本人の許可を得て、11時間程度/ 2回乗る。2)週1回は、4050分程度夕方峠道をチャリで走る。3)月2回程度、休みの日に23時間程度自宅付近の峠道をチャリで走る。



上記1.2.を始めて2週間程度なのだけれど、1.に伴うダイエット効果は今のところなしw。晩酌止めは辛うじて止められているが、腹八分目が出来ない―晩酌を止めて却ってお米摂取が増えているw。継続的努力が必要と痛感している。



21)が想像以上に苛酷。部屋の中で汗カキカキローダーを廻してみたところで全然つまらないw。「真夜中のロンサム・ローダー・ボーイ」と名付けてみたものの、夜に独りで汗びっしょりになったところで、爽快感全くなし……。ところが、これは脚力増強効果絶大で、路面で走ってみると、踏み込む力がてきめんついていることを実感。そうだったか、世の中のサイクリスト野郎たちは、こうやって鍛えていたのか……。なかなか自転車を出走する暇なしオヤジにとっては効率的で効果絶大!暫くロンサム・ローダー・ボーイ作戦は継続せねば。




2.2)今のところ、仕事を早く終えた夕方に2度ほど山坂道を走ってみた。コースa.はかなりの急勾配の坂道を往復10㎞、40分程度。コースbは、なだらかなアップダウンと平坦道があり20㎞、1時間程度のコース。ローダー効果ありw。



2.3)は、先日始めたばかりである。これは別項にて述べることにする。



とにかくやるべし、ヘタレキャラはこの際返上したい。コンセプトはreframing 2017 (笑い)



つづく






2017年4月1日土曜日

愛猫家


この頃、先生のご様子がどうもおかしい。あまり外出をされる様子もなく、ご自宅に引きこもっているらしい。伝え聞くところによると、毎日物思いに耽られているご様子で、むにゃむやと何やら独りごとを言っては涙を流されている。



3月の下旬からお風邪を召して体調が優れぬご様子で気分を優れずにいたらしいのだが、そんな按配のところに327日の昼過ぎから先生の愛猫がどこかへ出かけたまま、帰って来ず、大そう心配されて更に気を落とされているとの事だった。



先生のところにその猫がやって来たのは、2年前のことで、先生のご自宅近辺を徘徊していた野良猫がやがて子どもを生んで、そのうちの一匹が親猫の後にくっついてやって来、先生のご自宅の庭で遊ぶようになった。当初は、先生や奥様がその子猫を追い払おうとしてたのを、その子猫が遊び相手に構ってくれていると勘違いし居ごこちが良くなってそのまま何となく居ついてしまったという。



それまでの先生の言動からは、あまり猫を好んでいる様子ではなかったのであるが、ある時その子猫の体調が悪い様子なので、奥様が残飯をエサに与え、そのうちにその猫の好むアジや握りずしの厚焼き玉子などを与えるとしきりに食べた。そうやって世話をしていると徐々に愛情が深まったらしく、寝床を物置に設えるようになり、やがてはお宅の浴室の浴槽蓋の上が子猫の寝床に定まった。ご夫婦でその子猫を「ノラ」と名付け、普段の世話は主に奥様がなさっていた。奥様のノラに対する愛情は大変強かったようで、ノラが近所の猫との喧嘩に負けそうになると箒を持って加勢したり、外出から帰ってくるとノラを抱き上げては話しかけるという具合。先生が直接的にノラを構う事はなかったようなのだが、日記にノラの様子を丹念に書き綴っておいでだから、恐らくは奥様から聴くノラの様子をご本人は仏頂面を保ちつつも内心では大変楽しんでいたのではないかと思われる。



ノラが先生の処に来て2年目の春を迎え、どうも盛りが付いたらしく、夜になると外に出せと言わんばかりに、勝手口の戸をにゃーにゃ―言いながらひっかく様になった。奥様が戸を開けてやり、ノラを外に放つのであるが、明け方になるとどこからかともなく必ず帰っていた。そんな毎日がしばらく続いていたのだが、上に記したように327日の昼過ぎに出たままついに帰って来ぬようになった。



先生のお嘆きは深く、毎日泣き暮らし、夜中になって物音があると、「ノラが帰ってきたのではないか?」と気になり、床から出ては玄関や勝手口まで確かめるため、ついには夜眠れなくなってしまわれた。近所の者にノラの消息を尋ねることを繰り返し、或る日人伝えに「ノラが猫さらいにもっていかれたのではないか」という噂が立っていることを聞くと、更に嘆くやら憤慨するやら内心は更に掻き乱れることになってしまった。ご本人自身が何度も「これでは参ってしまう」と困り果てていらっしゃるのだが、出て行った猫に対する追慕の念は如何ともしがたい状態になっているらしい。そんな先生の消息を間接的に知り得た私でさえも、「先生が気うつになってしまわれたのではないか?精神を病んでしまわれたのではないか」と毎晩心配する有様であった。



猫に興味のない者からすれば、最近の先生のご様子は全く可笑しな話で見ようによっては滑稽でさえある。しかし、愛猫家の猫に対する愛情はかくのごとく深いものなのだと思われる。



