私は、本来子ども嫌いであったのに、実際に家庭を持って自分のこどもが生まれてみるとやはり世間の親なみにわが子を愛おしく思えるようになった。
長男が生まれて親子三人でそれなりに楽しい日々を1年と数か月過ごした頃に、次子が生まれることになった。家族が増えることについては、幸せに感じていたが、家内が臨月に近づくに連れて少しずつ長男の表情が曇ることがあった。長男は、母親から喜べとばかりに弟か妹が出来ることを聴かされたらしいのであるが、どうも実感が湧かない部分とどうも二親の愛情の対象が自分以外にも出来るであろうことに対して彼なりにすこし複雑な感情を抱いたらしい。
次子・次男が生まれた日、家内の実家に預けられた長男が祖母に伴われて、家内と弟に面会した際に、家内が長男を抱き寄せようとした時に長男は後ずさりして祖母に抱き付いたのだという。
その話を後日聴いた私は、軽い喪失感を抱いている長男に対して父親としてどのような働きかけをするべきか考えていた。職場で懇意にしていた先輩に、雑談の中でそのような話をしたところ、その先輩曰く「それはねマサキ、父親と男の子が一緒に旅をする物語の絵本を読み聞かせてやるのが良いんだよ」とのことだった。
“なるほど”と思った。それから、仕事帰りや休日に時間が取れた時に本屋に立ち寄っては、幼児用の絵本コーナーで父親と男の子をテーマにした絵本を探した。絵本選びを続けている間に、私にとって絵本選びがちょっとした楽しみにはなったのであるが、他方で、父親と男の子をテーマにした絵本というのは圧倒的に少なくて/ 或はないと言って良いくらいで、このテーマの絵本を探すのに大変難渋した。
そんな状況の中で見つけたのが、「かぼちゃのひこうせん ぷっくらこ」という題の絵本だった。仲良しの大きいクマさんと小さいクマさんが、デカいかぼちゃに乗って旅をするお話で、この2匹の関係性は語られていないのだけれど、父親と男の子に見立てて長男によく読み聞かせたものだった。次男が物心ついた頃からは、2匹のクマさんの関係性は兄弟クマの話になってしまったのだが、実際に彼(ら)がこの話をどのくらい気に入ってたのかは分からない。この他にも、例えば五味太郎さん作の軽快なテンポの作品が親子共々気に入り、案外そちらを読み聞かせる頻度が多かったのかもしれない。ただ、就寝前に子どもたちに絵本の読み聞かせをするのが、私にとっても大切な日課になっていて、一方的な想いれではあるが、お休み前の親子のちょっとした“旅”のような時間だったように思えて、今思えば幸せな時間だったように思う。
※ この記事を書くにあたって、我が家の書棚にこの絵本を探してみたが、何故か見当たらない。子どもが小学校を卒業した際の整理に捨てられたようである。誠に残念!ていうか、私の想い入れほどには家人には大切なものではなかったのかw。
その後、子どもたちが幼児期、学童期を過ごしている間は家庭内の力学は母子中心に回ってしまうもので、父親の立場は母親補助の役回りだったのだが、彼らが中高生になれば、男同士でちょっとした旅(それはお出かけ程度のものにせよ)が出来るのではないかと密かに期待していたものだった。ところが現実は、長男・次男は中学に上がると、クラブ活動を中心の生活になってしまい、私は私で、仕事面で忙しくはなれども暇になることがここ数年なかったものだから、男同士の旅はおろか家族旅行にも出かけれらない状況となっていた。もっともこれはあくまでも父親の立場から述べたもので、思春期を過ごしていた息子どもから見れば、父親の存在など疎ましく、例え時間があっても男同士の旅を提案したところで了解したかどうかは怪しい。
結局長男については、そのような男同士の旅をする機会を持てず高校を卒業してしまい、現在浪人中であり、男同士の旅をするチャンスはほとんどなくなってしまった。ふたり旅どころか、もう父親の存在など必要なく自分自身の旅立ちについてどうしたものか?という態度を取っているw。
男同士の旅のふたり旅という文脈でいえば、むしろ次男の方がその機会が多かった。彼は、中学高校と自転車通学をしているのであるが、私が雨天になれば学校(近く)・クラブ活動会場までの送迎を仰せつかる機会があり、その間30分程度車中で二人だけの時間を持つことが出来た。特に話が弾むことはないのであるが、それでも彼が言葉少なに語る中から、彼の家庭外での様子が伝わってくるようであり男親としては興味深かった。
8月24日に次男の夏休み期間のクラブ活動がひと段落つき、彼には3日間の休みが得られたので、私もそれに合わせて夏休暇を取った。彼の夏休みの宿題に、「現代美術館を見学し感想文を書くこと」なる課題があり、折角ならば東京現代美術館にでも行ってみるかということになり、8月25日・26日に1泊2日で私と次男でふたり旅をすることになった。
(つづく)