その日、ヒロコは朝7時前に職員室に到着し、担任クラスのこどものための補習準備に取り掛かっていた。ヒロコは、女学校を卒業後、代用教員として実家の傍にある小さな小学校に勤め始めて2年目の夏を迎えていた。
2年目の春を迎えて、ヒロコは別のクラスの担当を校長に願い出ていたのであるが、結局のところその願いは受け入れられず、前年度のクラスをそのまま引き続いて受け持つことになった。教師も生徒ともお互いに馴れたこともあり、前年度ほどにはクラスの雰囲気は荒れることはなかったものの、1学期終了時には既に文部省の指導要領から大幅に遅れたため、ヒロコは、夏休み期間中のお盆までとの約束で、クラス生徒を集めて午前8時から午前10時までの2時間ばかり補習授業を行う事にした。
その日、午前7時30分頃に校長が登校し職員室に到着した。「おはよう。ヒロコ先生。大変だろうけど、まあ頑張りんさい。2学期からは、授業を遅らせないようにもうちょっと要領よくおやりなさいよ。今日も暑くなりそうじゃ。」
ヒロコが作業の手を止めて、職員室のガラス窓から外を眺めると、空は眩しいばかりの陽が射し雲一つない快晴で、小さな校庭の向うに広がる海はきらきらと輝いていた。何時の間にかあたりからは、クマゼミと時折ツクツクホウシの鳴き声がけたたましく鳴り響いていた。
午前7時45分に一度空襲警報が鳴りヒロコを緊張させたが、直ぐに止んだ。8時に予鈴を鳴らし教室に入ってみると、28人の子どもが元気よく思い思いに喋りヒロコを待っていた。
再び空襲警報のサイレンが鳴り始め、今度は何時になく激しく近隣の市町のサイレンが鳴っているのが分かった。
校長が血相を変えてクラスに駆け込んできて、「ヒロコ先生、授業止めじゃ。子どもたちを下校させなさい!」と叫ぶ。ヒロコも慌てて子どもたちに集団下校を告げた。大人二人の慌てぶりに子どもたちも激しく動揺し、それぞれに荷物を持たずにクラスを出て行こうとしていたが、その中でフトシが顔を歪ませてヒロコを省みながら「チクショウ、こんなことをしやがって!」と叫びながらクラスを出ていたのを、彼女は何時までも忘れることが出来ず、心の隅にちょっとしたわだかまりとして記憶していた。
子どもを帰した後、ヒロコは教室の戸締りと職員室の戸締り、構内に子どもが残っていないかを確認し、午前8時40分頃にやっとの想いで小学校裏にある防空壕に入ったのであったが、そこには既に校長が入っていた。「ヒロコ先生、何しとんじゃ。命を大切にせんといけんで。」とその校長は注意したのだが、ヒロコにしてみれば、“帰した子どもの安否を気にしないわけにはいかず、学校の後始末をせずに避難できないではないか”と声に出したいのを必死でこらえたのであった。ヒロコは、この時まだ19歳であった。19歳の娘子が、大先輩の教師に向かって反抗的な言葉を出すわけにはいかなかった。
その日が進むにつれて次第に判明したこと、海を隔てた広島に新型爆弾が落ちて甚大な被害が起こったこと。その中には、女学校に通っている妹が巻き込まれて、その安否が確認できないことであった。
その後、彼女は38年間小学校教師として勤め定年直前に退職した。今日まで2-3の持病を抱えながらも元気に余生を過ごし昨年米寿の祝いを家族にしてもらっている。その後のフトシの消息ついて私は詳しいことは知らない。ただ現在もヒロコと同じ地元に住み農業を営んでいるようだ。多分現在は78歳ぐらいの老人になっているだろう。
昨秋のある日、ヒロコはある用事があって、今は廃校になったその小学校の傍を歩いていると、ふとそのフトシに出くわしたのだという。彼女が何気なく、そして多少の緊張を覚えつつも「あの時はフトシ君、補習を開いて悪かったねえ。私の事恨んでいるじゃろう?」とフトシに尋ねたらしい。
その時、フトシ爺さんが応えるには、「あのことか、今でもよく覚えているで。あれは、ハジメがワシの机の下に画鋲をふたつ落としておってな。逃げる時にワシがそれを二つともふんでしもうたんじゃ。それで腹が立って、ああ言ったんよ。」との事だった。そこで二人の老人は顔を見合わせて大笑いをしたのだという。
その時、ヒロコはあの日から70年目にして初めて積年の心のわだかまりが氷解したのだった。
“マサキちゃん、そういうことだったんよ”と、私の目の前で目だけがクリクリと動く皺くちゃだらけ顔を綻ばせながらひとりのオババがそう語ったのだった。