私自身は、生来猫はおろか愛玩動物にあまり興味がなく、子どもの頃からこれまでに猫や犬などを家に飼ったこともないくらいで、本来であれば先生の気うつになるほどのお嘆きを知ったところで、全く気に留めない筈なのであるが、このたびの先生のお話を毎晩聴かされていると、次第になんとなくそのお心が分かるような気がしてきた。



30年前の話になるが、大学生活の最後の初秋の頃に、私や親しい友人が住んでいた貧乏アパートに、まだ幼い野良猫が居つくようになった。どういった経緯でその猫が我々のアパートに迷い込んだのかは失念したが、兎も角もそのアパートに住んでいた友人の一人で愛猫家であるIが、その猫を本格的に世話するようになった。



Iは世話することを決めると、ペットショップから、エサ、猫用トイレを買ってきて、暇があると紙箱や木切れから遊び道具を作ってやり、一緒に遊ぶのだった。彼は、猫との付き合い方・間合いについて十分心得ていて、必要以上にエサを与えず、また適度に外に放して猫が遊んでくるようにもしていた。程よく遊び、程よく放すといった具合で、猫の方もIの付き合い方に気を良くしたのかすっかり彼になついたようだった。



私はそんなIと猫の様子をそばで眺めていたのであるが、何時しかその猫が、Iの部屋の階下にある私の部屋を訪れるようになった。私は、Iの言いつけ通りに、エサは与えず、その猫がするままにしておいたのであるが、その猫が人懐こい性格のようで、私の部屋に来てしばらくすると私の脚元にやってきて「構ってくれろ」と言わんばかりに体をこすりつけてきた。私は、ついつい相手をして猫が興味を引くようなことをしようとするのだが、Iほど上手でないために、直ぐに猫の方が飽きてしまう。こちらがムキになって更に猫が面白がりそうな刺激を与えようとするのだが、先方は思ったほどには興味を示さない。そんな事を繰り返していると、結果的に私が猫の機嫌を取り猫の方がその良し悪しを評価するようで、私に対するその猫の態度がいつの間にか横柄となった。その関係性は、Iをご主人様とするならば、私を同輩もしくは下の者と見做したかのようであった。



それでも私にはその猫の気ままな態度がそれなりに面白く感じられ悪い気はしなかった。



その猫がすっかりそのアパートに定住してしまうようになると、私たちはその猫のことを「ゴン」と呼ぶようになっていた。ゴンはその名にふさわしく、やや間の抜けた愛嬌のある奴だった。外に遊びに行くとたまに、イモリやスズメの死骸を持ち帰り、その獲物を何故かIの部屋の玄関前ではなく、私の部屋の玄関先において、私を閉口させた。別の日には、私とIがアパート横に広がる休耕田を眺めていると、土の窪みに身を伏せて数メートル先に降りてきたカラスをねらうのであるが、敢無く捕獲に失敗し悲しそうな表情でこちらを振り返って我々を笑わせたりした。同じ休耕田に年上の雌猫が通りかかると、ゴンはすました様子でその猫に近づこうとしたのだが、相手から無視されて、やはり悲しそうな顔をしてアパートに引き上げてきたこともあった。



ある一時期を私たちは、この愛嬌のある猫・ゴンに随分と心を癒されたものだが、やがて時間が過ぎて、その次の年の春に別れることになった。そのアパートの住人達は大学を卒業、私は成績が振るわずもう一年大学に留まることになってしまった。ゴンをどうするかという事になって、色々悩んだのだが、結局猫好きの後輩が面倒を見てくれることになり手放すことになった。最後の数日間を私がゴンと寝食を共にすることになったのだけれど、その時のゴンの様子については、こうやって話しているとおセンチな気分が強まり過ぎたので、ここでは言葉にしないことにする。ただ、後輩にゴンを渡した後私の中で残った何とも言えぬ寂しさと後悔、たまに野良猫を見かけるとゴンの残像が蘇る追慕の念は、ここ暫く続いている先生の嘆きと全く同じであった。



さて、最初に記した先生は、帝国大学を卒業後、都内の大学や専門学校でドイツ語の教鞭を取る傍ら、文筆業をなさっていた方で、そのお名前を「内田百閒」として世間に知られている方である。

先日、何気なく本屋で先生が記された短編ものを購入し、夜な夜なすこしずつ読んでいるのだが、「ノラやノラ」の件を読んでいると、先生の飼い猫が居なくなった嘆きと悲哀が連綿と綴られていた。それが327日以降は日記として記されているものだから、当初は飼い猫がいなくなったことへの悲嘆の強さや執着ぶりに辟易し、文字を追いかけるのを止めて読み飛ばそうとしてしまっていたのだが、ふと「ゴン」のことを思い出し、先生の気持ちに完全にシンクロしてしまった。しばらく先生のお嘆きを我がこととして受け止めて差し上げたくなった。



今しばらく、床の中で、先生が「ノラ」のことを繰り返し繰り返し想起し哀惜の念を吐露するのを聴きながら、私は私で「ゴン」の面影を懐かしく脳裏の中に追い求めるのも悪くないかと思った次第である。