8月に入り、私が住まう地方では連日35℃越えの猛暑が続いている。昼間に外に出ると気温に加えて高い湿度でムッとして呼吸にも軽い圧迫感を覚える。
体調には気を付けたいところではあるが、暑い夏は嫌いではない(今後どのような気象展開になるのか知らないので、“今のところ”という留保を付けておくが)。
先日、夏の夕暮れを眺めたいと思い、陽が落ちる前に退社した。広島湾を南から広島市内に向かって帰宅するのであるが、広島市街地を車窓から眺めると、薄曇りで水蒸気を多分に含んだガスが薄くかかり、そこに西日が射して紅色に染まっていた。毒々しいまでの紅色で、夏の夕暮れにしてもちょっと異様な雰囲気であった。イチロウの情報によれば、大気中のPM 2.5の量もこの頃上昇しているらしい。
ふと私は、子どもの頃に観た/生まれて初めて劇場で観た映画「ソイレント・グリーン」(主演;チャールトン・ヘストン、1973年公開)の一シーンを思い出していた。この映画は、未来の世界(2022年の設定!)著しい人口爆発と環境汚染によって極度な食糧難と著しい格差社会になっていた。自然食品が非常に高価なモノになっていて、富裕層しか得る事ができず、貧困層にはソイレントグリーン社が海のプランクトンから作ったという食物が配給されていた。このソイレントグリーン社をめぐる事件にチャールトン・ヘストン演じる刑事の主人公が巻き込まれいくのだけれど、その過程で主人公の親友が公認となっていた安楽死を選ぶのだが、主人公の刑事が事件を追う過程で、安楽死したヒトの死体がソイレントグリーン社に運ばれて、その死体を使ってこの会社が食料を生産していたということが発覚するというストーリーだった。劇場で観たのは、小学校2年くらいで、当時の私には十分に理解が出来ていなかったのだと思う。後年20代になって深夜に同映画がテレビで放映されていたのを観て、ストーリーをうる覚えながらも記憶することが出来た。
私が思い出した一シーンとは、主人公の親友が安楽死センターの一室で、巨大スクリーンで映し出された自分の好きなシーンを眺めながら死を迎えるところなのだが、彼が選んだのは地球の自然や夕暮れを映し出したもので、バックにはベートーベンの交響曲第6番「田園」が流れていた。
私がもし最期を迎える時に好きな風景を眺めることが出来るのだとしたら、“是非瀬戸内地方の夏の夕暮れを眺めながら最期を迎えたい”と、車窓の景色を眺めながら想ったのであった。クルマを路肩に停めて、眼前の夕暮れ風景を数枚写メをして、F.Bに投稿したのだけれど、ここまで書いた最後の下りは流石に辛気臭いと思われ、ついぞ書き込まなかった。
再び自宅に向かってクルマを走らせて、赤く染まった広島市街地を眺めながら、私にはその映画にまつわる別の記憶が蘇ってきた。
小学校2年頃に、兄に連れられてその映画を観に行って、その内容は理解出来なかったものの、大人の小難しい映画を最後まで眠ることなく見終えたことに子どもの私は大いなる満足感を覚えた。難しい大人の映画をちゃんと観ることが出来たのだと。後日、学校で同級生達と雑談をしている時に、おバカな私がつい自慢げに「この前お兄ちゃんと『ソイレントグリーン』を観に行ったんじゃあ」と言ったところ、その雑談の輪の中にいたある女の子(その当時好意を持っていた)が「私はねえ、お姉ちゃんと『エマニュエル婦人(1974年公開)』を観に行ったもんね」と返されて、軽い敗北感と多少のショックを感じて、二の句を継ぐことが出来なかった。私としては、その時どのクラスメイトよりも大人びていることを強調したかったのであるが、まさか同級生の女の子があの幼心に“うっふん、どぎまぎ状態になるw”「エマニュエル婦人」を観に行ってたとは!あの子はそれを観て何を感じたのか?それを本人に確かめる勇気もなくて、黙りこんでしまっていた。私よりも随分先を歩いているようで打ちのめされたのであった。
その後、その女の子は小学時代にもう一度同じクラスになったが、小学校卒業以来会っていない。私たちの成長過程には所謂バブル時代という浮かれた時代があって、その後“失われた20年”なる不景気時期なるものを経験し、何時の間にか我々世代は50代に入った。その間、その女の子はどんな年頃の娘さんになってやがては中年のおばちゃんになっていったのか?