なるべく同氏の演奏特色であるメロディアスなもの、ボサノバものを中心に聴いて行こうと思案していた。Gilberto’s関東組へそれとなく打診してみると、1) Song Book/ Sadao
Watanabe(1969) 2)Broadcast Tracks’ 69~’ 72 ,そしてボサノバもの2枚3) Sadao Watanabe、Bossa Nova ‘67/ Sadao Watanabe Sextet(1967), 4) The Girl From
Ipanema/ Sadao Watanabe(1967)を挙げてくれた。
尤、彼ら曰く、同氏のブラジルものとしては“Sadao Meets Brazilian Friends”が究極であり、これ以上のものはないとの強いお言葉をいただいたのだが、このアルバムは既に購入済みで大変気に入っていたので彼らの言葉に大いに安心した。
同氏のオリジナル曲を取り揃え、特に2)はテレビや映画のサウンドトラックで使われたものが収録されていた。ソフトサンバ調の曲あり、ちょっとヨーロッパ映画で使われそうなポップス曲、西海岸ポップス調の曲あり、どれも悪くないしカッコいいと思える。クルマで聞き流すには丁度良いし、氏の音楽的懐の深さというか幅広さが感じられるが、ただジャズはあまり感じられず。今聴くとちょっと60年から70年代の匂いが感じられて、この曲はあれっぽい、次の曲はあの音楽っぽいという連想/ 既視感があった。
“さてどうしたものか?”
某エージェント1.「今度こんな企画があるんだけれど、ナベちゃん、こんな感じの曲調
に出来ないかな?」
某エージェント2.「ナベサダさん、済みませんが、監督がこんな音楽を作ってほしいと
言ってます」
「よっしゃ、こういうアレンジでどうよ?」
某エージェント2.「流石、凄いなあこの曲。有難うございます。」
こんな会話が当時、同氏とそれぞれの音楽関係者・テレビ/映画製作会社の間で繰り返し数多く交わされたのではないかと勝手に想像してみる。
ご自身の演奏、アルバム制作で多忙を極めていたであろうに、サイドワークもエネルギッシュに引き受けられていたのではないかと勝手に想像はするのだが、あくまでも現在の聴き手側としては、その音業(造語です)の広さにとてもついていけそうにないと、途方に暮れてしまいそうな想いがした。米国留学を経てジャズ理論をその手に修め、そして日本ジャズ界では押しも押されぬ名望をこの頃には既に掴んでおられただろうに。そんなにサービスしなくても良かったのではないかと勝手に想像したり。
その数日遅れで、3)、4)のアルバムCDが手元に届く。ボサノバの定番・有名曲がラインナップに上がっている。ボクを含めボサノバファンにはおなじみの曲が並べられていて、うーん既視感が更に強まる……..。3)は、ストリングスアレンジが施されたボサノバもので、唸ってしまい、更に4)では、# 映画「男と女」のテーマが取り上げられ、更に唸ってしまい、後半はカルロス・リラの曲までも数曲取り上げられていて、別の意味で驚く。これはどうしたものか?
ただ、ご本人の演奏は勿論素晴らしいのだけれど、サイドを固めている日本のミュージシャンの演奏もかなり高レベルであり、聴いていて全く違和感がなく、その事にも驚いてしまう。日本のミュージシャンの吸収力の高さ、演奏技術の巧みさに感嘆してしまわざるを得ない。
・Nabesada 氏 バークリー音楽院留学のため渡米
○ The Composer of
Desafinado, plays/ Antonio Carlos Jobim(1963)
○ Getz/ Gilberto (1964)
○ Soft Samba/ Gary McFarland(1964)
○ The Sound of Ipanema/
Paul Winter, Carlos Lira (1964)
○ Brasil ’65/ Wanda de Sah,
Sergio Mendes Trio (1965)
・Gary McFarlandの全米ツアーに参加、西海岸のバーやホテルでセルメンと接触、相互の部屋を行き来。またホテルなどでは、ジョビンの曲をよく聴いていた、等(インタビュー記事より)
・1965年に帰国。スタジオワークやライブ活動の合間に、自宅を開放して後輩ジャズミュージシャンにジャズ理論を講義していた、という(インタビュー記事より)
○ Bossa Nova ‘67/ Sadao Watanabe Sextet(1967, Mar)
○ Jazz Samba/ Sadao Watanabe (1967,Apr, May)
○ Sinatra Jobim/ Francis
Albert Sinatra & Antonio Carlos Jobim(1967)
○ The Girl From Ipanema/ Sadao Watanabe(1967, Jun)
※ 渡辺貞夫氏のオフィシャルサイトのdiscographyには何故か掲載されていないタイトル。後年に編集されたものか?
○ Nabesada & Charlie/ Sadao Watanabe featuring
Charlie Mariano(1967, Jun)
○ Sadao Meets Brazilian Friends/ Sadao Watanabe & Brazilian 8 (1969)
Nabesada氏がレコード会社からの提案を受けて、単身ブラジル・サンパウロに乗り込んで、地元のミュージシャンを探し、演奏収録したもの。この時に地元のミュージシャン発掘に協力したのが、Ono Lisaさんの父君だったらしい(インタビュー記事より)
○ Song Book/ Sadao Watanabe(1969)
○ Broadcast Tracks’ 69~’ 72/ Sadao Watanabe
備考
○1959年「兼高かおるの世界飛び歩き」放送開始。1960年より「兼高かおる世界の旅」に改題(~1990年)
○1963年、日米間でのテレビ衛星中継開始。最初の映像は、ケネディー暗殺事件の模様だった。
○1964年、日本人の海外渡航制限が解除、自由化される。
○1966年、マサキ生まれるw。
○1969年、アポロ11号が月面着陸
○1970年、大阪万国博覧会
この年表メモを眺めてみて、思う事。
1)
Nabesada氏の渡米時期と、ボサノバが米国にもたらされた時期がほぼ同時であり、恐らく同氏はリアルタイムでこの新しい音楽の情報に触れていたのであろうこと。そして、「Getz/ Gilberto」の大成功を現地米国で目の当たりしていたこと。実際に、かなり早い時期からゲイリー・マクファーランドと共にそれらの演奏を開始し、ブラジル出身のセルジオ・メンデスとも直に交流して、その音楽の雰囲気にも触れていた。ということは、米国のスタン・ゲッツ、ポール・ウィンターの立場とそんなに変わりないじゃんか・・・・w。
2)
Nabesada氏が精力的にボサノバアルバムを制作していた1966~1967年は、丁度フランク・シナトラがついにというべきか、ジョビンと接触して、ボサノバテイストのアルバムを制作した頃で、米国でジャズ・ボサノバを聴かない一般のヒトにもボサノバというものが浸透していっただろう時期と重なっていて、その当時の日本の音楽シーンも、本格的にボサノバを演奏できるNabesada氏をほっておくわけにはいかない状況になっていたのかもしれないな。
3)
それから、Nabesada氏が米国と日本を行き来し、そしてやがては69年に単身ブラジル・サンパウロに乗り込む時代背景・雰囲気を、その頃のエピソードと見比べてみて考えてみると、更に同氏の行動力の凄さが伝わってくるようだ。兼高かおるさんって、ボクらの世代以上の方なら、ご記憶にあると思うのだけれど、このヒト単身或は少数のテレビクルーと共に世界中を飛び回り、毎週日曜日の朝に、芥川隆行さんを相手に軽妙な語り口で各国への旅行の様子を報告する番組を作っていらしゃった。パン・アメリカン航空のジャンボジェット機がオープニングかエンディングに映し出されて、その当時洟垂れガキだったボクでさえ大いに旅情をそそられて、「このよく喋るおばちゃんって、カッコいいな」とあこがれたものだった。69年当時、いくら日本人の渡航制限が解除されたからといって、ひょいと単身地球の裏側のブラジルに乗り込めちゃうヒトって、移民/永住の方を除いて、兼高かおるさんか、Nabesada氏くらいしかいなかったのではないだろうかw。
4)
ボクは、1966年に日本の片田舎に生まれて、物心つくのは多分1969年頃で、当時保育所に上がる際に、登園直後に家に返りたいと大いに泣き喚いたことが記憶にあるのと、万国博覧会に連れて行って貰えず、大いに悲しんでいたことを記憶している。通信手段は、黒色のダイヤル付き電話、通信速度の速いものでいえば電報くらい。ネット全盛の21世紀に比べると情報伝達スピードは各段に遅かった。
家の前の県道は舗装していない砂利道で、周りのご家庭のトイレは汲み取り式のものが多かったのと、冬になると暖房器具として練炭がまだまだ使われていた。日本の当時ってそんな感じのまだまだ埃っぽい時代だったんだ。1964年に「Getz/Gilberto」の米国での大ヒットから67年に「シナトラ/ ジョビン」制作までを同国でのボサノバ音楽の大衆化過程期として捉えるならば、今日のi-tuneもyou tubeのようなメディア媒体もないその当時の情報伝達速度を考えたら、Nabesada氏がアメリカナイズしたボサノバ/サンバジャズを直に米国で吸収し、日本で積極的に演奏・録音していた頃ってそんなに遅くないし、むしろほぼ同時進行だったのかもしれないと思える。それから、上にも書いたけれどNabesada氏の脇を固めた日本のミュージシャンの吸収力も凄かった。
5) 更に云うならば、アメリカナイズしたブラジル音楽のマスターや実演奏に満足するだけでなく、直に現地に乗り込んで、ブラジルの音楽を吸収しようとした同氏のその意欲、音楽に対する嗅覚の鋭さにはただただ脱帽せざるを得ない。「.... Meets Brazilian Friends」に収録された“Ritmo”/パーカッションのみの演奏に同氏の現地の音を掴んできてやろうという意気込み・情熱が現れているようで、何とも眩しさにも似た悦びを感じる。
「Nabesada & Charlie」のライナーノーツをあのジャズ評論家の本多俊夫さんが書いておられて、Nabesada氏が65年に帰国して暫く後の様子について言及されていた。同氏が日本に本格的なボサノバをもたらしたこと、当時の日本のジャズ界を牽引しその将来を嘱望されていたこと、日本ジャズ界の寵児として周囲から大切に思われていたこと、そしてその才能と共に大いなる努力家であることを評価されていた事、など。
(つづく)